神の働き、神の性質、そして神自身 2

(その3)

創造のはじめから今日まで、人間だけが神と対話できる存在である。つまり、全ての生き物および被造物の中で、人間だけが神と対話できるということである。人間には聞くための耳があり、見るための目があり、言葉を持ち、自分の考え、そして自由意志を持っている。人間は神が語るのを聞き、神の心を理解し、神に与えられた任務を受け容れるために必要なもの全てを持ち合わせており、そのような人間に対して、神は自身のあらゆる望みを置き、自身と同じ心を持ち、語り合うことのできる友となりたいと考える。神が経営を始めて以来、神は人間にその心を捧げてほしい、そうすることで清められ、整えられ、神が満足できるものとなり愛されるものとなり、神を敬い悪を避けるものとなって欲しいと願っている。神は人間がそのようになる日を心待ちにしている。聖書にはそのような人物の記録があるだろうか。つまり、聖書に記録されている人物で、その心を神に明け渡すことのできた人物はいるだろうか。時代を遡ってこのような人物を見つけることはできるだろうか。ここでは、聖書に書かれている記録を引き続き読み、ヨブという人物によって成されたことが、今日の主題である「心を神に捧げる」ことと関連があるかを見ていく。まず、ヨブは神に満足してもらうことのできる人物であったか、そして神に愛されていたかどうかを検討する。

あなたがたのヨブに対する印象はどのようなものだろうか。聖句をそのまま引用し、ヨブは「神を恐れ、悪に遠ざかった」と言う人がいる。「神を恐れ、悪に遠ざかった」というのは聖書に書かれているヨブの評価そのままである。もしあなたがた自身の言葉を使うならば、あなたがたはヨブをどう形容するだろうか。ヨブは理知のある良い人物だったという人もいるだろう。また、神に対して真の信仰者であったとか、義なる情け深い人であったという人もいるだろう。あなたがたはヨブの信仰を知っている。つまり、あなたがたはヨブの信仰を非常に重要なものと評価しており、その信仰をうらやましく思っている。そこで今日は、神が喜んだヨブが持っていたものとはどのようなものであったかを検討する。それでは次の聖句を読む。

C.ヨブ

1.神と聖書によるヨブの評価

(ヨブ記 1:1)ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。

(ヨブ記 1:5)そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。

(ヨブ記 1:8)ヤーウェはサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。

これらの聖句から読み取れる重要な点はどのようなものだろうか。この短い聖句3つは全てヨブに関連している。聖句は短くても、ヨブがどのような人物であったかを明確に示している。聖句から理解できるヨブの普段の振る舞いや行動から、ヨブに対する神の評価は根拠のないものではなく、十分な根拠に基づいていたことが誰にも分かる。これらの箇所から、ヨブに対する人間の評価(ヨブ記 1:1)も神の評価(ヨブ記 1:8)も、神と人との前におけるヨブの行い(ヨブ記 1:5)によるものであることが分かる。

ではまず、ひとつめの聖句を読もう。「ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」。聖書における最初のヨブの評価は、ヨブ記の著者によるヨブへの賞賛である。当然、それは人のヨブに対する評価である。つまり、「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」という評価である。次に、神のヨブに対する評価を読もう。「ヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にない」(ヨブ記 1:8)この2つのうち、ひとつは人間によるもの、もうひとつは神によるもので、同じ内容に対するふたつの評価である。ここで分かることは、ヨブの振る舞いと行動は人間に知られており、神に賞賛されていたということである。つまり、ヨブの行いは、人の前でも神の前でも変わらなかったということである。ヨブは常にその振る舞いとその動機を神の前に明らかにして神が見ることができるようにしており、また神を畏れて悪を避けた。それゆえ、神の目には、ヨブは地上で唯一完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人間だった。

