中国共産党政府と宗教界が狂気のごとく神を罪に定め、神に抵抗した後の結果は、どうなるのでしょうか。

2019年3月11日

参照聖書箇所

「人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」(マタイによる福音書 12:31-32)

「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。」(マタイによる福音書 23:13)

「そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。」(ヨハネの黙示録 20:10)

参照聖書箇所

「人の子は証しされ、神自身が公に現された。強く照り輝く太陽のように神の栄光が現れた。神の栄光の顔が眩しく輝く。あえてそれに反抗的な目を向けるのは誰か。反抗は死を意味する。」

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第十五章」(『言葉』第1巻)

「キリストは、彼を真に信じる者がいのちを与えるために終わりの日にくる。……あなたが彼を認めず、彼を非難したり、冒涜したり、さらに迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそ、聖霊の現れであり、神の顕現であり、神が地上での業を託した者だからだ。だから、あなたが終わりの日のキリストがする全てのことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言うのだ。聖霊を冒涜する者が受けなければならない報いは、誰の目にも明らかだ。……あなたが敵対したのは人ではなく、あなたが拒んだのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからだ。あなたはこの結末に気づいているのか。あなたが犯したのは小さな過ちではなく、重罪だ。」

『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」(『言葉』第1巻)

「二千年前にユダヤ人たちがイエスを十字架に釘づけにしたあと何が起きたかを思い起こしてみるがよい。ユダヤ人はイスラエルから追放され、諸国に逃亡した。多くは殺され、全ユダヤ民族は前例を見ない破壊を受けた。彼らは神を十字架に釘付けにし―凶悪犯罪を犯し―そして神の性質を侵害した。彼らは自分たちが為したことの代価を払い、その行動の結果に耐えなければならなかった。彼らは神を罪に定め、神を拒絶したので、たどる運命は一つしかなかった。すなわち、神の罰を受けたのである。これが彼らの支配者たちが彼らの国と民族にもたらした苦い結果と災害である……

私たちは、いかなる国家も勢力も神が果たそうと願うものの前に立ちはだかることはできないと信じている。神の働きを妨害し、神の言葉に抵抗し、神の計画をかき乱し、阻害する者たちは最終的には神に罰せられる。神の働きに逆らう者は地獄に送られる。神の働きに反抗する国家は滅ぼされる。神の働きに反対するために立ち上がる民族は地上から一掃され、消滅する。」

『神の出現と働き』「附録2:神は全人類の運命を支配する」(『言葉』第1巻)

「人々が完全になり、地上のあらゆる国々がキリストの国になるとき、七つの雷鳴が轟く。現在はその段階への大きな一歩であり、来るべき時代について訓令が解き放たれる。これが神の計画であり、近い将来に現実となる。しかし、神は既に神が述べたすべての事柄を達成している。従って、地球上の国々は満潮になれば崩れてしまう砂の城に過ぎないことは明らかである。最後の日が近づいており、赤い大きな竜が神の言葉の下に倒れる。神の計画が滞りなく遂行されるために、天使たちが地上に舞い降り、神を満足させるために全力を尽くす。受肉した神は、敵に戦いを挑むために、戦場に陣を敷いている。受肉した神が現れると、敵は打ち倒されてその場所から消え失せる。神の手により最初に壊滅すべき、打ちのめすべきは中国で、神は中国に対して何ら慈悲心を持たない。」

『神の出現と働き』「附録2:神は全人類の運命を支配する」(『言葉』第1巻)

「古い世界が存続する間、わたしは国々の上に怒りを投げつけ、わたしの行政を全宇宙に公布し、違反する者には刑罰を下す。

わたしが全宇宙に向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行ってきた業を見る。わたしの心に逆らう者、つまり、人間の行いでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の多くの星々を取ってそれらを新しくし、わたしにより、太陽と月は新たになる──空はもはや以前のものではない。地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は、新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。地上の国々は永遠に消え去り、わたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は破壊され、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを礼拝する者はみな、わたしの燃える炎に倒れる──つまり、今、流れの中にいる者以外は、灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの業に征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは『聖なる方が白い雲の上に乗って』降臨するのを見たからである。人間はみな、種類に従い、それぞれの行いに応じて刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行いがわたしと関わりのなかった人たち、その人たちは、自分たちの行いによって、地上にわたしの子らとわが民の支配下で存在を続ける。わたしは無数の人々と無数の民族にわたしを現し、わたしは自ら声を発して地上にわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分たちの目でそれを見られるようにする。」

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十六章」(『言葉』第1巻)

