神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか

(その2)

神の道を歩め――神を畏れ、悪を避けよ

心に留めるべき格言があります。この格言はとても重要だと思います。なぜなら、この格言を毎日何度も思い出すからです。なぜですか。それは、誰かと面と向かうたびに、誰かの話を聞くたびに、誰かの経験談や神への信仰の証しを聞くたびに、わたしはいつもこの格言を用いて、その人が神が求め、好むような人であるか否かを心の中で決めるからです。では、その格言とは何でしょうか。今、あなたがたはみな身を乗り出しています。わたしが格言が何であるかを明かすと、あなたがたはおそらく落胆するでしょう。なぜなら、何年間もこの格言を口先だけで言う人がいたからです。しかし、わたしは口先だけでこの格言を言ったことなど決してありません。この格言はわたしの心の中にあります。では、その格言とは何でしょうか。それは「神の道を歩め――神を畏れ、悪を避けよ」です。これはあまりにも簡潔な言葉ではありませんか。簡潔でありながらも、この格言を深く理解する人は、それには非常に重みがあり、実践にとって価値が高く、真理現実があるいのちの言葉であり、神を満足させることを追い求める人にとっての生涯の目標であり、神の心意を配慮する人が従うべき生涯の道である、と感じます。あなたがたはどう思いますか。この格言は真理ではないのですか。それほどの重要性がありますか。ありませんか。おそらく、この格言について考えて理解しようとしている人と、疑念さえ抱く人がいるでしょう。この格言はとても重要ですか。重要ですか。それほど強調する必要がありますか。神の道をこの格言一つに集約するというのは簡略化しすぎであると考えるため、この格言がそれほど好きではない人もあなたがたの中にいるかもしれません。神の言葉すべてを一格言に凝縮するのは、神を軽視しすぎではないでしょうか。これは、そういう話ですか。あなたがたのほとんどがこの言葉の深い意義を完全に理解していないかも知れません。あなたがたはみな、この格言を書き留めましたが、心に留めるつもりはないのです。単にノートに書き留めて、時間があるときに読み返すつもりなだけです。記憶しようなどと思わない人さえいて、活用しようと努める人などなおさらいません。ではなぜわたしはこの格言について話しているのですか。あなたがたの観点や、あなたがたの考えることが何であれ、わたしにはこの格言に触れる必要があります。なぜなら、この格言は神がどのように人間の結末を決定するかに極めて密接に関係しているからです。あなたがたが現在この格言をどのように理解し、扱おうと、あなたがたにこれを伝えます。この格言を実践して経験し、神を畏れ悪を避ける基準を満たすことができれば、その人は確実に生き残り、好ましい結末にたどり着きます。一方、この格言が定める基準を満たせなければ、結末は不明であると言うことができます。したがって、あなたがたの心の準備として、また神があなたがたを評価する基準がわかるように、この格言について話します。たった今述べた通り、この格言は神による人類の救いと、また神が人間の結末をどのように決定するかに極めて深く関連しています。どのように関連しているのか、それをあなたがたは心から知りたいでしょうから、今日はそれについて話します。

神は様々な試練を使い、人間が神を畏れ悪を避けているか否かを試す

どの時代においても、神は人間のもとで働くときには、人間に言葉を伝え、なんらかの真理を知らせます。こうした真理は、人間が守るべき道、歩くべき道、神を畏れ悪を避けられるようにする道、生活や人生の旅路において実践し遵守すべき道として機能します。これが神が言葉を与える理由です。神に由来する言葉を人間は守るべきであり、それを守ることはいのちを授かることです。神の言葉を守らず、実行せず、生活において神の言葉を生きなければ、その人は真理を実行していません。そして、真理を実行していなければ、人間は神を畏れ悪を避けておらず、神を満足させることもできません。神を満足させることのできない人は、神の賞賛を得られず、そのような人には良い結末がありません。それでは、神はその働きにおいて、どのように人間の結末を決めるのですか。人間の結末を決めるのに神はどのような方法を使いますか。おそらくあなたがたは、今この問題について明確に理解していないでしょうが、その過程についてわたしが話すと、かなりはっきりします。それは、あなたがたのうち多くの人が既にそれを自ら経験しているからです。

