私たちの教会のほとんどの人は、他人を識別することと他人を裁くことの違いが分かりません。お尋ねしますが、神を否定する牧師や長老たちの本質を分析し識別することに関して、また彼らを現代のパリサイ人と呼ぶことに関して言えば、これは他人を裁くことではないでしょうか?

2018年12月16日

参照聖書箇所

「主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。」(マタイによる福音書 24:45-51)

「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。」(マタイによる福音書 7:15)

「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。」(マタイによる福音書 23:13)

関連する神の言葉

わたしが征服の働きをする目的は、単に征服することそのものにあるのではなく、征服することによって義と不義を明らかにし、人に対する懲罰のための証拠を入手し、邪悪な者を罪に定め、更に、進んで従う者達を完全にするために征服するのである。最後には、全ての人がそれぞれの種類に従って分けられる。完全にされた全ての者には従順に満ちた考えと発想がある。これが最後に完成される働きである。しかし、反抗的なやり方に満ちている者は罰せられ、燃える炎の中に送られ、永遠の呪いの対象となる。時が来れば、過去のいくつもの時代に及ぶ「偉大な不屈の英雄」が最も低い者となり、最も敬遠される「弱く、無力な臆病者」となる。このようにしてのみ、神の義のあらゆる側面を描き出し、人間による少しの反撃も容赦しない神の性質を現わす。

『神の出現と働き』「真心で神に従う者は、必ずや神のものとされる」(『言葉』第1巻)

神を信じ、神に関する認識を追求するのは、容易なことではない。それは、ただ寄り集まって説教を聞くだけでは達成されないし、熱情だけでは完全になれない。あなたは、経験し、知り、原則に基づいて行動し、聖霊の働きを獲得しなければいけない。経験を積めば、多くのことを判別できるようになる──善悪、正邪、何が血肉によるもので何が真理によるものであるかを区別できるようになるだろう。あなたは、こうしたことの区別ができなければいけない。そうすれば、どういう状況にあっても、迷うことはないだろう。これのみが、あなたの真の基盤なのだ。

『神の出現と働き』「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」(『言葉』第1巻)

イエス・キリストのみを信じ、現在における受肉した神を信じない者は皆、罪に定められている。そうした者は皆現代のパリサイ人である。なぜなら、そうした者は現在の神を認めず、皆神に背くからである。そうした者のイエスに対する信仰がどれほど献身的であったとしても、それは全て無駄になる。そうした者が神の称賛を受けることはない。神を信じると言いつつ神に関する認識が心の中に皆無である者は、偽善者である。

『神の出現と働き』「完全にされるべく、神の旨に配慮せよ」(『言葉』第1巻)

荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を暗唱するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と呼びはするが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊のかしら、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは「健全な肉体」の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。

『神の出現と働き』「神を知らない人はすべて神に反対する人である」(『言葉』第1巻)

そのような者は常に神の新しい働きに対して敵対する態度をとり、従う意志など微塵も示さず、喜んで服従を示すことや謙虚になることなど一度たりともないのである。他の人たちの前で得意になり、誰に対しても従うことをしない。神の前では、自分が説教者として最も長けており、他の人に働きかけることに自分が一番熟練していると考える。自分が獲得した宝を決して手放そうとせず、家宝として拝み、説教の題材にし、自分を崇拝するような愚か者への訓戒に用いる。…彼らは神の言葉(教義)を語ることを自分の最高位の本分と解釈する。何年も、何世代も、彼らは精力的に自らの「神聖で犯すべからざる」本分を続ける。彼らに触れる者は誰ひとりおらず、公然と非難する者もひとりもいない。神の家で「王」となり、何代にも亘ってはびこり、他の者を圧制する。このような悪魔の一団は、互いに手を組んでわたしの働きを潰そうとする。このような生きた悪魔をわたしの目の前に生かしておけるだろうか。

『神の出現と働き』「真心で神に従う者は、必ずや神のものとされる」(『言葉』第1巻)

