日々の神の御言葉: 神の性質、および神が所有するものと神そのもの | 抜粋 247

人々は、神は義なる神であり、人間が最後まで神に付き従う限り、神は最も義である故に、神は人間に対して公平であると言う。人間が最後まで神に付き従ったならば、神は人間を退けられるであろうか。わたしは全ての者に対して公平であり、全ての者を自分の義なる性質により裁くが、わたしは人間に対する要求に適切な条件を設けており、誰でも人間は、皆わたしの要求を満たす必要がある。わたしは、あなたの資格がどれほど多く立派であるかは気にせず、あなたがわたしの道を歩んでいるか、真理を愛し、渇望しているかどうかだけを勘案する。あなたに真理が無くわたしの名を辱め、わたしの道に従って行動せず、注意や配慮なく、単に付き従うだけであれば、わたしはその時あなたの邪悪のためにあなたを打ち倒し、罰するであろう。その時、あなたは何と言うであろうか。あなたは、神は義ではないと言えるであろうか。現在、あなたがわたしの言葉に応じているならば、あなたはわたしが認めるような人間である。あなたは、常に神に付き従いつつ苦難を受け、良い時も悪い時も神に付き従い、神と苦楽を共にしてきたと言うが、あなたは神の言葉を行動で示しておらず、毎日神の後を追いかけることだけを望み、有意義な人生を送ることについて考えたことが無い。とにかく、あなたは神が義であると信じている、と言う。あなたは神のために苦難を受け、神のために奔走し、自分を神に捧げ、褒賞を受けないにもかかわらず努力を続けてきたが、神は確かにあなたを覚えている。神は義であるというのは正しいが、その義はいかなる不浄にも汚されていない。その義には人間の意志が一切含まれておらず、肉や人間の取引に汚されてもいない。反抗的で反逆的であり、神の道を遵守しない者は皆、懲罰を与えられ、誰も赦されず、誰も容赦されないであろう。「今日、私はあなたのために走り回っていますが、終わりに日が来たとき、あなたは私に少しばかりの祝福を与えて下さるでしょうか。」と言う者も居る。そこで、わたしはあなたに尋ねるが「あなたはわたしの言葉に従ったであろうか。」あなたの言う義は、取引に基づいている。あなたは、わたしが義であり、全ての者に公平であり、最後までわたしに付き従う者は、確実に救われてわたしの祝福を得るとだけ考えている。「最後までわたしに付き従う者は、確実に救われる」というわたしの言葉には内在する意味がある。つまり、最後までわたしに付き従う者は、完全にわたしにより得られるであろう者であり、わたしに征服された後に真理を求め、完全にされた者である。あなたが満たした条件は、何であろうか。あなたが満たしたのは、最後までわたしに付き従うことのみであるが、そのほかに何があるだろうか。あなたはわたしの言葉を遵守しただろうか。あなたは、5つあるわたしの要求のうち、1つを満たしたが、残り4つを満たす意志は全く無い。あなたは、単に最も手軽で簡単な道を見いだし、それを追求しつつ、自分が幸運だと思っている。あなたのような者に対するわたしの義なる性質は、刑罰と裁きであり、それは義なる報いであり、邪悪を行う者全員に対する義なる懲罰である。わたしの道を歩まない者は、その者が最後まで付き従ったとしても、全員確実に懲罰を受けるであろう。これが神の義である。この義なる性質が人間の罰において表される時、人間は茫然として、神に付き従いつつ、神の道を歩まなかったことを悔いる。その時、その者は神に付き従いつつ多少の苦難を受けたが、神の道を歩まなかった。どのような申し開きがあるだろうか。刑罰を与えられるのは不可避である。しかし、その者は心の中で「いずれにせよ私は最後まで付き従ったのだから、あなたが私に刑罰を与えられたとしても、それは厳しすぎる刑罰ではあり得ないでしょう。そしてその刑罰を与えた後も、あなたは私を求めるでしょう。私は、あなたが義であられ、私を永遠にそのように扱われないことは知っています。結局、私は排除されるような者ではありません。排除される者は厳罰を受けますが、私の刑罰はそれよりも軽いでしょう。」と考える。神の義なる性質は、あなたの言うようなものではない。自分の罪を告解することが上手な者が寛容に取り扱われるということは無い。義は聖さであり、人間の侵害を容赦しない性質であり、したがって不浄な物事や変化していない物事の全てが、神の嫌悪の対象となる。神の義なる性質は、法ではなく、行政命令である。それは神の国の中の行政命令であり、その行政命令は、真理を備えて居らず、変化していない者全ての義なる罰であり、救いの余地は無い。人間がひとりずつ区分される時、善良な者は報償を受け、邪悪な者は罰を受ける。この時、人間の終着点が明確にされ、救いの業が終わり、人間を救う業はそれ以後行われず、邪悪を行った者全てに懲罰が与えられる。

『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)より

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