始まりから現在に至るまでの神の働きの過程を通して、神は各人(つまり、神に付き従う一人ひとりと言うことができますが)に試練を定めており、それらの試練の大きさは様々です。自分の家族から拒否される試練を経験した人もいれば、逆境の試練を経験した人、逮捕されて拷問される試練を経験した人、選択を迫られる試練を経験した人、金銭や地位の試練に直面した人もいます。概して、あなたがたそれぞれが、様々な試練を受けたことがあります。神はなぜこのように働くのですか。神はなぜ各人をこのように扱うのですか。神はどのような結果を望んでいるのですか。わたしの話の要点はこれです。すなわち、神はある人が神を畏れ、悪を避けるような人間であるか否かを知りたいのです。これは、神があなたに試練を与え、ある状況にあなたを直面させているとき、神の意図はあなたが神を畏れ、悪を避ける人間であるか否かを試すことだということを意味します。もし誰かが捧げ物を守るという本分を与えられ、そのため神への捧げ物に接することになった場合、あなたはこれは神の采配であると思いますか。疑いなく、その通りです。あなたが直面するあらゆる物事は神の采配です。あなたがこのようなことに直面しているとき、神はあなたを隠れて観察し、あなたがどのような選択をするか、どのように実践するか、あなたにどのような思いがあるかを見ています。神が最も関心を持つのは、最終的な結果です。なぜなら、その結果により、神はあなたがその試練において神の基準に達したかどうかを評価できるからです。しかし、何かの問題に直面しても、人はなぜその問題に直面しているのか、神は人にどのような基準に達することを求めているのか、人の何を評価したいのか、人から何を得たいのかを考えません。人はただ、「これが現在直面していることだ。不注意にならず、注意しなければ。とにかく、これは神への捧げ物だから、触れてはならない」と考えるだけです。そうした安易な考えで、自分の責任を果たしたと考えているのです。この試練の結果に神は満足するでしょうか。しないでしょうか。意見を述べなさい。(人が神様を心から畏れているなら、神様への捧げ物に触れることのできる本分に直面したとき、神様の性質を侵害するのがどれほど簡単かを考えるので、それで間違いなく注意して取り組むことになります。)その発言は正しい方向にありますが、正解には達していません。神の道を歩むことは、表面的な規則に従うことではありません。それは、問題に直面したとき、何よりもまず先に、それを神の采配による状況、神から与えられた責任、あるいは神から委ねられた任務であるとみなすことです。問題に直面したときは、それを神があなたに下した試練であるとすら捉える必要があります。問題に遭遇したとき、あなたの心には基準がなくてはならず、それが神から与えられたものであると考えなくてはなりません。神に忠実でありながら、自分の責任を果たせる形でその問題をどう扱うか、また神の怒りを買ったり神の性質を侵害したりせずにそうする方法を考慮する必要があります。つい先ほど、捧げ物を守ることについて話しました。この問題には捧げ物が関係しており、また本分と責任が関係します。あなたには、その責任について任務が課せられています。しかし、この問題に直面したとき、何らかの誘惑がありますか。あります。その誘惑は何に起因しますか。それはサタンに起因しますが、人間の邪悪で堕落した性質にも起因します。誘惑があるので、このことは人が立てるべき証しに立つことが関与します。このこともまた、あなたの責任であり、本分です。「それは些細なことだ。それほど深刻に捉える必要が本当にあるのだろうか」と言う人がいますが、その必要はあります。というのは、神の道を歩むためには、自分の身に起こることや周囲で起こることは、小さいことでもすべてないがしろにはできないからです。何かに注意するべきであると考えるか否かにかかわらず、問題に直面している限り、それを無視するべきではありません。起こることはすべて神からわたしたちに与えられた試練とみなすべきです。こうしたものの見方をどう思いますか。このような態度をとっているなら、それである事実が確認できます。すなわち、心の奥ではあなたは神を畏れていて、悪を避けることを望んでいるということです。あなたに神を満足させたいという願望があるなら、あなたが実行することは神を畏れ、悪を避ける基準からかけ離れていることはありません。