どの教団、教派の指導者を見ても、みな独善的で聖書を勝手に解釈しています。彼らは賜物と学識に頼って働いています。彼らが説教をすることが出来なければ、人々はそれでも付いて来るでしょうか。指導者たちはそれなりの知識を得、教義を少しは語ることができ、他の人々を勝ち取ったり策略を用いたりして自分達のところへ人を集め、欺いてきました。欺かれた人々は、名目上神を信じてはいますが、実際には神ではなく指導者に付き従っているのです。真の道を語る人に彼らが出会ったならば、「信仰について、私たちの指導者に相談する必要がありますね。」と言う者もいるでしょう。彼らには神に対する信仰に関して、誰かの承認が必要なのです。それは問題ではないでしょうか。指導者達はどのような存在になったのでしょう。真理の道を受け入れようとする人々にとってのパリサイ人、偽羊飼い、反キリスト、躓きではないでしょうか。

『キリストの言葉の記録』の「 真理の追求のみが真の神への信仰 」より

人の交流

真理を用いて人の状態を分析することは真理の現実に適っており、それは真実です。それは度を越したことではなく、間違っておらず、そこには意図やもくろみは無く、誰を圧迫するためでもありません―それは真理を用いて問題を解決することです。誰かを裁くことには、個人的な意図が含まれており、それは小さな事実を取り上げて過剰に誇張することであり、もしくは、誰かを攻撃したいと言う意欲や傾向が含まれています。人を裁くことは人を害し、人を傷つけます。あなたが人を裁くなら、彼らはそれを受け入れ難く感じるでしょう。真理を用いて人を分析することは、言葉と心を通して彼らを納得させ、彼らは本当に自分を知り、自分を憎むようになります。このように結果が違います。ですから、真理を用いて人を分析し、問題を識別することは、彼らに真理を理解させます。そして、真理を理解することを通して、自分たちの堕落と振る舞いを認識し、最終的に彼らは自らを憎み、自らの堕落した肉を憎み、自らのサタン的な本性を憎むことができるようになります。裁くということは、他人が何かをしたとき、裁く者が盲目的にその人について結論を下すことです。しかし、実際にはその人の本性は裁く者が言うようなものではなく、その者が言うことは物事の本質に一致していません。彼らは少し大げさに話したり、尾ひれをつけたり、過剰に誇張したり、極端な比較をしたりします。また、その人の本性の本質を見ないで、その人が行った一つのことだけを見て裁きを下すので、結果的に彼らはその人に圧力をかけ、その人に害を与え、その人を傷つけることになります。……真理について交わり人を分析することと、人を裁くこととは、二つの全く違うことです。その間には何の関連もありません。それらがもたらす感覚や結果は全く違うので、これによって二つを区別することができます。

『いのちに入ることに関する説教と交わり(Ⅶ)』・「質問と答え」より

神が宗教を忌み嫌い、呪われるのは何故でしょうか。それについて主イエスはどのように言われたでしょうか。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。……偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。」(マタイによる福音書 23:13-36参照) 聖書では、こうした言葉が何回述べられているでしょうか。少なくとも5、6回です。こうした言葉は継続的に反復されています。主イエスは、何故そうした言葉を述べる必要があったのでしょうか。それは、これらのパリサイ人たちが主イエスの敵であり、彼らは主イエスを継続的に非難し、主イエスを絶えず罵り、裁いたからです。……そして主イエスは「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。」と言われました。主が何度もそう言われたのは何故でしょうか。それは、主イエスがこれらのパリサイ人を憎まれていたことを示し、証明するに十分です。パリサイ人は主の敵であったので、主は彼らを憎まれました。主はパリサイ人に毎日裁かれ非難されていたので、彼らを憎まれました。そうではなかったでしょうか。さて、このことについてですが、主イエスは、パリサイ人たちを罪に定められた時、どのような目的を心に抱かれていたのでしょうか? 第一に、主に反抗した者を呪うことでしたが、第二に、主が達成されようとしたおもな成果は何だったのでしょうか。彼らを呪って、それで終わりにすれば十分だったのでしょうか。究極の目的は何だったのでしょうか。それは宗教界の人々にパリサイ人を識別させ、捨て去らせ、もはやパリサイ人に従わないようにさせることであって、「あなたがたが信じているのは主であり、神であって、パリサイ人ではなく、ましてや祭司長でも律法学者でもない。あなたがたは自らをそうした者たちと区別しなさい。彼らを崇拝したり、迷信的に信じたり、万事について彼らの意見を求めたりしてはならない。彼らはあなたがたの先祖ではなく、決してあなたがたの主などではない。それならば、あなたがたは何故いつも彼らの言うことを聞くのか。あなたがたが主を信じるならば、主に従い、主の御言葉を聞き、真理を求めるべきである。」という意味ではないでしょうか。それでは、主イエスがパリサイ人たちを呪われたのは、誤りだったでしょうか。「私たちには人間を裁くことはできない。」と言う人もいます。それなら、主イエスがパリサイ人を呪われたのは間違いだったでしょうか。それゆえ、主イエスは愛と憐みに満ちたお方ではない、ということでしょうか。私たちはこの二つを区別しなければなりません。

