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「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」 (マルコによる福音書 16:16)

「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」(ヘブル人への手紙 12:14)

「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」 (マタイによる福音書 7:21)

「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」。 (レビ記 11:45)

「そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。」 (ヨハネの黙示録 14:4-5)

当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。「神の働きのビジョン(2)」より

あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望むとは、──あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている──あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。

人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。…それはサタンによって植えつけられて人の心の奥深くに根ざし、罪よりも深くはびこっている。人が自分の罪に気づくのは容易ではない。人は自分自身の深く根ざした本性を認識することができない。言葉による裁きに頼らなければそのような成果を達成することはできない。これによって初めてその時点から次第に人は変えられていくのである。

というのは、恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。

人の肉はサタンに属しており、不従順な性質に満ちており、嘆かわしいほど汚れており、不純なものである。人々は肉の喜びを過度に切望し、肉の現れは多過ぎ、そのため神は肉をある程度嫌っている。人々が、汚れて、堕落したサタンのものを置き去りにする時、神の救いを得る。しかし、彼らが汚れや堕落を投げ捨てることができないままでいるなら、相変わらずサタンの支配下にとどまるだろう。人々の狡猾さ、不正直さ、ねじれた心はサタンのものである。あなたを救うことによって、神はあなたをこれらのものから切り離す。神の働きは間違っていることはなく、すべては人々を闇から救うためである。あなたがある程度信じていて、肉体の堕落を脱ぎ捨てることでき、もはやこの堕落の束縛を受けない時、あなたは救われているのではないだろうか。サタンの支配下で暮らしている時、あなたは神を現わすことはできず、あなたは不潔で、神から与えられるものを受け取ることはない。いったん清められて、完全にされると、あなたは聖くなり、正常になり、神の祝福を受け、神に喜ばれる者となるだろう。

結局、人々の内のサタンのようなもの、そして人々の本性のものは変化しなければならず、真理の要求と一致しなければなりません。これだけが本当に完全な救いを成し遂げます。あなたが宗教にあったようなものであれば─教義の言葉を叫んだり、スローガンを叫んだり、何らかの行動や良い振る舞いをしたり、明らかな罪を犯さなかったり─これは、あなたが神を信じる正しい道に入ったことをやはり意味しません。あなたがルールに従えるからといって、正しい道を歩いていることを意味するでしょうか。これはあなたが正しく選択したことを意味するでしょうか。あなたの本性の中のものが変わらなかったなら、そして結局まだ神に抵抗して神を怒らせているなら、これは最大の問題です。神を信じていて、しかしこの問題を解決しないなら、あなたは完全に救われたとみなすことができるでしょうか。

ある者が神が要求する物事や言葉によって神の言葉の現実性に対する真摯な取り組みを本当に行うことが出来るのであれば、その者は神により完全にされるでしょう。そうした者に対して神の業と言葉は完全に有効であり、神の言葉がその者のいのちとなり、その者が真理を得て、神の言葉に則して生活できると言えます。その後、その者の肉の本性すなわちその者元来の存在の基礎は揺るがされ、崩れるでしょう。ある者が神の言葉を自らのいのちとして得た後、その者は新たな人間となります。神の言葉がその者のいのちとなります。神の業の幻、人間に対する神の要求や啓示、人間が実現するよう神が要求する真のいのちの基準が、その者のいのちとなり、その者はそうした言葉と真理に従って生活し、その者は神の言葉により完全にされます。その者は神の言葉によって生まれ変わり、新たな人間となります。

