神を愛することだけが本当に神を信じることである(前半)

今日、あなたがたが神を愛し、知ろうとする時、ある意味であなたがたは困難と純化に耐えなければならず、別の意味では、代償を払わなければならない。神を愛することから学ぶ教訓ほど意味の深い教訓はなく、人々が生涯抱き続けた信仰から学ぶ教訓は、いかに神を愛するかであると言える。つまり、神を信じるなら、神を愛さなければならない。神を信じるだけで、神を愛さず、神についての認識を獲得しておらず、心の底から湧き上がる本当の愛で神を愛したことがなければ、神に対するあなたの信仰は無益である。神を信じていても神を愛さなければ、あなたは無駄に生きていることになり、あなたの全人生はあらゆる人間の人生の中で最も低いものになる。あなたが生涯を通じて神を愛することも、神に満足してもらうこともなかったら、あなたが生きていることの意味は何なのだろう。あなたが神を信じることの意味は何なのだろう。それは無駄な努力ではないだろうか。つまり、人々が神を信じ、愛するつもりならば、代償を払わなければならない。何らかのやり方で外へ向かって行動しようとするよりはむしろ、彼らは自分の心の奥底にある本当の見識を求めるべきである。あなたが歌やダンスに夢中になっていても、真理を実践することができなければ、あなたが神を愛していると言えるだろうか。神を愛するには、あらゆる事において神の心を求めることが必要で、しかもあなたに何かが起きた時には心の中で深く探り、神の心を把握し、この件に関する神の心は何か、神はあなたに何を達成して欲しいのか、どのように神の心を覚えるべきかを知ろうとしなければならない。例えば、あなたが困難に耐えなければならない何かが生じたら、その時、あなたは神の心が何であるか、どのように神の心を大切にするかを理解するべきである。自分自身を満足させてはならない。まず自分自身のことは脇へどけておきなさい。肉体ほど卑しむべきものはない。あなたは神に満足してもらおうとしなければならないし、あなたの本分を果たさなければならない。そのように考えていれば、神はこの件に関してあなたに特別な啓発を与え、あなたの心も安心するだろう。大きくても小さくても、あなたに何かが起きた時、あなたはまず自分自身は脇にどけて、肉体はすべての物事の中で最も卑しいものとみなさなければならない。あなたが肉体を満足させればさせるほど、肉体はますます勝手な行動をとる。今回肉体を満足させると、次回はさらに欲望が大きくなり、このまま続くと、あなたは肉体をさらに愛するようになる。肉体はいつも途方もない欲望を持っており、いつもあなたに肉体を満足させることを要求する。それが食べ物や着る物に関することだろうと、自制心を失わせ、自身の弱さや怠惰に付け込むことであろうと、あなたが心の中でそれを満足させることを要求する。あなたが肉体を満足させればさせるほど、その欲望は大きくなり、肉体はますます堕落して、ついには人々の肉体は一層深い概念を心に抱き、神に背き、得意になり、神の働きに疑いを持つようになる。あなたが肉体を満足させればさせるほど、肉体の弱点は大きくなる。あなたはいつも、だれも自分の弱点に同情してくれないと感じ、あなたはいつも、神のやり方は行き過ぎたと決めつけ、次のように言う。「どうして神はそのように厳しいのだろう。なぜ神は人々に休息を与えないのだろう」。人々が肉体に甘くなりすぎ、あまりにも大切に扱うと、彼らは自分自身を失う。あなたが本当に神を愛し、肉体を満足させたりしなければ、神の行いのすべては正しく、優れており、あなたの反抗に対する神の呪いやあなたの不正に対する神の裁きは正当であることがわかるだろう。神があなたを懲らしめたり罰したりする時や、あなたを鍛える環境を作りあげて、あなたを神の前に立たせる時があるだろう――そしてあなたはいつも神が行っていることは素晴らしいと感じるだろう。従って、あなたは、あまり苦痛はないかのように感じ、神はとても愛に満ちていると感じるだろう。あなたが肉体の弱点に迎合し、神のやり方は行き過ぎたと言うなら、あなたはいつも苦痛を感じ、いつも意気消沈していて、神の働きのすべてについて曖昧になり、あたかも神は人の弱点にはまったく同情せず、人の困難には気付かないかのように感じられる。したがって、あなたはあたかもひどい不正に苦しんでいるかのように、みじめで孤独な気分になり、この時不平を言い始めるだろう。このようにあなたが肉体の弱点に迎合すればするほど、ますます神のやり方は行き過ぎた感じ、ついに事態は悪化し、神の働きを拒絶し、神に反対し始め、まったく不従順になる。したがって、あなたは肉体に反抗しなければならず、迎合してはならない。