日々の神の御言葉: 神の性質、および神が所有するものと神そのもの | 抜粋 260
この世に来る者はすべて、生と死を経験しなければならず、多くの者が死と再生のサイクルを経験した。生ける者は間もなく死に、死せる者は間もなく返ってくるだろう。これはすべて、生ける者それぞれのために神によって手配された人生の行路なのである。しかしながら、この行路とサイクルは、神が人に見…
神の出現を待ち望むすべての人を歓迎します!
確信がなければ、その道を歩み続けるのは容易でない。現在、神の働きが人間の観念とまったく一致していないことを、誰もが知っている。神は数多くの働きを行ない、数多くの言葉を語ってきたが、それらは人間の観念にまったくそぐわないのである。したがって、人は確信と意志の力をもち、自分がすでに見たもの、経験から得たものを固持できるようにならなければならない。神が人の中で何を行なおうと、人は自分が有するものを守り、神の前で真摯になり、最後まで神に対して忠実でいなければならない。これが人間の本分である。人は自分のすべきことを守らなければならない。神への信仰には、神への服従と、神の働きを経験することが必要とされる。神はすでに多数の働きを行なっており、人にとって、それはどれも完全化、精錬、さらには刑罰だと言えるだろう。神の働きの各段階のうち、人間の観念と一致するものはいまだかつてなく、人々が享受してきたのは神の厳格な言葉である。神が来るとき、人は神の威厳と怒りを享受することになる。しかし、神の言葉がいかに厳格だとしても、神は人類を救い、完全にするために来る。被造物として、人は尽くすべき本分を尽くし、精錬のさなかに神の証しに立たねばならない。あらゆる試練において、人はなすべき証しを固く守り、神のために鳴り響くような証しを行なう必要がある。そうする人が勝利者である。神があなたをいかに精錬しようと、あなたは確信に満ちたままでいなければならず、神への確信を決して失ってはならない。人間が行なうべきことをしなさい。それが、神が人間に求めることであり、人の心はいかなるときも完全に神へと立ち返り、神のほうへ向かわねばならない。それが勝利者である。神が「勝利者」と呼ぶ者は、サタンの支配下に置かれ、サタンに包囲されたときでさえ、つまり闇の軍勢のただ中にいるときでさえ、神の証しに立ち、神への確信と忠誠を維持できる者である。何があろうと依然として神の前で純真な心を保ち、神に対する真の愛を維持できるのであれば、あなたは神の前で証しに立っており、それが神の言うところの「勝利者」になることである。神から祝福されているときの追求が優れていても、神の祝福がなければ逃げ出すのであれば、それは純粋さだろうか。あなたは、その道が正しいと確信しているのだから、最後までその道に従い、神への忠誠を保たなければならない。あなたは、神自身があなたを完全にすべく地上に来たのを見てきたのだから、自分の心をすべて神に捧げるべきである。神が何を行なおうと、たとえ最後にあなたにとって好ましくない結末に決めたとしても、それでもあなたが神に従えるのであれば、それが神の前で純粋さを保つということである。聖なる霊体と純粋な乙女を神に捧げることは、神の前で真摯な心を保つことを意味する。人類にとって、真摯さとは純粋さであり、神に対して真摯になれるというのは、純粋さを維持するということである。これがあなたの実践すべきことである。祈るべきときは祈りなさい。集まって交わりをもつべきときはそうしなさい。賛美歌を歌うべきときは歌いなさい。肉に背くべきときは背きなさい。自分の本分を尽くすとき、どうにか切り抜けようとしてはならず、試練に直面したときは堅く立ちなさい。それが神への忠誠である。人が行なうべきことを守れなければ、あなたの以前の苦難と決意はすべて徒労に終わったのである。
『神の出現と働き』「あなたは神への忠誠を保たなければならない」(『言葉』第1巻)より
純潔な乙女と聖なる霊の体を捧げる。それは神に誠意を尽くすこと、人が神に誠意を尽くせるのは純潔だ。聖霊の働きには条件がある。人は心を尽くして求め、神の行いに疑惑を持たず、本分を常に保持すべきだ。これが聖霊の働きを得る方法。この道が正しいと信じるなら、終わりまで従い、神へ忠誠を尽くすべきだ。あなたを完全にするため、神自らが地上に来るのを見たのだから、心全てを神に捧げるべきだ。神が何をしても、あなたの結果が悪くても、常に神に従うことができる。これが純潔を保つということ。
神の働き全てに人は大きな信仰を持ち、神の前で求めるべきだ。人は経験を通してのみ、神の麗しさ、聖霊の働きを見ることができる。あなたが経験・模索せず、求めないなら何も得ないだろう。経験を通し、神の業を素晴らしく、計り知れない神を見るから、この道が正しいと信じるなら、終わりまで従い、神へ忠誠を尽くすべきだ。あなたを完全にするため、神自らが地上に来るのを見たのだから、心全てを神に捧げるべきだ。神が何をしても、あなたの結果が悪くても、常に神に従うことができる。これが純潔を保つということ、創造物の本分を尽くし、たとえ結果がどうであろうと、神を知り、愛することが求められる。どう扱かわれようと不平を言わない。
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より
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