人類は真摯な悔い改めにより神の憐れみと寛容を得る(2)

2018年2月16日

ニネベの王が悔い改めたので、ヤーウェ神は称賛した

ニネベの王が知らせを聞いたとき、王は王座から立ち上がって朝服から荒布に着替え、灰の中に座りました。そして王は、町の人々全員に、全員何をも味わってはならない、そして家畜、羊、牛も物を食い、水を飲んではならない、と宣言しました。人間も家畜も同様に荒布を身にまとい、人々は熱心に神に懇願しました。また王は、各人が悪の道を離れ、その手にある強暴を捨てよ、と宣言しました。このような一連の行動から判断すれば、ニネベの王は心から悔い改めていました。王座から立ち上がり、朝服から荒布に着替え、灰の中に座るという、王が取った一連の行動は、ニネベの王が王という身分を脇へやり、一般人と同様に荒布をまとったということです。これは、ヤーウェ神の宣告を聞いた後、ニネベの王は王位において邪悪な行いやその手で暴力を続けず、むしろ王の権威を脇へやり、ヤーウェ神の前で悔い改めた、ということです。このとき、ニネベの王は王として悔い改めたのではなく、神の普通の臣民として悔い改め罪を告白するために神の前に来たのです。その上、王は、自分と同じようにヤーウェ神の前で悔い改めて罪を告白するように町全体に命じました。さらに、聖書にある通り、どのように悔い改めるかについて、王は具体的に決めていました。それは、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。……ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ」でした。町の支配者として、王には最高の地位と権力があり、何でも思う通りにできました。ヤーウェ神の宣言を聞いた王は、それを無視したり、自分だけが悔い改めて罪の告白をしたりすることもできたはずです。町の人々が悔い改めるか否かについて、王は完全に無視することもできたはずです。しかし、王はそのようなことを一切しませんでした。王は、王座から立ち上がり、荒布を身にまとって灰の中に座ってヤーウェ神の前で悔い改め罪を告白しただけでなく、町の人々全員、家畜のすべてが王と同様にするよう命じました。王は人々に「ひたすら神に呼ばわり」とさえ命じました。これら一連の行動により、ニネベの王は支配者が真に達成すべきことを達成したのです。王が取った一連の行動は、人類史上においてどの王にとっても困難なことであり、他に同様のことを成し遂げた王はいませんでした。これらの行動は、人類史上で前例のないことであったと言え、称賛され、人類が倣う価値のあることです。人類の黎明以来、王は皆、臣民が神に抵抗し、反対するように導いていました。それまで、それぞれの悪に対して神に贖いを求めるよう臣民を祈らせ、ヤーウェ神の赦しを得て、喫緊の罰を免れるように導いた王はいませんでした。しかしニネベの王は、その臣民に、神に立ち返り、各人が悪の道を離れ、その手にある強暴を捨てるように導くことができました。加えて、ニネベの王は自らの王位を脇へやることができ、そのためヤーウェ神は思い直して後悔し、怒りを撤回し、ニネベの町の人々が滅びを免れ、生き残ることができるようにしました。ニネベの王の行動は、人類史上希にみる奇跡というほかなく、また、堕落した人類が神の前で悔い改め罪の告白を行なった模範とさえ呼べます。

神はニネベの人々の心に真摯な悔い改めを認めた

神の宣告を聞いた後、ニネベの王と臣民たちは一連の行動を取りました。彼らの行動と振る舞いの特性は何でしたか。言い換えるなら、彼らの行動全体における真髄は何でしたか。彼らはなぜそのような行動を取ったのですか。神の目には、ニネベの人々は真摯に悔い改めたと映りました。それは彼らが神に心から誓願し罪を告白しただけでなく、自分たちの悪の行いも捨てたからです。彼らがこのような行動を取ったのは、神の言葉を聞いた後、大いに恐れ、神が言葉通りの業を行うものと信じたからです。断食して粗布をまとい、灰の中に座ることで、彼らは自分たちのあり方を改めて悪から離れる決意を示し、ヤーウェ神に怒りを静めるよう祈り、裁きと差し迫った災いの取消を求めました。ニネベの人々のすべての行動を検討すると、彼らのこれまでの邪悪な行動がヤーウェ神により嫌悪されていたことも、ヤーウェが自分たちを間もなく滅ぼす理由も彼らはすでに理解していたことがわかります。そのため、ニネベの人々全員が完全に悔い改め、悪の道を離れ、その手から強暴を捨てることを望んだのです。換言すると、ニネベの人々がひとたびヤーウェ神の宣言に気づくと、彼らの一人ひとりが心に恐怖を覚え、悪の道を離れて、ヤーウェ神が嫌悪する行動を続けることを止めました。さらに、彼らはこれまでの罪が赦されることと、これまでの行動に基づいて彼らを処分しないことをヤーウェ神に誓願しました。ニネベの人々は二度と悪に関わらず、ヤーウェ神の怒りを買わないようにすることが可能ならば、ヤーウェ神の指示に従って行動するのをいといませんでした。彼らの悔い改めは真摯で、徹底していました。それは彼らの心から出たものであり、偽りでも一時的なものでもなかったのです。

