神の働きと人間の実践(後半)

神の働きがある段階に達し、神の経営がある段階に達するとき、神の心にかなう者たちはみな、神の要求を満たすことができる。神は自身の基準と、人間が達成可能なことに従って、人間に対する要求を行なう。神は、自身の経営について話しつつ、それと同時に人間のために道を示し、人間に生存への道を与える。神の経営と人間の実践は、いずれも働きの同じ段階であり、同時に実施される。神の経営に関する話は、人間の性質の変化に関するものであり、人間がなすべきことと人間の性質の変化についての話は神の働きに関するものである。両者が切り離されることは一切ない。人間の実践は一歩一歩変化している。それは、人間に対する神の要求もまた変化しており、神の働きは常に変化し、前進しているからである。人間の実践が教義に囚われているままであれば、それは人間が神の働きと導きを失ったことを証明している。人間の実践が一切変わることも深まることもないのであれば、それは人間の実践が人間の意志に沿って実行されており、真理の実践ではないことを証明している。人間に歩むべき道がないならば、その人はすでにサタンの手中に落ち、サタンにより支配されており、それは、その人が悪霊に支配されていることを意味する。人間の実践が深まらないのであれば、神の働きが発展することはない。また神の働きに変化がなければ、人間の入りは止まることになる。それは避けられないことである。神の働き全体を通して、人間が常にヤーウェの律法を守っていたなら、神の働きは前進できなかっただろうし、ましてや時代全体に終止符を打つなど不可能だろう。人間が絶えず十字架に固執し、忍耐と謙遜を実践していたならば、神の働きが前進し続けることは不可能だろう。律法を守るだけの人々、十字架に固執し、忍耐と謙遜を実践しているだけの人々のあいだで、六千年におよぶ経営を終わらせることは決してできない。その一方、神を知り、サタンの手から取り戻され、サタンの影響から完全に脱した、終わりの日の人々のあいだでは、神による経営の働き全体が完結する。これが避けることのできない、神の働きの進路である。宗教の教会にいる者の実践が旧態化していると言われているのはなぜか。それは、彼らの実践していることが、今日の働きから切り離されているからである。恵みの時代においては、彼らが実践していたことは正しかったが、その時代が過ぎ去り、神の働きが変化するにつれて、彼らの実践は次第に旧態化していった。それは新たな働きと光に置き去りにされてしまったのである。聖霊の働きは、元来の基礎の上で、さらに何段階か深化している。しかし、それらの人々は、神の働きの元来の段階に留まったままで、旧来の実践と古い光をいまだに固守している。神の働きは3年ないし5年で大きな変化を遂げることがある。それならば、二千年のあいだにさらに大きな変化が起こるはずではないだろうか。人間に新たな光も実践もないならば、それは人間が聖霊の働きに追いついていないことを意味している。これは人間の失敗である。神の新たな働きの存在は否定できない。なぜなら、現在において、以前に聖霊の働きがあった者たちは、依然として旧態化した実践を守っているからである。聖霊の働きは常に前進しており、聖霊の流れの中にいるすべての者たちもまた一歩一歩、さらに深く前進し、変化しているはずである。彼らは、ある段階で止まるべきではない。聖霊の働きを知らない者たちだけが、元来の働きの中に留まり、聖霊の新たな働きを受け入れない。不従順な者たちだけが聖霊の働きを得られないだろう。人間の実践が聖霊の新たな働きと歩調を合わせていないならば、それは今日の働きから間違いなく分離しており、今日の働きと相容れないことも確実である。このような旧態化した人々は、神の旨を成し遂げることが決してできず、まして最後に神の証しに立つ人々には決してなれないだろう。さらに、経営の働き全体を、こうした人々の一群のあいだで完結させることは不可能だろう。かつてヤーウェの律法を遵守していた者と、十字架のために苦しんだ者たちについて言えば、終わりの日の働きの段階を受け入れられないなら、彼らが行なったことはすべて無に帰し、無駄になるであろう。聖霊の働きの最も明瞭な表われは、現状を受け入れることであり、過去にしがみ付くことではない。現在の働きに追いついておらず、今日の実践から切り離されてしまった人々は、聖霊の働きに反抗し、それを受け入れない者たちである。このような人々は、神の現在の働きに背いている。