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人の子は安息日の主である

20

1.そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。(マタイによる福音書12:1)

2.「あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である。」(マタイによる福音書12:6-8)

まず、「そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。」という聖句を検討する。まず、「そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。」という聖句を検討する。

この聖句を選んだのは何故か。この聖句と神の性質には、どのような関連があるだろうか。この聖句で最初に気付くのは、これが安息日であるにもかかわらず、主イエスは外出し、弟子達を率いて麦畑を歩いていることである。さらに「法外」なこととして、「穂を摘んで食べはじめた」のである。律法時代において、ヤーウェ神の律法では、安息日に何気なく外出したり、何らかの活動に参加したりすることはできなかった。安息日にしてはならないことが沢山あったのである。主イエスのこうした行動は、長く律法の下で生活していた者にとっては不可解であり、非難に値するものでさえあった。ここでは人々の困惑や、イエスの行動について人々がどのように語ったかについては検討せず、まず主イエスがとりわけ安息日にこうした行動を取ったのは何故か、またそうした行動により、律法に従って生活していた人々に伝えたかったことは何かについて検討する。ここで議論したい神の性質とこの聖句の関連性が、ここにある。

主イエスが来た時、イエスは実践的行動により人々と対話した。神は律法の時代を離れ、新たな業を開始し、その新たな業では、安息日を守る必要がなかった。神が安息日の制限から解放された時、それは神の新たな業の前兆でしかなく、神の真に偉大な業は、引き続きその後に行われた。主イエスが業を始めた時、イエスは律法時代の制約を既に過去のものとし、律法時代の規制と原則を破っていた。イエスには、律法に関連する部分が全く見られなかった。イエスは律法を完全に捨て去り、それを守ることはなく、律法を守ることを人間に要求しなかった。そうしたわけで、ここでは主イエスが安息日に麦畑を歩いていた、すなわち休まずに外出して活動していたのである。こうしたイエスの行動により人々の考え方に対して衝撃が与えられ、イエスはもはや律法に従っていないこと、神は安息日の制限を破棄し、新たな印象と新たな業の実行方法とともに人間の前に現れたことが伝えられた。こうしたイエスの行動により、神は律法や安息日から解放されることから始まる、新たな業を人々に伝えた。神が新たな業を行った時、神は過去に固執せず、神は律法時代の規則を懸念することがなかった。また、神は従前の時代の業に影響されることもなく、安息日に通常通り活動し、弟子たちは空腹となった時、麦の穂を摘んで食べることができた。こうしたことは、神にとって至って普通であると考えられた。神は、行うことを望んでいた業や、伝えるべき沢山の言葉に対して、新たな始まりを迎えることができた。神は、新たな始まりを迎えた後には、従前の業について述べることも、それを継続することもない。神の業には原則がある。神が新たな業を始めることを望んだ時は、神が人間を新たな業へと移行させることを望み、神の業が一層高度な段階に達している時である。人々が旧来の言い習わしや規則に従って行動を続けたり、そうした事柄を守り続けたりした場合、神はそれを祝福することも讃えることもないであろう。なぜなら、神は既に新たな業を行っており、業の新たな段階へと移行しているからである。神が新たな業を開始したとき、神の性質や神の中にある物事、神の存在に関する様々な側面を人々が理解できるように、神は人間に対して全く新しい側面から、全く新たな印象とともに、全く新しい方法で現れる。これが、神の新たな業の目的のひとつである。神は従来の常套的方法に留まることがなく、神が業を行い、言葉を伝える時、神は人間が想像するほど制約的ではない。神においては、全てが自由であり、開放されており、阻害的な要因や束縛は全く存在しない。神が人間に授ける物事は、すべて自由であり、開放されている。神は生きている神であり、実際に存在する存在である。神は操り人形でも粘土像でもなく、人間が祭る偶像とは全く異なる存在である。神は生きており、活気に満ち、神の言葉や業により人間に授けるのは、命と光、自由と開放である。なぜなら、神は真理、命、そして道を持っており、神は神の業において、いかなる物事にも制約されないからである。人間が何を言おうと、神の新たな業を人間がどう見るか、どう評価するかを問わず、神は何ら不安に感じることなく、業を行う。神は、神の業や言葉に対する人間の考えや批判、さらに強い反感や反抗を懸念することはない。人間的な理由や想像、知識、倫理により、神の業の評価や定義をしたり、神の業に対する信頼性を傷つけたり、混乱させたり、妨害を行うことができる者は、誰も居ない。神の業に制約的部分は一切なく、また業が人間や物事による阻害を受けることはなく、また神と敵対する勢力により混乱させられることもない。神の新たな業において、神は永遠に勝利を続ける王であり、敵対する勢力や、異端の者、人間による詭弁は、すべて神の足台の下で踏みにじられる。神が、業のどの段階を新たに行っているかを問わず、その段階は神の大いなる業が完了するまで、必ず人間界において展開され、拡張され、さらに全宇宙において妨害されることなく必ず実行されなければならない。これが神の全能と知恵、そして権威と力である。したがって主イエスは安息日に隠し立てすることなく外出して活動することが可能であった。なぜなら、主の心には規則が皆無であり、また人間から出た知識も教義も皆無だからである。イエスにあったのは新たな業と新たな方法であり、またイエスの業は、人間を自由にし、解放し、人間が光のなかに存在できるようにし、生きることができるようにする道であった。そして、偶像や偽の神を崇拝する者は、サタンの呪縛を受け、様々な規則や禁忌の制約を受けながら日々を過ごす。今日は何かが禁止されているが、明日はまた別の何かが禁止され、こうした者の生活に自由はない。こうした者は手かせ、足かせをされ、喜びについて何ら語ることがない、囚人さながらである。「禁制」とは何であろうか。それは、制約、束縛、そして邪悪である。ある者が偶像を崇拝するということは、とりもなおさず偽の神を崇拝し、悪霊を崇拝することである。そうした崇拝には制約が伴う。あれとこれを食べてはいけない、今日は外出できない、明日はコンロを点けてはならない、その翌日は転居してはならない、婚礼や葬儀、さらにお産まで、特定の日を選ぶ必要がある。こうした状況を何というか。こうした状況を「禁制」という。禁制は人間による呪縛であり、サタンの手かせ、足かせであり、邪悪な霊がそれを支配し、人間の心身を束縛する。こうした禁制が、神に存在するであろうか。神の聖なる存在について述べる場合、神には禁制が皆無であることを、まず考える必要がある。神の言葉と業には原則があるが、禁制はない。なぜなら、神こそが真理であり、道であり、いのちだからである。

