言葉は肉において現れる(続編)朗読

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言葉は肉において現れる(続編)朗読

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終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

ヨブの証が神に慰めをもたらす

もしわたしが今ヨブを愛すべき人間だと言ったなら、あなたはその意味を理解することはできず、わたしの言葉の背後にある感情も理解できないかもしれない。だがもしヨブと全く同じ試練かそれに似た試練をあなたが経験し、逆境に直面し、神があなたのためだけに用意した試練を通り、その試練のただ中にあってあなたのすべてを捧げ、屈辱と困難に耐え、サタンに勝利して神の証しとなることがあれば、その時にはわたしの言う意味がよく分かるはずである。あなたはヨブよりもはるかに劣っており、ヨブが愛すべき人物で、見習うべき人物だと感じるだろう。その時になれば、ヨブが語ったこの言葉が今の時代に生きる堕落した人間にとってどれほど重要であり、ヨブの成したことが今日の人間にとってどれほど達成が困難であるかが分かるだろう。ヨブと同じことを達成することの難しさを感じることが出来たならば、神がどれほど心配するか、そしてそのような人々を獲得するために神がどれほどの代価を払ったか、人間のために神がしたこと、費やしたものの尊さを理解するだろう。ここまでの話を聞いて、ヨブに対する正しい理解と評価が得られたであろうか。あなたにはヨブは真に完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人であると映るだろうか。ほとんどの人が、もちろんそのように映っていると言うことを信じている。ヨブの行動やヨブが示したことは、人間にとってもサタンにとっても否定できない事柄だからである。ヨブがサタンに勝利したことをそのような事柄は力強く証明しているのである。ヨブによるこの証しは、神に受け入れられた最初の証しである。それ故、ヨブがサタンの誘惑に勝利して神に証しを立てた時、神はヨブに希望を見出し、神の心はヨブによって慰められた。天地創造の時からこのヨブの時代までを通じて、神が慰めを真に感じ、人間によって慰められるとはどのようなことかを知ったのは、このヨブによる経験が初めてである。この時神は、自身に対して真の証しを立てるものを初めて見ると同時に、獲得したのである。

ヨブの証しとヨブのいくつかの側面に関する学びを通して、大半の人々が自身の進むべき道に対して計画が立てられると信じている。それと同時に、心にある不安や恐れが少しずつ消え、心身ともに穏やかになり、心安らかになっていくことと信じている。

次の箇所もまたヨブに関するものである。読み続けていこう。

4.ヨブは神のことを聞いて知っていた

(ヨブ記9:11)「見よ、彼がわたしのかたわらを通られても、わたしは彼を見ない。彼は進み行かれるが、わたしは彼を認めない。」

(ヨブ記23:8-9)「見よ、わたしが進んでも、彼を見ない。退いても、彼を認めることができない。左の方に尋ねても、会うことができない。右の方に向かっても、見ることができない。」

(ヨブ記42:2-6)「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。『聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。

