神の働き、神の性質、そして神自身 3

(その6)

次に、以下の聖句を読みましょう。

12. 復活後のイエスによる弟子への言葉

ヨハネによる福音書 20:26-29 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

ヨハネによる福音書 21:16-17 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい」。

これらの聖句が述べている事柄は、復活後の主イエスによる弟子への言動です。まず、復活の前後における主イエスの違いを検討しましょう。復活後の主イエスは、以前のイエスと同じでしたか。この聖句には、復活後のイエスを描写する「戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた」という一文が含まれています。当時の主イエスがもはや肉体に宿っておらず、霊体になっていたことは明らかです。なぜなら、扉が閉ざされていたにもかかわらず、人々の前に出て姿を見せることができたなど、肉の限界を超越していたからです。これが肉において生きていた復活前の主イエスと、復活後の主イエスの最も大きな違いです。その際の霊体の外見と、それ以前の主イエスの外見との間には何の違いもありませんでしたが、その瞬間の主イエスは、その人たちにとって見知らぬ人と感じられるような存在になっていました。と言うのも、主は死から復活した後に霊体となり、以前の肉体に比べると、人々にとって謎めいた存在、戸惑いを感じさせる存在となっていたからです。それはまた、主イエスと人々との距離をさらに広げ、人は心の中で、その時の主イエスがより不思議な存在になったと感じました。人々は自分が抱くこれらの認識と感覚により、見ることも触れることもできない神を信仰していた時代へと、突如として戻されたのです。そうしたわけで、復活した主イエスが最初に行なったのは、誰でも自分を見えるようにし、自分が存在すること、および復活した事実を確信させることでした。加えてこの業により、イエスと人々との関係は、イエスが受肉して働きを行ない、人々が見て触れることのできるキリストだったときの関係に戻りました。そこから生じた結果の一つに、十字架にかけられた主イエスが死から復活したことについて、人々が何の疑いも抱かず、同時に人類を贖う主イエスの働きについても疑問をもたなかったことがあります。またもう一つの結果として、主イエスが復活後に人々の前に現われ、彼らが主を見て触れられるようにしたことで、恵みの時代が人類の間に定着し、このとき以降、主イエスが「失踪」した、あるいは「無言で立ち去った」からという表向きの理由で、人々が以前の律法の時代に戻ることはなくなった、ということが挙げられます。イエスはこのようにして、人々が前進し続け、主イエスの教えと働きに従うようにしたのです。かくして、恵みの時代の新たな働きが正式に始まり、これ以降、律法の下で暮らしていた人々は正式に律法から脱し、新たな時代、新たな始まりへと入りました。以上が、復活後の主イエスが人々の前に現われたことの、多岐にわたる意義です。

