神の働き、神の性質、そして神自身 1

(その3)

次は、ノアの物語と、それがどのようにこの「神の働き、神の性質、そして神自身」と関係しているのかを見ていく。

この聖書の箇所で、あなたがたは神がノアに何をしているのを見て取れるだろうか。おそらくここに座っている全員が聖書に書かれているこの話を読んだことがあり、何かしら知っているだろう。神はノアに箱舟を作らせ、そしてその後洪水によって世界を滅ぼした。神はノアの8人家族を救うためにノアに箱舟を作らせ、それにより彼らが生き残り、次世代の人類の祖先となるようにした。では聖書を読んでいこう。

二、ノア

1.神が世界を洪水で滅ぼそうと考え、ノアに箱舟を作るように命じる

(創世記 6:9-14)ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。ノアはセム、ハム、ヤペテの三人の子を生んだ。時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい」。

(創世記 6:18-22)「ただし、わたしはあなたと契約を結ぼう。あなたは子らと、妻と、子らの妻たちと共に箱舟にはいりなさい。またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二つずつを箱舟に入れて、あなたと共にその命を保たせなさい。それらは雄と雌とでなければならない。すなわち、鳥はその種類にしたがい獣はその種類にしたがい、また地のすべての這うものも、その種類にしたがって、それぞれ二つずつ、あなたのところに入れて、命を保たせなさい。また、すべての食物となるものをとって、あなたのところにたくわえ、あなたとこれらのものとの食物としなさい」。ノアはすべて神の命じられたようにした。

このくだりを読んで、ノアがどんな人物であったかの全般的な理解はできただろうか。ノアはどのような人物だったか。聖書にはこう書かれている。「ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった」。現代の人々の理解からして、当時の正しい人とはどのような人だったのだろうか。正しい人は完全な人でなければならない。その完全な人というのは、人間の目に完全なのだろうか、それとも神の目に完全なのだろうか。間違いなく、ここでいう完全な人というのは神の目に完全な人であり、人の目に完全な人ではない。それは確かなことだ。人間は盲目で見ることができない。神だけが全地を見、人間一人一人を見ているのであり、神だけがノアが完全な人であったことを知っていたのである。したがって、洪水で世界を滅ぼす神の計画は、神がノアを召し出した時から始まっていた。

その時代、神はノアにとても重要な仕事をさせようと考えた。なぜ神はそうしなければならなかったのか。それは、その時に神は計画を持っていたからである。神の計画は、洪水で世界を滅ぼすことだった。なぜ世界を滅ぼすのか。聖書にはこう書かれている。「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた」。「暴虐が地に満ちた」という部分から、何を見て取れるだろうか。世界とその人々はこれ以上ないほどに堕落しており、それが「暴虐が地に満ちた」という当時の状態である。今日の言葉で言えば、「暴虐が地に満ちた」は、「全てのことがめちゃくちゃだった」ということである。人はさまざまな職業において無秩序であり、物事は混沌としており、管理が難しいということである。神の目には、世の人間は堕落しすぎていたという意味である。どれほど堕落していたのだろうか。それは神がもはや目も当てられないほど、そしてもはや忍耐の限界を超えるほどの堕落である。神が滅ぼすと決めたほどの堕落である。神が世界を滅ぼすと決めたとき、箱舟を作る者を探すことを計画した。そしてその人物にノアを選び、ノアに箱舟を作らせた。なぜ神はノアを選んだのであろうか。神の目にはノアは正しい者であり、神がどんな指示を出そうともそれに従って物事を行った。つまり神の言うことは何でも、ノアは行うということだ。神は神と共に働き、任せられたものを完成させ、地上での自身の計画を達成するこのような者を探していた。当時、ノア以外でこの仕事を完成させることができた者はいたか。いや、絶対にいなかった。ノアが唯一の候補者であり、神が任せた仕事を完成できる唯一の人間であった。ゆえに神はノアを選んだ。しかし、今日、神の人々を救う範囲や基準は、当時のものと同じだろうか。答えは、「もちろん違いはある」だ。なぜわたしはこれを聞くのか。当時ノアは神の目にあって、唯一正しい人間だった。そして彼の妻と息子たち、そして息子の妻たちは皆正しい者ではなかったと推測されるが、ノアのゆえに神は子どもたちと妻も生かしたということだ。神は、神が今日の人々に求める方法で彼らに求めることはせず、むしろ、ノアの家族8人全員を生かしたのである。ノアの家族は、ノアの義のゆえに神の祝福を受けた。もしノアがいなかったら、誰も神が任せた仕事を全うできなかった。したがって、本来はノアだけが当時の世界の破滅を逃れられる者だった。しかし家族の他の者はおこぼれに与ることができた。つまり、神が正式に神の経営の働きを開始する前には、神が人間を扱い、そして人間に求めた原則と基準は相対的リラックスしたものだったのだ。今日の人々からしてみれば、神のノアの家族に対する扱いは公平さに欠けると感じられるだろう。しかし神がどれほどまでに今日の人々に働き、どれほどの言葉を与えているかということを考えれば、当時の神の働きを考えると、神がノアの家族8人に対して行ったことは、単に働きの原則でしかない。ノアの家族と今日の人々を比較した場合、どちらがより多くを神から受けているだろうか。