『いのちに入ることに関する説教と交わり』(B2第133巻)

終わりの日の神はこれらの事実を全て暴露され、それぞれの種類に応じて、それらの全ての未信者たち、反キリストたち、偽善者たちを分類されました。良いしもべと悪いしもべ、真の信者と偽信者、麦と毒麦。あなたがたが識別し、どのように彼らを扱うべきかを知り、また、どのような原則にしたがって彼らを扱うべきかを知ることができるよう、彼らはみな暴露されます。神の大いなる御働きは、このようにして完成しました。私たちはある人たちを反キリスト、偽善者、未信者と呼びますが、宗教界の人々は、それをどのように考えているのでしょうか。「それはあなたがたの主張だ。主イエスは『人をさばくな。自分がさばかれないためである。』(マタイによる福音書7:1)と言われた。」これは正しいでしょうか。それは正しくないと言う人もいます。それが正しくないのは何故でしょうか。終わりの日における神の御働きとは、それぞれの人を種類に応じて分類し、様々な種類の人間を暴露し、こうして彼らが人々によって識別されるためのものです。私たちに他人を識別する能力が無く、神の御言葉を読んで熟考することもなく、ただ自分の観念と想像に基づいて神を信じるなら、最終的にどの人が天の御国に入れるのか、どの人が入れないか、誰が神によって称賛され祝福されるのか、誰が後に取り残されるのか、これらのことはどのようにして明らかにされるでしょうか?天の御国に入るために、神への信仰において美辞麗句を並べる全ての者たちにとって、このようなことは有り得るでしょうか。神にはそのような事ができるでしょうか。……

神の御言葉は全て人間が理解すべきものです。私たちはパリサイ人の偽善的な本質を見抜き、神は「パリサイ人たちはわざわいである。」と言われます。それに対して私たちは「アーメン」と言って従います。私たちは何故「アーメン」と言って従うのでしょうか。それは私たちが今、識別できるからです。ある者は「パリサイ人とは誰なのか教えて下さい。」と言います。するとあなたがたはこう言います。「パリサイ人は大勢います。聖書の文字どおりの教義について熱心に語りたがる者、神学的理論について熱心に議論する者、神の御言葉を体験することも実践することもない牧師や長老、これらの人たちは皆パリサイ人です。」「あなたは今回やっと神の御言葉を理解し、神の御言葉に従って識別することができるようになった。あなたは神の御言葉に従ってパリサイ人の本質を見抜いた。これは裁くではなく、真理に基づいて人間を見るということ、神の御言葉に従って人間を見抜くということです。」このような人たちは、神を理解しているだけでなく、人間を識別することができ、また物事の本質を見抜くこともできます。このような人たちは真理の現実を備えているでしょうか。もちろん備えています。

『いのちに入ることに関する説教と交わり』(A5第133巻)

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