サタンとの戦いは実際、人類の救いのためであり、また、人類の救いの働きは一つの段階ではうまく完成できるものではないから、サタンとの戦いもまた段階と期間に分けられている。そして戦いは、人間の必要とサタンによる人間の堕落の程度に応じて、サタンに対して遂行される。…しかし、サタンとの戦いにおける全ての働きに秘められた真理は、人に恵みを施し、人の罪祭となり、人の罪を赦し、人を征服し、人を完全にすることによってその効果が達成されるということである。実際、サタンとの戦いは、サタンに武器を持って立ち向かうものではなく、人の救い、人のいのちへの働き、人の性質を変えることであり、それにより人が神を証しすることである。サタンはこのようにして打ち負かされるのである。人の堕落した性質を変えることを通してサタンは打ち負かされる。サタンが敗北すると、つまり、人が完全に救われると、そのとき辱めを受けたサタンは完全に縛られ、こうして人は完全に救われることになる。

救われることとは何か。救いとは何か

救われることとは、救いを得ることとは一体何でしょうか。それは神への信仰における大きな奥義です。過去には神を信仰する人々は皆、この奥義について人間が作り出した観念や想像に執着していました。彼らは、人間が真摯に神を信じ、神から去ることなく、神を裏切らない限り、自分が大惨事に見舞われた時、必ず神の守りを得て、それによって生き残ることが出来、そしてそれが救いを得るということである、と信じていました。

主の「すべてが終わった」という言葉がどういう意味か分かりません。なぜ神が再び戻って真理を表し、裁きをする必要があるのか。

「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。」 (ヨハネによる福音書 8:34-35)

「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)

「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」 (ヨハネによる福音書 12:47-48)

「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)

イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。「神の働きを経験する者のみが真に神を信じる」より

当時、イエスは恵みの時代において弟子たちに一連の説教しか語らなかった。たとえば実践のしかた、集い方、祈る際の求め方、他の人々の扱い方などである。イエスが実行した働きは恵みの時代の働きであり、弟子たちやイエスに従う人々がどのように実践すべきかについてしか釈義しなかった。恵みの時代の働きをしただけで、終わりの日の働きは何もしなかった。ヤーウェが律法の時代に旧約の律法を定めたとき、なぜその時恵みの時代の働きを行わなかったのか。なぜ恵みの時代の働きを前もって明らかにしなかったのか。そうすれば人が受け入れるための役に立ったのではないだろうか。ヤーウェは男の子が生まれて、指導者になると預言しただけで、恵みの時代の働きを前もって実行はしなかった。各時代の神の働きには明確な境界がある。神は現在の時代の働きだけを行い、次の段階の働きを前もって行うことは決してない。このようにしてのみ、神の各時代の代表的な働きは前面に引き出される。イエスは終わりの日のしるし、いかに忍耐するか、いかにして救われるか、いかに悔い改め、告白するか、また、いかに十字架を負い、苦しみに耐えるかについてしか語らず、終わりの日に人はどのように進入すべきか、どのように追求すれば神の心を満足させるかについては語らなかった。…

イエスが来てその段階での働きをしたとき、神の全体を示しはしなかった。イエスはいくつかのしるしや不思議を示し、言葉を語り、最後に磔刑に処せられ、神の一部分を示した。イエスは神の全体像を示したわけではなく、一部の働きをして神を示したのだ。これは、神があまりに偉大で、驚くべきであり、計り知れないからであり、神がそれぞれの時代にその働きの一部だけをするからだ。神がこの時代に実行した働きは、主に、人間のいのちのための言葉を与えること、人間の性質の実体と、人間の堕落した性質を明らかにし、人間の知識と文化とともに、宗教的概念、封建的な考え方、時代遅れの考えを除くことであった。これはすべて神の言葉によって露わにし、清めなければならなかった。世の終わりに、神はしるしや不思議ではなく、言葉を用いて人間を完全にする。神は言葉によって人間を露わにし、裁き、罰し、人間を完全にし、言葉の中に神の知恵と素晴らしさを見、神の性質を知り、言葉によって人間が神の働きを知るようにする。