神がヨブに自身を現さなくてもヨブは神の主権を信じた

この言葉が言わんとすることは何か。ここにはある事実が含まれることに気が付いた者はいるだろうか。まず、ヨブはどのようにして神がいることを知ったのか。そして彼はどのようにして天と地とあらゆるものは神によって支配されていると知ったのか。ふたつの聖句にその答えを見つけることができる。「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」(ヨブ記42:5-6)。この言葉から、ヨブが直接神を見たというより、言い伝えから神を知っていたということが分かるが、そのヨブが神の道を歩み始める中で、神が自分の人生の中において実際に存在し、すべての中に存在することを確信するようになる。ここには否定できないひとつの事実があるが、それは何であろうか。神を畏れ悪を避ける道を進んでいたヨブだが、神を見たことは一度もなかった。この点で、ヨブも今日の人間も同じではないだろうか。ヨブは神を見たことがなかったということは、ヨブは神について聞いてはいたが、神がどこにいるのか、どのような存在か、何をしているのかといった主観的要因に関しては知らなかったのである。客観的には、ヨブは神に従い、神はヨブに現れたこともなく語ったこともない。これは事実ではないか。神がヨブに語ることも何らかの命令を下すこともなかったが、ヨブは神の存在を知っており、すべてのものとヨブが耳にした言い伝えに神の主権を認識しており、その後に神を畏れ悪を避けるようになった。そのようにしてヨブは神に従うようになったのである。ヨブがどれほど神を畏れ悪を避けても、どれほど高潔でも、神がヨブに現れることはなかった。次の箇所を読むと、ヨブは「見よ、彼がわたしのかたわらを通られても、わたしは彼を見ない。彼は進み行かれるが、わたしは彼を認めない」(ヨブ記9:11)と言った。つまり、ヨブは神が近くにいるのを感じたかもしれないし、そう感じなかったかもしれないが、とにかくヨブは神を見たことはないということである。神が自分の前を通り、或いは行動し、人を導くのを想像したことはあったが、実際にそれを見たことはない。神は人間が予想しない時に来る。神がいつ来るのか、どのに来るのか、人には分からない。人には神が見えないからである。そのような訳で、神は人からは隠されているのである。

神が隠されていてもヨブの信仰は揺るがない

次の聖句でヨブはこう言っている。「見よ、わたしが進んでも、彼を見ない。退いても、彼を認めることができない。左の方に尋ねても、会うことができない。右の方に向かっても、見ることができない」(ヨブ記23:8-9)。ヨブの経験の中で神がずっと隠されていたことがこの記述から分かる。神は公然とヨブの前に現れることもなく、ヨブに言葉を語ることもなかったが、ヨブは神の存在を確信していた。目には見えなくても、神は自分の前を歩いていたり、傍らで行動していたりし、自分のすぐ側で支配していると信じていた。ヨブは神を見たことはなかったけれども心から信じ続けることができた。これは他の誰にもできなかったことである。なぜ他の人たちにはそれができなかったのだろうか。神はヨブに語ることも現れることもなかったのだから、ヨブが本当に信じていたのでなければ、耐え続けることも、神を畏れ悪を避ける道に固く立ち続けることもできなかったであろう。そうではないだろうか。ここに書かれているヨブの言葉を読んでどう感じるだろうか。ヨブの神に対する完全さと正しさと義が真実で、神を過大評価しているからだとは思わないだろうか。神はヨブに対して他の人々と同じように扱い、ヨブに現れたり語ったりすることはなかったが、それでもヨブは神に高潔であり続け、神の主権を信じつづけ、更には神を怒らせたかもしれないという恐れから全焼のいけにえを頻繁に捧げて祈ったのである。神を見ないままに神を畏れたヨブに、ヨブがいかに善なるものを愛したか、いかにその信仰が堅く本物であったかが分かる。神が自分から隠されているからといってヨブは神の存在を否定することはなく、神を見たことがないからと言って神への信仰を失ったり神に背いたりすることはなかった。それどころか、すべてを支配するという神の隠れた働きに神の存在を認識し、神の主権と力を感じたのである。神が隠されているからと正しさを捨てることもなく、神が一度も現れたことがないからと神を畏れ悪を避ける道から外れることもなかった。ヨブは神が公然と現れてその存在を証明して欲しいと願ったことはなかった。すべてのものにおける神の主権を知っており、他の人々にはない祝福と恵みを自分が受け取っていると信じていたからである。神はヨブに隠されたままであったが、だからと言ってヨブの神への信仰が揺るいだことは一度もなかった。そのような訳で、ヨブは他の人々が得たことのない報い、つまり神からの承認と神からの祝福を得たのである。