ノアが召しを受けたということは単純な事実だが、この聖書のくだりに現れている神の性質、神の意志、そして神の本質というわたしたちの話の中心は単純ではない。これらの神の側面を理解するためには、まず神が召したいと思うのはどのような人物なのかを理解しなければならない。そしてその後、神の性質、意志、そして本質を理解することだ。このことは非常に重要だ。では神の目には、この召された人物はどのような人物だったのだろうか。その人物は神の言葉を聞くことができ、そして指示に従うことができる人物でなければならない。それと同時に、その人物には責任感があり、自分が責任を持ってやるべきことを果たして神の言葉を達成すべきと捉えることができる人物でなければならない。では、その人物は神を知る人物でなければならないか。そうではない。当時、ノアは神からの教えをそれほど受けておらず、神の働きも経験していなかった。したがって、ノアの神に対する認識は微々たるものであった。この聖書のくだりにノアは神と共に歩んだと書いてはあるが、ノアは神の姿を見ただろうか。もちろん見てはいない。なぜならこの時代には、人のところにやってくるのは神の使いだけであった。使いたちは言葉や行いで神を表すことはできたが、神の意志や考えを伝えているに過ぎなかった。神の姿は直接明らかにはされてはいないのである。この聖書のくだりでわたしたちが見ることができるのは、基本的に、このノアという人物が何をしなければならなかったのか、そして神のノアに対する指示は何だったのかということである。ではここで現された神の本質は何か。神のすることは全てが緻密に計画されている。神が物事や状況を見るとき、神の目にはそれを測る基準があり、その基準によって、神はその事や状況に対応するための計画を開始するのか、どのようにそれを扱うのかを決める。神は無関心であったり無感情であったりするのではない。実際には全くその逆である。この聖書のくだりでは神はノアにこう言っている。「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう」。この時神は人間だけを滅ぼすと言っているだろうか。そうは言っていない。神は全て肉なるものを滅ぼすと言っている。なぜ神は滅ぼそうとしたのか。ここにもう一つの神の性質の現れがある。神の目には、人間の堕落、全ての肉なるものの汚れ、暴力、不従順に対する忍耐の限界があった。その限界とは何だろうか。神はこう言っている。「神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである」。この「すべての人が地の上でその道を乱したからである」という部分は何を意味するのだろうか。それは、神に従った者、神の名を呼んだ者、かつて神に全焼のいけにえを捧げた者、言葉で神の存在を認め賛美さえした者も含む生きる全ての者も、彼らの態度が堕落に満ち、神の目に抵触したことがあるので、神は彼らを滅ぼさなければならないということだ。それが神の限界だった。ではどの程度まで、神は人間に耐えられ、肉なるものの堕落に耐えられたのか。全ての人々は、神に従っていた人であろうと未信者であろうと、正しい道を歩んではいなかった。人間は単に道徳的に堕落し悪に満ちていただけではない。神の存在を信じていた者はおらず、ましてや神が世界を支配していることや、神が人々に光を与え正しい道へ導くことができると信じていた者などいなかった。人間は神の存在を憎み、神の存在を認めなかった。人間の堕落がここまで来てしまうと、神はもう忍耐することはない。ではその状態は何と取って代わられるのか。神の怒りと罰の到来である。それは神の性質の現れの一部分ではないか。この時代にあっても、神の目にあって正しい者はいるのだろうか。神の目にあって完全な者はいるのだろうか。今の時代は地上の全て肉なる者の振る舞いが神の目に堕落と映る時代だろうか。この日この時代に、神が完全にしたいと望む者、神に従い、神の救いを受け入れている者を除けば、全て肉なる者は神の忍耐の限界に達しているのではないだろうか。身の回りに起こる全ての事、自分の目で見て耳で聞く事、そしてそれぞれがこの世で日々経験することは不法で満ちてはいないだろうか。神の目には、このような時代、このような世界はもう滅ぼされるべきものなのではないだろうか。今の時代背景はノアの時代背景とは全く違うが、人間の堕落に対する神の感情と怒りは、ノアの時代のものと全く同じである。神はその働きゆえに耐えることができる。しかし神の目からすれば、全ての状況や条件を考えるならば、この世界はとうの昔に滅ぼされているべきものなのだ。今の世界の状況は、洪水で滅ぼされる以前の世界よりもはるかにひどいものだ。では当時と今の違いは何だろうか。その違いこそが神を最も悲しませるものであり、そしておそらく誰も理解できていないものなのである。