次に、「あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である。」(マタイによる福音書12:6-8)という聖句について検討する。ここでいう「宮」とは、何であろうか。「宮」とは、簡単に言えば高い大きな建物を指し、律法の時代は、宮とは司祭が神を礼拝する場であった。主イエスが「宮よりも大いなる者がここにいる。」と言った時、「者」とは誰をさしていたであろうか。ここで「者」とは、明らかに肉体を持つ主イエスを指す。なぜなら、神殿よりも偉大なものは主イエスのみだったからである。この聖句は人々に何を伝えているだろうか。この聖句では、神殿の外に出るよう、人々に伝えている。なぜなら、神は既に神殿の外に出ており、神は神殿では何も行っていなかったので、人々は神の足取りに続き、神の新たな業における段階に従うべきだったからである。主イエスがこうした言葉を伝えた背景には、律法のもとにおいては、神殿が神そのものよりも偉大なものであると人々が考えるようになっていたということがある。すなわち、人々は神ではなく、神殿を礼拝したので、主イエスは人々に対して偶像を崇拝せず、神は至高の存在であるので、神を崇拝するよう警告したのだ。そうしたわけで、主は「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」と述べたのである。主イエスから見て、律法のもとでは、人々はもはやヤーウェを礼拝しておらず、単にいけにえを捧げる手続に従っていただけであったことは明瞭であり、したがって主イエスはその手続を偶像崇拝であると判断された。これらの偶像崇拝者は、神殿を神よりも偉大で崇高なものと考えていた。こうした者の心には神殿しかなく、神は存在しなかったので、神殿を失った場合、こうした者はすみかを失った。神殿無くしては、こうした者は礼拝を行うために訪れる場所がなく、いけにえを捧げることができなかった。ここでいう、こうした者のすみかとは、ヤーウェ神の礼拝という名目で活動を行っていた場所であり、こうした者は神殿に滞在して自分たちの私事を行うことができた。ここでいう、こうした者が「いけにえを捧げる」とは、神殿で礼拝を行うという口実のもとに、自分の個人的な恥ずべき取引を行う、ということであった。当時の人々が、神殿は神よりも偉大であると考えていたのは、このためであった。こうした者は、神殿を隠れ蓑として利用し、いけにえを人々と神を欺くための口実として利用していたので、主イエスは人々に警告したのだった。

次に、この聖句の最後の文「人の子は安息日の主である。」を検討する。この文には実際的な側面が存在するであろうか。この文の実際的な側面を理解できるだろうか。神の言葉は、それぞれすべて神の心から発せられたものであるが、それでは神がこう述べた理由は何であろうか。どのように解釈しているだろうか。現在では、この文の意味を理解できるかも知れないが、当時この文を理解できる者は少なかった。なぜなら、人間は律法の時代から移行したばかりだったからである。この時代の人々にとって、安息日を終えるのは極めて困難であり、ましてや真の安息日とは何であるかを理解することが極めて困難であったのは言うまでもない。

