創造主の身分をもつ神だけが、唯一無二の権威を有している
サタンがもつ「特別」な身分のために、人々はサタンが表わす様々な側面に強い関心を示してきました。中には、サタンは奇跡を起こし、人間には不可能なことができるので、サタンにも神と同じく権威があると信じている愚かな人さえいます。そうしたわけで、人類は神を崇拝するだけでなく、心の中にサタンの居場所をとっておき、サタンを神として崇拝することさえします。こうした人は哀れであると同時に憎むべき存在です。彼らは無知のために哀れであり、その異端的な信条と、持って生まれた邪悪な本質のために憎むべき存在なのです。ここで、権威とは何か、権威が象徴するものは何か、権威が表わすものは何かを皆さんに教える必要があるでしょう。概して言えば、神自身が権威であり、その権威は神の至高と実質を象徴し、神自身の権威は神の地位と身分を表わします。そうであれば、サタンは自分こそ神であるなどとあえて言うでしょうか。自分が万物を創り、万物を支配しているなどとあえて言うでしょうか。当然ながら、そのようなことは言いません。なぜなら、サタンは万物を創造することができないからです。現在に至るまで、神が創ったものをサタンが創ったということは一度もなく、サタンがいのちあるものを創ったこともありません。サタンには神の権威がないので、神の地位と身分を有することはとても不可能であり、これはサタンの本質によって決まることです。サタンに神と同じ力はありますか。当然ながら、そのようなことはありません。サタンの行動や、サタンが起こした奇跡を、わたしたち何と呼びますか。力でしょうか、それとも権威でしょうか。もちろん違います。サタンは邪悪な潮流を率い、神の働きのあらゆる側面を乱し、損なわせ、妨げます。これまでの数千年間、人類を堕落させ乱暴に扱い、人間をそそのかして騙し、それによって人間が堕落して神を拒む状態にし、死の淵に向かわせた以外に、サタンは人間による記念、称賛、敬愛に少しでも値することを行なったでしょうか。サタンに権威と力があるなら、人類はサタンによって堕落させられていたでしょうか。サタンに権威と力があるなら、人間はサタンによって害を被ったでしょうか。サタンに権威と力があるなら、人類は神を捨てて死に向かっていたでしょうか。サタンに権威も力もないのなら、そのすべての行ないの本質についてどう結論づけるべきでしょうか。サタンによるすべての行ないを単なる策略と定義する人もいますが、そのような定義はさほど適切ではないとわたしは考えます。人類を堕落させるという邪悪な行ないは、単なる策略でしょうか。サタンがヨブを虐げた邪悪な力と、ヨブを虐げて食い尽くそうとする激しい願望は、単なる策略ではとても成し遂げられないものです。振り返ると、丘や山の一面に群れていたヨブの動物たちは、一瞬にして消え去りました。ヨブの巨大な富も一瞬にして消え去りました。これは単なる策略でなし得たことでしょうか。サタンによる行ないの性質は、どれも損傷、妨害、破壊、危害、邪悪、悪意、闇などといった否定的な言葉に一致するものであり、不正で邪悪な出来事のすべてはサタンの行為と密接に繋がっていて、サタンの邪悪な本質と切り離すことができません。サタンがいかに「強力」か、その大胆さと野望がどれほどのものか、危害を加える能力がどれほどのものか、人間を堕落させ、誘惑する技能の幅広さがどれほどのものか、人間を脅かす策略や計略がどれほど狡猾か、そしてサタンの存在する形態がどれほど変化可能かを問わず、サタンは一つの生物も創れたことも、万物の存在に関する法則や規律を定められたこともなく、いのちあるものかどうかにかかわらず、何かの物体を支配して操れたこともありません。宇宙と大空の中に、サタンから生まれた人間や物、サタンのおかげで存在する人間や物、サタンに支配されたり操られたりしている人間や物はまったく存在しません。それとは逆に、サタンは神の支配下で暮らすしかなく、その上神の指示と命令にすべて従う必要があります。神の許しがなければ、サタンはひとしずくの水やひと握りの砂に触れることさえ困難です。また、地面の蟻を自由に動かすことさえできず、ましてや神の創った人類を動かすことなど不可能です。神から見ると、サタンは山に咲くユリの花よりも劣り、空を舞う鳥や海の魚にも劣り、地のウジ虫にも劣ります。万物の中におけるサタンの役割は、万物に仕え、人類のために働き、神の働きと経営計画に役立つことです。サタンの本性がどれほど悪意に満ちていようと、その本質がいかに邪悪であろうと、サタンにできるのは、神に仕え、神を際立たせるという、その役割に従順に従うことだけです。これがサタンの本質と立場です。サタンの本質はいのち、力、権威から切り離されており、サタンは神の手中にある玩具、神に役立つ道具に過ぎません。
