神の働き、神の性質、そして神自身 1

(その2)

神の性質と神自身を理解するには、とても小さなことから始めなければならない。そのとても小さなこととは何か。わたしは聖書のいくつかの箇所を調べた。以下の内容には聖句が含まれており、そのすべては「神の働き、神の性質、そして神自身」というテーマに関係するものである。これらの抜粋は、あなたがたが神の働き、神の性質、そして神自身について知るための参考として特に役立つはずだ。これらを用いて、神が自身の業により現わされた、そして人々が知らずにきてしまった神の性質と本質を見ていく。これらの箇所は古いものかもしれないが、わたしたちが今扱っているテーマは新しく、人々が知らず聞いたこともないものだ。あなたがたの中には、理解できないと思う人もいるかもしれない。アダムとエバを取り上げ、そしてまたノアを扱うのは、後戻りすることではないのか、と。あなたがたがどう思うかにかかわらず、これらの箇所はこのテーマを扱う上で非常に有益であり、今日のテーマの教科書、あるいは一次資料としての役割を担うものだ。このテーマについてわたしが話し終わる頃には、わたしがなぜこれらの箇所を選んだのかをあなたがたも理解するはずだ。聖書を読んだことがある人はこれらの箇所を読んだことはあるかもしれないが、本当には理解していない可能性がある。では細かく見ていく前に、一度ざっと通すことにする。

アダムとエバは人類の祖先である。聖書に登場する人物を挙げていくとすれば、まず出てくるのはこの2人だ。次にノア、人類の第2の祖先である。分かるだろうか。では第3の人物は。(アブラハム。)アブラハムのストーリーについてあなたがたは知っているだろうか。ここにいる何人かは知っていると思うが、はっきりと知らない人もいるかもしれない。では第4の人物は。ソドムの滅びの話の中で出てくる人物は。(ロト。)だがロトはこの資料の中には出てこない。資料に出てくるのは。(アブラハム。)アブラハムのストーリーにおいておもに示されているのは、ヤーウェ神が何を言ったかということだ。分かるだろうか。5人目の人物は。(ヨブ。)神はこの段階における働きの中でヨブのストーリーを多く示していないだろうか。あなたがたはこのストーリーをどれほど重要だと思っているだろうか。もし重要と思っているならば、聖書のヨブのストーリーを注意深く読んだことはあるだろうか。ヨブが何を言い、何をしたかを知っているだろうか。この中で一番ヨブのストーリーを読んでいる人は、何回読んだだろうか。頻繁に読むだろうか。香港の姉妹たち、教えてくれないか。(恵みの時代の時に2回ほど読んだ。)それ以来読んでいないのか。もしそうならば、恥じるべきことだ。あなたがたに言おう。神の働きのこの段階で、神はヨブのことに何回も言及している。そしてそれは神の意図を反映している。神がヨブにこれほど頻繁に言及していながら、あなたがたがそのことに注意を向けなかったのは、あなたがたがよい人間になること、そして神を畏れ、悪を避けることに興味がないということの証明だ。ただ神が語ったヨブのストーリーを、概要を理解しただけで満足しているということだ。ストーリーの概要を理解しているだけで満足し、ヨブがどのような人物であったかについて興味を持って深く知ろうとせず、またなぜ神が何回もヨブに言及するのか、その背後にある目的について考えようとしなかった。もし神が褒めたこのような人物にさえ注意を払わないならば、あなたがたはいったい何に注意を払うのか。このように神が言及する重要な人物を、あなたがたが興味を持って理解しようとしないのであれば、そこからあなたがたの神の言葉に対する態度のどのようなことがわかるだろうか。嘆かわしいことではないか。このことはあなたがたの多くが実践的なことを行っておらず、真理を追究してはいないということの証明ではないだろうか。もし真理を追求するのなら、神が認めた人々とその人物について神が語ったストーリーについて相応の興味を持つはずだ。あなたが理解できるかどうか、明白だと感じるかどうかにかかわらず、すぐにその箇所を開いて読み、理解しようとし、その例に従い、自分にできることを精一杯するはずだ。それが真理を求める者の態度というものだ。しかし実際には、ここにいるほとんどの人はヨブの話を読んだことがない。このことが意味するところは大きい。