主イエスがいまや霊体に宿っているなら、人々がイエスに触れたり、イエスを見たりすることができたのはなぜでしょうか。その問題は、主イエスが人間の前に現われたことの意義と関連しています。先ほど読んだ二つの聖句について、何か気づいたことはありますか。通常、霊体は見ることも触れることもできず、また復活後、主イエスがそれまでに着手していた働きはすでに完了していました。したがって理論的に言えば、イエスが元の姿で人々の前に戻り、彼らに会う必要はまったくなかったのです。しかし、主イエスの霊体がトマスのような人の前に現われたことで、その意義がより具体的なものとなり、人々の心に一層深く刻み込まれました。トマスの前に現われたイエスは、疑いを抱くトマスに自身の手を触れさせ、「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言いました。この言葉と振る舞いは、主イエスが復活して初めて伝えたい、行ないたいと思ったことではなく、十字架にかけられる前から伝えたい、行ないたいと思っていたことです。十字架にかけられる前から、主イエスがトマスのような人たちのことを理解していたのは明らかです。このことから何がわかりますか。主イエスは復活後も依然として同じだったということです。イエスの本質は変わっていませんでした。トマスの疑いはこのときに始まったことではなく、主イエスに付き従っている間ずっと彼が抱いていたものでした。しかし、死から復活し、元の姿、元の性質、そして肉にあったときからの人間に対する認識をもって、主イエスが目の前に戻ってきたのです。そのため、主イエスは最初にトマスのところへ行って自身のわき腹に触れさせ、復活後の霊体を見させただけでなく、自身の霊体に触れさせてそれを感じさせ、彼の疑念を完全に払拭したのです。主イエスが十字架にかけられる前、トマスは常にイエスがキリストであることに疑念を抱き、信じることができないでいました。トマスの神に対する信仰は、自分の目で見えるもの、自分の手で触れられるものだけに基づいていたのです。この種の人の信仰について、主イエスはよく理解していました。このような人たちは天なる神だけを信じ、神に遣わされた者も受肉したキリストもまったく信じず、受け入れようとすることもありませんでした。自分が存在すること、および本当に受肉した神であることをトマスに認めさせ、信じさせるため、主イエスはトマスに対し、手を伸ばして自分のわき腹に触れるのを許しました。主イエスの復活前後で、トマスの疑いに異なる点はありましたか。トマスは常に疑っており、主イエスの霊体がトマスの前に直接現われ、身体に残る釘のあとに触れさせる以外に、トマスの疑念を解消して払拭することは誰にもできませんでした。そうしたわけで、主イエスがトマスにわき腹を触れさせ、釘あとがあるのを実感させると、トマスの疑念は消え、主イエスが復活したことを真に知り、主イエスが真のキリストであり、受肉した神であることを認め、信じるようになりました。このとき、トマスはもはや疑っていませんでしたが、キリストに会う機会は永遠に失われていました。キリストと共にあり、キリストに付き従い、キリストを知る機会、キリストによって完全にされる機会を永遠に失ったのです。主イエスの出現と言葉により、疑いに満ちた人の信仰に対する結論、および審判が下されました。イエスは実際の言葉と業によって、疑念を抱く人、天なる神を信じるだけでキリストを疑う人に対し、神はそうした人の信仰も、疑念を抱きながら付き従うことも褒めないと伝えたのです。そのような人が神とキリストを完全に信じる日こそ、神の大いなる働きが完了した日なのです。もちろんその日は、彼らの疑いに審判が下る日でもあります。キリストへの姿勢によって彼らの運命は決まったのであって、頑なに疑いを抱いているせいで信仰は実を結ばず、頑固なせいで希望は叶わなかったのです。そのような人の天なる神に対する信仰は幻想によって育まれており、またキリストを疑うというのが神に対する彼らの本当の態度だったので、たとえ主イエスの釘あとに触れたところで、その信仰は依然として無益なままで、その結末はざるで水を汲むようなもの、つまりすべて無駄だとしか言いようがありませんでした。主イエスがトマスに言ったことはまた、次のことを万人にはっきり述べるものでもありました。つまり、復活した主イエスは、三十三年と半年にわたって人類の間で働きを行なった主イエスだということです。イエスは十字架にかけられて死の陰の谷を歩み、その後復活したにもかかわらず、どの側面も変わることがありませんでした。イエスの身体には釘のあとがあり、復活して墓から出てきたにもかかわらず、その性質、人間に対する認識、人間に対する旨はまったく変わっていなかったのです。また、イエスは人々に対し、自分は十字架から下ろされて罪に打ち勝ち、苦難を乗り越え、死に勝利したと伝えました。その釘あとはサタンに対する勝利の証しであり、罪のいけにえとなって全人類を見事に贖った証しだったのです。さらに、自分はすでに人類の罪を背負い、贖いの働きを成し遂げたとも伝えました。使徒たちの前に戻って来たイエスは、出現という手段によって次のことを彼らに伝えました。「わたしは依然として生きており、ここに存在している。今日、あなたがたがわたしを見て触れることができるよう、実際にあなたがたの前に立っている。わたしは常にあなたがたと共にいる」。また、主イエスはトマスの例を挙げて、未来の人々への警告にしました。つまり、あなたは主イエスへの信仰において、イエスを見ることも、イエスに触れることもできませんが、真の信仰ゆえに祝福されており、真の信仰ゆえに主イエスを見ることができるのであって、このような人が祝福された人なのです。