彼らは過去の光にしがみ付くけれども、彼らが聖霊の働きを知らないことは否定できない。人間の実践における変化の話、過去の実践と現在の実践との違いの話、前の時代に実践がどう行なわれていたかの話、そして今日それがどのように行なわれているかの話を、これまで延々としてきたのはなぜか。人間の実践におけるそうした分割は、常に語られてきたが、それは聖霊の働きが常に前進しており、したがって人間の実践もまた常に変化することを求められているからである。人間がある段階に留まったままならば、それはその人が神の新たな働きと新たな光に追いつけないことを証明しているのであって、神の経営計画が変化しなかったことを証明しているのではない。聖霊の流れの外にいる者は、常に自分が正しいと考えるが、実際は、彼らにおける神の働きは遠い昔に停止しており、彼らには聖霊の働きが存在しない。神の働きはずっと前に、それとは別の人々の集団、すなわち神が新たな働きを完成させようと意図している集団に移された。宗教の中にいる者たちは神の新たな働きを受け入れることができず、過去の古い働きに固守するだけなので、神はこれらの人々を見捨て、新たな働きを受け入れる人々に対してこの新たな働きを行なう。これらの人々は神の新たな働きにおいて協力する者たちであり、このような形でのみ、神の経営計画を成し遂げることができる。神の経営は常に前進しており、人間の実践は絶えず高度化している。神は常に働きを行なっており、人間がいつでも必要とされているので、両者とも頂点に達し、神と人間は完全に一体となる。これこそが神の働きの成果の表われであり、神の経営全体の最終結果である。

神の働きの各段階には、それに対応する人間への要求もある。聖霊の流れの中にいる者たちはみな、聖霊の臨在と鍛錬を有しており、聖霊の流れの中にいない者たちはサタンの支配下にあり、聖霊の働きが一切ない。聖霊の流れの中にいる人々は、神の新たな働きを受け入れ、神の新たな働きの中で協力する者である。現在において、その流れの中にいる者たちが協力できず、そのとき神に要求された通りに真理を実践できないとすれば、そうした者は懲らしめられ、最悪の場合は聖霊に見捨てられる。聖霊の新たな働きを受け入れる者は聖霊の流れの中で生き、聖霊の気遣いと加護を授かる。進んで真理を実践する者は、聖霊により啓かれ、進んで真理を実践しない者は、聖霊に懲らしめられ、罰せられることすらあるだろう。どのような種類の人間であれ、そうした者が聖霊の流れの中にいる限り、新たな働きを神の名のために受け入れるすべての者に対して、神は責任を負う。神の名をたたえ、進んで神の言葉を実践する者は、神の祝福を得る。神に服従せず、神の言葉を実践しない者は、神の懲罰を受ける。聖霊の流れの中にいる人々は、新たな働きを受け入れる者であり、新たな働きを受け入れた以上、神に正しく協力すべきであり、自らの本分を尽くさない反逆者のように振る舞ってはならない。人間に対する神の要求はこれだけである。しかし、新たな働きを受け入れない者たちについては、この限りではない。彼らは聖霊の流れの外にいるので、聖霊の懲らしめや咎めは適用されない。そうした者たちは肉の中で一日中生活し、自分の頭脳の中で暮らすのであって、そうした者たちの行動はすべて、自分の脳による分析と研究から生み出された教義に沿ったものである。それは聖霊の新たな働きが求めることではなく、ましてや神との協力などではない。神の新たな働きを受け入れない者には神の臨在がなく、それ以上に、神の祝福と加護が一切ない。そうした者たちの言動の大半は、聖霊の働きによる過去の要求に固執している。それらは教義であり、真理ではない。そうした教義や規則は、それらの人々の集まりが宗教以外の何物でもないことを証明するのに十分である。そうした者は選民でも神の働きの対象でもない。そうした者たちの会合は、宗教の総会としか言いようがなく、教会とは呼べない。これは変えようのない事実である。そうした者たちには聖霊の新たな働きがない。彼らのなすことには宗教の匂いがあり、彼らの生は宗教の色彩を帯びている。そうした者たちには聖霊の臨在と働きがなく、ましてや聖霊の鍛錬と啓きを受ける資格などない。これらの人々は、全員いのちのない屍であり、霊のない蛆虫である。彼らには人間の反逆や反抗、人間による様々な悪行に関する認識が一切なく、ましてや神の働きや神の現在の旨などまったく知らない。彼らはみな無知で下劣な人間であり、信者と呼ばれるに相応しくないくずである。