あなたの夫、妻、子供たち、将来の見通し、結婚、家族——これらはどれも問題ではない。あなたは次の決意をする必要がある。「わたしの心の中には神しかいない。わたしは神に満足していただくために最善を尽くさなければならず、肉体を満足させてはならない」。あなたがこのような決意をいつも持っていれば、真理を実践し、自分自身は脇にどけておこうとする時、あなたはほんの少しの努力でそれが実践できるだろう。昔、路上で凍って硬直している蛇を見た一人の農夫の話しがある。農夫は蛇を拾い上げ、抱きしめたが、蛇は息を吹き返すと農夫をかみ殺してしまった。人の肉体はこの蛇に似ており、本質は人のいのちに害を与えることである――肉体が好き放題になれば、あなたのいのちは取り上げられてしまう。肉体はサタンに属している。肉体の中には途方もない願望があり、肉体は己のことだけを考え、快適さを享受し、余暇を大いに楽しむことを望み、怠慢と無為にふけるので、ある程度まで肉体を満足させると、あなたは最後には肉体に食べ尽くされてしまう。つまり、あなたが今回肉体を満足させるなら、次回はもっと要求するだろう。肉体はいつも途方もない欲望と新しい要求を持っており、あなたが肉体に迎合するのを利用し、あなたが肉体を一層大事にし、肉体の快適さの中で生きるように仕向ける――あなたが肉体に打ち勝たなければ、あなたは最後には自分自身を失うだろう。あなたが神の前でいのちを得られるかどうか、あなたの最終的結末はどうなるか、それはあなたが肉体にどのように反抗するかにかかっている。神はあなたを救い、選び、運命づけたが、その一方で、あなたが神に満足してもらうことを嫌がり、真理を実践することを嫌がり、神を本当に愛する心を持ってあなた自身の肉体に反抗することを嫌がるならば、最後にはあなたは身を滅ぼし、従って極度の痛みに耐えることになるだろう。あなたがいつも肉体に迎合していると、サタンが次第にあなたを内側から食べ尽くし、あなたを完全にいのちのない、あるいは霊との接触のない状態のままにしてしまい、ついにはあなたの心の中が完全に暗黒になる日が来る。あなたが暗黒の中で生きていると、サタンのとりこになり、もはや神を持たなくなり、その時あなたは神の存在を否定し、神を離れる。従って、あなたが神を愛したいなら、痛みの代償を払い、困難に耐えなければならない。熱心さや困難を表立って示すことも、読書量を増やしたり、さらに走り回ったりする必要はなく、それどころか、あなたは自分の心の中にあるもの、つまり、途方もない考え、個人的利益、あなた自身の判断、概念、動機付けなどを脇にどけるべきである。これが神の心である。

人々の外面的性質を取り扱うことも神の働きの一部である。例えば、人々の外面の異常な人間性、あるいはライフスタイルや個人的習慣、生活様式や慣習、ならびに外面的実践や熱心さなどを、神は取り扱う。しかし、神が人々に真理を実践し、性質を変えるよう要求する時、主に取り扱われるのは彼らの心の中の動機付けと概念である。あなたの外面的性質を取り扱うだけなら難しくはない。それはあなたに好きなものを食べるなと要求するようなもので簡単である。しかし、あなたの心の中の概念に触れるものを取り除くのは簡単ではない。そのためには、あなたは肉体に反抗し、代償を払い、神の前で苦しまなければならない。これは人々の動機付けに関し特に当てはまる。神を信じた時から今日まで、人々は多くの間違った動機付けを心に抱いてきた。真理を実践していない時、あなたは自分の動機付けのすべては正しいと感じているが、自分に何かが起こると、あなたは自分の中には間違った動機付けがたくさんあることがわかる。従って、神が人々を全き者にする時、神は彼らの神に関する認識を妨害する概念が彼らの中にはたくさんあることに気付かせる。動機付けが間違っていることを認めた時、あなたは自分の概念や動機付けに従って実践するのをやめることができ、神へ証しをすることができ、そして自分に起こるすべてのことにおいて自己の立場を守ることができるなら、これはあなたが肉体に反抗したことの証明となる。あなたが肉体に反抗する時、あなたの中では必然的に戦いが生じる。サタンはあなたを肉体に従わせようとし、肉体の概念に従い、肉体の利益を維持させようとする――しかし、神の言葉はあなたの目を開き、心の中に光を当てる。この時、神に従うか、サタンに従うかはあなた次第である。神は人々に真理を実践に移すよう要求するが、それは心の中の問題に焦点を当て、神の心に従っていない考えや概念を取り扱うためである。聖霊は人々の心の内部に触れ、彼らの心の中で神の働きを実行するので、起こることすべての背後には戦いがある。