日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 196

 次のテーマは効力者の生死の周期に関するものです。効力者の由来については先ほど話しました。つまり、こうした効力者は以前の生涯で未信者や動物になってから、生まれ変わったのです。働きの最終段階が始まると、神は未信者の中からこうした人の一団を選びますが、この集団は特別な存在です。神がこれらの人たちを選ぶのは、彼らを神の働きに奉仕させるのが目的です。「奉仕」という言葉は、それほど美しいものでも、誰かが望むようなものでもありませんが、わたしたちはその対象となる人に目を向けるべきです。神の効力者の存在には特別な意義があります。効力者は神に選ばれた人たちなので、その役割を果たせる人は他にいません。では、これら効力者の役割は何ですか。それは神の選民に奉仕することです。大半の場合、効力者の役割は神の働きに奉仕し、それと協調し、神が選民を完全なものにするのを助けることです。効力者が働いているか、何らかの側面の働きを行っているか、ある種の任務を遂行しているかを問わず、神がこれら効力者に対して要求しているのは何ですか。神は効力者に多くのことを求めていますか。(いいえ、神は効力者が忠実であることしかお求めになりません。)効力者もまた忠実でなければなりません。あなたの由来や、神があなたを選んだ理由を問わず、あなたは神に忠実でなくてはならず、また神があなたに託した使命、あなたが担当する仕事、そしてあなたが尽くす本分に対しても、忠実でなければなりません。忠実で神を満足させられる効力者について、その結末はどのようなものになりますか。こうした効力者は留まることができます。留まる効力者であることは祝福ですか。留まるとは何を意味しますか。その祝福の意義はどのようなものですか。効力者の地位は神の選民の地位と異なるように思われます。しかし実際には、効力者がその生涯において享受するものは、神の選民が享受するものと同じではないのですか。少なくとも、その生涯において享受するものは同じです。それは否定できませんね。神の発する言葉、神の恵み、神の施し、そして神の祝福を享受しない人がいるでしょうか。誰もがそうした豊かさを享受します。効力者の身分は奉仕する人ですが、神にとっては自ら造った万物のひとつに過ぎず、単にその人の役割が効力者であるというだけです。効力者と神の選民はいずれも神の創造物ですが、両者の間に何らかの違いはありますか。事実上、違いはありません。名目上は違いがあり、その本質、そしてその人が果たす役割において違いがあるのですが、神はこの人々の集団を不公平に扱いません。それでは、これらの人々が効力者に定められているのはなぜですか。それについて、あなたがたは理解しなければいけません。効力者は未信者から生じます。効力者は未信者から生じると話したとたん、効力者はよくない背景をもっていることが明らかになります。彼らはみな無神論者であり、過去においてもそうでした。彼らは神を信じず、神、真理、そして肯定的なすべての物事に敵意を抱いていました。神を信じることも、神の存在を信じることもなかったのです。それならば、効力者は神の言葉を理解できますか。大まかに言えば、理解できないと言って構いません。動物が人間の言葉を理解できないように、効力者は神が何を言っているのか、何を求めているのか、なぜそのような要求をするのかが理解できないのです。これらのことは効力者にとって理解不能であり、依然として啓かれていないままです。そのため、これらの人たちはこれまで語ってきたいのちをもっていません。いのちなくして、人は真理を理解できますか。真理を備えていますか。神の言葉に関する経験や認識がありますか。(ありません。)これが効力者の由来です。しかし、神はこうした人々を効力者とするので、神の効力者に対する要求にはやはり基準があります。神は効力者を無下にすることも、いい加減に扱うこともありません。効力者は神の言葉を理解できず、いのちがないにもかかわらず、神は依然として効力者を親切に扱い、また効力者に対する神の要求には基準があります。その基準は先ほど話したとおりです。つまり、神に忠実であること、神の言葉に従うことです。奉仕を行うにあたっては、必要とされる場所で奉仕しなくてはならず、最後まで奉仕しなければなりません。あなたが忠実な効力者になって最後の最後まで奉仕することができ、また神から託された使命を完全に果たせるなら、あなたは価値のある人生を送ります。価値ある人生を送れるなら、あなたは留まることができます。それに加えてもう少し努力し、懸命に試み、神を知ろうとする取り組みを強化し、神を知ることについて多少は語ることができ、神の証しをすることが可能で、さらには神の旨について何かしら理解し、神の働きに協力でき、神の旨を多少なりとも心に留めることができるなら、効力者であるあなたは運命の変化を経験するでしょう。では、その運命の変化とは何ですか。単に留まれるだけではなくなるのです。あなたの行動、そして個人的な熱意と追求に応じ、神はあなたを選民の一人にします。これがあなたの運命の変化です。効力者にとって、この変化による最大の利益は何ですか。それは、神の選民になれるということです。神の選民になることは、未信者のように動物として生まれ変わることがもはやなくなることを意味します。これはよいことではありませんか。これはまたよき知らせでもあります。それは、効力者が形作られることを意味するのです。奉仕するよう神によって定められた効力者が、永遠にそうし続けるということはありません。必ずしもそうではないのです。神はその人の行いに適した形で、彼らを扱い、彼らに対処します。