彼らが行なってきたことに、神の経営に関連する事柄は一切なく、ましてや神の計画を損なうことなどできない。彼らの言動は過度に不快で惨めすぎ、触れる価値などまったくない。聖霊の流れの中にいない者によってなされたことは、どれも聖霊の新たな働きと無関係である。そのため、そうした者たちが何をしようと、彼らには聖霊の鍛錬がなく、それ以上に、聖霊の啓きもない。なぜなら、彼らはみな真理への愛を持たない者たちであり、聖霊から忌み嫌われ、見捨てられた者たちだからである。彼らは悪を行なう者と呼ばれる。なぜなら、彼らは肉において歩み、神の看板の下に、自分を喜ばせることなら何でも行なうからである。神が働きを行なう間、そうした者たちは神に対してわざと敵意を抱き、神と正反対の方向へ走る。人間が神と協力しないことは、それ自体が最も反逆的なことなので、神にわざと逆らうそうした人々は特に然るべき報いを受けるのではないだろうか。そうした人々の悪事について言及するなら、彼らを呪いたくてたまらない人もいるが、神はそうした者たちを無視する。人間にとって、彼らの行為は神の名に関わるもののように思われるが、実際のところ、神にとってそれらの行為は、神の名や神の証しとは何の関係もない。これらの人々が何をしようと、それは神と無関係であり、神の名とも、神の現在の働きとも無関係である。このような人々は自分自身を辱め、サタンを表わしている。彼らは怒りの日に向けて貯め込んでいる、悪事を行なう者たちである。今日、そうした者がどういった行動をとろうと、神の経営を阻害せず、神の新たな働きと無関係である限り、相応の報いを受けることはない。なぜなら、怒りの日はまだ到来していないからである。神がすでに取り扱ったはずだと人々が思っていることは多数あり、それら悪事を行なう者はできるだけ早く報いを受けるべきだと、人々は考えている。しかし、神の経営の働きはまだ終結しておらず、怒りの日もまだ到来していないので、不義なる者は不義な行ないを続ける。「宗教の中にいる人々には、聖霊の臨在や働きがなく、神の名を辱める。それでは、神はなぜ彼らを滅ぼさず、彼らの奔放な振る舞いをいまだ許容しているのか」と言う人がいる。サタンの表われであり、肉を表わすこれらの人々は、無知で卑劣な者たちであり、愚か者である。彼らは、神が人間のあいだでどのように働きを行なうかを理解するようになるのに先立ち、神の怒りの到来を目の当たりにすることはなく、ひとたび完全に征服されると、それら悪事を行なう者たちは、全員報いを受け、一人として怒りの日を逃れることができない。現在は人間の懲罰の時ではなく、征服の働きを実行する時であるが、神の経営を阻害する者がいればこの限りでなく、その場合、そうした者たちは、行動のひどさに応じた懲罰を受ける。神が人類を経営しているあいだ、聖霊の流れの中にいる者たちはみな神と関係している。聖霊に忌み嫌われ、見捨てられた者たちは、サタンの影響下で生き、彼らが実践することは、神とまったく関係がない。神の新たな働きを受け入れ、神と協力する者だけが、神と関係がある。なぜなら、神の働きは、それを受け入れるかどうかにかかわらず、すべての人ではなく、それを受け入れる者たちだけを対象とするからである。神が行なう働きには常に目的があり、気まぐれになされるのではない。サタンと関係している者たちは、神の証しをするのにふさわしくなく、ましてや神と協力するのにふさわしいはずがない。

聖霊の働きの各段階は、人間の証しも必要とする。働きの各段階は、神とサタンとの戦いであり、その戦いの対象はサタンである一方、その働きによって完全にされるのは人間である。神の働きが実を結ぶかどうかは、人間がどのように神の証しを行なうかによって決まる。この証しは、神に従う者に対して神が要求することであり、それはサタンの前でなされる証しであって、神の働きの成果を証明するものでもある。神の経営全体は三段階に分割され、各段階において、人間に対して適切な要求がなされる。さらに、時代が過ぎ去り進行してゆくにつれ、全人類に対する神の要求はより高くなる。このようにして、神によるこの経営の働きは、人間が「言葉は肉において現われる」という事実を目の当たりにするまで、一歩ずつ絶頂に達する。そしてこのような形で、人間に対する要求がいっそう高くなり、人間が証しすることへの要求もさらに高度化する。人間が神と真に協力できればできるほど、神はますます栄光を得る。