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VIII. 神の働きと人の働きの違い

4. 宗教を放棄して神のもとに戻るためには、信者は偽羊飼いたちと反キリストたちを見分けられなければならない

参考聖書箇所

ヤーウェ神はこう言われる、わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。牧者は群れを養うべき者ではないか。ところが、あなたがたは脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものをほふるが、群れを養わない。あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている。」(エゼキエル書 34:2-4)

にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。」(マタイによる福音書 7:15)

彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう。」(マタイによる福音書 15:14)

「なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである。」(ヨハネの第二の手紙 1:7)

関連する神の言葉

資格のない働き手の働きははるかに不十分で、ばかげている。彼は人々を規則にはめ込むだけで、人々に要求することは個々の人によって変化しない。彼の働きは人々の実際のニーズに従っていない。この種の働きには規則や教義があまりにも多く、人々をいのちにおける現実や正常な成長の実践に至らせることができない。人々はわずかな価値のない規則を守ることができるようになるだけであり、この種の指導は人々を迷わせるだけである。彼はあなたを自分に似たものになるよう導く。あなたを彼が持っているものや彼そのものの中に引き込むことができる。導き手に資格があるかどうかを信奉者が見定める秘訣は、彼らが導く道と彼らの働きの結果を見ること、および信奉者が真理に従った原則を受け取るかどうか、自分たちが変わるのにふさわしい実践方法を受け取るかどうかを見ることである。あなたは異なる種類の人々の異なる働きの違いを識別しなければならない。愚かな信奉者になってはならない。これはあなたの成長の問題に影響を及ぼす。どの人の指導には道筋があり、どの人の指導にはないかを見極めることができなければ、あなたは簡単にだまされるだろう。これらすべてはあなた自身のいのちに直接関連している。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

人の心の中の働きは人によってあまりにも容易に達成される。たとえば、宗教界の牧師や指導者は自分の才能や立場を信頼して働きを行なう。長い間彼らに従う人々は、彼らの才能に感化され、彼らの人格からいくらか影響を受けるだろう。彼らは人々の才能、能力、知識に重点を置き、多少の超自然的なものや多くの深遠で非現実的教義に注目する(もちろん、これらの深遠な教義は達成不可能である)。彼らは人々の性質の変化に注目せず、むしろ人々の説教する能力、働く能力の訓練、人々の知識や豊かな宗教的教義の改善に注目する。人々の性質がどのくらい変えられたか、あるいは人々はどのくらい真理を理解しているかには注目しない。彼らは人々の本質には関心を持たず、ましてや人々の通常の状態、異常な状態を知ろうとはしない。彼らは人々の見解に反論せず、明らかにもしない。ましてや人々の欠点や堕落を修正したりはしない。彼らに従うほとんどの人々は生来の才能によって仕え、彼らが表すのは知識と曖昧な宗教的真理であり、それらは現実とは離れており、人々にいのちを与えることは全くできない。実際、彼らの働きの本質は才能を育むこと、何もない人物を後になって仕事に就き、指導する有能な神学校卒業生に育てることである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

多くの人々がわたしに隠れて地位の恩恵をむやみに欲しがり、食べ物をむさぼり食い、眠り呆け、思うことは肉の思いばかりで、肉の快楽から離れることをいつも恐れている。彼らは教会で通常の役割を果たさず、無料で食べ、あるいは、兄弟姉妹をわたしの言葉で訓戒し、自分を高くして、他人に対して威張る。これらの人々は神の旨を行っていると言い張って、自分は神と心を一つにする者だといつも言う――これはばかばかしくないだろうか。あなたが正しい動機を持っていても、神の旨に沿って仕えることができなければ、あなたは愚かなのだ。しかし動機が正しくないのに、それでもまだ神に仕えていると言うなら、あなたは神に背く者であり、神から罰を受けるべきである。わたしはそのような人々にはまったく同情しない。神の家で、彼らは無料で食べ、いつも肉の安逸をやたらに求め、神の益となることは全く考慮しない。彼らはいつも自分たちに益になるものばかりを求め、神の心には何の注意も払わない。彼らのすることは神の霊に見られることはない。彼らはいつも状況を操り、兄弟姉妹に対して陰謀を企んでいる。彼らは二心の者で、ブドウ畑の狐のように、いつもブドウを盗み、ブドウ畑を踏み荒らしている。そのような人々が神と心を一つにする者になれるだろうか。あなたは神の祝福を受けるにふさわしいだろうか。あなたは自分のいのちにも教会にも責任を持っていないのに、神の任務を受けるのにふさわしいだろうか。あなたのような人を誰があえて信頼するだろうか。あなたがこのような形で仕えるなら、神はあなたにあえて大きな任務を託すだろうか。あなたは物事を先延ばしにしているのではないか。