ヨブが日々、神を畏れ悪を避けていたことを示す描写

次に、ヨブが神を畏れ悪を避ける具体的な例を検討する。ヨブ記 1:5をその前後の句を含めて読んでみよう。この聖句は、ヨブが神を畏れ悪を避けた様子を具体的に示している。そこから、ヨブが日々の生活の中でどのように神を畏れ悪を避けたかが分かる。特筆すべきは、ヨブは神を畏れ悪を避けるために自分がすべきことをしただけでなく、自分の息子たちのためにも定期的に全焼のいけにえをささげた。ヨブは息子たちが「罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。そしてその畏れはどのようにヨブの行動に現れただろうか。聖書には次のように書かれている。「そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた」。ヨブの行動から、彼の神への畏れは表面的なものではなく心の内側から出ているものであり、彼の日々の生活のあらゆる側面に神に対する畏れが常にあったことを見ることができる。彼は悪を避けただけでなく、自分の息子たちのためにしばしば全焼のいけにえを捧げていたことがそれを示している。言い換えれば、ヨブは神に対して罪を犯し心で神に背くことを深く恐れていただけでなく、息子たちが神に対して罪を犯し、心で神に背くことを憂慮していたのである。このことから、ヨブの神への畏れは非の打ち所がない真実なもので、それは誰にも疑う余地がなかったことが分かる。ヨブは時折こうしていたのだろうか、それとも頻繁にだろうか。聖句の最後に、「ヨブはいつも、このように行った」とある。これは、ヨブが時折息子たちの様子を見に行ったり、気が向いた時にだけ様子を見に行ったりしていたのではなく、祈りの中で悔い改めていたのでもない。ヨブは定期的に息子たちを送り出して聖別し、息子たちのために全焼のいけにえを捧げた。ここで言う「いつも」は、ヨブが1日か2日、もしくはほんの一瞬そのようにしたということではない。ヨブの神に対する畏れは一時的なものでもなく、知識だけのものや口先だけのものでもなく、神を畏れ悪を避けることによってヨブの心は導かれ、ヨブの振る舞いを決定していた。そしてそれはヨブの心の中で、自身の存在の根源となっていた。常にいけにえを捧げていたことから、ヨブが、ヨブ自身が罪を犯すこと、そして息子、娘たちも罪を犯すことを恐れていたことがうかがえる。ここから、神を畏れ悪を避けるということがヨブの心の中にどれだけ多くの比重を占めていたかが分かる。ヨブは恐怖と不安を感じていたので、いつもそのようにした。つまり、神に対して悪を行ない、罪を犯し、神の道から外れて神に満足していただけないことを恐れたために、いつもそのようにしたのである。同時に、ヨブは息子、娘たちが神の怒りを招いたのではないかと心配した。ヨブの通常生活における行いはこのようであった。この通常の行いこそが、ヨブの「神を畏れて悪を避ける」という表現が無意味ではなく、実際にそのように生きたことを証明する。「ヨブはいつもこのようにした」。この言葉はヨブが日々神の前にどのような行いをしているかを示している。ヨブがいつもこのように行動していた時、ヨブの振る舞いと心は神に届いただろうか。つまり、神はヨブの心と行いをしばしば喜んだだろうか。そうであれば、どのような状況で、どのような背景で、ヨブはそのようなことを続けたのだろうか。一部の人たちは、神が頻繁にヨブに現れたからだと言う。また、悪を避けるためにそうしたのだと言う人たちもいる。さらには、ヨブの富は簡単に手に入ったものではなく、神に与えられたものだと知っていたので、神の怒りを買うことで富を失うのを恐れたのだと言う人たちもいる。この中に正解はあるだろうか。どれも明らかに違う。なぜなら、神がヨブに関して受け容れ、尊いと感じたのは、ヨブがいつもそのようにしていたということではなく、サタンの手に渡されて誘惑された際にヨブが神、人、そしてサタンに見せた振る舞いであったからだ。以下に示す箇所は最も説得力のある証拠である。ここに神のヨブに対する評価の真実が示されている。続けて、以下の聖句を読んでいこう。