「世界は崩壊しつつある。バビロンは麻痺している。宗教的世界──どうしてこれが、わたしの地上の権威により破壊されないことがあろう。誰がまだわたしに逆らい、敵対しようとするのか。律法学者たちか。すべての宗教関係者か。地上の支配者や権力者か。天使たちか。誰がわたしのからだの完全さと豊かさをたたえないだろう。すべての民の中で、誰がわたしの讃えをやむことなく歌わず、誰がいつでも幸福でないのか。……どうして地上の国々が滅びないことがあろう。どうして地上の国々が倒れないことがあろう。どうしてわが民が歓声を上げないことがあろう。どうして喜びに歌わないことがあろう。」

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十二章」(『言葉』第1巻)

「この時、人間は腐敗を極めたのであった。人間は、神の存在、人間の出自を知らなかった。もし誰かが神のことを口にしようものなら、ソドムの人々は攻撃し、中傷し、冒涜したであろう。神の警告を伝えるために神の使いが来た時ですら、腐敗したソドムの人々は悔い改めの姿勢を見せなかったのみならず、自分達の邪悪な行いを止めようともしなかった。それどころか、ソドムの人々は、恐れ多くも神の使いを痛めつけようとした。ソドムの人々が明確に示したのは、神に対する極端な敵意のある本性であり、本質であった。腐敗したソドムの人々の神に対する反抗は、ソドムの人々の腐敗した性質の明示や、真相の理解の欠如に起因する誹謗中傷であるだけでは無かった。ソドムの人々の邪悪な行いは愚かさや無知に起因するものでは無く、またソドムの人々が裏切られたからでも無く、勿論、誤った方向へと導かれたからでも無かった。ソドムの人々の行いは、目に余るほど激しい神への敵意、反抗、そして騒動のレベルに達していた。当然ながら、人間のこうした行いは神の怒りを買い、また犯してはならない神の性質を激怒させることになる。したがって、神は直接的かつ隠すこと無く、神の怒りと威厳を示した。それは、神の義なる性質の、真の明示である。罪に満ちた町を見た神は、最も迅速な方法でその町を滅ぼすことを望んだ。つまり、神はソドムの町の人々とその罪を、最も完全な方法で根絶し、町の人々を抹殺し、地上の罪が増加するのを防ごうとした。その最も迅速で完全な方法とは、ソドムの町を火で焼きつくすことであった。ソドムの人々に対する神の姿勢は、見捨てることでも無視することでもなく、怒りと威厳、そして権威を用いてソドムの人々を罰し、打ちのめし、絶滅させるというものであった。ソドムの人々に対する神の姿勢は、身体的な破壊だけで無く、霊的なもの、永久の根絶的な破壊であった。これが、ソドムの人々が『消滅』することに対する神の望みに関する、真の含意であった。」

