日々の神の御言葉: 神の働きを認識する | 抜粋 155

経営の働きは、ひとえに人類のゆえに生じたのであり、そのことは、ひとえに人間の存在のゆえに経営の働きが生じたことを意味している。人類が存在する以前、あるいは天地と万物が創られた始まりの時には、経営はなかった。仮に神の働きのすべてにおいて、人間にとって有益な実践がなかったならば、つまり神が堕落した人類にふさわしい要求をしなかったならば(神によって行なわれた働きの中に、人間の実践に適した道がなかったならば)、その働きは神の経営とは呼べないだろう。神の働き全体に含まれるのが、堕落した人類に実践の取り組み方を教えることだけで、神が自身の事業を一切行なわず、神の全能や知恵をほんの少しも示さなかったとしたら、人間に対する神の要求がどれほど高度であっても、また神が人間のあいだでどれほど長く生活したとしても、人は神の性質について何も知ることがないだろう。そうした場合、この種の働きはなおさら、神の経営と呼ばれる価値がないだろう。簡単に言えば、神の経営の働きは、神によって行なわれる働きであり、神の導きの下で行なわれるすべての働きは、神に得られた者たちによってなされるのである。そうした働きは、経営という一言で要約することが可能である。言い換えると、人間のあいだにおける神の働き、および神に従うすべての者たちによる神への協力が、経営と総称されるのである。ここでは、神の働きをビジョンと呼び、人間の協力を実践と呼ぶ。神の働きが高度であればあるほど(つまりビジョンが高度であればあるほど)、神の性質が人間にとっていっそう明白となる。そして、それが人間の観念にそぐわなければそぐわないほど、人間の実践と協力はさらに高度になる。人間に対する要求が高ければ高いほど、神の働きは人間の観念にそぐわないものとなり、その結果、人間の試練と、人間が満たすよう要求される基準もまたより高くなる。この働きが完了するときには、すべてのビジョンが完成され、人間が実践するよう求められることは、完全の極みに達するだろう。これはまた、各人が種類に応じて分類されるときでもある。なぜなら、人間が知るよう求められていることは、このときすでに人間に示されているからである。したがって、ビジョンが絶頂に達するとき、働きもそれに従って終わりを迎え、人間の実践もまた頂点に達するだろう。人間の実践は神の働きを基にしており、神の経営は、人間の実践と協力があって初めて完全に表される。人間は神の働きの傑作であり、神による経営の働き全体の目的であり、また神の経営全体の産物でもある。仮に人間の協力がなく、神が単独で働きを行なうなら、神の働き全体の結晶として機能するものはなく、神の経営にほんの少しの意義もないだろう。神の働きを除くと、適切な対象を選んで自身の働きを表し、その全能と知恵を証明することでのみ、神は自身の経営の目的を達成し、この働きのすべてを用いてサタンを完全に打倒するという目的を達成することが可能となる。したがって、人間は、神の経営の働きにおいて不可欠な部分であり、神の経営を結実させ、その最終目的を達成に導ける唯一の存在である。人間以外に、そうした役割を担える生物は存在しない。人間が神による経営の働きの真の結晶となるには、堕落した人類の不従順を完全に一掃しなければならない。それには、人間が様々な場合に適した実践を与えられ、また、それに対応する働きを神が人間のあいだで行なうことが要求される。このようにしてのみ、神による経営の働きの結晶たる人々の集団を得ることができる。人間のあいだでなされる神の働きは、それだけでは、神自身を証しすることができない。そうした証しを実現するには、神の働きに適した生きている人間が必要である。神は、まずこれらの人々に対して働きを行なう。すると彼らを通じて神の働きが表わされ、そのようにして、神のこのような証しが被造物のあいだでなされるのである。そして、この点において、神は自身の働きの目的を達成することになる。神はサタンを打ち負かすにあたり、単独で働きを行なうことはしない。なぜなら、神はあらゆる被造物のあいだで、自身を直接証しすることができないからである。仮に神がそうするならば、人間を完全に確信させることは不可能である。ゆえに神は、人間を征服するにあたり、人間に対して働きを行なわなければならず、そうして初めてすべての被造物のあいだで証しを得ることができるようになる。働きを行なうのが神だけで、人間の協力がなく、また人間の協力が要求されないなら、人間は決して神の性質を知ることができず、神の旨に永遠に気づかないだろう。すると、神の働きを、神の経営の働きと呼ぶことはできないだろう。神の働きを理解することなく、人間自身だけが懸命に努力して、求め、必死に働くならば、人間はいたずらをしているようなものである。聖霊の働きがなければ、人間が行なうことはサタンのものであり、人間は反抗的であり、悪を行なう者である。堕落した人類によってなされるすべてのことの中にサタンが示され、神と相容れることは一切なく、人間が行なうことはどれもサタンの表われとなる。これまでに語られてきたすべてのことのうち、ビジョンと実践を含まないものは一切ない。人間は、自分の観念を捨てて従来備えていなかったものを得られるように、ビジョンという基礎の上に実践と、服従への道を見つける。神は、人間が神に協力すること、人間が神の要求に完全に服従することを求める。そして人間は、神自身によってなされる働きを目の当たりにすること、神の全能の力を経験すること、そして神の性質を知ることを求める。要約すると、これらが神の経営である。神が人間と一体となることが経営であり、それは最も偉大な経営である。

『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻)より

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