2.サタンがヨブを初めて誘惑する(ヨブの家畜が盗まれ、ヨブの子供たちに災いが降りかかる)

a.神が語った言葉

(ヨブ記 1:8)ヤーウェはサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。

(ヨブ記 1:12)ヤーウェはサタンに言われた、「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。サタンはヤーウェの前から出て行った。

b.サタンの返答

(ヨブ記 1:9-11)サタンはヤーウェに答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

ヨブの信仰を完全なものとするため、神はサタンがヨブを誘惑することを許す

ヨブ記 1:8は、聖書の中でのヤーウェ神とサタンのやりとりが記録されている最初の箇所である。そこで神は何と言っただろうか。聖書は次のように言っている。「ヤーウェはサタンに言われた、『あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか』」。これが、神がサタンに語ったヨブの評価である。ヨブは完全で正しい人、神を畏れ悪を避ける人だと神は言った。このやりとりの前、神は、ヨブを試みるためにサタンを用いることを決意し、ヨブをサタンの手に渡すことを決意した。ある意味では、神がヨブをサタンに渡したことで、神のヨブに対する見方と評価が正しく、何も間違えていなかったことが証明される。それにより、ヨブの証しを通してサタンが辱められる。そしてまたそれは、ヨブの神に対する信仰と神への畏れを完全なものとする。それゆえ神は、サタンが神の前に現れた時、曖昧な表現は使わず、単刀直入にこう聞いた。「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。この神の質問には次のような意味がある。神はサタンがあらゆるところを巡っているのを知っており、神のしもべであるヨブをしばしば偵察していることも知っていた。サタンはしばしばヨブを誘惑し、攻撃し、何とかヨブを崩壊させようとした。ヨブの神への信仰と神に対する畏れは堅固なものではないと証明しようとしたのである。サタンはヨブを虐げる機会をうかがって、ヨブに神を捨てさせ、神の手からヨブを奪おうと考えた。しかし神はヨブの心を見、ヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避けることを知った。サタンに対する質問を通して、神はヨブが完全で正しい人であり、神を畏れ悪を避け、神を捨ててサタンに従うことは決してないことを伝えたのである。ヨブに対する神の賞賛の言葉を聞いたサタンは、屈辱から怒りを感じ、その怒りは大きくなり、何としてもヨブを奪いたいと思った。サタンは完全で正しく、神を畏れ悪を避けることのできる人間などいないと信じていたからである。そしてまたサタンは人間の完全さと正しさを嫌っていたので、神を畏れ悪を避ける人を憎んでもいた。ヨブ記 1:9-11には以下のように書かれている。「サタンはヤーウェに答えて言った、『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう』」。神はサタンの悪意に満ちた性質をよく知っており、ヨブを虐げようと企んでいたことも良く知っていた。そのため神は、サタンに改めてヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人間であることを伝えることで、サタンが神と調和してその真の姿をヨブの前に現し、ヨブを試すようにすることを望んだのである。つまり、神はあえてヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人であると強調し、そうすることで、ヨブの完全で正しく、神を畏れ悪を避ける生き方を憎み、深く怒るサタンを用いてヨブを試したのである。ヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避ける事実を通して、結果的にサタンが恥じ入り、完全に辱められ、打ち倒されるためである。そうすることで、サタンはヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人であることを疑ったり非難したりすることはなくなるだろう。そのような訳で、神の試練とサタンの誘惑は避けることは困難だったのである。神の試練とサタンの誘惑に耐えることのできる者はヨブ以外にいなかった。このやりとりの後、サタンはヨブを誘惑する許可を得、サタンの最初の攻撃が始まった。この時はヨブの財産に対して攻撃が行なわれた。次の聖句に書かれたヨブの財産に関する非難の言葉からそのことが分かる。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。……あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです」。この言葉に対して、神はサタンがヨブの全財産を取り上げることを許している。これこそが神がサタンと語った目的であった。しかしその時、神はサタンにひとつのことを要求した。「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」(ヨブ記 1:12)これが、ヨブへの誘惑をサタンに許可し、ヨブをサタンの手に渡した際に神が出した条件だった。そしてこれが、神によって定められたサタンへの制限だった。つまり神は、ヨブに危害をくわえてはならないと命令したのである。なぜなら、神はヨブが完全で正しいことを知っており、ヨブが神の前で完全で正しい人でいられることを疑っておらず、試練に耐えられると信じていたからである。それゆえ、神はサタンにヨブを誘惑することを許すと同時に、制限を与えたのである。サタンはヨブの全財産を取り上げることを許されたが、ヨブに指一本触れることはなかったのである。これは何を意味するだろうか。それは、神はその時ヨブを完全にサタンに渡したわけではないということである。サタンはヨブを試みるためにどのような手段も使うことができたが、ヨブ自身に危害を加えることはできず、髪の毛に触れることすらできなかった。それは、人間の全ては神によって制御されており、人間が生きるか死ぬかは神によって決められることで、サタンにそれを決める権利はなかったからである。神がサタンにヨブを試す許可を与えた後、サタンは即座にヨブへの誘惑を開始した。サタンはあらゆる方法でヨブを試み、間もなくヨブは神に与えられたたくさんの羊や牛などの財産を失った。このようにして、神の試練がヨブに注がれた。