主がトマスの前に現われたときに述べた、聖書に記されているこの言葉は、恵みの時代のあらゆる人にとって大いに役立つものです。主がトマスのもとに現われたことと、主が彼に語った言葉は、その後何世代にもわたる人々に極めて大きな影響を与え続け、そこには不朽の意義があります。トマスは神を信じながら神に疑念を抱く類の人間を代表しています。このような人は疑い深い性格であり、心に悪意があり、不忠であり、神が成し遂げられる業を信じません。神の全能と支配も、受肉した神も信じません。しかし主イエスの復活は、このような人に平手打ちをくらわせたようなものでした。つまり、自分の疑いに気づいてそれを認識し、自分の不忠を認め、それによって主イエスの実在と復活を心から信じる機会を与えたのです。トマスの身に起きた出来事は後の世代の人々への警告であり、より多くの人がトマスと同じ疑う人にならないよう自戒し、もし疑いで一杯になれば、必ずや闇に落ちると自分を戒めるようにするためのものでした。神に付き従いながら、トマスのように主のわき腹や釘あとに触れ、神が存在するかどうかを憶測し、確かめることをいつも望むのであれば、神はあなたを見捨てるでしょう。それゆえ、主イエスは人々に対し、自分の目で見ることのできる物だけを信じたトマスのようにならず、純粋で正直な人間となり、神に対して疑念を抱かず、神を信じて付き従うことを求めているのです。このような人は祝福されています。これは主イエスが人々に行なうごくささやかな要求であり、また自分に付き従う人に対する警告でもあるのです。

以上に述べたのが疑い深い人に対する主イエスの姿勢です。では、心から信じて付き従う人に対し、主はどのような言葉を述べ、どのような業を行ないましたか。主イエスとペテロとの対話を通じてそれを検討しましょう。

この対話のなかで、主イエスは繰り返し「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」と尋ねています。これは、真にキリストを信じ、主を愛そうと努めたペテロのような人に対し、復活した主イエスが求めたより高い基準です。この質問は一種の調査と尋問でしたが、それ以上に、ペテロのような人への要求と期待でした。イエスはこのように質問することで、人々が自分自身を省みてじっと見つめ、「主イエスが人々に求められているのは何か。わたしは主を愛しているか。神を愛する者か。わたしはどのように神を愛するべきか」と自問するようにしたのです。主イエスがこの質問を投げかけたのはペテロだけでしたが、実は心の中で、ペテロにこの質問をすることにより、神を愛することを求めるより多くの人に対し、同様の質問を投げかけることを望んでいたのです。ペテロはこの種の人々を代表して、主イエスの口からこの質問を受けるという祝福にあずかったに過ぎません。