人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。

だから、病気を癒したり悪霊を追い出したりすることで、人が罪から完全に救われることはなく、またしるしや不思議を顕すことによっても、すっかり完全にされることはないのである。癒したり悪霊を追い出したりするための権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に残っている。すなわち、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているということである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、清められる。人から悪霊を追い出したり、人を贖ったときは、それはただサタンの手から人を捕まえ、神のもとに戻したことでしかなかった。神によって清められていないし、変えられてもいないなら、人は堕落したままである。人の中には、依然として汚れ、敵対心、そして不従順が存在する。人は贖いを通して神のもとに帰っただけで、人は神について何の認識もなく、依然として神に抵抗し、神を裏切っている。人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。実際、この段階は第二段階の救いの働きであるとともに征服の段階である。人は言葉による裁きと刑罰を通して、神のものとされる。精錬し、裁き、明らかにする言葉のもちいることで、人の心にあるすべての汚れたもの、観念、動機、そして個人的な願望などが完全に明らかにされる。

終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。

神は何を通じて人を完全にするのであろうか。それは、義という神の性質によるのである。神の性質は主として義、怒り、威厳、裁き、呪いであり、神は主に裁きを通じて人を完全にする。一部の人々は理解できず、なぜ神は裁きと呪いによってしか人を完全にできないのかと問う。神が人を呪ったら、人は死ぬのではないか。神が人を裁いたら、人は断罪されるのではないか。それにもかかわらず、人はどうやって完全になれるのであろうか。神の働きを理解しない人々はそう話すのである。神が呪うのは人間の不従順であり、神が裁くのは人間の罪である。神の言葉は厳しく、少しの気遣いもなく、人の内にあるあらゆるものを明らかにし、そうした厳しい言葉を通じて人の内にある本質を顕わにするが、神はその裁きを通じて人に肉体の本質についての深遠な認識を授け、それにより人は神の前に従順を示すのである。人の肉は罪から成り、サタンによるものであり、不従順であり、神の刑罰の対象である──であるから、人に自分を理解させるためには、神の裁きの言葉が人にもたらされねばならず、あらゆる精錬が行われねばならない。それにより初めて神の働きは成果を生むのである。

神は裁きと刑罰の働きを行うが、それは人が神についての認識を得られるようにであり、また神の証しのためである。人の堕落した性質を神が裁くことなしには、犯すことを許さない神の義なる性質を人は知ることはできず、神についての古い認識を新しいものに変えることもできない。神の証しのため、そして神の経営(救い)のため、神はそのすべてを公けにし、そうすることで、神の公的な出現を通して、人は神についての認識に到達することができ、その性質において変えられ、神のはっきりとした証しを立てられるようになる。人の性質の変化は、さまざまな種類の神の働きを通して成し遂げられる。このような性質の変化なしには、人は神の証しを立てることはできず、神の心にかなうこともできない。人の性質の変化とは、人がサタンの束縛と闇の影響から解放され、真に神の働きの見本であり標本、神の証人、神の心にかなう者になったことを意味する。

私たちはパウロの例に従い、主のために懸命に働き、福音を伝え、主に証を立て、主の教会を牧している。パウロが次のように言った通りにである「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。」これは神の心に従っていないことなのか。このように実践することは私たちは携挙され、天国に入る資格があることを意味するはずである。それならなぜ天国に導かれる前に私たちは終わりの日の神の裁きと清めの働きを受け入れなければならないのか。

「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」。 (レビ記 11:45)

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。」 (ヨハネの黙示録 3:17-19)

「『小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである』。…『小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである』。」(ヨハネの黙示録 19:7-9)