 とは言え、最後まで奉仕できない効力者もいます。奉仕の途中で諦め、神を捨てる人もいれば、複数の悪事を犯す人もいるのです。さらには、神の働きに甚大な害と損失を与える人、神を呪う効力者さえいます。そうした取り返しのつかない結果は、何を指し示しますか。こうした邪悪な行いは、奉仕の中断に結びつきます。奉仕における行いがあまりに悪く、度が過ぎたので、あなたの奉仕が基準以下であることを知った神は、あなたから奉仕する資格を剥奪し、これ以上あなたが奉仕するのを許さず、あなたを神の眼前、神の家から排除します。あなたは奉仕したくないのですか。絶えず悪事を犯したがっているのではないですか。一貫して不忠ではないのですか。そうであれば、簡単な解決策があります。あなたから奉仕する資格を剥奪するのです。神にとって、効力者から奉仕する資格を剥奪することは、その効力者が終わりを宣告されたことを意味します。こうした効力者はもはや神に奉仕する資格をもたず、神はその人の奉仕を必要としなくなり、その人がいかに美辞麗句を並べても無駄なのです。物事がここまで達すると、状況を元通りにするのは不可能です。そうした効力者は後戻りできないのです。では、神はこうした効力者をどのように取り扱いますか。単に奉仕をやめさせるだけですか。そのようなことはありません。単に留まらせないようにするだけですか。あるいは、そうした人たちを一箇所に集め、改心するのを待ちますか。それも違います。実のところ、相手が効力者になると、神はそこまで愛情深くありません。ある人が神に奉仕する際にそうした態度をとる場合、神はその態度の結果として、その人から奉仕する資格を剥奪し、再び未信者の中に放り込みます。それでは、未信者の中に放り込まれた効力者の運命は、どのようなものですか。その運命は未信者のそれと同じであり、動物として生まれ変わり、霊界で未信者と同じ懲罰を受けます。さらに、神はその人の懲罰に対し、個人的な関心を示しません。なぜなら、そのような人はもはや神の働きと何の関係もないからです。それは、その人にとって神を信仰する生活の終焉となるだけでなく、その人自身の運命の終焉であり、その人の運命の宣告でもあります。ゆえに、効力者の奉仕がよくなければ、その人は自分自身でその結果を背負わなければならないのです。効力者が最後まで奉仕できなかった場合、あるいは途中で奉仕する資格を剥奪された場合、その人は未信者の中に放り込まれます。そうなれば、その人は家畜と同じように、あるいは知性や理性のない人々と同じように扱われます。このように説明すれば、あなたがたにも理解できますね。

 以上が、神の選民と効力者の生死の周期を神が取り扱う方法です。それを聞いて、あなたがたはどう感じますか。わたしが以前にこの事項を話したことはありますか。神の選民と効力者という主題を語ったことはありますか。実はあるのですが、あなたがたは覚えていません。神は、神の選民と効力者に対して義です。あらゆる点で神は義なのです。違いますか。そのことに疑問の余地はありますか。中には、「神が選民に対してこれほど寛容なのはなぜか。また神が効力者に対し、少ししか寛容でないのはなぜか」と言う人がいるのではないでしょうか。効力者の肩を持ちたい人はいますか。「神は効力者にもっと時間を与え、もう少し寛容であることができないのか」と疑問の声をあげるのは正しいことですか。(正しくありません。)どうして正しくないのですか。(効力者にされただけでも、私たちに厚意が示されたからです。)効力者は奉仕することを許されただけでも、厚意を示されたのです。「効力者」という呼び名も、効力者が行う働きもなかったとしたら、それらの人々はどこにいるでしょうか。未信者の中にいて、家畜とともに生き、そして死ぬでしょう。神の前、神の家に来ることが許されている効力者は、今日何と大きな恵みを享受しているのでしょう。これは並外れて大きな恵みです。神があなたに奉仕する機会を与えなかったとしたら、あなたには神の前に来る機会が一切なかったはずです。少なくとも、あなたが仏教徒であって、解脱を成し遂げたとしても、せいぜい霊界の使い走りとなる程度です。神に会うことも、神の声や言葉を聞くこともなく、神の愛と祝福を感じることもなければ、神と対面することもまずできないでしょう。仏教徒には単純な任務しかありません。仏教徒はとうてい神を知ることができず、無闇に服従するだけですが、効力者は働きのこの段階においてとても多くのものを得ます。まず、効力者は神と対面し、神の声と言葉を聞き、神が人々に授ける恵みと祝福を体験することができます。さらに、効力者は神から施される言葉や真理を享受することができます。効力者は実に多くのものを得るのです。したがって、あなたが効力者として正しく力を尽くすことさえできなければ、神はあなたを効力者として留めることができますか。神はあなたを留めておけません。神はあなたに多くを求めないのに、あなたは神が求めていることを何一つ正しく行わず、自分の本分を遵守したこともありません。ゆえに、神は疑問の余地なくあなたを留めておくことができないのです。これが神の義なる性質です。神があなたを甘やかすことはありませんが、あなたを差別することもありません。神はこれらの原則に従って行動します。神はすべての人と被造物をこのような形で扱うのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 10」(『言葉』第2巻)より

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