人々が真理を実践するたびに、あるいは神への愛を実践するたびに、激しい戦いがあり、すべては肉体と折り合いを付けているように見えるかもしれないが、実のところ、彼らの心の奥底では生と死の戦いが起こりつつあり――この激し戦いの後、膨大な量の熟考をした後ようやく、勝利か敗北かが決められる。人は笑うべきか、泣くべきかわからない。人々の中の動機付けは、その多くが間違っているので、あるいは神の働きの多くは人々の概念と食い違っているので、人々が真理を実践に移す時、激しい戦いが舞台裏では行われる。この真理を実践に移した後、最後に神を満足させる決心をする前に、舞台裏で人々は悲しみの涙を数えきれないほど流すだろう。人々が苦しみや純化に耐えるのはこの戦いのためである。これは本当の苦しみである。戦いになった時、あなたが本当に神の側に立つことができれば、あなたは神に満足してもらうことができる。真理を実践する過程で苦しむことは避けられない。人々が真理を実践する時、彼らの心の中のすべてが正しかったら、彼らは神によって全き者にされる必要はなく、戦いもなく、彼らは苦しまないだろう。人々の心の中には神が使用するのに適さないものがたくさんあり、肉体の反抗的性質も多いので、人々は肉体に反抗する教訓をもっと深く学ぶ必要がある。これは神が受難と呼ぶもので、神と共に経験することを神は人に要求した。あなたが困難に出会ったら、急いで神に次のように祈りなさい。「おお、神様。わたしはあなたに満足して頂きたいのです。わたしはあなたの心が満足するために最後の困難に耐えたいです。そしてわたしが出会う挫折がどんなに大きくても、わたしはあなたに満足して頂かなければなりません。たとえわたしの全人生を諦めなければならないとしても、わたしはあなたに満足して頂かなければなりません」。この決意を持って、あなたが祈る時、あなたは固く証しに立つことができる。人々が真理を実践するたびに、試練を受けるたびに、試されるたびに、そして神の働きが彼らに及ぶたびに、人々は激しい痛みに耐える。このすべては人々に対する試練であり、そのため彼らすべての心の中では戦いがある。これは彼らが支払う実際の代償である。神の言葉をさらに読み、さらに走り回ることは多少の代償である。それは人々がしなければならないこと、彼らの本分、彼らが果たすべき責任であり、心の中にあって脇にどけておく必要のあるものは、どけなければならない。さもなければあなたの外面的苦しみがいかに大きくても、どんなにあなたが走り回ろうとも、すべては無駄になるだろう。つまり、あなたの心の中を変えることだけがあなたの外面的困難に価値があるかどうかを決定することができる。あなたの内面的性質が変わり、あなたが真理を実践した時、あなたの外面的苦しみは神の承認を得られる。あなたの内面的性質に変化がまったくなければ、いかに苦しみに耐えようとも、外面から見ていかに走り回ろうとも、神からの承認はない――そして神が確認しない困難は無駄である。従って、あなたが払う代償に価値があるかどうかは、あなたの心の中で変化があったかどうか、あなたが真理を実践して、神の心の満足を獲得し、神に関する認識や神に対する忠誠心を得るためにあなた自身の動機付けや概念に反抗するかどうかによって決定される。どんなにあなたが走り回ろうとも、自分自身の動機付けに決して反抗せず、外面的行動や熱心さを追い求めるだけで、あなたのいのちに全く注意を払わなければ、あなたの受難は無駄なことになるだろう。一定の環境下であなたには何か言いたいことがあっても、心の中でそれは正しくなく、あなたの兄弟姉妹のためにならないし、彼らを傷つけるかもしれないと感じているなら、あなたはそれを言わず、むしろ自分の中で苦しんでいるほうを好むだろう。これらの言葉は神の心を満足させることはできないからである。この時、あなたの中では戦いがあるだろうが、あなたは進んで痛みに苦しみ、あなたが愛するものを断念し、神を満足させるためにこの困難に進んで耐えるだろう。あなたは心の中で痛みに苦しむだろうが、肉体に迎合することはなく、神の心は満たされるので、あなたも癒されるだろう。これが本当に代償を払っていることであり、神が希望する代償である。あなたがこのように実践すれば、神は必ずあなたを祝福するであろう。これを達成できなければ、あなたがどんなに理解しても、いかにうまく話すことができようと、すべては無益である。神を愛する道を歩んでいる途上で、神がサタンと戦う時にあなたが神の側に立つことができ、サタンの方へ後戻りしないならば、あなたは神への愛を獲得し、固く立って証しをするだろう。

『言葉は肉において現れる』より引用

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