人がそれほど気にかけないこと、通常は話題とならないことは取るに足らない些細なことで、真理を実践することとは無関係であると考える人がよくいます。そうした人がこのような問題に直面すると、あまり考えず放置します。しかし、実際にはそれは学ぶべき教訓、どのように神を畏れ、悪を避けるかに関する教訓なのです。さらに、それ以上に懸念すべきことは、その問題が発生して自分が直面しているとき、神は何をしているかを知ることです。神はあなたのすぐ側にいて、あなたの言動のひとつひとつを観察し、あなたのすることすべて、あなたの思いにどのような変化が起きるかを観察しています。これが神の働きです。「それが本当なら、わたしがそれを感じないのはなぜだろうか」と言う人がいます。あなたが感じたことがないのは、神を畏れ悪を避ける道をあなたにとって第一の道として守っていないからです。そのため、人の様々な思いや行動に従って現れる、神の人間における微妙な働きを感じることができないのです。あなたは注意力散漫です。大きな問題とは何ですか。小さな問題とは何ですか。神の道を歩むことに関与する問題には、大小の区別はありませんが、このことを受け入れられますか。(受け入れられます。)日常の問題に関しては、人間が重大であると捉えることと、些細であるとみなすことがあります。人間はこうした大きな問題を極めて重要と考え、それが神に与えられたと考えます。しかし、こうした大問題が発生するにつれて、未熟な霊的背丈と貧弱な力量のせいで、人はしばしば神の心意に従うことができず、神の啓示や、価値のある実質的な認識がまったく得られないことが往々にしてあります。些細な問題については、人間に無視され、放置されて徐々に意識からなくなります。そのようにして、人間は神の前で神に検証され、試される数多くの機会を逃しています。神があなたのために采配したこのような人、出来事、物や状況にいつも気づかないとしたら、それは何を意味しますか。それは、毎日、それどころか瞬間瞬間に、神により完全にされることと神の指揮を放棄していることを意味します。神があなたのために一つの状況を手配するたびに、神はあなたの心、思いや考え、どのように考えるかを密かに観察し、あなたがどのように行動するかを見届けようとしています。あなたが不注意な人、すなわち神の道、神の言葉、真理に真剣に取り組んだことがない人であれば、その状況をあなたのために手配したときに神が完全にしたいこと、あなたに要求していることに注意することも、配慮することもありません。また、あなたが遭遇する人、出来事、物が真理や神の心意にどのように関連するかを知ることもありません。このように繰り返し起こる状況や試練に遭遇しても、あなたが何かを達成するのを神が見ることがなければ、神は次にどうしますか。何度試練に遭遇しても、あなたの心は神を崇めず、神があなたのために采配した状況を、神からの試練であり試験としてそのまま受け入れていません。その代わり、神があなたに与えた機会を次々と拒否し、何度も逃がしています。それは人間の極端なまでの反抗ではありませんか。(その通りです。)神はこれで傷つきませんか。(お傷つきになります。)神は傷つきません。わたしがこう言うのを聞いて、あなたがたは再び驚きました。あなたがたは「神はいつも傷ついていると前に言われたのではなかったか。だから、神は傷つくのではないのか。それでは神はいつ傷つくのか」と考えているかもしれません。いずれにせよ、神はこの状況で傷つくことはありません。それでは、上記のようなふるまいに対して神はどのような態度を取りますか。神が人間に与える試練や試験を人間が拒否するときや、人間がそれらを回避するとき、神が彼らに見せる態度はただ一つです。それは何ですか。神は彼らを心の底から拒絶します。ここでは「拒絶」という言葉には二層の意味があります。わたしの観点から、それをどのように説明するべきでしょうか。この言葉の深層には、嫌悪と憎しみの含意があります。もう一つの層についてはどうでしょうか。もう一つには、何かを諦めることがほのめかされています。あなたがたはみな「諦める」の意味を知っていますね。つまり、「拒絶」とは、そのようなふるまいをする人間に対する神の最終的な反応と態度を意味する言葉です。それは、彼らへの極端な憎しみと嫌悪であり、それゆえに彼らを見捨てるという決断へとつながります。これが、神の道を歩んだことがなく、神を畏れ悪を避けたことがない人に対する神の最終的な判断です。これで、先にわたしが説明した格言の重要性が理解できますか。