復活した主イエスはトマスに「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と告げましたが、ペテロに対しては「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」と三度繰り返して尋ねました。この質問によって、人は主イエスの厳格な姿勢と、質問した際の差し迫った気持ちをより感じ取ることができます。不正直な本性をもち、常に疑っていたトマスに対し、主イエスは手を伸ばして身体の釘あとに触れることを許し、それによって自分が復活した人の子であることを信じさせ、自身のキリストとしての身分を認めさせました。主イエスはトマスを厳しく咎めることも、明確な裁きを言葉で表わすこともしませんでしたが、それでも実際の行動を通じて、自分がトマスを理解していることを知らせつつ、この種の人に対する自身の姿勢と決意を示したのです。この種の人に対する主イエスの要求と期待は、主の言葉には見られません。と言うのも、トマスのような人には真の信仰がこれっぽっちもないからです。このような人に対する主イエスの要求はその程度ですが、ペテロのような人に表わした姿勢はまったく異なります。イエスはペテロに対し、手を伸ばして釘あとに触れるよう求めることも、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言うこともありませんでした。その代わり、同じ質問を繰り返したのです。その質問は思考を刺激すると同時に有意義なものであり、キリストに付き従うすべての人が後悔と恐怖だけでなく、主イエスの不安で悲しい気持ちを感じずにはいられなくなるものです。そして、大きな苦痛や苦しみにあるとき、彼らは主イエスの懸念と気遣いをより理解できるようになり、純粋で誠実な人々に対するイエスの熱心な教えと厳格な要求を認識します。人は主イエスの問いかけを通じ、これらの簡単な言葉に示されている主イエスの人々に対する期待は、単にイエスを信じてイエスに付き従うことだけでなく、愛をもつこと、つまり自分の主と神を愛することだと感じられるようになります。この種の愛は慈しみと服従です。神のために生き、死に、神にすべてを捧げ、神のためにすべてを費やし、そして与えるということなのです。この種の愛はまた、神に慰めをもたらし、神が証しを享受して安息を得られるようにします。それは人類による神への報いであり、責任であり、義務であり、本分であり、人がその生涯を通じて従うべき道なのです。この三度の問いかけはペテロと、完全にされるであろうすべての人に対する主イエスの要求であり、訓戒でした。ペテロが最後まで人生の道を歩むよう導き、励ましたのは、この三度の問いかけでした。また、ペテロが完全にされる道を歩み始めるよう導き、そして主への愛ゆえに主の心を気遣い、主に服従し、主に慰めをもたらし、その愛ゆえに自分の一生と自分のすべてを捧げるよう導いたのも、主イエスが去り際に行なったこの問いかけだったのです。

恵みの時代、神の働きはおもに二種類の人を対象としていました。一つは神を信じて付き従い、神の戒めを守り、十字架を背負って恵みの時代の道を守ることのできる人でした。この種の人は神の祝福を得て、神の恵みを享受しました。もう一つはペテロのように、完全にされ得る人でした。そうしたわけで、復活した主イエスはまず、二つの極めて有意義な業を行なったのです。そのうちの一つはトマスに対してなされ、もう一つはペテロに対してなされたものです。その二つの業は何を表わすものですか。神が人類を救う真意を表わしているのでしょうか。人類に対する神の誠実さを表わしているのでしょうか。神がトマスに対して行なった働きは、疑う人にならず、ひたすら信じるよう、人々に警告するためのものでした。そしてペテロに対して行なった働きは、彼のような人の信仰を強め、この種の人への要求を明確なものにし、目指すべき目標を示すためのものでした。