人間の協力とは、人間が行なう必要のある証しであり、人間が行なう証しは、人間による実践である。ゆえに、神の働きが然るべき成果を得られるかどうか、真の証しが存在し得るかどうかは、人間による協力と証しに密接に結びついている。働きが終わる時、つまり神による経営のすべてが終わりに達するとき、人間はより高い証しをするよう要求される。そして神の働きが終わりを迎えるとき、人間の実践と入りは頂点に達する。過去において、人間は律法と戒めに従うことを要求され、忍耐強く謙虚であることを求められた。現在、人間は神の采配のすべてに従い、神への至高の愛を備えるよう求められており、最終的には患難のただ中でも神を愛することを要求される。これら三つの段階こそが、神が自身の経営全体にわたって、段階ごとに人間に要求することである。神の働きの各段階は、その前の段階よりも一層深くなり、各段階における人間に対する要求は、その前の段階よりも一層深遠であり、神の経営全体はそのようにして次第に形を成す。人間の性質が神の要求する基準にますます近づくのはまさに、人間に対する要求がさらに高くなってゆくからであり、そのとき初めて、神の働きが完全に終わりを迎え、全人類がサタンの影響から救われるまで、人類は次第にサタンの影響から離れてゆく。その時になると、神の働きは終結し、人間の性質を変化させるために行なわれる、人間による神への協力が終わり、全人類が神の光の中で生き、それ以後は神への反抗や反逆がなくなる。また、神は人間に対して何も要求しなくなり、人間と神とのあいだには、一層調和の取れた協力、つまり人間と神が共にある生活、神の経営が完全に終結し、人間が神によってサタンの手から完全に救われた後に到来する生活がある。神の歩調にしっかり従えない者たちは、そうした生活を得ることができない。彼らは自ら闇へと沈み、そこで泣いて歯ぎしりする。彼らは神を信じているが神に従わず、神を信じているが神の働きのすべてに従わない者である。神を信じている以上、人間は神の歩調に一歩ずつしっかり従わなければならない。人間は「子羊が行く所はどこへでもついて行く」べきなのである。このような者たちだけが真の道を求める人々であり、聖霊の働きを知っている者である。奴隷のように文字や教義に従う人々は、聖霊の働きによって淘汰された者である。各期間において、神は新たな働きを開始し、また各期間において、人間には新たな始まりがある。もしも人間が、「ヤーウェは神である」または「イエスはキリストである」というような、それぞれに時代にのみ当てはまる真理に従うだけであれば、人間は聖霊の働きと歩調を合わせることが決してできず、聖霊の働きを得ることも永遠にできない。神がどのように働くかにかかわらず、人間はほんの僅かも疑うことなく、しっかりとついて行く。このようにすれば、どうして人間が聖霊によって淘汰されることがあるだろうか。神が何を行なうかにかかわらず、それが聖霊の働きであることを人間が確信し、疑念を抱くことなく聖霊の働きに協力し、神の要求を満たそうとする限り、どうして人間が罰せられることがあるだろうか。神の働きは一度も停止したことがなく、神の歩みも止まったことがない。また神の経営の働きが完了するのに先立ち、神は常に忙しく、休んだことがない。しかし、人間は違う。人間は、ほんの少し聖霊の働きを得ただけで、あたかもそれが決して変わらないかのように扱う。人間は、わずかに知識を得ただけで、より新しい神の働きの歩みに進んでついて行こうとしない。人間は、わずかな神の働きを見ただけで、すぐに神を一種の木の人形のように決めつけ、神はいつまでも人間の見るこの形のままであり、過去も未来も常にそのような形であると信じる。人間は、表面的な知識だけを得て、誇らしくなって我を忘れ、まったく存在しない神の性質や在り方をみだりに主張する。そして聖霊の働きの一段階について確信するあまり、神の新たな働きを宣べ伝えるのがどのような人であれ、人間はそれを受け入れない。これらの者たちは、聖霊の新たな働きを受け入れることができない人々である。彼らはあまりに保守的で、新しい物事を受け入れられない。このような人々は、神を信じてはいるが、神を拒む者たちである。人間は、イスラエルの民が「ヤーウェを信じるだけでイエスを信じなかった」のは間違っていたと信じているが、大多数の人々が「ヤーウェを信じるだけでイエスを拒む」という役、そして「メシアの再来を切望するがイエスというメシアには反対する」という役を演じている。