神の現れとは、神がその働きを行うためにみずから地上に来ることである。神としての身分と性質をもち、また神に固有の方法で、一つの時代を始め、別の時代を終わらせる仕事を行うために、神は人類のもとに下ってくる。このような神の現れは儀式の一形式ではない。それはしるしでも、図画でも、奇跡でも、大いなる幻でもない。ましてや宗教的な過程でもない。それは、実際に手で触れ、目で見ることのできる現実的で実際的な事実である。このような現れはただ表面的な動作をするためでも、短期間の作業のためのものでもない。それは、神の経営計画の中にある一つの働きの段階のためである。神の現れは必ず何かの意味があり、必ず神の経営計画と関係している。ここで言う「現れ」は、神が人を案内し、導き、啓く「現れ」とは全く異なる。神は自身を現す度に、神の大いなる働きの一段階を実行する。この働きは他のどの時代の働きとも異なる。それは人には想像もできないもので、人が経験したことがないものである。その働きは、新しい時代を到来させ、古い時代を完結させるもので、人類を救う働きの新しく向上したかたちである。さらには、人類を新しい時代に導き入れる働きである。これが神の現れの意義である。
『神の出現と働き』「附録1:神の現れによる新時代の到来」(『言葉』第1巻)より
イエスは、自分は去ったときと同じように来ると言ったが、その言葉の本当の意味をあなたは知っているのか。あなたがたの集団に告げたということがあり得るのか。あなたが知っているのは、イエスは去ったときと同じく、雲に乗って来るということだけである。しかし、神自身がいかに自分の働きを行なうのか、あなたは正確に知っているのか。あなたが本当にわかっているのなら、イエスが語った言葉はいかに説明されるのか。イエスは、「人の子が終わりの日に来るとき、人の子自身それを知らず、天使たちも知らず、天の御使たちも知らず、すべての人も知らない。ただ父だけが知っている。つまり、霊だけが知っている」と言った。人の子自身でさえ知らないというのに、あなたは知り、見ることができるのか。あなたが自分の目で見て知ることができるのであれば、これらの言葉は無駄に語られたことにならないだろうか。そしてその際、イエスは何と言ったのか。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。……だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」その日がいつ来るのかは、人の子自身も知らない。人の子とは神の受肉した肉体のことであり、普通で平凡な人である。人の子自身でさえ知らないのに、どうしてあなたが知り得るのか。
『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」(『言葉』第1巻)より
今回、神は霊体ではなく、まったく普通の体で働きを行うために来る。さらに、それは神の二度目の受肉の体というだけではなく、神はその体を通して肉へと戻る。それはごく普通の肉体である。他の人々との違いを生み出すものは何も見受けられないが、今までに聞いたこともない真理をこの人から受け取ることができる。この取るに足らない肉体は、神から来る真理の言葉のすべてを具現化し、終わりの日の神の働きを引き受け、人が理解する神の性質全体を表すものである。あなたは天の神を見ることを大いに望んでいるではないか。あなたは天の神を理解することを切に願っているではないか。あなたは人類の終着点を見ることを大いに欲しているではないか。この人はこれらの秘密、つまり、今まで誰一人としてあなたに語ることのできなかった秘密のすべてをあなたに語るだろう。また、あなたが理解していない真理についても語るだろう。この人は、あなたにとっての神の国への門であり、新しい時代への導き手である。このような普通の肉が、数多くの測り知れない奥義を握っているのである。この人の行いはあなたには不可解かもしれないが、この人が行う働きの目標全体は、人々の思うように、この人が単なる肉ではないことを理解するのに十分である。なぜならこの人は、終わりの日における神の旨と、神が人類に示す配慮を表しているからである。あなたは天地を揺るがすかのような彼の言葉を聞くことができず、燃え上がる炎のようなその目を見ることもできず、また、鉄の杖のような神の懲らしめを受けることもできないが、その言葉から神が怒りに満ち溢れていることを聞き、神が人類に憐れみを示しているのを知ることができる。あなたは神の義なる性質と神の知恵を見ることができ、またそれ以上に、全人類に対する神の憂慮に気づくことができる。人は終わりの日の神の働きにより、地上で人々のあいだで生きている天の神を見られるようになり、また神を知り、神に従い、神を畏れ、神を愛することができるようになる。これが、神が二度目に肉へと戻った理由である。
『神の出現と働き』「あなたは知っていたか。神が人々のあいだで偉大な業を成し遂げたことを」(『言葉』第1巻)より
「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」。あなたがたは今、聖霊の言葉をすでに聞いたか。神の言葉はもうあなたがたに届いている。それが聞こえるか。神は終わりの日に言葉の働きを行うが、そのような言葉は聖霊の言葉である。神は聖霊であり、また肉になることもできるからである。したがって、過去に語られた聖霊の言葉は、受肉した神の今日の言葉である。語るのは聖霊なのだから、その声は天から語られ、人の耳に届くはずだと信じている愚かな人が大勢いる。このように考える人は誰も神の働きを知らない。実際、聖霊が語る言葉は、肉となった神が語る言葉なのである。聖霊は人に直接語りかけることができないし、また律法の時代においてさえ、ヤーウェが人々に直接語りかけることはなかった。まして今日のこの時代に、神が直接語りかけるなどまず考えられないのではないか。神が言葉を発して働きを実行するには、肉とならなければならない。そうでなければ、神の働きがその目標を達成することはできない。受肉した神を否定する者たちは、霊、あるいは神が働きを行う原則を知らない人である。
『神の出現と働き』「自己の観念で神を規定する人がどうして神の啓示を受けられるのか」(『言葉』第1巻)より
神は沈黙しており、わたしたちの前に姿を現したことはないが、神の働きは止むことがない。神は全世界を見渡し、あらゆる物事を支配しており、人の言葉と行動の一切をつぶさに見ている。神はその経営を計画に従ってゆっくりと慎重に行っており、それは静かに、特に劇的な効果も見せず進行しているが、神の歩みは一歩一歩進んでますます人類に近付き、神の裁きの座は電光石火の速さで宇宙に設けられ、その直後に神の玉座がわたしたちのもとに降りて来る。それは何と神々しい光景であり、威厳と神聖に満ちた情景だろうか。鳩のように、うなり声をあげるライオンのように、聖霊がわたしたちのもとにやって来る。神は知恵であり、義であり、威厳である。神は権威を持ち、愛と憐れみに満ちて、そっとわたしたちの間にやって来る。
『神の出現と働き』「附録4:神の裁きと刑罰に神の出現を見る」(『言葉』第1巻)より
人の世に誕生したイエスは恵みの時代を開始し、律法の時代を終わらせた。終わりの日において、神はもう一度肉となり、この受肉とともに、恵みの時代を終わらせ、神の国の時代を開始した。神の二回目の受肉を受け入れられる人はすべて神の国の時代に導かれ、それ以上に、神の導きを直接受け入れることができるだろう。イエスは人のあいだで数多くの働きをしたが、全人類の贖いを完了させ、人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うには、イエスが罪のささげものとなって人の罪を背負うことだけでなく、神がさらに偉大な働きを行い、サタンによって堕落させられた性質を完全に取り除くことが必要だった。そこで、人が罪を赦された今、神は人を新しい時代に導くために肉へと戻り、刑罰と裁きの働きを開始した。この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。
『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)より