サタンの本当の顔を理解しても、権威とは何かをいまだ理解していない人が大勢いるので、ここで言っておきます。神の権威はそれ自体が神の力だと説明できます。まず、権威と力はともに肯定的なものだと断言できます。それらは否定的なものと何らつながりがなく、いかなる被造物やそれ以外のものとも関係がありません。神の力は、いのちと活力をもつ、あらゆる形のものを創ることが可能であり、それは神のいのちによって決まっています。神はいのちであり、したがってあらゆる生物の源です。さらに神の権威は、あらゆる生物を神の一言一句に従わせることができます。つまり、あらゆる生物は神の口から発せられた言葉通りに現われ、神の命令によって生き、繁殖し、その後は神があらゆる生物を支配してそれらに命令し、そこからの逸脱は永遠にあり得ないのです。人間や物体にはこれらのものがありません。こうした力は創造主だけが有しており、したがって権威と呼ばれます。これが、創造主が唯一無二たるゆえんなのです。ゆえに、「権威」という言葉自体であれ、権威の本質であれ、どちらも神としか関係していません。なぜなら、それは創造主に固有の身分と本質の象徴であり、また創造主の身分と地位を表わすものだからです。創造主を除き、「権威」という言葉と関連のある人間や物体は存在しません。これが、創造主だけがもつ権威の解釈です。
サタンは貪欲な目でヨブを見ていましたが、神の許しがなかったので、ヨブの体毛一本すら触れようとはしませんでした。サタンは生まれつき邪悪で残酷ですが、ひとたび神が命令すると、その命令に従うほかなかったのです。そうしたわけで、ヨブのところに来たサタンは羊の中の狼のように凶暴だったにもかかわらず、神が定めた限度をあえて忘れることも、神の命令に背こうとすることもなく、すべての行動において神の言葉の原則と限度から逸脱しようとはしませんでした。これが事実ではないですか。そのことから、サタンはヤーウェ神の言葉にあえて背かないことがわかります。サタンにとって、神の口から発せられた一言一句は命令であり、天の法則であり、神の権威を表わすものです。なぜなら、神の一言一句の背後には、神の命令に背いた者、天の法則に反抗した者に対する神の懲罰が暗示されているからです。神の命令に背いた場合、神の権威から逸脱し、天の法則に反抗した報いを受けなければならないことを、サタンははっきり知っています。では、その報いとはいったい何ですか。言うまでもなく、それは神による懲罰です。ヨブに対するサタンの行為は人間を堕落させたことの縮図に過ぎず、またサタンがそれらのことを行なっていた際、神がサタンに対して定めた限度と、サタンに発した命令は、サタンのあらゆる行動の背後にある原則の縮図に過ぎませんでした。さらに、この点におけるサタンの役割と立場は、神の経営の働きにおけるサタンの役割と立場の縮図に過ぎず、サタンがヨブを試みた際の神に対する完全な服従は、神の経営の働きに少しも反抗しようとしなかったことの縮図に過ぎません。これらの縮図はあなたがたに何を警告していますか。サタンを含めた万物の中に、創造主が定めた天の法則や命令に背ける人や物事は存在せず、こうした天の法則や命令にあえて違反しようとする人や物事も一切ありません。なぜなら、服従を拒んだ者に創造主が科す懲罰は、どんな人や物にも変えられず、そこから逃れることもできないからです。天の法則や命令を確立できるのは創造主だけであり、それらを施行する力があるのも創造主だけであって、人間や物事が超えられないのは創造主の力だけなのです。これが創造主にしかない権威であり、この権威は万物の中で至高のものであるので、「神は最も偉大であり、サタンはその次に偉大である」と言うことはできません。唯一無二の権威をもつ創造主を除いて、他に神は存在しないのです。
神の権威について、あなたがたはいま新たな認識を得ましたか。まず、先ほど述べた神の権威と人間の力との間に違いはありますか。その違いは何ですか。両者を比べることはできないと言う人がいますが、そのとおりです。人は両者を比べることはできないと言いますが、人間の思考や観念においては、人間の力がしばしば権威と混同され、両者を並べて比較することがよくあります。これはどういうことですか。うかつにも両者を取り違えるという間違いを犯しているのではないでしょうか。この二つに関連性はなく、両者を比較することもできませんが、人はそれでも比較せずにはいられないのです。これはどうすれば解決できるでしょうか。解決策を見つけたいと心から願うのであれば、神だけがもつ権威を理解し、それを知るよりほかにありません。創造主の権威を理解して知るようになれば、人間の力と神の権威を同じように語ることはなくなります。
人間の力とは何のことですか。簡潔に言うと、人間の堕落した性質、欲望、および野望を最大限に拡大し、それらを成し遂げることを可能にする能力、あるいは技能のことです。それを権威と見なせますか。人の野望と願望がどれほど大きいとしても、あるいはどれほど利益をもたらすとしても、その人に権威があるとは言えません。そうした自惚れや成功は、せいぜいサタンが人の間で行なう茶番に過ぎず、神になるという野望を果たすべく、自身の祖先を演じる喜劇に過ぎません。