復活した主イエスは、必要と思われる人々の前に現われ、彼らに語りかけ、彼らへの要求を伝えるとともに、人々に対する自身の旨と期待を残しました。つまり、受肉した神として、人類に対するイエスの懸念と、人々に対する要求は決して変わらなかったのです。イエスが肉にあったときも、十字架にかけられた後に復活して霊体にあったときも、それらは同じままでした。イエスは十字架にかけられる前からこれら弟子たちのことを懸念しており、各人の状態を心の中で明確に理解するとともに、各人の欠点を認識していました。そしてもちろん、死んで復活し、霊体になった後も、各人に関するイエスの理解は、肉にあったときと同じでした。イエスのキリストとしての身分について人々が完全に確信していなかったことを、イエスは知っていましたが、肉にあったとき、人々に対して厳格な要求をすることはありませんでした。しかし、復活したイエスは彼らの前に姿を見せ、主イエスが神のもとから来たこと、イエスが受肉した神であること、そして人類が生涯をかけて追求していくにあたり、自身の出現と復活をその最大のビジョン、最大の動機にしたことを、彼らに完全に確信させました。イエスの死からの復活は、イエスに付き従うすべての人々を強くしただけでなく、恵みの時代における人類の中での働きを完全に成し遂げるものであり、かくして恵みの時代における主イエスの救いの福音が徐々に人類全体へと広まったのです。復活した主イエスが人々の前に現われたことに、何か意味があると言えるでしょうか。仮にあなたが当時のトマスやペテロであって、人生においてこのような極めて意義深い出来事に遭遇したとしたら、それはあなたにどのような影響を及ぼしたでしょうか。神を信じる生涯において最も素晴らしい、至高のビジョンだと見なしたでしょうか。一生神に付き従い、神を満足させようと努め、神への愛を追求する上での原動力だと見なしたでしょうか。この至高のビジョンを広めるため、生涯をかけて努力したでしょうか。主イエスの救いを広めることを、神から託された使命として受け入れたでしょうか。あなたがたはまだそれを経験していませんが、トマスとペテロの事例は、現代の人々が神の旨と神自身をはっきり理解するのに十分なものです。肉となり、人類の間で人間生活を自ら経験し、当時の人類の堕落や人間生活の状況を目の当たりにした後、受肉した神は、人類がいかに無力で嘆かわしく、哀れであるかを深く感じました。肉において生活していた際、自身が有していた人間性、および自身の肉体的な直感のために、神は人間の状況により共感を覚え、その結果、自身に付き従う人への懸念をさらに強く感じました。あなたがたはおそらくこれらを理解できないでしょうが、自身に付き従うすべての人に対する受肉した神の不安と気遣いは、「強い懸念」という言葉で表わすことができます。その言葉は人間の言語に由来するものであり、極めて人間的な言葉ですが、自身に付き従う人に対する神の感情を真に表わし、描写するものです。あなたがたは人間に対する神の強い懸念を、経験を重ねる中で徐々に感じ取り、味わってゆくことでしょう。しかし、自分自身の性質の変化を追求することで、神の性質を徐々に理解しなければ、それは不可能です。主イエスが姿を見せたことで、人類のうちイエスに付き従う人に対する主の強い懸念が形をなし、イエスの霊体、あるいはイエスの神性に伝えられました。また主イエスの出現により、人々は神の懸念と気遣いを再び経験し、感じることができ、それと同時に時代の幕開け、展開、そして終焉をもたらすのは神であることが、力強く証明されたのです。自身の出現を通じ、イエスはすべての人々の信仰を強くし、自身が神であることを全世界に証明しました。それによって、主に付き従う人々は永遠に確信し、また主イエスは自身の出現を通じ、新しい時代における働きの一局面を始めたのです。

13. 復活後にパンを食べ、聖句を説明するイエス

ルカによる福音書 24:30-32 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

14. イエスに焼き魚を差し出す使徒たち

ルカによる福音書 24:36-43 こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。

次に上記の聖句を検討します。前者は復活後の主イエスがパンを食べながら聖句について説教している場面、後者はイエスが焼いた魚を食べている場面です。神の性質を知る上で、これら二節はどのように役立ちますか。パンや焼いた魚を食べている主イエスの描写から、そのような場面を想像することができますか。主イエスが自分の前に立ってパンを食べているとしたら、自分がどのように感じるかを想像できますか。あるいは、イエスが自分と同じ食卓で人々と共に魚とパンを食べているとしたら、そのときどのような気持ちがするでしょうか。主は自分と非常に親密で、とても懇意にしてくださると感じるなら、その感情は正しいものです。それがまさに、人々の集団の前でパンと魚を食べることで、復活後の主イエスがもたらそうとした結果なのです。復活した主イエスが人々と話をするだけで、彼らがイエスの肉体を感じられず、手の届かない霊だと感じたなら、その人たちはどのように思ったでしょうか。落胆したのではないでしょうか。彼らは落胆しながら、見捨てられたように感じていたのではないでしょうか。主イエス・キリストとの間に隔たりを感じていたのではないでしょうか。こうした隔たりは、神と人々との関係にどのような悪影響を与えたでしょうか。人は間違いなく恐怖を感じ、あえて近づこうとせず、敬遠する態度をとっていたでしょう。その後は主イエス・キリストとの親しい関係を絶ち、人間と天なる神という、恵みの時代以前の関係に戻っていたはずです。人が触れることも感じることもできない霊体が原因となり、神との親密な関係が解消されてしまい、主イエス・キリストが受肉していた際に築かれた、人間との密接な関係もまた消滅するでしょう。霊体が人間の中でかき立てる感情は恐怖と忌避だけであり、人は目を丸くして絶句します。あえて近づこうとも会話しようともせず、ましてや従ったり、信じたり、仰ぎ見たりはしないでしょう。人々が自身にこうした感覚を抱くことを、神は望みませんでした。人々が自分を避けたり、自分の前から立ち去ったりするのを望まなかったのです。神は、人々が自分を理解し、自分に近づき、自分の家族となることだけを望んでいました。あなたの家族や子どもたちが、あなたを見てもあなたであると気づかず、あなたに近寄ろうとせず、いつも避けてばかりいて、あなたが家族や子どもたちのためにしたことを一切理解してもらえなかったとしたら、あなたはどのように感じるでしょうか。それはつらいことではないでしょうか。心が痛むのではないでしょうか。人々が神を避けたときに神が感じるのは、まさにそうした感覚です。そうしたわけで、復活した主イエスは血の通った肉体の姿で人々の前に現われ、彼らと飲食を共にしたのです。神は人を家族と考え、また人に対しても、神は最も近しい存在だと考えることを望みます。そうして初めて、神は真に人々を得ることができ、人々は真に神を愛して崇拝できるのです。復活した主イエスがパンを食べながら聖句について説明している一節と、使徒がイエスに焼いた魚を差し出している一節をわたしが取り上げたことについて、その意図がこれでわかりましたか。