それでは話を元に戻すことにする。この旧約の律法の時代の箇所は、おもに聖書の人物の物語を抜粋したものである。これらの物語は、聖書を読んだことがある人の大多数がよく知っている。これらの人物はとても象徴的な人物だ。物語を読めば、神がこれらの人物に行った業、そして語った言葉は、今日の人々にも明白に通じるものだと感じることができるようになる。これらの聖書の物語と記録を見ると、当時神が業をどのように成し、どのように人々を取り扱ったのかについてよりよく理解できるようになるのである。しかし今日わたしがこれらの箇所を用いるのは、あなたがこれらの物語と登場人物について理解するためではない。これらの人物の物語を通して神が行ったことや神の性質を見ることで、神を理解することが容易になり、神の真の側面を見ることができるようになり、神に対して想像することをやめ、自分の観念にとらわれることをやめ、あいまいな信仰に終止符を打つためである。土台なしで神の性質を理解し、神自身を知っていこうとするならば、自分のどうしようもない無力さに度々苛まれることになり、どこから手を付ければよいか分からなくなる。それだから、人が神をより理解し、神の心を真に理解し、神の性質と神自身について知り、神の存在を純粋に感じ、人間に対する神の心を理解するために、このような方法と取り組み方を使おうと考えたのである。これはあなたがたにとって価値のあることではないか。今これらの物語と聖書箇所を改めて見て、どのように感じるだろうか。わたしが取り上げたこれらの箇所は不要と思うだろうか。先ほど言ったことをもう一度強調したい。これらの人物の物語を見ていく目的は、神がどのように人々に対し業を行うのか、そして神の人間への姿勢がどのようなものであるかをあなたがたが理解するためである。何を通してこれらのことを理解できるだろうか。それは神が過去に行った業と、今神が行っている業が結びついたものを通してである。これらのことが、あなたがたが神についての様々なことを理解する助けとなる。これらのことは真実であり、神をもっと知りたいと思う者に知られ、理解されなければならないものなのである。

では、アダムとエバのストーリーから始める。まず、聖書を読んでいくことにする。

一、アダムとエバ

1.アダムへの神の命令

(創世記 2:15-17)ヤーウェ神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。ヤーウェ神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

この箇所からあなたがたは何かを学んだだろうか。この箇所をあなたがたはどのように感じただろうか。なぜ「アダムへの神の命令」を聖書から取り上げるのだろうか。神とアダムが心に描けただろうか。想像してみてほしい……もしあなたがたがこのシーンの中にいたら、神をどのような存在と思うだろうか。あなたがたはどのような感情を抱くだろうか。これは感動の、心温まるシーンである。そこには神と人間しかおらず、その関係の親密さは羨ましいほどだ。神のあふれんばかりの愛は惜しみなく人間に注がれ、人間を包んできた。人間は純粋で、無邪気で、気楽、気ままで、神に見守られて満足して生きている。神は人間を心配してくださり、そして人間は神の護りと祝福の中で生きていた。人間の全ての言動は、神と密接に関係し、神と切り離すことはできない。

この命令は神が人間を創造以来、最初に与えた命令だったといえる。ではこの命令は何を表しているのだろうか。それは神の意志を表しているが、同時に神の人類に対する懸念も表している。これは神の最初の命令であり、そしてこの時初めて神は、人間のことを心配した。どういうことかといえば、神は人間を創った瞬間から、人間に対して責任を持っていたということである。その責任とはどのようなものだろうか。それは人間を守り、顧みるという責任である。人間が神を信頼し従うことを神は望んだ。そしてそれは神が人間に抱いた最初の期待でもある。神はその期待とともに、次のように言った。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。このシンプルな命令に神の意志が現れている。そして神の人間に対する心配をすでに表していたこともわかる。被造物にあって、アダムだけが神の姿に似せて造られ、アダムだけが神の息を吹き込まれ、神と歩み、神と対話できる存在だった。それゆえに神はそのような命令を人間に与えたのである。神はこのことを命じたとき、非常に分かりやすい形で人間が何をすればよいのか、そして何をしてはいけないのかを伝えた。