これで、人間の結末を決めるのに神が用いる方法を理解できましたか。(神様は毎日、様々な状況を手配なさいます。)「毎日、様々な状況を手配する」というのは、人が感じ、触れることです。では、そのようなことをする神の動機は何ですか。それは、各人にそれぞれ異なる時間と場所で様々な試練を与えることです。試練では、人間のどの側面が試されますか。試練は、遭遇し、聞き、見、個人的に経験するあらゆる問題において、あなたが神を畏れ悪を避けるような人であるかどうかを決めます。誰もがこうした試練を経験します。なぜなら、神は万人に対して平等だからです。「わたしは長年にわたって神を信仰しているが、なぜ試練に一度も遭遇していないのだろうか」と言う人がいます。あなたが試練に遭遇したことがないと感じるのは、あなたのために神が状況を手配するたびに、あなたはそれを真剣に捉えず、神の道を歩きたくなかったからです。そうしたわけで、あなたが神の試練に気付かなかっただけです。また、「数回の試練に遭遇したが、どのように適切に実践するべきかわからない。実践しても、自分が試練の中で固く立っていたかどうか、いまだにわからない」と言う人もいます。こうした状況にある人は少なくありません。それでは、神が人間を評価する基準は何ですか。それは先ほど述べた通りです。すなわち、すること、考えること、表現することすべてにおいて、神を畏れ悪を避けるか否かです。これが、あなたが神を畏れ悪を避ける人間であるか否かを判断する方法です。この概念は簡素ですか。簡素ではありませんか。言うのは簡単ですが、実践するのは簡単ですか。(あまり簡単ではありません。)それはなぜですか。(人間は神様を知らず、神様が人間を完全にしてくださる方法を知らないので、物事に対処するときに、問題解決のために真理を求める方法を知らないからです。人間が神様を畏れることの現実性を自分のものにできるまでには、様々な試練、精錬、刑罰、裁きを経験しなければなりません。)あなたがたはそういう言い方をするかもしれませんが、あなたがたに関する限り、神を畏れ悪を避けることはとても簡単で今すぐできそうです。わたしはなぜこう言うのですか。それは、あなたがたは多くの説教を聞き、真理現実からの水やりをかなり受け取っているからです。これにより、あなたがたは、神を畏れ悪を避ける方法を理論的、知的には理解することができているからです。神を畏れ、悪を避けることを実践することに関しては、この知識は極めて効果的であり、このようなことは容易に実行可能だとあなたがたに感じさせます。それでは、なぜ人は実際にはできないのですか。それは、人間の本性実質が神を畏れず、悪を好むからです。それが本当の理由です。

神を畏れず悪を避けないことは、神への反逆

まず、「神を畏れ、悪を避ける」という格言の由来をあなたがたに尋ねます。(ヨブ記です。)ヨブが言及されたので、ヨブについて話しましょう。ヨブの時代に、神は人間を救い征服するために働いていましたか。働いていませんでした。違いますか。さらに、ヨブは当時、神のことをどの程度認識していましたか。(あまり認識していませんでした。)それでは、ヨブの神についての認識と今のあなたがたの認識と比較すると、どうですか。なぜ答えるのをはばかるのですか。ヨブの認識は今のあなたがたより多かったですか、少なかったですか。(少なかったです。)これは答えるのが簡単な質問です。少なかったのです。それは確かです。現在、あなたがたは神と神の言葉と面と向かっています。あなたがたの方が神については、ヨブよりも遥かによく認識しています。なぜわたしはこのことを取り上げるのですか。わたしがこのようなことを言う目的は何ですか。わたしはあなたがたにある事実を説明したいのですが、その前に質問があります。ヨブは神のことをほとんど知りませんでしたが、それでも神を畏れ悪を避けることができました。それでは、現在の人間にそれができないのはなぜですか。(深く堕落しているからです。)「深く堕落している」のは、問題を起こしている表面的な現象ですが、わたしはそのことを決してそのようには見ません。あなたがたは、「深い堕落」や「神への反逆」「神に対する不誠実」「不従順」「真理を愛していない」など、一般によく言われる教義や字句をしばしば取り上げて、それらの決まり文句を使ってすべての問題の本質を説明しようとします。これは誤った実践の仕方です。性質が異なる様々な問題を説明するのに同じ語句を用いるというのは、必然的に真理や神への冒涜の疑いを生じさせます。わたしは、そのような回答を聞きたくありません。このことをじっくり考えなさい。あなたがたのうち誰もこの問題を考えたことがありませんが、わたしにはそれが毎日見え、感じられます。あなたがたが行動するあいだ、わたしは見ているのです。何かをしているとき、あなたがたにはその本質を感じることはできません。しかし、わたしが見ると、わたしには本質が見え、感じることができます。その本質とは何ですか。なぜ現在の人は、神を畏れ悪を避けることができないのですか。あなたがたの回答では、この質問の本質を説明することは到底できず、問題の本質を解決することもできません。なぜなら、問題にはあなたがたが知らない根源があるからです。その根源とは何ですか。あなたがたがそれについて聞きたいことはわかっていますので、この問題の根源について話します。