この「人の子は安息日の主である。」という文は、神に関するあらゆる物事が非物質的であると言っており、神はあなたがたの必要な物事をすべて授けることができるにもかかわらず、あなたがたの物質的な必要性がすべて満たされた後、はたしてこうした物事による満足感を、真理の追究に置き換えることは可能であろうか。それは明らかに不可能である。ここまで研究してきた神の性質、神の中にある物事や神の存在に関する知識は、すべて真理である。それらの事柄は、有形の物体の高額な価格で計測することが不可能なものであり、またその価値を金銭で数量化することも不可能である。なぜなら、それらの事柄は物質的なものではなく、各人の心の必要性を満たすものだからである。すべての人々にとって、こうした無形の真理の価値は、あなたが気に入っている、いかなる有形物の価値よりも高いものであるはずだろう。この命題については、暫く考察する必要がある。わたしが述べたことの要点は、神の中にある物事や神の存在、そして神に関する全ては、あらゆる者にとって最も重要な物事であり、それはいかなる有形物によっても置き換えることができない、ということである。ひとつ例を挙げる。空腹な時は、食べ物が必要である。この食べ物は比較的良いものである場合と、そうでない場合があるが、空腹を満たすことさえできれば、空腹の不快感は解消されてなくなる。落ち着いていられるようになり、身体も安らぐ。人間の空腹感は食べ物で解消するが、神に付き従ってきて、神を全く理解していなかったとしたら、その心の空虚感は、どのようにしたら満たすことができるであろうか。その空虚感を食べ物で満たすことができるであろうか。また、神に付き従っていて、神の旨を理解していなかったとしたら、そうした心の飢えは何を使えば満たすことができるだろうか。神による救いの経験過程において、自分自身の性質の変化を追求してゆくなかで、神の旨を理解していなかったり、真理とは何かを知らなかったり、神の性質を知らなかったりした場合、極めて不安にならないであろうか。心の飢えと渇きを強く感じないだろうか。そうした感覚により心の平静を阻害されないだろうか。それでは、どのようにすれば、こうした心の飢えを解消することができるだろうか。この飢えを解消方法は存在するだろうか。ある者はショッピングに出掛け、ある者は悩みを打ち明けられる友達を見つけ、ある者は眠り、ある者は神の言葉を読み、仕事に一層打ち込んで本分を尽くすために更に努力する。こうした物事で実際の問題を解決できるだろうか。こうした行動については、誰もが完全に理解している。無力感を覚えた時、真理や神の旨について知ることができるように神の啓示を得ることを渇望している時、一番必要なものは何であろうか。必要なものは、食事でも優しい言葉でもない。さらに言えば、必要とされるのは、一時的な慰めでも肉の欲を満たすことでもなく、神に、自分がすべきことは何か、それをどうすべきか、そして真理とは何かを、明瞭に直接伝えてもらうことである。たとえ少しであったとしても、こうした事柄を理解したら、良い食事を食べた時よりも心の満足感を感じないであろうか。心が満たされた時、心と人間全体が真の平安を得るのではないだろうか。この例と分析から、わたしが「人の子は安息日の主である。」という聖句を取り上げた理由が理解できたであろうか。この聖句は、神から与えられるもの、神の中にある物事、神の存在、そして神に関するあらゆる物事は、自分が嘗て最も大切だと想っていた物や人物を含めた他の何よりも偉大である、ということである。つまり、たとえば誰かが神の言葉を得られなかったり、神の旨を理解できなかったりしたとすれば、その者は平安を得ることができない。今後の経験のなかで、わたしがあなたがたにこの聖句を考察して欲しいと望んだかを理解するであろう。これは非常に重要なことである。神の業はすべて真理であり、いのちである。人間にとって真理とは、人間の生活に不可欠なものであり、真理なしで生活することは決して出来ない。真理が最も偉大なものであると言うことも出来るであろう。真理は、見ることも触ることも出来ないが、あなたがたにとってその重要性を無視することは出来ない。心の平安をもたらすことができるのは、真理だけである。

二.迷える羊の喩え

「あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。」(マタイによる福音書 18:12-14)