この極めてシンプルな言葉から、神の心をうかがい知ることができる。わたしたちはここからどのような神の心を見て取れるだろうか。神の心に愛はあるだろうか。そこに神の配慮は現れているのだろうか。この聖書箇所に示されている神の愛と配慮は、頭で理解できるだけでなく、実際に感じることができることだ。そうではないか。わたしは今これらのことを述べてきたが、あなたがたはまだ、これが単なる言葉だと思うだろうか。それほど簡単なものではないのではないか。このことに気づいたことが今までにあるだろうか。神がもし直接あなたにこれらのことを語ったら、あなたはどのように感じるだろうか。もしあなたが無慈悲で、心が冷え切っているなら、何も感じないだろうし、神の愛も理解できず、神の心を理解しようともしないだろう。しかしもしあなたに良心があり、人間性があるなら、見方は違ったものになる。もしそのような人間であるならば、温かみを感じ、愛され守られていると感じ、また幸せを感じることができるだろう。違うだろうか。これらのことを感じるならば、あなたは神に対しどのように行動するだろうか。神とのつながりを感じるだろうか。心の底から神を愛し、敬うだろうか。あなたの心は神に近づくだろうか。神の愛が人間にとってどれだけ重要かということが、ここから見て取れるだろう。しかしそれよりさらに重要なのは、人間がその神の愛を深く知り、理解することである。事実、神はこの段階の働きにおいて似たようなことを多く語っていないだろうか。しかし、今日の人々は神の心を理解しているだろうか。今ここでわたしが述べた神の心の意味を掴めただろうか。あなたがたはこれほどはっきりしていて分かりやすく、現実に示されている神の心さえ、認識することができない。ゆえにわたしはあなたがたが神に対する本当の認識と理解を得ていないと言うのである。そうではないだろうか。このセクションでわたしが述べるのは以上である。

2.エバの創造

(創世記 2:18-20)またヤーウェ神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。そしてヤーウェ神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。

(創世記 2:22-23)ヤーウェ神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。

この箇所にはいくつかの鍵となるフレーズがある。次の部分に印をつけてほしい。「人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった」。ここで全ての生き物に名前をつけたのは誰だったか。それは神ではなく、アダムだった。この部分は人類にある事実を示している。神は人間を知性的な存在として創造した。つまり、人間の知恵は神によるものだということである。これは間違いなく事実である。しかし、なぜだろうか。アダムは神に創造された後、学校へ行っただろうか。アダムは字を読むことができただろうか。神が様々な生き物を造った後、アダムは神が創造した数々の生き物を全て認識することができたのだろうか。神はアダムにそれらの生き物の名前を教えたのだろうか。もちろん、神はアダムに対して生き物にどのような名前をつけたらよいかを教えていない。間違いない。ではアダムはどうして動物に名前をつけることができ、またどのような名前をつけたらよいのかがわかったのだろうか。これらの問いは、神が創造の際にアダムに何を与えたのかという問いに関わるものだ。この「アダムが動物たちに名前をつけることができた」という事実は、神がアダムを造った時に、アダムに知恵を与えたことを証明している。これは鍵となるポイントだ。あなたがたは注意深く聞いていただろうか。もうひとつ、はっきりさせておかなければならない重要な点がある。それは、アダムが生き物に名前を与えた後、神はそれらの動物を、アダムがつけた名前で呼ぶようになったということである。なぜわたしはこのことをわざわざ述べるのか。それは、このこともまた、神の性質に関わることで、わたしが説明する必要がある事柄だからである。