ひとたび王から臣民までニネベ人全員が、ヤーウェ神が自分たちに怒りを覚えていることを知ると、彼らのその後のあらゆる行動、あらゆる判断や選択は、神の目に明らかなものになりました。ニネベの人々の振る舞いに従い、神の心は変わりました。この時点で神の心情はどのようなものでしたか。その答えは聖書に記されています。聖書には、「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった」(ヨナ書 3:10)とあります。神は思い直したものの、神の心情に複雑なものは一切ありませんでした。神はただ怒りの伝達から怒りの鎮静へと移行し、ニネベに災いを下さないと決めただけです。神がニネベに災いを下さないと迅速に決断したのは、神がニネベの人々すべての心を観察したからです。神は彼らの心底にあったもの、すなわち真摯な悔い改めと罪の告白、ヤーウェ神への真摯な信仰、自分たちの悪行がいかに神の性質の怒りを買ったかということの深い意識、それゆえのヤーウェ神による間近に迫った罰への恐れを見ました。同時に、災いを免れることができるようにヤーウェ神に自分たちへの怒りを静めるよう誓願するニネベの人々の心底からの祈りをヤーウェ神は聞いたのです。これらの事実を観察したとき、神の怒りは徐々に静まりました。神の怒りがそれまでどれほど激しかったにせよ、人々の心底からの真摯な悔い改めに神の心は動かされ、彼らに災いをもたらすことに耐え兼ね、彼らへの怒りを静めました。その代わりに、神はニネベの人々に続けて憐れみと寛容さを示し、導き、施し続けました。

神への信仰が真実であれば、頻繁に神の労りを受けられる

ニネベの人々への神の意図の変化には、躊躇や曖昧さが一切含まれていません。むしろ、それは純粋な怒りから、純粋な寛容への変化でした。これは神の本質の真の明示です。神はその行ないにおいて、優柔不断であることや躊躇することが決してありません。神の行ないの背後にある原則と目的はすべて明白かつ透明、純粋で完璧であり、その中に策略や陰謀は一切潜んでいません。つまり、神の本質には闇や邪悪が一切含まれていないのです。ニネベの人々の悪の行いが目に留まったため、神は彼らに怒りを覚えました。このとき、神の怒りは神の本質に由来していました。しかし、神の怒りが消え、ニネベの人々に再び寛容を見せたときに神が明示したものも、やはりすべて神の本質でした。この変化は、すべて人間の神に対する姿勢の変化に起因しました。この間、侵害を許さない神の性質も、神の寛容な本質も、神の愛と憐れみに満ちた本質も変わりませんでした。人が邪悪な行動を取り、神を侵害すると、神はその人に神の怒りを下します。人が真に悔い改めれば、神の心は変化し、神の怒りは静まります。人が頑なに神に反抗し続けると、神の怒りは静まらず、神の激しい怒りは徐々にその人に迫り、最終的にその人は滅びます。これが神の性質の本質です。神が表しているのが怒りであれ、憐れみと慈愛であれ、人間の行動や振る舞い、そして心底にある神への態度が、神の性質の明示において何が表されるかを左右します。神がある人に怒り続けているならば、その人の心は間違いなく神に反抗しています。その人は真に悔い改めたことも、神の前で頭を下げたこともなく、神への真の信仰を持ったこともないため、神の憐れみと寛容を得たことがありません。ある人が神の労りや憐れみ、寛容を頻繁に受けているのなら、その人の心には間違いなく神への真の信仰があり、その心は神に反抗していません。その人はしばしば神の前で正直に悔い改めるので、その人にしばしば神の懲らしめが下ったとしても、神の怒りが下ることはありません。

この簡潔な記述により、人は神の心、神の本質の現実性を見て、神の怒りと神の心の変化には理由があるということを理解できるようになります。神が怒っていたときと心を変えたときに見せた際立った違いにより、神の怒りと寛容という神の本質の二側面には大きな隔たりや違いがあると人々は考えます。しかし、ニネベの人々の悔い改めへの神の姿勢に、神の真の性質の別の側面を人は見ることができます。神の心の変化により、人は神の憐れみと慈愛の真実を再び見、神の本質が真に明示されるのを見ることができます。人間は、神の憐れみと慈愛が単なる神話でも虚構でもないということを認めるほかありません。それは、その時点での神の感情、神の心の変化は真実であり、神はまさしく憐れみと寛容を再び人間に与えたからです。

ニネベの人々の心からの真の悔い改めが神の憐れみを得て、滅びの運命を変える

神の心の変化と怒りには何か矛盾がありましたか。もちろん、ありませんでした。それは、そのときの神の寛容には理由があったからです。どのような理由ですか。それは聖書に記されています。聖書には、「おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ」とあります。

この「悪い道」は、数件の悪業ではなく、人々の振る舞いの邪悪な起源を指します。「その悪い道を離れる」とは、ニネベの人々が二度とそうした行為をしない、ということです。つまり、彼らは二度と邪悪な行動をせず、行動の方法、根源、目的、意図、原則をすべて変え、自分たちの心に楽しみと幸福をもたらすために、そのような方法や原則を二度と使用しない、ということです。「その手にある強暴を離れよ」の「離れ」とは、過去を破棄し、捨て去り、完全に断ち切って、二度と戻らないことを意味します。ニネベの人々がその手から強暴を捨て去ったということは、彼らの真の悔い改めを証明し、表しています。神はニネベの人々の外観とともに、心も観察します。神がニネベの人々の心に異論の余地のない真の悔い改めを確認し、また彼らが悪の道を離れ、その手から強暴を捨て去ったことを観察したとき、神は心を変えました。つまり、彼らの行動、振る舞い、様々な行ないの方法、そして真の罪の告白と悔い改めが、神にその心、意図を変えさせ、決断を撤回させ、ニネベの人々を罰することも滅ぼすこともしなかったのです。したがって、ニネベの人々は違う結末を迎えることができました。彼らは自分たちの命を取り戻すと同時に、神の憐れみと寛容を獲得し、この時点で、神は自身の怒りを撤回したのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

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