神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。

神の国の時代、神は言葉を用いて新たな時代を招き入れ、働きの手段を変え、その時代全体の働きを行う。これが神が言葉の時代に働く原則である。神は異なる観点から語るために受肉し、肉となった言葉である神、その知恵と不思議とを人間が本当に見ることができるようにした。そうした働きは、人間を征服し、人間を完全にし、人間を淘汰するという目的をよりよく成し遂げるために行われる。これが、言葉の時代に言葉を用いて働くということの真の意味である。言葉によって、人間は神の働き、神の性質、人間の本質、人間が何において成長すべきかを知るようになり、言葉によって、言葉の時代に神が成し遂げようと望む働きがすべて成し遂げられる。言葉によって人間は露わにされ、淘汰され、試される。人間は言葉を見、言葉を聞き、言葉の存在を知った。その結果、人間は神の存在を信じる。人間は神の全能性と知恵、また、神の人間を愛する心と人間を救おうという願いとを信じる。「言葉」という語は単純でありふれたものだが、肉となった神の口から出る言葉は、全宇宙を揺るがす。神の言葉は人間の心、その観念や古い性質、全世界の古い姿を変える。はるか昔から、現在の神だけがそうした働きを行っている。そして、現在の神だけがそのようにして語り、人を救う。それより後、人間は言葉に導かれて生き、言葉により養われ、施される。人間は言葉の世界に生き、神の言葉の呪いと祝福の内に生き、それ以上に言葉の裁きと刑罰との下に生きる。これらの言葉と、この働きはみな、人間が救われ、神の心を達成し、古い創造の世界における元々の姿を変えるためのものである。神は言葉により世界を創り、全宇宙の人間を言葉により導き、言葉により征服し、救う。ついには、言葉により、古い世界全体を終わらせる。そのときはじめて、経営(救いの)計画が完了する。

言葉は人類の究極的征服の手段であり、征服を受け入れる者はみな、言葉による鞭と裁きとを受け入れなければいけない。言葉を語ることによる現在の過程が人間を征服する過程である。人々は、具体的にどのように協力するべきだろうか。これらの言葉を飲食し、また理解することによってである。人々は自分の力によっては征服されることができない。彼らはこれらの言葉を飲食することによって自分たちの堕落と汚れ、自分たちの反抗的性質と不義とを知り、神の前にひれ伏さなければいけない。もしあなたが神の心を理解し、それを実行に移し、そしてさらにビジョンを持ち、これらの言葉に完全に従い、自分勝手な選択をしないなら、あなたは征服されるであろう。そして、あなたを征服するのは、これらの言葉であろう。

終わりの日の神様の働きを受け入れますが、神様の裁きと刑罰をどうやって経験し、 真理と命を得て、罪深い本性を消し去り 救われて天国に入れるのですか?

「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録 21:3-4)

「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう。」(ヨハネの黙示録 2:7)

「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう。」(ヨハネの黙示録 7:14-17)

最初、人が地上で万物を管理することができるように、アダムとエバは造られた。人はもともと万物の主人であった。ヤーウェが人を造る目的は、人が地上で生き、しかも地上の万物を管理することであった。なぜなら、最初人は堕落させられておらず、しかも人は悪を行うこともできなかったからである。しかし、人は堕落させられた後、もう万物の管理者でなくなった。そして、神の救いの目的は、人のこの機能を回復し、人の最初の理性、最初の従順さを回復することである。安息の中の人類はまさに神の救いの働きが達成することを望む結果の描写そのものである。それはもはやエデンの園のような生活ではないだろうが、その本質は同一である。人類は単に堕落させられる前の初期の人類ではなく、堕落させられた後、救われた人類なのである……人は肉体的存在であるが、その生活の実質は堕落した人類の生活のそれと大いに異なる。その存在の意味も堕落した人類の存在の意味とは異なる。これは新しい種類の人の生活ではないが、救いを受け取った人類の生活、回復された人間性と理性を伴う生活であると言える。このような人たちはかつて神に背いた人であり、かつて神に征服されて、それから救われた人たちである。この人たちはまた、神を辱めたことがあるが後で神のために証しをした人である。神の試練を受け、生き残った彼らの存在は、最も意義のある存在である。彼らはサタンの前で神のために証しした人である。彼らは生きるに相応しい人である。