神は人間を創造し、人に息を吹き込み、また自身の知恵、能力、そして自身が持っているものと自身であるものを一定程度与えた。神が人間にこれらのものを全て与えた後、人間は自分で行動することができるようになり、自分で考えられるようになった。もし人間が神の目によいことを思いつき、行うのであれば、神はそれを受け入れ、人のすることに介入することはない。人間の行うことが正しいことである限り、神は人間の思うようにさせておくのである。ではこの「人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった」という言葉はいったい何を示唆するのだろうか。ここからわかることは、神は人間がつけた動物の名前を変えることは一切なかったということである。アダムがその名前で呼んだのならば、神はその名前を認め、神もその名前で呼んだのだ。神はアダムに意見しただろうか。絶対にそのようなことはない。ではここから、何を読み取ることができるだろうか。神は人間に知恵を与え、人間は様々なことを行うためにその知恵を用いた。そして人間のすることが神の目にあってよいことである限り、神はそれを一切の評価や批判をすることなく受け入れ、理解し、承認したということだ。これは人間や悪魔、あるいはサタンには絶対にできない。ここに神の性質を見ることができるだろうか。人間に、堕落した人間に、あるいはサタンに、他者が自分の目の前で行ったことを自分の行動として認めることができるだろうか。そんなことはもちろんできない。自分たちと異なる他者もしくは他の力と彼らは戦うだろうか。勿論戦う。そのとき、もしアダムと一緒にいる者が堕落した人間かサタンであったなら、彼らは間違いなくアダムのしたことを拒否したであろう。自分で考えることができ、独自の見解があることを証明するために、アダムのしたことを全て否定しただろう。「この名前でどうか」。「いや、わたしはその名前では呼ばない。わたしは別の名前で呼ぶ。君はそれをトムと呼んだが、わたしはハリーと呼ぶことにする」。わたしは自分の能力を誇示しなければならない。これはどのような本性だろうか。あまりに傲慢ではないか。しかし神にそのような性質は見られるだろうか。神はアダムがしたことに対して、特に反対しただろうか。決してそのようなことはない。神の性質には、論争、傲慢、独善などは一切みられないのである。それは実に明確だ。些細なことだが、神の本質を認識していなければ、そして心から神がどのように働き、どのような態度であるかを理解しようとしなければ、神の性質を認識することはできないし、神の性質に関する表現や明示を見出すことはできない。違うだろうか。今わたしが説明したことに同意できるだろうか。アダムがしたことに対して、神は高圧的に「よくやった。お前は正しいことをした。お前に同意する」とは言わなかった。しかし神は心の中ではアダムを認め、受け入れ、アダムのした事を褒めたのである。これが、人間が神の命令に基づいて行った最初のことであった。神の代理として、神の代わりに人間が行ったことだ。神の目には、これは、神が人間に与えた知性から来るものであった。神はその知性をよいものとして、肯定的に捉えていた。この時アダムが行ったこのことは、神の知恵が人間を通して現れた最初の出来事であり、神の目から見て、よい現れだったのである。ここであなたがたに伝えたいのは、神が自分の持っているものと神であるもの、その知恵の一部を与えたのは、人間が神の性質を現す存在となるためであったということである。このように、生きる被造物が神の存在を体現する者として物事を行うことこそ、まさしく神が人間に望んでいたことなのである。

3.(創世記 3:20-21)さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。ヤーウェ神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

ではこの3番目の箇所を見ていこう。ここではアダムがエバに与えた名前には意味があるということが語られている。この箇所は、創造された後アダムが自分の考えを持ち、たくさんのことを理解していたことを示すものだ。だがここでは彼が何をどのくらい理解していたかということを掘り下げていくのではない。この3番目箇所でわたしが取り上げたいテーマはそこではない。ではこの箇所で取り上げることとは何か。「ヤーウェ神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」というところを見てみよう。もしわたしたちが今日この聖句の意味するところを掘り下げなければ、もしかしたらあなたがたは一生この聖句の意味するこころを本当には理解できないかもしれない。最初に、ヒントをあなたがたに与える。アダムとエバが住んでいるエデンの園を想像しよう。神が彼らのもとへやって来たが、彼らは裸だったので隠れる。神には彼らの姿が見えないため、彼らを呼ぶと、彼らは、「わたしたちはあなたにお会いすることができません。わたしたちは裸ですから」と答えた。彼らは裸だったので、神に会おうとしなかったのである。このときヤーウェ神は彼らに何をしただろう。原文にはこう書いてある。「ヤーウェ神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」。今、神が何の素材で人間の服を作ったか知っているだろうか。神は人間の服を作るために動物の皮を使ったのだった。つまり、神が人間に作ったのは毛皮のコートだ。これが、神が人間のために最初に作った服だ。毛皮のコートというのは今日では高級品で、誰でも着ることのできるものではない。もし誰かに、「人間の祖先が最初に身に着けた衣類は何だったか」と聞かれたなら、あなたは、「毛皮のコート」と答えればよい。「誰がその毛皮のコートを作ったのか」と聞かれたなら、「神が作られた」と答えればよい。これが重要な点なのだ。この服は神によって作られたものだった。これは注目に値することではないだろうか。今わたしが説明したことが、心に描けただろうか。せめて簡単な概要くらいはあるはずだろう。今日このことをあなたがたに伝えているのは、人間が最初に身に着けた服が何であったかを知らせるためではない。では、何が重要なのか。重要なのは毛皮のコートではなく、神が毛皮のコートを与えたことによって表された神の性質、神であるものと持っているものをどのように捉えるか、ということである。