神が洪水で世界を滅ぼそうとしていた時、神はノアを呼び、箱舟を作らせ、備えをさせることができた。神はノアという一人の人間を召し出し、自身のためにこのような働きをさせることができた。しかし今の時代には、神が召し出すことができる者は誰もいない。なぜだろうか。ここにいる全ての人がその理由をよくわかっていることと思う。説明が必要だろうか。あえて言葉にすれば、あなたがたの顔をつぶし、悲しませてしまうことになるかもしれない。ある人たちはこう言うだろう。「わたしたちは神の目にあって正しい者ではなく、完璧ではないが、それでももし神がわたしたちに何かを命じるならば、その命令を実行する力はある。以前、神が大災害が来ると言われた時、その時に備えてわたしたちは食料など必要なものを準備し始めた。それら全ては神の要求に応えたということではないか。神の働きに協力したということではないのか。わたしたちがそこでしたことというのは、ノアのしたことと比べられないだろうか。わたしたちが行ったことは本当の従順ではないのか。神の命令に従っていたのではないのか。わたしたちは神の言葉を信じていたからこそこれらのことを行ったのではないのか。だとすればなぜ神は悲しむのか。なぜ神は召し出せる者がいないと言われるのか」と。では、あなたがたが行ったこととノアが行ったことに違いはあるだろうか。どのような違いがあるか。(来る災害に備えて食べ物を準備するのは、自分自身の意思だ。)(ノアは神の目に正しい人であったが、わたしたちの行いは「正しさ」には届かない。)あなたの言ったことは、さほど外れてはいない。ノアが行ったことは、今日の人々がしていることとは実質的に異なる。ノアが神に指示されたことを実行したとき、ノアは神の意図を知らなかった。神が何を成し遂げたいのかをわかっていなかった。神はノアに命令を与え、すべきことを伝えただけで、あまり説明はしなかったが、ノアはとにかく実行した。ノアは神の意図を自分なりに理解しようとしたり、神を拒絶したり、疑いを抱いたりすることはなかった。彼は純粋でシンプルな心でただ従ったのである。神がノアにするよう導いたことをノアは全て行った。そして神の言葉に従順に聞き従うことはノアが事を行ううえでの信念だった。神に任されたことを、ノアはそのようにまっすぐに、シンプルに行った。彼の本質、すなわち彼の行動の本質は従順であり、先読みしたり、拒否したりせず、さらに自分の私的な利益や損得を考えなかったことだ。さらに言えば、神が洪水で世界を滅ぼすと言ったとき、ノアはそれがいつであるとか、その真意を問うといったことはせず、どのように世界を滅ぼすのかも聞かなかった。ノアはただ、神が命じたように行ったのである。箱舟を何でどのように造るのか、神が指示した通りにノアはそれを造り、しかも直ちにとりかかった。彼は神に満足していただきたい一心でそうしたのだ。彼は自分が災害から逃れるためにこれを行っただろうか。それは違う。世界が滅ぼされるまでにあとどれほどの年月が残されているかを彼は神に聞いただろうか。いや、聞いていない。箱舟を作るのにどれくらいの時間がかかるのかを、彼は神に聞いたか、あるいは知っていただろうか。それも彼は知らなかった。彼はただ従い、聞き、言われた通りに行ったのである。今日の人々はそうではない。神の言葉から少しでも情報が漏れれば、また何か自分に妨害や困難が起こりそうな兆候を感じれば、彼らはただちに行動をとる。何としてでも、どんな代価を払っても、災害後に必要な食べ物、飲み物その他のものを準備し、災害が来た時の避難経路さえ計画する。さらに興味深いのは、このような時には、人間の脳は非常に「使える」ものなのである。神がどんな指示も与えていないときには、人間は非常に的確に物事を計画することができる。「完璧」という言葉が大げさではないくらいに、だ。しかし神の言うことや神の意図が何であるか、神が何を望むかについては、誰も気にかけず、知ろうともしないのである。これこそがノアと、今日の人々の最大の違いではないか。