それならば、聖霊の働きの一段階を受け入れた後も、人間が依然としてサタンの支配下で生き、依然として神の祝福を受けていなくても何ら不思議ではない。これは、人間の反抗心の結果ではなかろうか。現在の新たな働きに追いついていない世界各地のクリスチャンはみな、神が自分たちの望みを一つひとつかなえてくれると思い込み、自分たちは幸運であるという希望にしがみついている。しかし、神が自分たちを第三の天へと引き上げるのはなぜかを、確信を持って述べることはできず、白い雲に乗ったイエスがどのようにして自分たちを引き上げに来るかについても確信しておらず、ましてや自分たちが想像している日に、本当にイエスが白い雲に乗って到来するかどうかも断言できずにいる。彼らはみな不安であり、途方にくれている。自分たち、すなわち各教派から来た一握りの様々な者たちを、神が一人ひとり引き上げるかどうかさえ知らない。神が現在行なっている働き、今の時代、そして神の旨――彼らはそれらの事柄を一切把握しておらず、その日を指折り数えることしかできない。子羊の歩みに最後まで従う者のみが、最終的な祝福を得られる。一方、最後まで従えないにもかかわらず、自分はすべてを得たと信じている「賢い人々」は、神の出現を証しすることができない。彼らの一人ひとりが、自分は地上で最も賢い人間だと信じており、神の働きの継続的な発展を何の理由もなく中断させ、「この上なく神に忠実で、神に従い、神の言葉を守る」自分たちを神は天に引き上げると、絶対的な確信を持って信じているようである。彼らは、神が語った言葉に対して「この上なく忠実」であるにもかかわらず、彼らの言動は極めて忌まわしい。なぜなら、彼らは聖霊の働きに逆らい、欺瞞や悪を犯すからである。最後まで従わない者、聖霊の働きと歩調を合わせられない者、旧来の働きにしがみ付くだけの者は、神への忠誠を果たせなかったどころか、神に逆らう者となり、新たな時代に拒絶され、罰せられる者となった。これ以上哀れなことがあるだろうか。多くの人たちが、古い律法を拒んで新たな働きを受け入れる者はみな、良心がないとさえ信じている。「良心」についての話をするだけで、聖霊の働きを知らないそれらの人々は、最終的に自らの良心によって前途を絶たれる。神の働きが教義に従うことはなく、またそれは神自身の働きかもしれないが、神がそれに固執することはない。否定されるべきことは否定され、淘汰されるべきものは淘汰される。しかし人間は、神の経営の働きのほんの一部に固執し、自ら神に敵対している。それは人間の愚かしさではなかろうか。それは人間の無知ではなかろうか。人間が神の祝福を得られないことを恐れて臆病になり、用心し過ぎればし過ぎるほど、より大きな祝福を得ることと、最後の祝福を受けることがますます不可能となる。奴隷のように律法を守っている人はみな、律法に対してこの上ない忠誠を示している。そして律法に対してこのような忠誠を示せば示すほど、彼らは一層神に逆らう反逆者となる。というのは、今は律法の時代ではなく、神の国の時代であり、現在の働きと過去の働きを同じ言葉で語ることはできず、過去の働きを現在の働きと比較することもできないからである。神の働きは変化しており、人間の実践もまた変化した。それは、律法にしがみつくことでも、十字架を背負うことでもない。ゆえに、律法や十字架に対する人間の忠誠が、神に認められることはないのである。

神の国の時代において、人間は徹底的に完全にされる。征服の働きの後、人間は精錬と患難を受ける。この患難のさなかに勝利し、証しに立つことができる者たちこそ、最終的に完全にされる者である。彼らは勝利者である。この患難のあいだ、人間はこの精錬を受け入れる必要があり、その精錬は神の働きの最後の実例である。それは、神の経営の働きがすべて完結する前に人間が精錬される最後の時である。そして神に従う者はみな、この最後の試験を受け入れなければならず、この最後の精錬を受け入れなければならない。患難に苦しむ者に聖霊の働きと神の導きはないが、真に征服され、神を真に追い求める者たちは、最後に揺るぎなく立つ。彼らは、人間性を備え、神を真に愛する者たちである。神がどのように働こうが、これらの勝利者は証しを怠ることなく、ビジョンを失わずになおも真理を実践する。彼らは大いなる患難から最終的に脱け出す者たちである。荒れた海で漁をする者たちは今でも居候できるものの、最後の患難から逃れられる者は一人もおらず、最後の試験から逃れられる者も誰一人いない。勝利する者にとって、そうした患難は極めて大きな精錬である。