ヨブは神の名を称え、祝福を受けるか災いに遭うかは考慮しない

聖書の中のヨブの物語では語られていない事実がひとつある。それが今日のテーマである。ヨブは神を見たこともなければ自分の耳で神の言葉を聞いたこともないが、ヨブの心には神の居場所があった。ヨブの神に対する態度はどのようなものであったのだろうか。先ほど読んだように、「ヤーウェのみ名はほむべきかな」というものであった。ヨブは神の名を無条件に、無制限に、理屈抜きに称えた。ヨブは神にその心を捧げ、神に自身の心を支配してもらった。ヨブの考えたこと、決心したこと、心に計画したことは神の前に明らかにされ、隠されることはなかった。ヨブが神に敵対することはなかった。彼は神に対して何かしてほしいあるいは与えて欲しいと願ったことは一度もなく、神を崇拝しているからと言ってなにか途方もない報いを期待することもなかった。神に対して取り引きの話をしたり、神になにかを要求したり、命令したりするようなことはなかった。ヨブが神の名を称えたのは、すべてを支配するその偉大な力と権力故であり、祝福を受けたからとか、災いに遭ったからというものではない。ヨブは神が人々に祝福をもたらすか災いをもたらすかに関わらず、神の力と主権は不変であり、故にその人の状況に関係なく神の名は褒めたたえられるべきだと信じていた。神の主権故に人は祝福されるのであり、人に災いが降りかかるのもまた、神の主権故である。神の力と権威は人間のすべてを支配し計らう。様々な人間の富は神の力と権威の現れであり、人がどう見ようと、神の名は褒めたたえられるべきである。ヨブはそれを自らの人生で経験し、悟ったのである。ヨブの考えたことと行なったことのすべてが神の耳に届き、明らかにされ、それは神に重要なものと見なされた。ヨブの認識と、ヨブがそのような心の持ち主であることを神は大切に思った。ヨブの心は常に、どこにいても神の命令を待ち、自分にいつ何が起ころうとも、すべてを歓迎した。ヨブが神に何かを要求することはなく、彼はひたすら神の計らいを待ち、神の計らいを受け入れ、向き合い、従った。ヨブはそれを自身の本分とし、それこそ神がヨブに望んでいたものである。ヨブは神を見たこともなく、神の言葉を直接聞いたことも、命令や教えや指導を受けたこともなかった。今日の言葉で表現するならば、真理に関して神から何の啓きも導きも、施しも与えられていなかったヨブがそのような知識と姿勢を持つことができたのは、神にとって尊いことであり、ヨブの表現したものは神にとって十分であり、称賛に値する証しであり、神はそれを大切に思った。ヨブは神を見たこともなければ直接神の教えを聞いた事もなかったが、ヨブとヨブの心は、神の前で難しい理論を説いたり豪語したりいけにえを捧げたりはするけれども神の真の認識を得たことはなく、心から神を畏れたことのない人々の心より遙かに尊かった。ヨブの心は純粋で神から隠れておらず、正直で優しい人格の持ち主であり、義と正しいものを愛した。そのような心と人格を持ち合わせた者だけが神の道に従うことができ、神を畏れ悪を避けることができる。そのような者が神の主権を知ることができ、神の権力と力を知ることができ、神の主権と采配に従うことができるようになる。そのような者だけが真に神の名を褒めたたえることができる。それはその者が、神が祝福を与えるか災いをもたらすかを見ておらず、すべては神に支配されていることを知っており、人間が思い煩うのは人の愚かさ、無知、理不尽さ、そして神がすべてのことにおいて主権を握っていることへの疑いと神への畏れのなさが原因であることを知っていたからである。ヨブの知識は正に神が求めていたものであった。それではヨブはあなたより素晴らしい理論的知識を持っていただろうか。当時の神の業と言葉は僅かで、神に関する認識を獲得するのは容易ではなかった。神の業を経験しておらず、神の声も聞いておらず、神の顔も見ていないにも関わらず、ヨブがそれだけのものを達成したのは見事である。ヨブは神に対してそのような態度でいることができたのは、彼の人間性と彼が追い求めたもの故であり、それは今日の人々にはないものである。「ヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にない。」と当時神が言ったのは、そのような理由からである。神はその当時すでにヨブをそのように評価しており、ヨブをそのような人と結論付けたのである。神の言ったことが今日でも真実であることは言うまでもない。

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