真理を理解しない者はいつも他人に従う。もし人が、これは聖霊の働きだと言えば、あなたもまた、これは聖霊の働きだと言う。もし人が、これは悪霊の仕業だと言えば、あなたもまた疑惑を持つか、あるいは、これは悪霊の仕業だと言う。あなたはいつも他人の言葉をそのまま繰り返すだけで、自分では何も識別できないし、自分の頭で考えることもできない。それは、自分で物事を区別できない、立脚点を持たない者である。このような人は価値のない惨めな人間だ。あなたはいつも他人の言葉を繰り返す。今日、これは聖霊の働きだと言われていても、いつの日か、これは聖霊の働きでないと誰かが言い、実際人間の仕業に過ぎないという可能性がある。しかし、あなたはそれを判別できず、他人がそう言っているのを目にすると、同じことを口にする。実際は聖霊の働きなのに、それは人間の働きだと言う。あなたは、聖霊の働きを冒瀆する者の一人になったのではないか。これは、物事を識別できずに神に敵対してしまったのではないか。いつの日か、どこかの愚か者がやって来て、「これは悪霊の仕業だ」と言うかもしれない。それを聞いたあなたは途方に暮れ、またもや他人の言うことに縛られてしまう。誰かが混乱を引き起こすたびに、あなたは自分の立脚点に固く立つことができなくなる。それはひとえに、真理を把握していないからだ。神を信じ、神を知ろうと求めるのは、容易なことではない。そうしたことは、ただ寄り集まって説教を聞くだけでは成し遂げられず、熱情だけでは完全になれない。経験し、知り、原則に基づいて行動し、聖霊の働きを獲得しなければならない。経験を積めば、多くのことを識別できるようになる――善悪、正邪、何が血肉に属し、何が真理に属するかを区別できるようになるだろう。あなたは、こうした物事をすべて判別できなければならない。そうすれば、どういう状況にあっても迷うことはない。ただこれだけが、あなたの真の霊的背丈なのである。
『神の出現と働き』「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」(『言葉』第1巻)より
神に付き従っていると言う彼らにとっては、目を開き、自分が誰を信じているのかをじっくり見るのが最善であろう。あなたが信じているのは本当に神なのか、それともサタンなのか。自分が信じているのが神ではなく、自分の偶像であることを知っているならば、自分は信者であると言わない方が良い。自分が誰を信じているのか本当に知らないならば、やはり自分は信者であると言わないのが最善であろう。信者であると言うのは冒涜である。誰もあなたに神を信じることを無理強いしていない。わたしを信じていると言うな。そのような言葉は聞き飽きており、二度と聞きたくない。なぜなら、あなたがたが信じているのは心の中の偶像であり、あなたがたのそばにいる土地の顔役だからである。真理を聞いたら首を横に振り、死の言葉を聞いたら笑みを浮かべる者はみなサタンの子孫であり、みな排除される。教会には識見のない者が多数いる。何か惑わすようなことがあると、彼らは不意にサタンに味方をする。彼らは自分がサタンの僕と呼ばれると、憤慨すらする。彼らには識見がないと言う人もいるが、彼らは真理のない側にいつも味方し、重要な時期に真理の側に立ったことや、真理のために立ち上がって議論をしたことは一度もない。彼らには本当に識見がないのか。なぜ彼らは不意にサタンの味方をするのか。なぜ彼らは真理のために公平で合理的な言葉を一言たりとも述べないのか。この状況は本当に彼らの一時的な混乱から生じたのか。人の識見が少なければ少ないほど、真理の側に立つ能力も低くなる。このことは何を示しているのか。それは識見のない人は邪悪を愛することを示しているのではないのか。彼らはサタンの忠実な子孫であることを示しているのではないのか。なぜ彼らは常にサタンの味方をすることができ、サタンの言語を話すことができるのか。彼らのあらゆる言動と表情はすべて、彼らが決して真理を愛する者ではなく、むしろ真理を忌み嫌う者であることを十分に証明している。彼らがサタンに味方できることは、サタンのために戦って生涯をすごすこれらの小悪魔をサタンが真に愛していることを十分に示している。こうした事実はすべて十分に明白ではないであろうか
『神の出現と働き』「真理を実践しない人への警告」(『言葉』第1巻)より