一旦、征服の働きが完了すると、人類は美しい世界に連れて行かれる。もちろん、この生活はまだ地上にあるが、現在の人間の生活とは全く違う。それは全人類が征服された後の生活であり、それは地上の人間にとって新しい始まりとなり、人類がそのような生活を送ることは、彼らが新しく美しい領域に入ったという証拠となるであろう。それは地上における人と神の生活の始まりとなる。そのような美しい生活の前提として、人は清められ征服されたあと、造り主の前に服従する。それゆえ、征服の働きとは、人類が素晴らしい終着点に入る前の、神の働きの最終段階である。そのような生活は地上における人類の未来の生活であり、それは地上で最も美しい生活、つまり人が待ち焦がれていたような生活であり、世界史上、人が決して達成したことのないような生活である。それは六千年の経営(救い)の働きの最終的結果であり、人類が最も待ち望んでいたものであり、それはまた、神が人間に約束していたものでもある。

すべてのものはわたしが心に描いたとおりに戻り、もはや不従順ではない。やがて、全地上が笑い声に満ち、地上のあらゆるところが賛美の雰囲気を醸し出し、わたしの栄光の及ばないところがなくなる。わたしの知恵は地上のあらゆるところにあり、全宇宙にあまねく。あらゆるものの只中にわたしの知恵の果実がみのり、すべての人々の只中にわたしの知恵の傑作が満ち満ちる。何もかもわたしの国にあるすべてのもののようである。すべての人々はわたしの天の下、わたしの牧場の羊のように安心して暮らす。わたしはすべての人々の上を動き、至る所を見ている。何一つ古びて見えるものがなく、誰一人かつてと同じ人はいない。わたしは玉座に座し、全宇宙にわたり横たわり、満ち足りている。すべてのものが聖さを取り戻し、わたしは再びシオンで安らかに暮らすことができるからだ。そして、地上の人々はわたしの導きの下、穏やかで満ち足りた生活ができる。諸国民は、わたしの手の中であらゆることを管理している。諸国民はかつての知性と本来の姿を取り戻した。彼らはもはや塵におおわれてはいない。わたしの国では、人々は翡翠のように純粋で、人の心の中の聖い者のような顔をもつ。わたしの国が人々の間に打ち立てられたからである。

神が安息の中に入ることは、神がもう人類を救うという働きをしないことを意味している。人類が安息の中に入ることは、全人類がみな神の光の中と神の祝福の下に生きることを意味する。もはやサタンの堕落がなく、不義な事も起こらない。人類はみな地上で正常に生活し、神の加護のもとで生きるようになるだろう。神と人が共に安息に入るということは、人類が救われたこと、サタンは滅ぼされたこと、人類に関する神の働きが全部終わったことを意味する。神はもはや人類の間で働き続けず、人ももうサタンの支配下に生きることはなくなる。それゆえに、神はもう忙しく働かず、人はもう忙しく駆け回らない。神と人は同時に安息の中に入るようになる。神はもとの場所に戻り、人も各人それぞれの場所に帰る。これは神の経営(救い)が終わった後に、神と人それぞれが身を置く目的地である。神には神の目的地があり、人には人の目的地がある。神は安息の中にあっても続けて全人類が地上で生きるのを導く。神の光の中にあって、人は天の唯一の真の神を礼拝する。神はもはや人の間には住まず、人も神と一緒に神の目的地で住むことはできない。神と人は同じ領域の中で生活することができない。むしろ、それぞれ自分の生き方がある。神が全人類を導くのであり、全人類は神の経営の働きの結晶である。導かれるのは人類である。人間は、本質的には、神と異なる。安息することとは、神と人がそれぞれの本来の場所に帰ることを意味する。それゆえ神が安息に入るとき、それは神がもとの場所に復帰することを意味する。神はもう地上で生活しないか、あるいは人の間にあっても、人と苦楽を共にしない。人が安息に入るとは、人が真の被造物になったことを意味する。人は地上から神を礼拝し、正常な人間の生活を送る。人々はもう神に背かず、逆らわない。彼らは原初のアダムとエバの生活に復する。これが、神と人が安息に入った後の、それぞれの生活と目的地である。

