受肉した神と神に使われる人との本質的な違い

2017年11月20日

関連する神の言葉

受肉した神をキリストと呼ぶ。キリストは神の霊が肉をまとった姿である。この肉はいかなる肉ある人間とも異なる。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が受肉したものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を持っている。キリストの神性はいかなる人も持っていないものである。キリストの普通の人間性は肉的な活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。キリストの人間性も、神性も父なる神の心に従うものである。キリストの本質は霊、すなわち神性である。ゆえに、その本質は神自身のものである。この本質は神自身の働きを妨げることはなく、キリストが神自身の働きを破壊するようなことは決してありえず、神の心に逆らう言葉を語ることも決してない。ゆえに、受肉した神は神自身の経営(救い)を妨げるような働きは絶対に行わない。このことをすべての人が理解すべきである。

『神の出現と働き』「キリストの本質は父なる神の旨への従順さである」(『言葉』第1巻)

神の本質を備えた人間だから、被造物であるどの人間、神の働きを行うことのできるどの人間よりも上位に位置する。そこで、このような人間の姿をした者たちの中で、人間性をもつすべての者の中で、神だけが受肉した神そのものである。他はみな、被造物である人間である。受肉した神と人間の双方に人間性があるが、被造物である人間には人間性以外には何もない。ところが、受肉した神は違う。受肉した神は、その肉体において人間性だけではなく、さらに重要なことに神性をも備えている。

『神の出現と働き』「神が宿る肉の本質」(『言葉』第1巻)

肉とった神が神性の働きだけを行い、神の心に従いつつ神と協力して働く人々がいなければ、人間は神の旨を理解することも、神に関わることもできないだろう。神は自身の心に従う普通の人々を用いてこの働きを完成させ、諸教会を見守り牧し、人間の認知機能と頭脳が思い描ける水準に達しなければならない。言い換えれば、神は神性において行う働きを「翻訳」するために、自身の心に従う少数の人々を使うのであり、それにより神性における働きを開くことができる、つまり神性の言語が人間の言語に変換され、人々がそれを理解し、把握できるようになるのである。もし神がそうしなかったなら、誰も神の神性の言語を理解しないだろう。なぜなら、神の心に従う人々は結局のところ少数派であり、人間の理解力は弱いからである。そのため、神は受肉した体において働くときにのみ、この方法を選ぶのである。神性の働きしか存在しなければ、人間は神の言語を理解しないので、人間が神を知り、神と関わることはできないだろう。人間がこの言語を理解できるのは、神の心に従う人々の仲介を通してのみであり、その者たちが神の言葉を明確にするのである。しかし、人間性において働くそのような人々しかいなければ、それは人間の普通の生活を維持することしかできず、人間の性質を変化することはできないだろう。神の働きが新しい出発点を得ることはできず、以前と同じ古い歌、陳腐な言葉があるだけである。神は受肉している間に語られるべきことをすべて語り、行われるべきことをすべて行い、その後人々は神の言葉に従って働き、経験するのであるが、その受肉した神の仲介を通してのみ、人々のいのちの性質は変わることができ、人々は時代とともに進むことができる。神性において働くものは神を表し、人間性において働くものは神に用いられる人々である。つまり、受肉した神は、神によって用いられる人々とは本質的に異なる。受肉した神は神性の働きを行えるが、神によって用いられる人々にはできない。それぞれの時代の始まりにおいて、神の霊は自ら語り、新しい時代を始め、人間を新しい始まりへと導く。神が語り終えたとき、それは神性における神の働きが完了したことを意味する。その後、人々はみな神によって用いられる人々の導きに従い、いのちの経験に入る。

『神の出現と働き』「受肉した神と神に使われる人との本質的な違い」(『言葉』第1巻)

神の言葉は人の言葉として語ることはできないし、ましてや人の言葉は神の言葉としては語ることはできない。神に使われる人間は受肉した神ではなく、受肉した神は神に使われる人間ではない。ここに実質的な違いがある。これらの言葉を読んだ後、あなたはこれらが神の言葉であることを受け入れず、ただ啓示を受けた人の言葉として受け入れるかもしれない。そうだとすれば、あなたは無知ゆえに目が見えなくなっているのだ。どうして神の言葉が啓示を受けた人間の言葉と同じでありえようか。人の姿になった神の言葉は新しい時代を開始し、人類全体を導き、奥義を明らかにし、人に新しい時代に向かう方向を示す。人が獲得する啓示は単純な実践、あるいは認識にすぎず、人類全体を新しい時代に導くことはできないし、神自身の奥義を明らかにすることもできない。神は結局神であり、人は人である。神は神の本質を持っており、人は人の本質を持っている。神によって語られた言葉を単に聖霊による啓示と見なし、使徒や預言者の言葉を神自らが語る言葉として受け取るならば、それは間違っている。

『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)