このノアの物語の記述から、神の性質の一部を見て取れるだろうか。人間の堕落、汚れ、暴力に対する神の忍耐には限界がある。その限界に達すると、神はもう耐えることはしない。新しい経営と新しい計画を開始し、神がしなければいけないことを開始し、神の業と、神の性質のもう一つの面を現すのである。それは、神を決して怒らせてはいけないという意味でもなければ、神は権威と怒りに満ちているという意味でもなく、人間を滅ぼすことができると示すためでもない。神の性質、神の聖い本質が、このような人間が自身の前で生き、自身の支配の下で生きていることをこれ以上許さず、これ以上耐えることもできないのである。つまり、全ての人間が神に敵対していたとき、地上で神が救うことができる人間がいなくなったとき、神はそのような人間に対し忍耐することをやめ、一切の躊躇なく、そのような人間を滅ぼす計画を実行するのである。これらの神の行動は、神の性質によるところなのである。これは必然の結果であり、神の支配の下にある全ての被造物はこれに耐えなければならない。これは、この時代に、神が自身の計画を全うし、救おうとしている人々を救うことが待ちきれないということではないのか。このような状況で神が最も問題とすることは何か。それは、神に全く付き従わない者たちやどちらにしても神に反対する者たちがどのように自身を扱い、拒否するかでも、人間がどのように神を中傷するかでもない。自身に従う者たち、すなわち神の経営計画において救いの対象となる人々が、神によって全き者となったかどうか、彼らが神自身が満足する者になったかどうかが、神にとっては問題なのである。神に付き従う者以外の人間に対しては、神は時々多少の罰をもってその怒りを示すだけである。例えば、津波、地震、火山噴火などである。それと同時に、神は神に従う者とまもなく救われる者を強固に保護し世話をする。神の性質とは次のようなものだ。神は自分が完全にしようとする人々には桁違いの忍耐と寛容さを示し、待てる限り待ち続ける一方で、神に付き従わずに敵対するサタンの輩を激しく忌み嫌う。神はこのサタンの輩が自分に従い礼拝するかは気にかけてはいないが、彼らに対する忍耐を持ちながらも彼らを忌み、神がこのサタンの輩の最後を決めると同時に、自身の経営計画が段階的に進んでいくのを待っている。

次の箇所を見ていこう。

2.神が洪水後にノアに与えた祝福

(創世記 9:1-6)神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない。あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに」。

この箇所からあなたがたは何を見るだろうか。なぜわたしはこの箇所を選んだのだろうか。なぜわたしはノアとその家族の箱舟での生活の様子から抜粋しなかったのだろうか。今日のテーマは箱舟の生活の様子とはあまり関係がないからである。今わたしたちは神の性質に注目している。もし箱舟での生活についての詳細を知りたかったら、自分で聖書を読めば良い。ここではその話はしない。今日ここで扱うおもな点は、神の業をどのように知るか、である。