復活後の主イエスによる一連の言動には真剣な考えが込められていたと言えるでしょう。それらは神が人類に抱く優しさと愛情に満ち溢れ、また受肉していた際に人類との間で築いた親密な関係に対する、慈しみと周到な配慮にも満ち溢れていました。さらに、受肉していた際、自身に付き従う人たちと寝食を共にしたことへの懐古の念と切望にも満ち溢れていました。そうしたわけで、人間が神との間に距離を感じることも、人間が神と距離を置くことも、神は望まなかったのです。さらに、復活した主イエスはもはや人間と親密だったころの主ではない、また主は霊の世界、人間が決して見ることも触れることもできない父のもとへ戻ったので、もはや自分と共にはいない、と感じることも望みませんでした。神の立場と自分たちの立場に違いが生まれたと人間が感じることを、神は望みませんでした。神に付き従いたいと望みながら神を敬遠している人間を見ると、神は心を痛めます。なぜなら、その人の心が神から遠く離れていること、神がその人の心を得るのは極めて難しいことを意味しているからです。そうしたわけで、イエスが見ることも触れることもできない霊体の姿で人々のもとに現われていたら、人は再び神と距離を置き、復活後のキリストが高尚な存在、人間とは違う存在となり、また罪深く、汚れており、決して神に近づけない人間と食卓を共にできない存在となった、などという人間の誤解を招いていたでしょう。こうした人間の誤解を払拭するため、主イエスは受肉した際に行なっていた数多くの業を行なったのであり、それは聖書に「パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられる」と記されている通りです。また、過去に行なっていたように、人々に聖句を説明することもしました。イエスが行なったこれらの業により、主イエスと会った人はみな、イエスは変わっておらず、依然として同じ主イエスであると感じました。イエスは十字架にかけられて死を経験しましたが、その後復活したのであって、人間のもとから去ったわけではありません。イエスは人々の間に戻り、何一つ変わるところがありませんでした。人々の前に立つ人の子は、依然として同じ主イエスだったのです。イエスの物腰や人々との話し方は非常になじみ深いものでした。依然として慈愛、恵み、そして寛容に溢れていたのです。それは自分と同じように他の人を愛し、人を七の七十倍赦すことのできる主イエスでした。以前と同じように人々と食事を共にし、彼らと聖句について話し合い、またさらに重要なこととして、以前同様、見て触れることのできる血の通った肉体をもっていました。こうした人の子の姿のおかげで、人々は親密感を抱き、くつろぎを感じ、失ったものを取り戻した喜びを覚えました。そして大きな安心感とともに、果敢に、かつ確信をもって、人類の罪を贖うことのできる人の子を頼り、仰ぎ見るようになったのです。また人々は、ためらうことなく主イエスの名において祈り始め、イエスの恵みと祝福、安らぎと喜び、そして気遣いと加護を得るようになり、イエスの名において病人を癒やし、悪霊を追い払い始めたのです。

