日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 18

2021年12月3日

神を畏れることの出発点は神を神として扱うこと

少し前に、ある人から質問がありました。わたしたちはヨブよりも神について認識が多いにもかかわらず、人間が神を畏れられないのはなぜか、という質問です。この問題には以前少しだけ触れました。実のところ、この問題の本質についても以前に話し合いました。すなわちヨブは当時、神を知らなかったが、神を神として扱い、神を天と地と万物の主とみなしたということです。ヨブは神を敵とはみなさなかったのです。むしろ、ヨブは神を万物の創造主として崇めました。なぜ現在の人間は神をこれほどまでに拒否するのですか。なぜ現在の人間は神を畏れられないのですか。その理由のひとつとして、現在の人間がサタンに深く堕落させられていることがあります。サタンのような本性が深く浸透しているため、現代の人は神の敵になりました。したがって、神を信仰し、認めているものの、いまだに神を拒み、自らを神と敵対させることができてしまうのです。これは人間の本性により決まります。もうひとつの理由は、人は神を信じる一方で、神を神として扱わないことです。その代わりに、神を人間に反対する存在、敵と見なし、神と和解することができないと感じます。それほど単純なことです。この問題はこれまでに取り上げませんでしたか。考えてみなさい。それが理由ではありませんか。あなたには神に関して多少の認識があるかもしれませんが、その認識は一体何を引き起こしますか。それは皆が話題にしていることではありませんか。それは神があなたに伝えたことではありませんか。あなたはその理論上、教義上の側面しか知りませんが、神の真の顔を体験したことがありますか。主観的な認識がありますか。実践的な認識と経験がありますか。神が伝えていなかったなら、知ることができていたでしょうか。理論上の認識は、本当の認識ではありません。つまり、どれほど認識があり、その認識をどのようにして得たにせよ、神についての真の認識を得るまでは、神はあなたの敵であり、実際に神を神として扱うまでは、神はあなたに敵対しています。なぜなら、あなたはサタンの化身だからです。

キリストと共にいれば、あなたはおそらくキリストに毎日三度の食事をふるまい、お茶も出し、生活の世話をし、キリストを神として扱ったように見えるでしょう。何か起きると、人間の観点はいつも神の観点と相反します。人間はいつも神の観点を理解し、受け入れることができません。人間は表面上では神とうまくやっていきますが、それは神との融和を意味しません。何かが起こるとすぐに、人間の不服従の真実が現れ、人間と神の間にある敵対心が確認されます。この敵対心は神が人間に反対しているのでも、神が人間に敵対したがっているのでも、神が人間を神に敵対するように位置付け、そのように扱っているのでもありません。むしろ、それは人間の主観的意志と意識下に潜む、神に敵対する本質の問題です。神に由来するものすべてを研究対象とみなす人がいて、神に由来するものや神に関わるものへのこのような人の反応は、何よりも推測し、疑い、神と衝突し神に反する態度をすばやく取ることです。その後、そのような人は神との対立、争いに否定的な気分を持ち込み、そのような神は従うに値するかどうかと疑念さえ抱くようになります。理性は、そのように進むべきではないと言うものの、思わずそうしてしまい、そのため躊躇せずに最後まで続行します。たとえば、神についての噂や悪口を人が聞くと、最初にどのように反応しますか。最初の反応は、その噂が嘘か本当か、噂が実在するかどうかを思いめぐらし、様子を見よう、という態度を取ります。その後、「確かめる方法がないが、本当に起こったのか。その噂は本当だろうか」と考え始めます。このような人はこれを表には出しませんが、心にはすでに疑念が生じ、神をすでに否定し始めます。このような態度と観点の本質は何ですか。裏切りではありませんか。こうした問題に遭遇するまでは、その人の観点がどういうものかを知ることはできません。その人は神と衝突しているようにも、神を敵とみなしているようにも見えません。しかし、問題に直面するとすぐに、人間はサタンの味方をして、神と敵対します。このことは何を示唆していますか。それは、人間と神が敵対していることを示しています。神が人間を敵とみなしているのではなく、人間の本質自体が神に敵対しているのです。どれほど長期間にわたり神に付き従ってきたにせよ、どれほど大きな代償を支払ってきたにせよ、どのように神を称え、どのように神を拒否せずにいて、神を愛すようにどれほど強く自己に言い聞かせているにせよ、人間は決して神を神として扱うことができません。これは人間の本質が決めているのではありませんか。神を神として扱い、神が神であることを心から信じていれば、それでも神に疑念を抱くことができますか。心の中に神への疑問があり得ますか。あり得ません。そうではありませんか。この世の傾向は極めて邪悪で、人類も極めて邪悪です。では、どうして人間について何の観念も持たずにいることができるのですか。あなた自身、極めて邪悪なのに、あなたにはそのことに関して観念がないのはどういうことですか。それなのに、たった二、三の噂や悪口が、神について極めて大きな観念を生み出し、あなたに多くのことを想像させ、それがあなたの霊的背丈の未熟さを露呈するのです。何匹かの蚊や煩わしい蝿の「羽音」だけで、あなたを欺くには十分なのですか。これはどのような人ですか。神がこのような人をどう思っているかを知っていますか。その人に関しては、神の態度は実は極めて明瞭です。神は単に冷遇するだけです。注意を向けず、そうした無知な人を本気で相手にしないだけです。なぜですか。それは、神の心では、最後まで神に反抗すると誓いを立て、神と融和する方法を求めるつもりが一切ないその人を得ようと計画したことはないからです。わたしが言った言葉に傷つく人が二、三人いるかもしれません。あなたがたはいつもこのようにわたしに傷つけられていいのですか。あなたがたがどう思おうと、わたしの言ったことはすべて真実です。わたしが常にあなたがたを傷つけ、あなたがたの傷を露わにするようであれば、それはあなたがたの心の中にある高尚な神の姿に影響しますか。(しません。)わたしもしないと思います。なぜなら、単にあなたがたの心には神が存在しないからです。あなたがたの心の中にいる高尚な神、あなたがたが頑固に守り擁護するものは、神ではありません。それは人間の想像の産物です。その神は存在しません。したがって、この問題の答えをわたしが明らかにする方が良いわけです。これで真相がすべて暴かれたのではありませんか。真の神は、人間が想像する神とは異なります。あなたがたがみな、この現実を受け止めることができることを願います。それは、あなたがたが神を認識する助けとなります。

『神を知ることについて』「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」(『言葉』第2巻)より

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