聖書を読めば、どうしてヨブに試練が降りかかったかが理解できるが、試みに会っているヨブ自身は、はたして何が起こっていたか理解していただろうか。人間に過ぎないヨブが、自分に降りかかった試練の背景にあるものを知るはずもない。しかし、神を畏れ、完全で正しいヨブには、神からの試練だと認識することができた。霊的領域で起きていたことや、試みの背後にある神の意図はヨブには分からなかったが、何が起ころうとも、完全で正しくあり続け、神を畏れ悪を避けて生きるべきだということをヨブは知っていた。このような出来事の中でのヨブの態度と反応を、神ははっきりと見ていた。神は何を見ていたのだろうか。神は、神を畏れるヨブの心を見ていた。というのは、ヨブの心は初めの時から試練を受けた時までずっと、神に対して開かれており、神に委ねられており、自身の完全さと正しさを手放すことはなく、神を畏れ悪を避ける生き方を変えなかった。神にとってこれ以上嬉しいことはなかったのである。次に、ヨブの試練がどのようなものであったか、そしてそれらの試練にヨブがどう対処したのかを検討する。それでは聖句を読む。

c.ヨブの反応

(ヨブ記 1:20-21)このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。

ヨブが自分の所有するものを全て返したのは神に対する畏れに起因するものである

「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」という神の言葉の後、サタンはその場を去り、間もなく、ヨブは突然の激しい攻撃を受けた。まず、ヨブの牛とロバが略奪され、しもべたちが殺された。次に、ヨブの羊としもべたちが焼き殺された。そしてらくだとしもべたちが殺され、ついには彼の息子、娘たちの命も奪われた。この一連の攻撃が、最初の試練でヨブに降りかかった試練である。神の命令により、これらの攻撃の最中、サタンはヨブの財産と子どもたちだけを攻撃し、ヨブ自身を傷つけることはなかった。だがヨブは、多くの富を持つ裕福な人間から、無一文の人間へと変わってしまったのである。このような突然の激しい試練と財産の喪失に耐えられるものはいないが、そのような中でヨブは並外れた側面を見せた。聖書は次のように言っている。「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝した」。ヨブが自分の子どもたちと全財産を失ったと知った時にまず見せた態度はこのようなものであった。まず驚くこともうろたえることもなく、ましてや怒りや憎しみを現すことなどなかった。つまり、ヨブは自分に起こった災難が偶然でもなく、人間によるものでもなく、ましてや報いや罰などではないと初めから分かっていたのである。それはヤーウェからの試練であり、ヤーウェが自分の財産と子どもたちを取り上げることを望んだのだと知っていたのである。ヨブの心はいたって穏やかで、思考もはっきりしていた。ヨブの完全で正しい人間性ゆえに、降りかかった災難を理性的に、自然に判断し決断することができ、並外れた冷静さで対応することができたのである。「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝した」。「上着を裂き」というのはヨブが衣服を身につけておらず、何も持っていなかったことを意味する。「頭をそり」というのは、生まれたばかりの赤児として神のもとへ戻ったことを意味する。「地に伏して拝した」というのは、ヨブがこの世に裸でうまれ、今日も何も持たず、赤児のままで神のもとに戻ったことを意味する。降りかかった全ての出来事をヨブのように受け止めることができる被造物は存在しない。ヨブのヤーウェに対する信仰は、単に信じるという領域を越えていた。それは神への畏れであり、従順である。ヨブは神が与えることに感謝したのみならず、取られることにも感謝したのである。さらにヨブは、自分の命も含めて、全財産を自らすすんで神に返すことができたのである。

