日々の神の御言葉: 神の働きを認識する | 抜粋 191

神は、香港や台湾の同胞が内地と呼ぶ中国本土で人の姿となって現れている。神が天から地上に来た時、天でも地上でも誰もそのことを知らなかった。これが、隠れた形で神は戻るという本当の意味だからである。神は人の姿となって長い間働き、生活してきたが、誰もそのことを知らなかった。今日に至ってさえ、誰もそのことに気づいていない。多分、これは永久になぞのままだろう。神が今回肉となったことは、誰もが気づけることではない。聖霊の働きがどんなに大規模で強力であっても、神はいつも冷静で、決して内心をさらけださない。あたかもこの段階の神の働きは天国で行われているかのようだと言うことができる。すべての人にとって完全に明らかであるにもかかわらず、誰もそれに気づかない。神がこの段階の働きを終える時、すべての人は長い夢から覚め、過去の態度を逆転させるだろう。わたしはかつて神が、「今回人の姿となったことは虎の穴に落ちるようなものだ」と言ったことを覚えている。これが意味するのは、今回の神の働きでは神が人の姿となり、赤い大きな竜の住み家で生まれるので、今回神の地上への到来は非常な危険を伴っているということだ。神が直面するのはナイフと銃とこん棒である。神が直面するのは誘惑である。神が直面するのは殺意のある顔つきをした群衆である。神は今すぐにも殺される危険を冒している。神は確かに怒りをもって来た。しかし、神は人間を全きものとする働きをするために来た、つまり、贖いの働きの後に続く神の働きの第二部を行うために来たのである。この段階の働きのために、神は精一杯考え、配慮し、誘惑の攻撃を避けるために考えつく限りのあらゆる手段を用いており、謙虚に身を潜め、決して正体を誇示しない。人間を磔から救うことに関しては、イエスはただ贖いの働きを完成していただけで、人間を全きものとする働きはしていなかった。従って神の働きの半分しか行われておらず、贖いの働きを終えることは神の計画全体の半分でしかなかった。まもなく新時代が始まり、古い時代は遠ざかろうとしていたので、父なる神は働きの第二部を検討し始め、そのための準備を開始した。これまで、この終わりの日の受肉は予言されなかったかもしれず、従って今回神が肉となったことについて隠匿性が増す土台となった。夜明けに、誰にも知られずに神は地上に来て、人の姿で生活を始めた。人々はこの瞬間に気づかなかった。彼らはみなぐっすり眠っていたかもしれない。注意深く目を覚ましていた多くの人は待っていたかもしれない。多くの人は静かに天の神に向かって祈っていたかもしれない。しかし、これら多くの人たちすべての中で、一人として神が地上にすでに到着していることを知らなかった。神はもっと円滑に働きを実行し、よりよい結果を達成するためにこのように働いたのであり、それはさらなる誘惑を避けるためでもあった。人が春の眠りから覚める時、神の働きはそのずっと前に終わっているだろう。地上を歩き回り逗留する生活を終え、神は旅立つ。神の働きには神が自ら行動し、語ることが必要なので、また、人が手を貸すことなどできないので、神は地上に来て、自分で働きを行うために非常な苦しみに耐えた。人が神の働きの代役をつとめることはできない。従って、神は恵みの時代の危険より数千倍も大きな危険を冒し、自分の働きを行うために赤い大きな竜が住むところに降りてきて、この貧困に陥った人々の一団を救い出すために、この山のような汚物にまみれた人々を救い出すために、神の思考と気遣いのすべてを注ぎ込む。たとえ誰も神の存在について知らなくても、神が悩まないのは、知らないほうが働きのためになるからである。あらゆる人は残忍なほど邪悪なので、どうして神の存在を容認することができようか。そういうわけで神は地上ではいつも沈黙している。人がどんなにひどく残酷であっても、神はそれを苦にすることはなく、なすべき働きを行い続け、天の父に与えられたもっと大きな任務を履行する。あなたたちの誰が神の愛らしさに気づいているだろう。誰が父なる神の重荷に対して神の子以上の思いやりを示すだろう。誰が父なる神の心を理解することができるだろう。天の父なる神の霊はしばしば悩まされ、地上の神の子は心がずたずたになるほど心配して、父なる神の心のためにたびたび祈りを捧げる。父なる神のその子に対する愛を知っている者がいるだろうか。最愛の子が父なる神をどんなに恋しく思っているか知っている者がいるだろうか。天と地の間に引き裂かれて、二人は絶えず遠くからお互いの姿を注視し、霊において一緒にいる。ああ、人類よ。あなたたちはいつ神の心を思いやるのだろう。あなたたちはいつ神の心を理解するのだろう。父と子はつねに互いを頼りにしてきた。ではなぜ彼らは別れていて、一人は天に、一人は地上にいるのだろう。子が父を愛するように、父は子を愛している。ではなぜ父はそのように切望して待ち、そのように心配しながら切望しなければならないのだろう。彼らは長い間離れていたわけではなかったが、父がすでに何昼夜も不安げに切望し、愛しい子が早く戻ってくることを楽しみに待ち続けていることを誰か知っているだろうか。神は観察し、黙って座り、待つ。すべては愛しい子が早く戻ってくるためである。いつになったら彼は地上でさまよっている子と再び一緒になるのだろう。かつては一緒にいて、永遠に一緒にいるであろうにもかかわらず、どうして父と子は何千昼夜ものあいだ、一人は天に、一人は地上と別れていることに耐えることができるのだろう。何十年も地上にいることは何千年も天にいるようなものだ。父なる神はどうして心配しないでいられるのだろう。神が地上に来れば、人と同様に人間世界の多くの苦難を経験する。神自身は罪がないのに、なぜ神に人と同じ痛みで苦しませるのか。父なる神が子を熱心に切望するのは驚くに当たらない。神の心を誰が理解することができようか。神は人に多くを与えすぎる。どうしたら人は神の心に適切に報いることができるだろう。しかし人が神に与えるものは少なすぎる。したがって神はどうして心配しないでいられようか。

『神の出現と働き』「働きと入ること(4)」(『言葉』第1巻)より

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