神が働きを開始して以来、神は人間をどのように見なしてきましたか。神は人間を救済しました。つまり、神は人間を神の家族の一員、神の働きの対象、征服し救いたい存在、完全にしたい対象と見なしました。神が働きを始めた当時の神の人間への態度は、このようなものでした。しかし、当時の人間の神への態度はどうでしたか。神は人間にとって疎遠で、人間は神を見知らぬものとみなしました。人間の神に対する態度は正しい成果を得られず、人間は神への接し方を明確に知らなかったと言うことができます。そこで、人間は神を自分の好きなように扱い、好きなことを行ないました。人間には神について意見がありましたか。当初は、ありませんでした。人間が意見と呼んでいたものは、単に神に関する観念や思い込みでした。人間は自分の観念に当てはまるものを受け入れ、観念に該当しないものについては、表面上は従ったものの、心の奥では強く反感を抱き、反対しました。これが当初の人間と神の関係でした。つまり、神は人間を家族とみなしましたが、人間は神を見知らぬ存在として扱ったのです。しかし、一定期間にわたる神の働きの後、人間は神が何を実現しようとしているのかを理解するようになり、神が真の神であることを知りました。また、神から何を得ることができるかも、人間にはわかるようになりました。当時、人間は神をどのようにみなしていましたか。人間は神を命綱とみなし、神の恵みと祝福、約束を得ることを願っていました。その頃、神は人間をどのようにみなしていましたか。神は人間を征服対象と見なしていました。神は言葉により人間を裁き、試し、試練を与えることを望みました。しかし、この時点の人間にとっては、神は自分の目標を達成するために利用できるものでした。人間は、神が告知した真理は人間を征服し救えること、そして人間には神から自分が受け取りたいもの、自分が欲する終着点を得る機会があることを知りました。そのため、人間の心には僅かな誠意が生まれ、この神に付き従ってもよいと思うようになりました。しばらくして、神に関する表面的な教義上の知識を得たため、人間は次第に神と、神の語る言葉、神の教え、神が与えた真理、神の業に徐々に「馴染んで」いったと言えます。したがって、神が見知らぬ存在ではなくなり、神と融和するようになる道を人間はすでに歩み始めた、と誤解するようになりました。現在まで、人間は真理に関する説教を数多く聞き、神の働きを数多く体験してきました。しかし、様々な要素や状況による干渉や妨害を受け、大部分の人はうまく真理を実践することも、神を満足させることもできません。人間は益々怠惰になり、自信を喪失しています。自分の結末が不明であるという感覚が強まるのを感じています。人間は敢えて遠大な理念を持つことなく、進歩しようとしません。不本意ながら付き従い、一歩ずつ前進するだけです。現在の人間の状態について、神の人間に対する態度はどのようなものですか。神はただそうした真理を人間に与え、人間に神の道を浸透させ、様々な方法で人間を試すために様々な状況を用意したいだけなのです。神の目標は、そうした言葉、真理、業により、人間が神を畏れ悪を避けることができるような結末をもたらすことです。わたしが見てきた大部分の人は、神の言葉を単に教義、字句、従うべき規則とみなしているだけです。言動において、あるいは試練に直面しているとき、このような人は神の道を遵守すべき唯一の道とみなしません。人間が大きな試練に直面したときは、特にそうです。そのようなときに神を畏れ、悪を避ける方向で実践している人をわたしは見たことがありません。そのため、神の人間に対する態度は、激しい嫌悪と反感に満ちているのです。神が人間に繰り返し、時には数百回にわたって試練を与えても、「わたしは神を畏れ、悪を避けたい」という決意を証明する明らかな姿勢が人間には見られません。人間にはこの決意が欠けており、またそのような意思表示をしないので、神の人間に対する現在の態度は、神が憐れみや寛容、忍耐や我慢を示していた過去の姿勢と同じではありません。むしろ、神は人間に極めて深く落胆しています。こうした落胆の原因となるのは、誰ですか。神の人間への態度を左右するのは誰ですか。それは、神に付き従う一人ひとりの人間です。長年におよぶ働きのなかで、神は人間に数多くのことを要求し、人間のために様々な状況を手配してきました。しかし、人間が何をし、神にどのような態度を取るにせよ、神を畏れ悪を避けるという目標に明白に従って実践できていません。したがって、あるまとめの文章を挙げて、その文章を用いて、これまで話した、なぜ人間は神を畏れ悪を避けるという神の道を歩むことができないのか、ということについてすべて説明します。その文章はどのようなものですか。それは、これです。「神は人間を神の救いの対象、神の働きの対象とみなす。人間は神を自分の敵、正反対のものとみなす」。今では、これについて明確に理解していますか。人間の態度とは、神の態度とは、人間と神の関係とは何かは、極めて明瞭です。どれほど数多くの説教を聞いたとしても、あなたがたが自分で結論付けたこと、すなわち神に忠実であること、神に従うこと、神と融和する道を求めること、生涯を神のために捧げようとすること、神のために生きることなどは、わたしにとっては、意識的に神の道を歩むこと、つまり神を畏れ悪を避けることの具体例ではなく、あなたがたが特定の目的を達成することができる道筋にすぎません。目的を達成するために、あなたがたは不本意ながら規則に従うのです。そして、まさにこのような規則こそが、神を畏れ悪を避ける道から人間を遠く引き離し、神を人類に反対する立場に再び置くのです。