ヨブの神への畏れと従順は人類の模範となるものであり、彼の完全さ正しさは人間が持つべき人間性の頂点である。彼は神を見ることはなかったが、神は存在すると認識しており、ゆえに神を畏れた。そして神への畏れのゆえに、彼は神に従うことができた。彼は神が自分の持てるもの全てを自由に取り上げることを許し、そしてそのことを不満に思うこともなく、神の前にひれ伏し、たとえその瞬間に神が自分の肉体を取り上げることがあろうとも、不満など言わずに喜んで受け入れると言ったのである。彼の行動全てが彼の完全で正しい人間性によるものだった。つまり、彼の純粋さ、正直さ、優しさの結果、神の存在に対する経験と確信は揺らぐことがなかったのである。そしてこのようなものが基礎となって、神による導きと彼が万物において目にしてきた神の行いに沿って、自分にすべきことを課し、神の前での考え方や振る舞い、行いや行動の原則を標準化したのである。時間とともに、ヨブの経験は、神に対する現実的で実質的な畏れをヨブの中に生じさせ、悪を避けるようにさせた。これがヨブの誠実さの根源となっているものである。ヨブは正直で、汚れのない、優しい人間性を持っており、実際に神を畏れ、神に従い、悪を避けるという経験をしており、それと同時に「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ」という認識を持っていた。これらの理由だけで、サタンのあれだけひどい攻撃を受けながらも固く立ち、神の証人となることができた。またこれらの理由だけで、神の試練を受けた時にも神を失望させず、神に満足する答えを返すことができたのである。ヨブの最初の試みに対しての行動は非常にまっすぐなものだったが、後の世代の人々は一生努力を重ねてもヨブのようなまっすぐさを会得したり、あるいは彼のような行動がとれるまでになれたりするかは定かではない。今日、ヨブのまっすぐな行動を見て、そのヨブの行動と神を信じ従っていると自称している人々の「死までの完全な従順と忠誠」の叫びと決意とを比べると、あなたがたは恥じ入るだろうか、あるいは恥じ入らないだろうか。