この「ヤーウェ神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」という部分では、アダムとエバと共にいた神は彼らにとってどのような役割をしたのだろうか。人間が2人しかいないこの世界で、神は自身をどのような役割を持つ者として現しただろうか。神としての役割であっただろうか。香港の兄弟姉妹よ、答えてくれないか。(親としての役割。)韓国の兄弟姉妹よ、神はこの時にどのような役割の者として現れたと思うか。(家族の長。)台湾の兄弟姉妹よ、どう思うか。(アダムとエバの家族の一人、つまり家族の一員としての役割。)あなたがたの中には、神はアダムとエバの家族の一員として現れると言う人もいれば、神は家族の長として現れると言う人もあり、また、親として現れると言う人もいる。これらの答えは全て適切だ。だが、わたしが言おうとしていることは何か。神はこの2人の人間を創り、2人を自身の友として扱った。2人の唯一の家族として、神は彼らの生活を見守り、基本的な必要において面倒を見たのである。ここでは、神はアダムとエバの親として現れている。その間、人は神がどれだけ高尚であるか見ることをせず、神の至高、その奥義、そして特に怒りや威厳を見ることをしなかった。人が見るのは神の謙遜、慈愛、人間への思い、神の責任及び配慮である。神の態度やアダムとエバの扱い方は、人間の親が自分の子どもに対して心配するものと同種である。人間の親が自分の息子や娘を愛し、世話をし、面倒を見るのに似ている――現実的で、見ることができ、触れて感知することができる。自身を高く、威厳のある者として位置付けるのではなく、神は人間のために動物の皮で衣服を作ったのである。その毛皮のコートが、裸の身体を覆うためだったか、寒さから守るためだったかは問題ではない。要するに、人間の体を覆うための衣服は神が自分の手で作ったということだ。人間が想像するような、神の考えだけで衣服を作ったり、奇跡的な方法で作ったりしたのではなく、むしろ神にはできない、神がするべきないと人が考えるような方法で作ったのである。そのような簡単なことを敢えて言うまでもないと思う人もいるかもしれない。しかし神に従ってはいたが、神についてぼんやりとしたイメージしか持っていなかった人たちにとっては、この箇所を見ることで神の真実さ、魅力、忠実さ、謙遜をはっきり見ることができるようになる。そして自分が位の高い、力ある存在と考えるどうしようもなく高慢な人たちに、神の真実さや謙遜の前に自分を恥じ入らせ、自惚れていたその頭を下げさせる。ここで現されている神の真実さや謙遜を通して、神の魅力を知るようになる。人の心の中の大きく、愛すべきであり、全能である神が小さく、醜い、吹けば飛ぶようなものになってしまっている。この聖句を読み、ストーリーを聞くとき、このようなことをした神をあなたは見下すだろうか。そういう人もいるかもしれない。しかしある人にとっては全く逆で、神を真実で愛すべきとして捉え、その真実さと愛すべき性質に心動かされるだろう。本当の神の側面をより知っていくことで、神の愛、神が自分の心の中にいてもらえることの重要性、そして神がどんなときも共にいてもらえることに、より深い理解を得るようになる。

ここで、わたしたちの話を現在とつなげてみるべきだろう。もし神が最初に自身が創造した人間に対しこれらの様々な小さなこと、人間が全く考えたり予想したりしないようなものですら人間に対して行うことができるのなら、神は今日の人々に対してもそのようなことをすることは可能だろうか。「可能だ」と言う人もいるだろう。それはなぜだろうか。それは神の本質は偽物ではなく、神の魅力が偽物ではないからである。神の本質は真に存在しており、他者によって付け加えられるものではなく、また時間、場所、時代によって変わるものでも決してないからである。神の真実さや魅力は、人間が注目に値するとも重要とも思わないことをする中に、そして神がするとは思えないようなとても小さなことのなかに真に現されるのである。神は偉ぶってはいない。神の性質や本質のなかには、誇張、偽装、高ぶり、あるいは高慢さは存在しない。神は決して誇らず、かえって人間を愛し、配慮し、世話をしてくれ、忠実さと誠実さをもって自身が創造した人間を導く。人々がこのことをどれだけ感謝し、感じ、また理解できるかにかかわらず、神は間違いなくそうしている。神がそのような実質を持っていると知ることは、人々の神への愛に影響をもたらすだろうか。彼らの神への畏れに影響するだろうか。あなたが神の本当の側面を理解する時、あなたが神とさらに親しくなり、神の人間への愛と配慮にさらに深い感謝を持つことができるようになり、それと同時に神に心を捧げ、そして神に対しての疑いもいぶかりも持たなくなることをわたしは願っている。神はその誠実さ、忠実さ、そして愛をもって、人間のために全てのことを静かに行っている。しかし神は自身の行うこと全てに対して不安を持ったり後悔したりすることは一切なく、また人間から何らかの形でのお返しを必要とすることもなく、人間から何かを得ようとする意図も一切ない。神がこれまでに行ってきたこと全ての唯一の目的は、神が人間の真実な信仰と愛を受け取ることができるようになるためである。ここで最初のテーマについてまとめることにしよう。