主イエスが肉において働きを行なっていた際、その身分や言葉を完全に認識できている人は、イエスに付き従う人の中にほとんどいませんでした。イエスが十字架に向かっていたとき、イエスに付き従っていた人たちは傍観の態度をとりました。イエスが十字架にかけられてから墓に入れられるまで、人々の主に対する態度は落胆でした。この間、イエスが受肉していた際の言葉について、人々の心は疑いから否定へとすでに変わり始めていたのです。そしてイエスが墓から出て一人ひとりの前に現われたとき、イエスを自らの目で見たり、イエスが復活したという知らせを聞いたりした人々のほとんどが、否定から懐疑へと徐々に態度を変えました。主イエスがトマスに手でわき腹を触れさせ、復活後に群衆の前でパンを裂いて食べ、続いて彼らの前で焼いた魚を食べて初めて、人々は主イエスが受肉したキリストであるという事実を真に受け入れたのです。それはあたかも、血の通った肉体をもち、これらの人々の前に立っているこの霊体が、彼らをひとり残らず夢から目覚めさせたようだった、と言うことができるでしょう。人々の前に立つ人の子は、悠久の過去から存在していた者でした。人の子には形もあれば肉と骨もあり、長らく人間と共に生きて食事をしていたのです……人々はこのとき、イエスの存在がまったくの真実であり、実に素晴らしいと感じました。同時に大きな喜びと幸福を覚え、感動で満ち溢れました。イエスが再び現われたことにより、人々はイエスの謙虚さを目の当たりにし、人間に対する親密さと愛着を感じるとともに、自分たちのことをいかに思っているかを感じ取ったのです。この束の間の再会により、主イエスに会った人々は、あたかも一生が過ぎ去ったかのように感じました。迷い、困惑し、恐れ、不安になり、思慕をつのらせ、麻痺していた彼らの心は安らぎを得て、もはや疑っても落胆してもいませんでした。なぜなら、いまや希望があり、頼れるものがあったからです。人の子がそのとき人々の前に立ったことで、彼らはいかなるときも後ろ盾を得られることになりました。人の子は永遠なる堅固なやぐら、そしてよりどころとなったのです。

主イエスは復活しましたが、イエスの心と働きが人間のもとから離れたわけではありません。どのような形で存在しようと、自分は人々に付き添い、共に歩み、いつでもどこでも一緒にいること、そしていつでもどこでも人類に糧を施し、牧養し、自分を見て触れられるようにするとともに、人類が二度と絶望を感じないようにするということを、イエスは自身の出現を通じて人々に伝えたのです。また、この世における生活が孤独なものではないと、人々が知ることも望みました。人には神の配慮があり、神は人と共にあります。人はいつでも神をよりどころにすることができ、神は自身に付き従うすべての人の家族です。よりどころとなる神がいれば、人間はもはや孤独になることも絶望することも一切なく、また神を罪の捧げ物として受け入れる人は罪に縛られることがありません。人間の目から見ると、復活後に主イエスが行なった働きは、極めて小さなものではありますが、わたしから見ると、それらはどれも意味があり、貴重であり、重要であり、大きな意義が込められているのです。

