日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 100
神の権威とは、神の力であると説明できる。まず、権威と力は、両方とも肯定・善であると断言できる。権威と力は、否定・悪と無関係であり、創造物やそれ以外の物と関連性が無い。神の力は、生命や活力のある、あらゆる形の物を造ることが可能であり、それは神の命により決定される。神は生命であり…
神の出現を待ち望むすべての人を歓迎します!
キリストの働きと現れはキリストの本質を決定する。キリストは託された働きを真心を持って完成することができる。キリストは天にいる神を心から崇拝し、真心を持って父なる神の心を求めることができる。これはすべてキリストの本質によって決定されている。そしてキリストの自然な現れもキリストの本質によって決定されている。キリストの「自然な現れ」と呼ばれるのは、キリストの表現が模倣でも、人による教育の結果でも、長年に亘る人による育成の結果でもないからである。キリストはそれを学んだのでも、それでわが身を飾ったのでもない。むしろ、それはキリストのうちに本来的に備わっているものである。人はキリストの働き、表現、人間性、そして普通の人間性を持った全生涯を否定するかもしれないが、キリストが真心で天にいる神を崇拝することを否定できるものは一人もいない。キリストが父なる神の心を果たすために来たことを否定できる者はおらず、キリストが父なる神を心から求めていることを否定できる者もいない。人が想像するように、彼の姿は五感に心地よいわけでも、話す言葉に特別な重みがあるわけでも、その働きに地を揺るがし、天を揺さぶるほどの驚きがあるわけでもないが、彼は確かにキリストであり、真心で父なる神の心を全うし、父なる神に完全に服従し、死にまで従う者である。これは彼の本質がキリストの本質であるからである。この事実は人には信じがたいものだが、確かに存在する。キリストの職分が全うされた時、キリストの働きを通して、キリストの性質と存在は天にいる神の性質と存在を現すことを、人は知るであろう。その時、キリストがその働きを通して成し遂げたものを見て、この者はまことに肉となった言葉であり、血と肉による人間とは異なることがはっきりと分かるであろう。キリストの地上での働きの各段階はそれぞれ重要な意味を持つが、それぞれの段階における実際の働きを経験する人間は、彼の働きの意味を把握することができない。第二の受肉における数段階での働きに関してはとりわけそうである。キリストの言葉を見聞きしただけで、キリストに出会ったことのない者たちのほとんどは、キリストの働きについていかなる観念も持っていない。キリストに出会い、言葉を聞き、働きを経験した者たちにとっては、働きを受け入れることが難しい。これはキリストの外見と普通の人間性が人の好みに合わないせいではないのか。キリストが去ってからその働きを受け入れる者たちはそのような困難に出遭うことはないだろう。彼らはキリストの働きを単に受け入れ、キリストの普通の人間性に接することがないからだ。人は神に対する己の考えを捨てることができず、キリストをあれこれと入念に調べ上げる。これは人がキリストの外見だけに注目し、キリストの働きと言葉に基づいた本質を認めることができないことが原因だ。もし人がキリストの外見に目を閉じ、キリストの人間性を討論するのを避け、人には成し得ない働きをし、人には成し得ない言葉を語るその神性についてのみ語るのなら、人の観念は半分に減り、すべての人々の困難が解決することさえあり得るだろう。
『神の出現と働き』「キリストの本質は父なる神の旨への従順さである」(『言葉』第1巻)より
キリストの本質は彼の働きと表現によって決定される。キリストは真の心で彼に委ねられた事を成し遂げ、天の神を敬い、父なる神の意志をも探し求めるのである。これらは全てキリストの本質により決められるものであり、彼の生まれ持った啓示も同じである。何故ならば、彼の表現は模倣ではなく、長年に渡る人間の教養や教育から来るものではないからである。それらの事は教えられたり自己の経歴ではなく、生まれ持ったものである。それらの事教えられたり自己の経歴ではなく、生まれ持ったものである。
人々はキリストの働き、表現や人間性、そして普通の人間性を持つキリストの生涯をも否定するかもしれない。しかし天の神を崇める時のキリストの真の心を否定する事は誰にも出来ないのだ。キリストは天の父の意志を為し遂げる為にここにいるのであり、父なる神を求める誠実さを否定する事は出来ない。彼の姿は多くの人に快い印象を与えないかもしれない。彼の語り方は多くの人を驚かせるような感じはないかもしれない。彼の働きは人々が想像の中で信じている。天地を揺るがすようなものではないかもしれない。父の意志を真の心と完全なる服従とそして命がけの従順さで成し遂げるのがキリスト、それがキリストなのだ。彼の本質はキリストの本質であり、信じ難いが、確かに存在する真実なのである。それは信じ難いが、確かに存在する真実なのである。
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より
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