日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 472
2021年12月8日
神はあらゆる騒乱、苦難、困難、そして無数の失敗と挫折をあなたに経験させます。そのため最終的に、あなたはそうした事柄を経験する過程で、神の言うことはすべて正しく、自分の信念、観念、想像、認識、哲学的理論、哲学、世間で学んだこと、および両親に教えられたことは、すべて誤りなのだと気づくようになります。そうしたものがあなたをいのちの正しい道へと導くことはできず、真理を理解させて神の前に出させることもできません。あなたが歩んでいる道は失敗の道なのです。そのことを、神は最終的に理解させてくれます。それはあなたにとって必要なプロセスであり、救いを経験する過程で得なければならないものなのです。しかし同時に、そのことは神を悲しませもします。なぜなら人々は反抗的で、堕落した性質を持っており、このプロセスを経てそうした敗北を経験しなければならないからです。しかし誰かが本当に真理を愛していて、本当に神に救われたいと心から望んでおり、さまざまな方法による神の救い――試練、懲らしめ、裁き、刑罰など――を受け入れる意志があり、それに耐える決意を持ち、その代価を支払う意志があるなら、神は実際、彼らがそれほどの苦難を味わうことは望んでおらず、それほどの挫折や失敗を経験することも望んでいません。しかし人々はあまりにも反抗的で、不正な道を行くことを望み、こうした苦難を経験することを望んでいるのです。人間とはそのようなものなので、神は人々をサタンの手に引き渡さざるを得ず、彼らをさまざまな状況に置いて絶えず鍛えることで、そうした状況からあらゆる経験を経てさまざまな教訓を学ばせ、あらゆる邪悪な物事の本質に気づかせようとしているのです。人々は後にふり返って、神の言葉が真理であることに気づき、そして神の言葉が真理であり、神のみがあらゆる肯定的な物事の現実であり、神のみが真に人を愛する存在であり、神よりも人に優しく、人を思いやってくれる存在はないのだということを認めるようになります。最終的に、人はどの程度まで鍛えられるのでしょうか。それはこう言うようになるまでです。「わたしはあらゆる状況を経験したが、どんな状況も、どんな人も物事も、わたしに真理を理解させることはできず、真理を享受させることも、真理現実に入らせることもできない。わたしにできるのはただ、従順に神の言葉に従って実践し、従順に人間の立ち位置に留まり、被造物の身分と本分を守り、従順に神の支配と采配を受け入れ、不平を一切言わず、選択もせず、自分自身の要求や欲望を持たずに創造主の前に出る、ということだけだ」。このレベルに達すると、人は真に神の前に頭を垂れるようになり、神もそれ以上の状況を作り出して彼らに経験させる必要がなくなります。あなたはどちらの道を行きたいですか。誰も主観的な願望としては、苦難に耐えることを望みませんし、挫折や失敗、逆境、失望、騒乱を経験したいとは思いません。しかし他に方法がないのです。人の中にあるもの――その本性実質、反逆性、思考や態度――は複雑すぎて、日々心の中で混乱し絡み合い、頭の中で入り乱れています。真理現実にほとんど入っておらず、真理をほとんど理解せず、自分の堕落した性質、観念、想像の実質を克服する力もありません。ですから、他のやり方を受け入れるしかないのです。つまり、失敗と失望を絶えず経験し、絶えず倒れ、苦難に揺り動かされ、汚泥の中を転げ回るということであり、最終的にこう言う日が来ます。「もう疲れた、うんざりだ。こんなふうには生きたくない。こんな失敗ばかり経験したくない。従順に創造主の前に出たい。神の言葉を聞こう、神の言うとおりにしよう。それだけが人生の正しい道なのだ」と。完全に敗北を認める日になって初めて、あなたは神の前に出ることになります。このことから、神の性質が何か見てとることができますか? 人に対する神の態度はどのようなものでしょうか。神は何をするにせよ、人にとって最善であれと望んでいます。どんな環境を用意しようと、あなたに何をするよう求めようと、常に最良の結果を望んでいます。たとえばあなたが何かを経験して、挫折や失敗に見舞われたとします。神はあなたが失敗して、自分はもう終わりだと思ったり、サタンに捕らわれてしまったと思ったりするのを見たがってはいません。そうなるとあなたは、二度と自力で歩けるようにはならず、落胆へと陥ってしまいます。神はそのような結末を見たがっているのではありません。では、何を見たがっているのでしょうか。あなたはその問題では失敗したかもしれませんが、真理を求め、失敗の理由を見つけることができます。失敗の事実を受け入れてそこから何かを掴み、教訓を学んで、そのように行動したことが間違いだったのであり、神の言葉に従って行動することだけが正しいのだと気づくのです。そしてこう思います。「自分は不正で、堕落したサタン的な性質を持っている。わたしの中には反逆心があり、神が語りかける正しい人々からは程遠い。わたしには神を畏れる心がない」と。あなたは現象に気づき、問題の真相に気づき、物事を理解し、この挫折と失敗を通じて成長します。それが、神の見たがっていることなのです。「成長」とはどういうことでしょうか。それは、神があなたを得ることができ、あなたが救いを得られるということです。そしてあなたが真理現実に入れるということ、神を畏れ悪を避ける道に一歩近づいたということを意味します。それこそが、神の見たがっていることなのです。神は善意をもって行動し、そのすべてには神の隠れた愛が含まれていて、人はそれをしばしば理解することができません。人は了見が狭くて狭量で、その心は針の穴ほど狭いです。神がその人を認めなければ、あるいは恵みや祝福を授けなければ、その人は神を責めます。それでも神は、人と言い争うことはしません。恵みと恩恵はどう得られるか、人にとって恵みとは何を意味するのか、人はそこから何を引き出せるのかを人に知らしめる環境を整えるのです。たとえば、食べ過ぎると健康に悪いと神が言っているおいしいものを、あなたが好んでいるとしましょう。あなたはそれに耳を貸さず、ひたすら食べ続けますが、あなたが自由に選択することを神は許します。結果としてあなたは病気になります。これを数度経験すると、正しいのは神の言葉であり、神が言うことはすべて真実で、自分は神の言葉に沿って実践しなければならないのだと理解するようになります。これが正しい道なのです。では、人々が経験するこうした挫折、失敗、悲しみは何になるのでしょうか。あなたは神の骨身を惜しまぬ意図に感謝し、神の言葉が真理であることを信じ、それを確信するようになり、神への信仰が深まります。また他にも、この失敗の期間を経験することで、神の言葉の真実味と正確さに気づき、神の言葉が真理であることを知り、真理の実践の原則を理解するようになります。そのため人々にとっては、失敗を経験するのはよいことなのです。もちろん同時に辛いことでもあり、それによって鍛えられることになりますが、そのように鍛えられることで、最終的に神の元へ戻り、神の言葉を受け入れ、それを真理として受け取ることができるなら、そのような鍛錬、挫折、失敗は無駄な経験ではなかったことになります。それこそが、神の見たがっていることなのです。
『終わりの日のキリスト講話集』「パウロの本性と実質をいかに識別するか」(『言葉』第3巻)より
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