今日の話題は、多少重いですが、どのようなものであれ、今後の経験において、わたしがたった今述べたことをあなたがたが実行できることを願っています。神を空気のように、自分に都合の良いときだけ存在し、それ以外のときは存在しないもののようにみなしてはなりません。ひとたび意識下にそのような思いを持つと、すでに神を激怒させているのです。おそらく「神を空気とみなしたことはないし、常に神に祈り、神を満足させようとしている。自分の行動はすべて神の要求する範囲、基準、原則に該当する。独自の考えで実践していないのは絶対だ」と言う人がいるかも知れません。確かに、この実践方法は正しいです。しかし、何らかの問題に直面したとき、どう思いますか。問題に直面したら、どのように実行しますか。神に祈り、願い事をしているときには神の存在を感じるけれど、問題に直面するたびに、自分の考えを持ち、それに固執したがる人がいます。これは、神を空気のような存在とみなすことで、こうした状況では神は人の考えでは存在しなくなります。人間は、神は自分が必要なときに存在すべきで、不要なときは存在すべきでないと、自分の考えに従って実践すれば、それで十分であると考えます。自分の好きなように何でもできると考えているのです。神の道を求める必要があるとは、どうしても考えないのです。現在こうした状況になり、こうした状態から出られなくなっている人は、危険を自ら招いているのではありませんか。「危険を自ら招いていようといまいと、自分は長年にわたり信仰を続けてきたし、神に見捨てられることはないと思う。なぜなら、わたしを見捨てることなど神には耐えられないので」と言う人がいます。また、「自分が母親の胎内にいたときから、通算四十から五十年間、主を信じてきた。時間に関して言えば、神に救われ、生き残る資格が最もある。この四、五十年間に、家族も仕事も捨てた。金銭や地位、楽しみや家族で過ごす時間など、持っていたものすべてを捨てた。贅沢な食事をしたこともなく、楽しみに興じたこともない。あちこちおもしろい場所を訪ねたこともない。しかも、普通の人には耐えきれないような苦悩も経験してきた。それでも神がわたしを救えないとしたら、わたしは不当に扱われていることになり、そのような神は信じられない」と言う人もいます。このような考え方の人は多くいますか。(はい。)それでは、今日、あなたがたがある事実を理解できるようにしてあげます。こうした考え方の人はみな、自分の首を絞めるようなことをしているのです。なぜなら、想像で自分の目を覆っているからです。まさに人間の想像、人間による勝手な結論が、神が人間に満たすことを要求する基準に取って代わり、神の真の心意を受け入れるのを阻害しています。それにより、人間は神の真の存在を感じられないようになり、神に完全にされる機会を喪失し、神の約束にあずかることも関与することもできなくなるのです。

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。