神は地上に来るとき、神性の働きのみを行う。これが、天の霊が受肉した神に委ねたものである。神は来るとき、あらゆるところで語り、その発言をさまざまな方法で、さまざまな視点から声にするだけである。おもに人間に施すことと教えることを自らの目標、および働きの原則とし、人間関係や人々の生活の詳細といった事柄には関与しない。彼のおもな職分は、霊の代わりに語ることである。つまり、神の霊が目に見える形で肉において現れるとき、彼は人間のいのちを施し、真理を解き放つだけである。彼は人間の働きに関わらない。つまり、人間性の働きには加わらないのである。人間には神性の働きを行うことはできず、神は人間の働きに加わらない。働きを行うべくこの地上に来て以来ずっと、神は常に人々を通して働きを行なってきた。しかし、これらの人々は受肉した神とは考えられず、神によって使われる人々に過ぎない。一方、今日の神は神性の視点から直接語ることができ、霊の声を送り出し、霊の代わりに働きを行う。これまでの時代を通して神が用いてきたすべての人もまた、神の霊が肉体において働いた実例であるが、それではなぜ彼らは神と呼ばれることができないのだろうか。しかし、今日の神もまた肉において直接働きを行う神の霊であり、イエスもまた肉において働きを行う神の霊だったのであって、両者とも神と呼ばれる。それでは、違いは何なのか。これまでの時代を通して、神が用いた人々はみな、普通の思考と理知を駆使することができた。人間としての行動の原則を理解していたのである。彼らは正常な人間の思考をもち、正常な人がもつべきあらゆるものを備えている。彼らのほとんどが並外れた才能や生来の知性をもっている。神の霊はこれらの人々に働きかけるにあたり、神からの授かりものである彼らの才能を役立てる。神の霊は彼らの才能を活用し、彼らの強みを用いて神のために役立てる。しかし、神の本質に思考や発想はなく、人間の意図も混ざり込んでおらず、普通の人間が備えているものを欠いてさえいる。つまり、神は人間の行動の原則に精通すらしていないのである。これが、今日の神が地上に来るときの様子である。その働きと言葉には、人間の意図や思考が混ざり込んでおらず、それらは霊の意図を直接体現しており、今日の神は直接神を代表して働く。これは霊が直接語るということであり、つまり、人間の意図をほんの少しも混じり込ませることなく、神性が直接働きを為すことを意味している。言い換えると、受肉した神は神性を直接体現し、人間の思考や発想をもたず、人間の行動の原則に関する理解を有していないということである。もし神性だけが働いていたならば(つまり、神自身だけが働いていたならば)、神の働きが地上で実行されることは決してなかったであろう。だから神は地上に来るとき、自身が神性において行う働きと関連して、人間性において働きを行うために用いる少数の人々を必要とする。言い換えるならば、神は神性の働きを支えるために人間性の働きを使うのである。そうでなければ、人が神性の働きに直接携わる術はないだろう。

『神の出現と働き』「受肉した神と神に使われる人との本質的な違い」(『言葉』第1巻)

聖霊の流れにおける働きは、それが神自身の働きであろうと、用いられている人の働きであろうと、聖霊の働きである。神自身の本質は霊であり、聖霊あるいは七倍に強化された霊と呼ぶことができる。とにかく、それは神の霊であり、時代によって神の霊は異なる名前で呼ばれてきた。それでもその本質は一つである。したがって、神自身の働きが聖霊の働きである一方、肉となった神の働きは働いている聖霊に他ならない。用いられている人の働きも聖霊の働きである。しかし、神の働きは聖霊の完全な表現であり、絶対に真実である一方、用いられている人の働きには多くの人間的なものが混さっており、聖霊の直接的表現ではなく、ましてや完全な表現ではない。……用いられる人に聖霊が働きかけるとき、その人の才能も生まれながらの素質も解き放たれ、保留されることはない。その人の生まれながらの素質は働きに役立たせるために引き出される。聖霊は働きにおいて成果を達成するために人の利用できる部分を使って働くと言ってもいいかもしれない。対照的に、受肉した肉において行われる働きは聖霊の働きを直接表し、人間の心や考えが混じり込んでいることはない。また、人の賜物や経験、あるいは生来の条件はそれに到達できない。

『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)

わたしの話はわたしの存在を表すが、わたしの言うことは人の力の及ぶものではない。わたしの言うことは人が経験することではなく、人に見えるものではない。それはまた、人が触れることができるものでもなく、わたしそのものである。わたしが話すことはわたしが経験したものであることだけは認めるが、それが聖霊の直接的表現であることを認識しない人がいる。もちろん、わたしの言うことはわたしが経験したことである。六千年にわたり経営の働きをしてきたのはわたしである。人類創造の初めから今に至るまで、わたしはあらゆることを経験してきた。わたしがそのことについて語れないわけがあろうか。人の本性といえば、わたしははっきり見たし、長いあいだ観察した。それについて明確に語れないわけがあろうか。人の本質を明確に見てきたので、わたしには人を罰したり裁いたりする資格がある。人はすべてわたしから来たのに、サタンに堕落させられたからである。もちろん、わたしはこれまでわたしが行なってきた働きを評価する資格もある。この働きはわたしの肉が行うことではないが、霊の直接的表現であり、これはわたしが持っているもの、わたしそのものである。したがって、それを表し行うべき働きを行う資格がわたしにはある。人が言うことは自分が経験してきたこと、見てきたもの、人の精神が到達できるもの、人の感覚で探知できるものである。これが人が語ることができるものである。神の受肉にした肉が語る言葉は霊の直接的表現であり、それらは霊によってなされた働きを表す。肉はそれを経験しても見てもいないが、それでも神はその存在を表す。その肉の本質は霊であり、神は霊の働きを示すからである。肉では到達できなくても、それは霊によってすでに行われた働きである。受肉のあと、肉の表現を通して神は人に神の存在を知らしめ、人に神の性質、ならびに神がした働きが見えるようにする。人の働きによって、人は自分が何に入っていき、何を理解するべきかをさらに明確にすることができる。それには、真理を理解し経験する方向に人々を導くことが含まれる。人の働きは人々を支えることである。神の働きは人類のために新しい道と新しい時代を開き、普通の人間には知られていないことを人々に明らかにし、神の性質をわからせることである。神の働きは全人類を導くことである。

『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)

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