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

人々が神を冒涜した時、あるいは怒らせた時、神は審判を下し、その審判は神の最終的な結論である。そのことについては、聖書において「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。」(マタイによる福音書12:31)、また「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。」(マタイによる福音書23:13)と説明されている。しかし、主イエスがこのように述べた後、律法学者とパリサイ人、そして主は狂気であると言った者達に対する処遇は、聖書に記されているだろうか。これらの者達が罰を受けたと記されているであろうか。それらについて、何も記されていないことは確かである。ここで、何も記されていないというのは、何も記録されていないということではなく、人間が見ることの出来る結果がない、ということである。このことにより、問題が明らかになる。すなわち問題とは、神がある事柄に対処する際の姿勢と原則である。神を冒涜したり、否定したり、中傷さえしたりする人々、つまり、意図的に攻撃したり、中傷したり、呪ったりした人々に対する神の処遇について、神は見ないふりをしたり、聞こえないふりをしたりすることはない。神には、そうした物事に対する明確な姿勢がある。神はこうした人々を嫌悪し、心で糾弾する。神はこうした人々に対して、神を冒涜した者に対する明瞭な姿勢があること、神はどのようにしてそうした人々の結末を決定するかをその人々が理解するよう、こうした人々の結末を率直に宣言している。しかし、神がその言葉を述べているにもかかわらず、神がこうした人々をどのように処分するかに関する事実を殆ど理解できず、神による結末や審判の背景となる原則を理解できずにいる。すなわち、人類は、こうした人々の処遇について、神の具体的な姿勢と方法を理解できずにいる。この問題は、神が業を行う際の原則が関与している。神は事実を出現させ、一部の人々の邪悪な行いに対処する。つまり、神はこうした人々の罪を宣告することも処遇を決定することもなく、神は直接的に事実を出現させることにより、こうした人々が処罰され、相応の報いを受けるようにする。こうした事実が出現した時、その罰を受ける物は、すべて人間の目に見える人々の身体である。一部の人々の邪悪な行動を処分する際には、神は言葉により呪うが、それと同時に神の怒りがその人々におよぶ。こうした人々が受ける罰は人々の目に見えないものである場合もあるが、この種の結末は、罰せられたり殺されたりといった目に見えるもの以上に深刻な場合がある。こうした人々を救わない、こうした人々に対して更なる慈悲や寛容をもって対処しない、それ以上の機会を与えないと神が判断した場合、こうした人々の神に対する態度は、こうした人々を無視する態度である。「無視」とは、どういう意味であろうか。この言葉は、何かを脇によけ、意識しなくなることを意味する。ここで、神が「無視」すると言う場合、2通りの解釈ができる。1つ目は、神がその者の命、その者の全てをサタンに与えて扱わせるようにした、という解釈である。神はその者の命などを担わなくなり、その管理を辞める、ということである。その者が狂気であっても、愚かであっても、あるいは生きていても死んでいても、あるいは地獄に落とされて罰を受けていても、それは神に関係ないものとなる。つまり、その被造物は創造主と何ら関係が無くなるということを意味する。2つ目は、神がその者に対して、神自らの手で何かをしようと決断した、という解釈である。神が、そうした者の取り組みや、そうした者自身を、補助的に活用する可能性もある。そうした者に対し、パウロに対して対処したように、神が特殊な方法で対処する可能性もある。以上が、そうした者に対し神の心が判断を下す際の原則と姿勢である。したがって、人々が神を拒否し、中傷し、冒涜した場合、あるいは神の怒りを買い、あるいは神の赦しの範疇を超えた場合、その結末は想像を絶する。神がそうした者たちの命などのすべてを、それ以降永遠にサタンに委ねるというのが、最も重篤な結末である。こうした者たちは、永遠に赦されることが無い。これは、そうした者達がサタンの餌食となり、玩具となり、それ以降、神はそうした者達との関係を一切絶つ。サタンがヨブを誘惑した時、それがどれほど悲惨なものであったか、あなたがたは想像出来るであろうか。サタンがヨブの命に手を出さないことが条件であったが、それでもヨブは大いに苦悶した。それならば、完全にサタンの手に委ねられた者、完全にサタンの手中にある者、神のいつくしみや憐れみを完全に失った者、創造主の支配が及ばなくなってしまった者、神を信仰する権利と神の支配下に属する被造物である権利を奪われた者、創造主との関係を完全に絶たれてしまった者が受けるサタンの猛威は、それにも増して困難ではなかろうか。サタンによるヨブの迫害は、人間が見ることの出来るものであったが、神がある者の命をサタンに引き渡した場合、その結末は、あらゆる者の想像を絶するものとなるであろう。それは、牛やロバとして生まれ変わった人間、汚れた、悪霊に取り憑かれた人間のようなものである。これが神によりサタンに引き渡された者の結末である。主イエスを嘲笑し、中傷し、非難し、冒涜した者は、外部から見れば、全くそうした結末に苛まれていないように見える。しかし、あらゆる物事に対し、神は特定の姿勢をもって対処する、というのは真実である。様々な種類の人間に対して神が対処した結果どうなるかについて、神は明確な言葉で人間に伝えないこともある。神は、直接的に言葉を述べず、直接的に業を行うこともある。神がそうした事柄について言葉を述べないということは、そうした事柄に対する結末が存在しないことを意味するのではなく、より深刻な結末であることを意味する可能性もある。見た目には、神は、一部の人々に対して神の姿勢を示そうと語っていないように思われる。実際、神はそうした人々に気遣うことを久しく望んでいない。神は、そうした人々にもう会いたいとは思わないのである。そうした人々の行動や態度、性質や真髄などのため、神は単にそうした人々が神の前から立ち去ること、そうした人々の霊魂や身体を直接サタンに引き渡し、サタンの意のままにさせることを望んでいるのである。神がそうした人々をどれほど憎んでいるか、嫌悪しているかは明瞭である。ある者が、神がその者に二度と会わないことを望むほどに、また神がその者を完全に見捨てるほどに、また神自身がその者を取り扱うことさえ望まないほどに、神の怒りを買った場合、すなわち神がその者をサタンに委ね、サタンに支配させ、虜にさせ、サタンの思うがままにさせた場合、その者は完全に終焉を迎える。その者の人間たる権利が奪われ、被造物としての権利が消滅する。それは、最も過酷な罰ではなかろうか。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

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