主イエスが受肉して働きを行なっていた時期は困難と苦しみに満ちていたものの、血の通った肉体をもつ霊体として現われたことで、イエスはその働きを徹底的に、かつ完全に成し遂げました。肉になることで自身の職分を始め、肉の姿で人の前に現われることでその職分を締めくくったのです。イエスは恵みの時代の到来を告げ、キリストの身分によって新しい時代を始めました。自身のキリストとしての身分によって恵みの時代の働きを行ない、恵みの時代に自身に付き従ったすべての人を強くし、そして導いたのです。神の働きについて、神は自身が始めたことを真に完成させると言えます。そこには段階と計画があり、その働きは神の知恵、全能、驚くべき業、そして愛と憐れみに満ち溢れています。もちろん、神の働きのすべてには、人類への気遣いが一貫しています。決して脇にのけることができない懸念が染みわたっているのです。聖書のこれらの聖句では、復活した主イエスが行なったあらゆることに、人類に対する神の変わらぬ希望と懸念、そして周到な配慮と慈愛が表わされています。現在に至るまで、それらはいずれも変わっていません。あなたがたにわかりますか。それがわかったとき、あなたがたの心は無意識のうちに神に近づくのではありませんか。あなたがたがその時代に生きていて、復活した主イエスが形ある姿であなたがたの前に現われ、あなたがたの前に座ってパンと魚を食べ、あなたがたに聖句を説明し、あなたがたと話し合ったとしたら、あなたがたはどう感じるでしょうか。幸せに感じるでしょうか。それとも罪悪感を覚えるでしょうか。神に対するそれまでの誤解と忌避、神との対立や疑いは、すべて残らず消えるのではありませんか。神と人との関係は、より正常かつ正しいものになるのではないでしょうか。

これら聖書の限られた断片を解釈することで、神の性質に何か欠点を見つけましたか。神の慈愛に何らかの不純なものが見つかりましたか。神の全能や知恵に、何らかの欺瞞や邪悪さが見つかりましたか。絶対に見つかりません。神は聖いと断言できますか。神の感情の一つひとつが神の本質と性質の現われであると断言できますか。これらの聖句を読んだ後、そこから理解したことが、性質の変化を追求すること、そして神を畏れることにおいて、あなたがたを助けて益をもたらすことをわたしは望んでいます。また、それらがあなたがたの中で実をつけ、その実が日を追うごとに大きくなり、その追求の過程においてあなたがたがより神に近づき、神が求める基準に近づくこともわたしは望んでいます。あなたがたは真理の追求に飽きることもなければ、真理の追求や性質の変化の追求は面倒だ、あるいは不要だなどと感じることもありません。むしろ、神の性質の真の表われと、神の聖い本質に突き動かされて光と正義を求め、真理の追求を渇望し、神の旨を満たすことを切望して、神に得られる人、真の人になるのです。

本日は、神が最初に受肉した恵みの時代における、神の業の一部について検討しました。それらのことから、神が肉において表わし、示した性質と、神が所有するものと神そのもののあらゆる側面を見てきました。神が所有するものと神そのものの側面はすべて非常に人間化されているように見えますが、実のところ、神が示し、表わした一切のことの本質は、神自身の性質と切り離せないものです。受肉した神が人間性においてその性質を表わしたことについて、その手段と側面はどれも、神自身の本質と不可分に結びついています。したがって、神が受肉という方法を使って人類のもとに来たのは非常に重要なことなのです。同じく重要なこととして、神が肉において行なった働きがありますが、肉において生きるすべての人、堕落の中で生きるすべての人にとってさらに重要なのは、神が示した性質と、神が表わした旨なのです。あなたがたにそれが理解できますか。神の性質、および神が所有するものと神そのものを理解した後、神にどう接するべきかについて、何らかの結論に達しましたか。最後にこの質問への回答として、三つのことをあなたがたに忠告します。第一に、神を試してはいけません。あなたが神のことをどれほど理解していようと、神の性質についてどれほど知っていようと、決して神を試してはいけません。第二に、地位を巡って神と争ってはいけません。神から授かった地位がどのようなものであれ、神から託された働きがどのようなものであれ、神から尽くすように任された本分がどのようなものであれ、そしてあなたが神のためにどれほど自分を費やし、我が身を捧げたかにかかわらず、絶対に地位を巡って神と争ってはいけません。第三に、神と競ってはいけません。神が自分に対して行なうこと、自分のために采配すること、そして神が自分にもたらすものについて、あなたがそれを理解していようと、あるいはそれに服従することができようと、絶対に神と競ってはいけません。これら三つの忠告を守れるなら、あなたはまったく安全であり、神の怒りを招くこともありません。これで本日の交わりを終わります。

2013年11月23日

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

関連記事