「麦を毒麦に変える事はできず、毒麦を麦に変える事もできない」ということは疑いの余地が無い。神を真に愛する者たちはみな最終的に神の国に留まり、神は神を真に愛する者を虐げられることはないであろう。神の国の中の勝利者たちは、彼らの様々な役割と証しに基づいて祭司として、あるいは信者として仕えるであろう。また患難のただ中で勝利した者たちは、みな神の国で祭司の集団となるであろう。祭司の集団は全宇宙における福音の働きが終わった時に形成されるであろう。その時が到来すると、人間がなすべき事は、神の国において自分の本分を尽くし、神と共に神の国で生活することとなるであろう。祭司の集団の中には、祭司長と、祭司がいて、それ以外の者は神の子、神の民となるであろう。これは全て患難の間の神への証しにより決定される。それらは気まぐれで与えられた称号ではない。一旦人間の地位が確立すれば、神の働きは停止する。なぜなら、各人が種類に従って分類され、彼らの本来の地位に戻され、それは神の働きの成果のしるしであり、神の働きと人間の実践の最終結果であり、また神の働きのビジョンと人間の協力との結晶だからである。最後に人間は神の国で安息を得て、神もまた自らの住まいに戻って休息を得るであろう。これが神と人間の六千年におよぶ協力の最終結果である。

永遠の終着点に入るとき、人は造り主を礼拝する。そして、人は救いを得て、永遠の中に入ったので、人は何の目的も追求しないし、その上、サタンによって包囲される心配もない。この時、人は自分の立場を知り、本分を尽くす。そして、罰されたり裁かれたりしなくとも、人はそれぞれ自分の本分を尽くすだろう。その時、人は身分においても、地位においても被造物となる。高低の差別はもはやない。人はそれぞれの異なる役割を果たすだけである。但し、人は依然として人類の秩序ある適切な終着点の中で生きており、造り主を礼拝するために本分を尽くす。そして、このような人類は永遠の人類となるであろう。その時、人は神に照らされた生活、神の配慮と守りの下にある生活、そして神と共に生きる生活を獲得することになる。人類は地上で正常な生活を送り、全人類が正しい軌道に乗ることになる。

神に完全にしてもらうことができる人たちは、神から祝福や嗣業を受け取ることのできる人たちである。すなわち、そのような人たちは、神が所有するものそして神という存在を取り入れる。そうすることによって取り入れたものは彼らが内部に持つものとなる。すなわち、彼らは、神の言葉が彼らの中に働いたものすべてを所有している。神という存在が何であれ、あなた方は、その存在のすべてをまさにそのまま受け入れることができる。そうすることによって、真理を生きることができる。これが、神によって完全にされ、神のものとされた人である。そのような人だけが、次に掲げる、神が授ける祝福を受け継ぐ資格がある。1.神の愛のすべてを受け取ること。2.あらゆる事柄において神の旨に沿って行動すること。3.神の導きを受け取り、神の光の下で生き、神の啓示を受けること。4.地上で神によって愛された象徴のように生きること、すなわち、ペテロと同じように真に神を愛すること、神の為に十字架にかけられ、死が神の愛に対する報いに相応しいと感じるほどに神を愛すること、そしてペテロと同じ栄光を受けること。5.地上のすべての人によって愛され、敬われ、称賛されること。6.死やハデスの束縛のすべてを克服すること、サタンに働く機会を与えず、神のものとされていること、新鮮でいきいきとした霊的状態であること、いささかの疲れもないこと。7.人生のあらゆるときに、あたかも神の栄光の日の到来を見てきた人のように、言語を絶するほどの高揚感や気持ちの高まりをもてること。8.神とともに栄光を受け取ること、そして神の最愛の聖人たちに似た容貌をもてること。9.神が地上で愛するもの、すなわち神の最愛の子になること。10.姿を変えて、神と共に、肉を超越して第三の天まで引き上げられること。