これは喩えであるが、この聖句についてどのような印象を受けるであろうか。この喩えでは、人間の言葉による修辞技法が用いられており、人間の知識の範囲内のものである。もし律法の時代に神がこのようなことを述べていたとしたら、人間はその言葉が神の存在と一致しないと感じていたであろう。しかし、恵みの時代に人の子がこの言葉を述べた時、その言葉は慰めとなり、暖かく、人間と懇意なものと感じられる。神が受肉した時、神が人間の姿となった時、神は極めて適切な比喩を用いて、人となった神の心の声を述べた。この言葉は、神自身の言葉と神がその時代に遂行することを望んでいた業を示していた。またこの言葉は、恵みの時代における神の人間に対する姿勢を示している。神の人間に対する姿勢という観点から、神は人間ひとりひとりを羊に喩えた。一匹の羊が迷い出た場合、神はあらゆる手を尽くしてその羊を探すであろう。これは、この時代に、受肉して人間の中にあった神の業の原則を示している。神はこの喩えにより、その業に対する神の決意と態度を説明した。これが、神が受肉したことの利点であった。つまり、神は人間の知識を利用し、人間の言葉で人間と会話して神の旨を表現することが可能であった。神は、人間が人間の言葉により、理解しようと苦戦していた神の深遠な神性の言葉を、人間に対し、人間のやり方で説明ないし「解釈を与え」た。このことは、人間が神の旨を理解し、神が遂行したいと考えていた業を知る上で役立った。また、神は人間の立場から、人間の言葉を使って人々と話をし、人々が理解できる方法で意思疎通を行うことが可能であった。神は、人々が神の優しさと親しみを人間が感じ、また神の心を理解できるように、人間の言葉と知識を用いて言葉を述べ、業を行うことさえ可能であった。このことから何が分かるであろうか。それは、神の言葉や業を妨げるものが存在しないことであろうか。神が人間の知識や言葉、話し方を用いて自身の話したいこと、実行したいと望む業や自身の旨に関して表現することは不可能であるという人間の考え方は、誤りであるということである。神は、神の現実性や誠実さを感じることができるように、またこの時期における神の人間に対する態度を理解できるように、こうした喩えを用いた。この喩えにより、長年にわたり律法に従って生活していた人間は夢から覚め、さらにこの喩えは、恵みの時代に生活してきた何世代にもわたる人々に励ましを与えた。人間は、この喩えの聖句を読むことにより、人間を救う神の誠実さや、神の心における人間の重要性を理解する。

次に、この聖句の最終文「そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。」を再度検討する。これは主イエス自身の言葉であろうか、それとも天にいる父の言葉であろうか。表面的には、話をしているのは主イエスであるように思われるが、イエスの旨は、神自身の旨を示している。そこで主は「そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。」と述べたのである。当時の人々は、天の父のみを神として認識していたので、こうした人々の目の前に居た人すなわちイエスは、神が遣わしたものにすぎず、したがってイエスは天の父を現すことが出来なかった。この理由のため、主イエスは、人間に対する神の旨を人間が真に感じ、イエスの述べたことが真正かつ正確であると人間が感じることが出来るよう、このことも述べる必要があったのである。エイスの述べたことはシンプルではあるが、イエスがそれを述べたということは大いに思いやりのあるものであり、イエスの謙遜と慎ましやかさを示すものであった。神が受肉して行ったか、霊的な領域で業を行ったかを問わず、神は人間の心を最も良く理解しており、また人間に必要とされていた物事を最も良く知り、人間が憂う事柄、人間を困惑させる事柄について知っていたので、神はこの一行の文を付け加えた。この文では、人間の隠された問題に注目している。すなわち、人間は、人の子が述べる事柄に懐疑的であったこと、つまり、主イエスが話をしている時、主は「そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。」と付け加える必要があった。この前提があって初めて、イエスの言葉は実を実らせることができ、イエスは自身の言葉が正確であることを人々に信じさせ、その信ぴょう性を増すことができた。このことは、神が普通の人の子となった時、神と人間の間には極めて不自然な関係があったこと、また人の子の状況は、極めて恥ずかしいものであったことを示している。またこのことは、当時、人間の中で主イエスの地位がどれほど低かったかも示している。イエスがこの言葉を述べた時、それは実際には、人々に対して「これはわたし自身の心にある言葉ではなく、あなたがたの心にいる神の旨であるから、安心してよい」と伝える言葉であった。人間にとって、これは皮肉なことではなかろうか。受肉して業を行う神には、神の本来の姿にはない多くの利点がある一方で、神は人間の疑念と拒絶や、人間の愚鈍さに耐えなければならなかった。人の子の業の過程は、人間からの拒絶を経験する過程、およびイエスと争う人間を経験する過程でもあった、と言えるであろう。それにもまして、この過程は、神の中にある物事や神の存在、そして神自身の本質により、人間の信頼を継続的に得て、人間を征服するよう努める過程であった。この過程は、受肉した神が地上でサタンを相手に戦っていた、というよりも、神は普通の人間になり、神に従う者たちと戦い、その戦いの中で、人の子が、自身の謙遜と自身の中にある物事や自身の存在、そして愛と知恵によりその業を遂行した、といったものであった。神は、神が求めていた人々を獲得し、神に相応しい身分と地位を獲得し、神の玉座に戻った。

『言葉は肉において現れる(続編)』より