ノアが神の命令を受け入れ箱舟を作り、そして神が洪水で世界を滅ぼした日々を生きた後、ノアの8人家族全員は生き延びた。ノアの8人家族を除いては、全ての人間は滅ぼされ、そして全ての生き物も滅ぼされた。神はノアに祝福を与え、ノアと彼の息子たちにいくつかのことを語った。これらは神がノアに授けたことであり、ノアへの神の祝福でもあった。これらは神の言葉に耳を傾け、神の指示を受け入れることができる者に神が与える祝福と約束であり、神が人々を報いる方法でもある。つまり、ノアが完全な人だったかどうか、あるいは正しい人であったかどうか、そしてノアがどれだけ神について知っていたかに関わらず、端的に言って、ノアと彼の3人の息子たちは皆、神の言葉を聞き、神の業に協力し、神の命令に従ってするべきことをした。その結果として彼らは、神が人間や様々な種類の動物を洪水によって滅ぼした後にそれらの生き物が生きながらえるための助けとなり、そうすることで神の経営計画の次の段階に対して大きな貢献をしたのである。神はノアが行った全てのことのゆえに、彼を祝福した。今日の人々は、ノアがした事など語る価値もないと思うかもしれない。「ノアは何もしなかった。神はノアが生き残るよう心に決めていた。ゆえにノアは絶対に助かることになっていたのだ。彼が生き延びたのは彼自身の貢献によるものではない。人間は受動的なので、神がそうしたかっただけだ」と考える人すらいるかもしれない。しかしそれは神が考えていたことではない。神からすれば、その人が偉大な者であってもなくても、神を聞くことができ、神の命令と神の任務に従い、神の業、神の意志、神の計画に協力することで神の意志と計画が円滑に達成されるようにするならば、その行いは神に覚えてもらうに値し、また神の祝福を受けるに値するのである。神はそのような人々を大切にし、そして神は彼らの行動、そして神への愛と思いを尊いものとするのだ。それが神の姿勢である。ではなぜ、神はノアを祝福したのか。人の行動と従順を神はそのように扱うからである。

ノアへの神の祝福に関して、次のように言う人もいるだろう。「人が神に従い、神を満足させるのなら、神は人を祝福するべきで、それは当たり前のことではないか」。そのように言えるだろうか。ある人々は「そうは言えない」と言う。なぜそのように言えないのだろうか。ある人々は「人間は神の祝福を楽しむのに値しないからだ」と言う。しかしそれは完全には正しくない。なぜなら人が神の任務を受け入れる時、神自身がその人の行動の良し悪しを決める基準、その人が従ったかどうかを決める基準、その人が神の心を満足させたかを決める基準、彼らの行ったことが適確だったかどうかを決める基準を持っているからである。神が問題とするのはその人の心であり、彼らの表面上の行動ではない。人がそれを行っている限り、どのようなやり方をしていても、神はその人を祝福すべきだということはない。それは人々の神への誤解だ。神は物事の最終結果だけを見るのではなく、むしろ物事が進んでいく中で人の心がどうであるか、人の態度がどのようなものであるかに重きを置き、彼らの心に従順、配慮、そして神を満足させたいという願いがあるかどうかを見る。当時、ノアは神についてどれほど知っていただろうか。今あなたがたが知っているほどたくさんの教義を知っていただろうか。神の概念や知識などのような真理という観点でいえば、ノアはあなたがたほどに育てられ、牧養をされていただろうか。いや、そうではなかった。しかし否定できない事実がひとつある。今日の人々の意識や認識の中、あるいは心の深い奥底にある神の概念や態度というのは、ぼんやりとして明確ではない。神の存在に消極的な態度をとる人々すらいると言える。しかしノアの心、ノアの意識の中では、神の存在というのは絶対的で疑う余地のないものだった。それゆえノアの神への従順は純粋で、試みに耐えうるものだった。ノアの心は純粋で、神に対して開かれていたのだ。ノアは神のひとつひとつの言葉に納得して従うために多くの教義的認識は必要ではなく、また、神がノアに任せた任務を受け入れ、神がノアにさせることが何でもできるようになるために多くの事実を用いて神の存在を証明する必要もなかった。これこそがノアと今日の人々の実質的な違いであり、また正確に言うと、神の目にあって完全な人とはどのような人であるかの真の定義である。神が欲しているのはノアのような人々だ。ノアは神が賛辞を送る類の人であり、そしてまさしく神が祝福する類の人なのである。あなたがたはこのことから何かを悟っただろうか。人はうわべでその人を判断するが、神はその人の心と本質を見る。神は人が神自身に対して中途半端な心や疑いを持つことを許さず、いかなる方法によっても神自身を疑うことも試みることも許さない。したがって、今日の人々は神の言葉と向き合っており、神と向き合っていると言えたとしても、彼らの心の中の深いところにあるもの、彼らの堕落した本質の存在と、彼らの神に敵対する態度により、彼らの神に対する真の信仰は妨げられており、神への従順から遮断されているのである。それゆえに、彼らがノアに授けた祝福と同じ祝福に到達することは非常に難しいのである。

『言葉は肉において現れる』より引用

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