これらの話はあなたがたの役に立っているだろうか。どれほど役立っただろうか。(神の愛についてよりよく知り、理解した。)(この交わり方は、将来わたしたちが神の御言葉をよりよく知り、神の持っておられた感情と神がそれらのことを言った時にその背後にあった意味を深く理解し、そしてその時神が何を感じておられたかを感じ取る助けとなる。)これらの言葉を読んだ後、神の実際の存在をさらに感じる者はいるだろうか。神の存在がうつろなものでも漠然としたものでもなくなっただろうか。そのように感じている人たちは、神があなたの傍らにいて下さると感じるだろうか。その感覚がまだはっきりしていなかったり感じることができなかったりするかもしれない。しかしいつの日かあなたがたが心に神の性質と本質について深い理解と本物の認識を持つようになった時、あなたは神があなたの傍らにいて下さることを感じることになる――ただ今はあなたが心から神を受け入れていないだけだ。これが真実だ。

この交わり方をどのように思うだろうか。ついて来れただろうか。神の働きと神の性質のテーマについてのこのような類の交わり方は、とても重いと思うだろうか。あなたがたはどのように感じたか。(とてもよい。興奮している。)何をもってよいと感じているのか。なぜ興奮しているのか。(エデンの園に戻って、神の側にいるようだった。)「神の性質」というのは実際、全ての人にとってほとんど馴染みのないテーマだ。なぜなら普通あなたが想像したり、本で読んだり、あるいは交わりの中で聞いたりすることは、盲人が象を触っているような感覚をもたらすものだからだ。つまり、手探りで探っているだけで、実際あなたの目では何も見ていないということだ。手で触れるだけでは神に関する基本的認識を得ることはできず、ましてやはっきりとした概念など持つことはできない。それがあなたにもたらすものはさらなる想像であり、そうなればあなたは神の性質や本質が何であるかを正確に定義することはできなくなる。自分の想像から出てくるこれらのはっきりしない要素は、むしろあなたの心をいつも疑いで満たすようである。あなたが何かについて確信が持てず、それでもそのことを理解しようとする時、あなたの心はいつも矛盾と対立を抱えることになる。そして時々それがあなたに混乱すらもたらし、途方にくれさせるのである。神を追い求め、神を知り、神をはっきりと見たいと思っているのに、いつも答えが見つからないように感じるのは苦しいことではないか。もちろん、これらの言葉は神に対する畏れを追い求め、神に満足してもらいたいと願う人々だけに向けられたものである。そのようなことに全く関心のない人たちには、このことは実際関係のないことだ。なぜなら彼らにとっては神の真実さと存在は伝説や幻想であることが望ましく、そうであれば彼らは何でも自分たちのしたいことができ、そうであれば彼らは自分たちが最も偉大かつ最も重要な存在であることができ、そうであれば彼らは結果を気にせずに悪を行うことができ、そうであれば彼らは懲罰を受けたり責任をとったりする必要がなくなり、そうであれば神が悪を行う者について言っていることでさえ自分たちには当てはまらないからである。そのような人々は神の性質を深く知る気はない。神を知ろうとすることと神に関する全てにうんざりしているのである。彼らは神が存在しないほうが好ましいと考える。彼らは神に敵対しており、彼らこそが滅びゆく存在なのである。

『言葉は肉において現れる』より引用

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