しかし、荒れた海で漁をする者にとって、それは完全なる淘汰の働きである。彼らがどのようにして試されるとしても、心の中に神がいる者の忠誠は変わることがない。しかし、心の中に神がいない者たちは、神の働きが自分の肉に有利でないならば、神に対する見方を変え、神のもとを離れさえする。これが、最後に揺るぎなく立てず、神の祝福を求めるだけで、神のために自分を費やし、神に自分自身を捧げる意欲が一切ない者である。このような下劣な人々は、神の働きが終わりを迎えるときに全員追放され、同情にも値しない。人間性が欠如している者たちは、神を真に愛することができない。状況が安全で平穏なとき、あるいは得られる利益があるとき、彼らは神に対して完全に従順であるが、ひとたび自分の望みが損なわれたり、最終的に否定されたりすると、彼らはただちに反乱を起こす。ほんのひと晩のうちに、彼らはにこやかで「心優しい」人間から、醜く残忍な殺人者となり、何の理由もなく、昨日までの恩人を生かしておけない敵として扱う。瞬きもせずに殺しを行なうこれらの悪魔らが追放されていないなら、それらは隠れた危険になるのではないか。人間を救う働きは、征服の働きが完了した後には実現しない。征服の働きが終わったとしても、人間を清める働きは終わっていない。そうした働きは、人間が完全に清められ、真に神に服従する者が完全にされ、自分の心に神がいない見せかけだけの者たちが取り除かれたとき初めて完了する。神の働きの最終段階において神を満足させない者たちは完全に淘汰され、淘汰される者たちは悪魔のものである。彼らは神を満足させることができず、神に対して反抗するので、たとえこれらの人々が現在神に従っていても、彼らが最後に残る者であるという証明にはならない。「神に最後まで従う者は救われる」という言葉の中の「従う」は、患難の中でも揺るぎなく立つことを意味する。現在、多くの者たちが、神に付き従うのは簡単だと思っているが、神の働きが終わりを迎えようとしているときこそ、あなたは「従う」という言葉の真意を知るだろう。征服された後の現在も、依然として神に従えるからといって、あなたが完全にされる者たちの一人であることの証明にはならない。試練に耐えられない者、患難のただ中で勝利することができない者は、最終的に揺るぎなく立つことができず、ゆえに最後まで神に従うことができない。真に神に従う者たちは、自分の働きの試験に耐えられるが、真に神に従わない者たちは、神のいかなる試練にも耐えることができない。遅かれ早かれ、彼らは追放されるが、勝利者は神の国に留まる。人間が真に神を求めているかどうかは、その人の働きの試験、すなわち神の試練により判断されるのであり、それは人間自身の判断とは無関係である。神が誰かを気まぐれに拒むことはない。神が行なうすべてのことは、人間を完全に確信させられる。神は、人間に見えないことや、人間を確信させることができない働きを一切行なわない。人間の信仰が真実であるかどうかは、事実によって証明され、人間が決めることはできない。「麦を毒麦に変えることはできず、毒麦を麦に変えることもできない」という言葉に疑いの余地はない。神を真に愛する者たちはみな最終的に神の国に留まり、神を真に愛する者を神が不公平に扱うことはない。神の国の中の勝利者たちは、その様々な役割と証しに応じて、祭司として、あるいは信者として仕えることになる。また患難のただ中で勝利した者たちは、みな神の国で祭司の集団となる。祭司の集団は全宇宙における福音の働きが終わったときに形成される。その時が到来すると、人間がなすべきことは、神の国において自分の本分を尽くし、神と共に神の国で生活することとなる。祭司の集団の中には、祭司長と祭司がいて、それ以外の者は神の子、神の民となる。これはすべて患難のあいだの神への証しによって決定される。それらは気まぐれで与えられた称号ではない。ひとたび人間の地位が確立すれば、神の働きは停止する。なぜなら、各人が種類に応じて分類され、それぞれの本来の地位に戻されるからであり、それは神の働きの成果のしるし、神の働きと人間の実践の最終結果、そして神の働きのビジョンと人間の協力の結晶だからである。最後に人間は神の国で安息を得て、神もまた自らの住まいに戻って休息する。これが神と人間との六千年にわたる協力の最終結果である。

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

関連記事