ヨブと彼の家族の苦しみを聖書で読んで、みなさんの反応はどのようなものだろうか。戸惑いを感じるだろうか。驚いているだろうか。ヨブが受けた試練は「恐ろしい」と言えるものだろうか。つまり、聖書に書かれているヨブの試練を読むだけでも恐ろしく、実際にそれがどのように恐ろしいものだったかを説明するまでもない。であれば、ヨブに起こったことは「演習」ではなく、「銃」と「銃弾」を伴う「実戦」であることがわかる。では誰の手によってこの試練は起こされたのだろうか。もちろんサタンによってである。サタンによって直接行なわれたのである。しかし、神がその権限を持っていた。神はサタンに、どのようにヨブを試みるかを指示しただろうか。神はそのようなことは伝えていない。神はサタンにひとつの条件を与えただけで、その後ヨブに試練が臨んだ。ヨブに試練が臨んだ時、サタンの邪悪さと醜さ、サタンの人間に対する悪意と嫌悪、神に対する敵意が人々に伝わった。それにより、ヨブの試練がどれほど壮絶なものであったかが言葉では表現できないことが分かる。この瞬間に、サタンの人を虐げる悪意に満ちた性質と醜い顔とがはっきりと現れたと言える。サタンは神の許可により得た機会を用いて、残虐にも激しくヨブを痛めつけ、その程度は今日の人々には耐えられないほど想像を絶するものであった。ヨブはサタンの試みに遭ったけれども証しに堅く立ち続けたというより、むしろ、神がヨブに与えた試練の中で、ヨブ自身がサタンと戦うことで、自身の完全さと義を守り、神を畏れ悪を避ける道を守ったという方が良いだろう。この戦いで、ヨブは多くの羊と牛、全ての財産、息子・娘たちも失った。しかし彼は完全さと義、神に対する畏れを捨てることはなかった。つまり、このサタンとの戦いで、ヨブは完全さ、正しさ、そして神への畏れを失うより、財産と子供を失う方を選んだのである。人間であるということはどういうことなのか、その根源を手放さないことを選んだ。聖句にはヨブが財産を失った全過程が簡潔に記されており、その事に対するヨブの対応や態度も記されている。記述が簡潔な故に、試練にあったヨブがあたかもゆったりと構えていたかのような印象を与えるが、もしその時に起こったことを再現し、悪意に満ちたサタンの性質も再現したならば、聖句に書かれているように簡単ではない。実際には書かれているよりはるかに過酷だったのだ。人間と神に認められているもの全てに対するサタンの扱いは、それほどまでに破壊的で憎しみに満ちているのである。もし神が、ヨブ自身に害を加えてはならないとサタンに伝えなかったならば、サタンは平気でヨブを殺していただろう。サタンは誰も神を崇拝することを望まず、神の目に義なる者や完全で正しい者が神を畏れ続け、悪を避け続けることを望まない。人々が神を畏れ悪を避けることは、サタンを避けて見捨てるということである。それであるから、サタンは神からの許可を利用して、怒りと憎しみを情け容赦なくヨブにぶつけたのである。ヨブの心と体が、内側も外側も、どれほど苦しんだかが分かるであろう。その時の様子がどんなであったかは今日のわたしたちが知ることはできず、聖句を通して、試練に遭ったヨブの当時の感情を僅かに知ることができるのみである。

ヨブの揺るぎない高潔さはサタンを恥じ入らせ、慌てて退散させた

ヨブが試練に遭っていた時、神は何をしていただろうか。神はその様子を観察し、試練の結果がどうなるかを待っていた。観察し、待っている間、神はどう感じただろうか。勿論、悲しみに打ちひしがれた。しかし、あまりの悲しみに、サタンがヨブを試みることを許可したことに対して、神は後悔しただろうか。神は後悔しなかった。ヨブが完全で義人であり、神を畏れ悪を避ける人であると神は堅く信じていた。神はサタンによってヨブが神の前に義なる人間であることを証明させる機会を与え、サタンの邪悪さと卑劣さを暴露させただけである。それはヨブにとって、義人であり、神を畏れ、悪を避ける自身を世界の人々とサタンさらには神に従う人々にまでも証しする機会となった。そしてこの試練の結果は、ヨブに対する神の評価が正しく、何も間違っていないことを証明しただろうか。ヨブは果たしてサタンに打ち勝っただろうか。ヨブがサタンに打ち勝ったことを証明する典型的な言葉が書かれている。ヨブは言った。「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう」。これがヨブの神に対する従順であった。そしてヨブはまた言った。「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。ヨブのこれらの言葉は、神は人の心の奥深くを見ていること、人の考えを見ていることを証明するもので、ヨブに対する神の評価に誤りはなく、確かにヨブは正しいひとであったことを証明する。「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。これらの言葉はヨブの神への証である。サタンを脅かしたのはヨブが普通に使っていたこのような言葉で、それがサタンを辱め、慌てて退散させることになった。さらにはサタンに足かせをつけ、骨抜きにした。それだけでなく、ヨブの言葉はヤーウェ神の偉大さと業の力を実感させ、その心が神に支配されている者がどれほど並外れた能力を持つことができるかをサタンに思い知らせた。そして更には、ヨブという取るに足りない普通の人間が、神を畏れ悪を避けることに対する驚くべき力をサタンに対して見せつけたのである。こうしてサタンは最初の戦いに敗れたのである。「痛い思いをして理解した」にも関わらず、サタンはヨブを諦めようとせず、その邪悪な性質も変わらなかった。ヨブを攻撃しようと、サタンは再び神の前に来た。

『言葉は肉において現れる』より引用

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