あなたはいま、神の権威をどのように見ていますか。この交わりで伝えた言葉から、あなたは神の権威に関する新たな認識を得たはずです。そこであなたがたに質問します。神の権威は何を象徴しますか。神自身の身分を象徴しますか。神自身の力を象徴しますか。神だけがもつ地位を象徴しますか。あらゆる物事のなかで、あなたが神の権威を目の当たりにした事柄は何ですか。どのようにしてそれを目の当たりにしましたか。人間が経験する四季について言えば、春夏秋冬が入れ替わる法則を人間が変えることはできますか。春になると、木々は芽吹いて花を咲かせ、夏には葉で覆われ、秋には実を結び、冬には葉を散らします。この法則を変えることができる人はいますか。これは神の権威の一側面を反映するものですか。神が「光あれ」と言うと、光がありました。その光はいまも存在していますか。それが存在するのはなにゆえですか。もちろん、光が存在するのは神の言葉と権威のゆえです。神が創った空気はいまも存在していますか。人間が呼吸する空気は神に由来するものですか。神に由来するものを取り去ることができる人はいますか。神に由来するものの本質と機能を変えることができる人はいますか。神が割り当てた昼と夜、神が命じた昼夜の法則を覆せる人はいますか。サタンにそのようなことができますか。あなたが夜に眠らず、夜と昼を取り違えていても、それは依然として夜です。日々の習慣を変えることはできても、昼夜の入れ替わりに関する法則を変えることはできません。この事実は誰にも変えることができないものです。違いますか。ライオンが牛のごとく地面を耕すようにすることはできますか。象をロバに変えることできますか。鶏が鷹のごとく空を飛ぶようにすることはできますか。狼が羊のごとく草を食べるようにすることはできますか。(できません。)魚が水のない地上で暮らすようにすることはできますか。人間にそのようなことはできません。なぜできないのですか。それは、神が魚に水中で暮らすよう命じたからであり、そのため魚は水中で暮らしているのです。魚は地上で生存できず、死んでしまうでしょう。神の決めた限度を魚が越えることはできないのです。万物には存在の法則と限界があり、それぞれ固有の本能があります。それらは創造主が定めたものであって、いかなる人も変えたり越えたりすることはできません。たとえば、ライオンは常に人間社会から離れた荒野で暮らします。ライオンが人間とともに生活し、人間のために働く牛のように従順で忠実になることはありません。象とロバはともに動物であり、四本の脚をもち、空気を呼吸しますが、両者は違う種に属しています。なぜなら、それらは神によって異なる種に分けられ、それぞれ固有の本能があり、したがって両者を入れ替えることはできないからです。鶏は鷹と同じく脚と翼をもっていますが、空を飛ぶことは決してできず、飛べたとしてもせいぜい木に留まる程度です。それは鶏の本能によって決まっていることです。また言うまでもなく、それはひとえに神の権威が命じたからです。
現在における人類の発展の中で、人間の科学は繁栄していると言えます。また、人間による科学的探求の成果は印象的のひと言で説明できます。人間の能力はかつてないほど高まったと言わなければなりませんが、人類がいまだ成し遂げられない科学的進歩が一つあります。人類は飛行機、航空母艦、原子爆弾などを作り、宇宙空間へと進出し、月面を歩き、インターネットを発明し、ハイテク技術による生活様式の中で暮らすようになりましたが、呼吸する生物を作ることはいまだにできません。あらゆる生物の本能、動物が生きる上での法則、そして生物の生死の循環はどれも人類の科学の力を超えるものであり、それによって操ることはできません。ここで言わなければなりませんが、人間の科学がいかに高度なものへと進化しようと、創造主の考えとは比較にならず、創造主による創造の奇跡や、神の権威の力を解明することは不可能です。地球上には多数の海がありますが、限度を超えて地上へ自由に来ることはありません。なぜなら、神がそれぞれの海の境界を定めたからです。海は神が命じた場所に留まり、神の許しがなければ自由に動き回ることはできません。神の許しがなければ、それぞれの海が侵害し合うことはできず、神がそう述べたときにだけ移動することができ、また海がどこへ移動して留まるかは、神の権威によって定められるのです。
端的に言えば、「神の権威」とは物事が神次第であることを意味します。神には物事をどのように行なうかを決める権利があり、それは神の望む方法で行なわれます。万物の法則は人間次第ではなく神次第であり、人間がそれを変えることはできません。万物の法則は人間の意志で動かせるものではなく、むしろ神の考え、知恵、そして命令によって変えられるものであり、これは誰も否定できない事実です。天と地、万物、宇宙、星空、そして四季など、人間に見えるものも見えないものも、すべては神の権威の下、神の命令と定め、および創造の初めの法則に従い、わずかな間違いもなく存在し、機能し、変化します。それらの法則、あるいはそれらが機能する固有の過程は、いかなる人や物であっても変えることができません。それらは神の権威ゆえに現われ、同じく神の権威ゆえに消滅します。これがまさしく神の権威なのです。ここまで語ったいま、神の権威は神の身分と地位の象徴だと感じることができますか。被造物やそれ以外のものが神の権威をもつことはできますか。それを模倣したり、真似したり、それに取って代わったりすることができる人や物がありますか。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)
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