『言葉は肉において現れる』の「神の心にかなう奉仕とは」より

あなたは自分の元来の性格のまま、また個人的好みに従って神に仕えている。さらに、自分が行いたいことが何であれ、神はそれを喜び、行ないたくないことが何であれ、神はそれを嫌うとあなたは思い続けている。そして働きにおいては、自分の好みに完全に左右されている。これを神への奉仕と呼ぶことができるであろうか。あなたのいのちの性質は、究極的には少しも変えられることはない。それどころか、自分は神に仕えているのだからと、ますます頑固になり、そのため、堕落した性質はさらに深く根付いたものとなる。このようにして、おもに自分の性格にもとづいた神への奉仕に関する規則と、自分自身の性質に従った奉仕から派生する経験をあなたは内面的に作り上げるようになる。これは人間の経験から来る教訓である。人間の人生哲学である。このような人々はパリサイ人と宗教官僚に属する。このような人々は目を覚まし悔い改めないならば、最後には終わりの日に出現する偽キリストとなり、人間を騙す者となるであろう。話しにでる偽キリストと詐欺師は、この種の人から現れる。もし神に仕える人々が自分たちの性格に従い、自分たちの意思のままに行動したならば、彼らはいつでも追放される危険にある。他人の心を獲得し、見下すような態度で他人に訓戒し人々を制限するために自分の長年の経験を神への奉仕に応用する人、そして決して悔い改めず、自分の罪を告白せず、地位からくる恩恵を諦めない人は、神の前に倒れるであろう。このような人はパウロと同類の人間であり、自分の経歴の長さゆえに大胆に振る舞ったり、資格を見せびらかしたりする。神がこのような人々を完全にすることはない。このような奉仕は神の働きのじゃまをする。

『言葉は肉において現れる』の「宗教的な奉仕の仕方は禁止されなければならない」より

殆どの者が大いに努力して神の言葉を読むが、認識を得るだけで、その後の道について何も言えないのは何故だろうか。あなたは、認識を得ることが真理を備えることに繋がると思っているだろうか。それは勘違いした見方ではなかろうか。あなたは、砂浜の砂ほど大量の認識を語ることが出来るが、そのうち実際の道が含まれている認識は皆無である。その点において、あなたは人々を欺いているのではなかろうか。あなたは有言不実行ではなかろうか。このような行動は人々に有害である。理論が高尚であればあるほど、現実性が一層欠如し、人々を現実性に導くことが一層不可能となり、またあなたはそのために一層神に背き反抗するようになる。最も高尚な理論を貴重な宝のように扱ってはならない。それは悪質であり、一切無益である。最も高尚な理論を語ることが出来る者も居るであろうが、そうした理論には現実性が一切含まれていない。なぜなら、そうした者は自分でそれを経験しておらず、したがって実践の道を一切知らないからである。そうした者は人間を正しい道に導くことが出来ず、人々を惑わせるだけであろう。それは人々にとって有害ではなかろうか。最低限度として、あなたは現在の問題を解決し、人々が成長出来るようにすべきである。そうした状態のみが献身として認められ、そうして初めて、あなたは神のために働く資格を得るであろう。常に尊大で非現実的な言葉ばかりを語ったり、不適切な実践を数多く用い、人々を拘束して自分に従わせたりしてはならない。そのような行動は全く効果が無く、益々人々を困惑させることしか出来ない。そのようにして人々を導くことにより、数多くの規則が生み出され、そうした規則が原因で人々はあなたを嫌悪するであろう。それは人間の欠点であり、極めて癪に障るものである。

『言葉は肉において現れる』の「現実性に一層重点を置くこと」より

あなたたち指導者について一般の人が何かを言うと、「ふん、あなたはどういう資格があって私のことを語れるんだ?あなたは説教を幾つできるのか?人を何人(なんにん)導けるのか?あなたに何ができるのか?」とあなたたちは言います。これではまるであなたたちには資格があるようです。このようなことを続けていれば、きっと困難に見舞われます。しばらくのあいだ仕えても、誤りを犯します。あなたたち全員に関する限り、ある地区の全教会があなたたちに委ねられたとして、六ヶ月のあいだ誰もあなたたちを監督する人がいなければ、あなたたちは道を踏み外すでしょう。一年間誰も監督しなければ、人々に道を踏み外させるでしょう。二年経っても監督する人がいなければ、人々を連れ去り、自分の前に連れてくるでしょう。これはなぜでしょうか。この問題についてこれまでに考えたことがありますか。あなたたちはこのようになることがありえますか。あなたたちの認識では一定の期間しか人々を養うことしかできません。いつまで経っても同じことを言い続けていれば、それに気づく人が出てきます。その人はあなたがあまりにうわべだけであり、奥行きを欠いていると言うでしょう。あなたには教義を説くことで人々を惑わそうとするしか選択肢がありません。このようなことを常に続けていれば、あなたの下にいる人々はあなたの方法や手順や、信仰の様式や、言葉や教義を経験して実践に移す様式を真似ます。最終的に、あなたが説教を続ける限り、彼らは残らずあなたを手本とするようになります。あなたが他人を指導する中で教義を語ると、下にいる人たちはあなたからそれを学び、物事が進むにつれてあなたは間違った道を行ってしまいます。あなたがどんな道を行こうと、あなたの下にいる人たちは同じ道を行き、何事もあなたから学び、あなたに従います。すると、あなたは「今や私は強力だ。だから多くの人が私に耳を傾け、教会も私の意のままだ」と感じます。人間の内側にあるこうした裏切りの本性は、無意識のうちに神をあなたにとって単なる看板へと変化させ、あなた自身が何らかの教派を組織することになります。このようにして様々な教派が生まれるのです。各教派の指導者を見てみなさい。彼らはみな傲慢で、独善的で、聖書を背景から切り離し、自分自身の想像によって解釈します。彼らはみな才能と知識に頼って働きを行ないます。彼らが何も説教できなければ、人々は従うでしょうか。彼らにもやはりいくらか知識があるにはあるので、何らかの教義を説くことができたり、人を味方に引き入れたり策略を用いたりする方法を知っていします。彼らは人々を自分たちの前に連れてきて騙すためにそれらを利用します。名目上、人々は神を信じますが、実際には指導者に従っているのです。そうした人が真の道を説く人物に出会うと、「私たちの信仰について、指導者に相談しなければならない」と言う人がいます。彼らの信仰は人間を通さなければならないのです。これは問題ではありませんか。それで、これらの指導者はどうなりましたか。パリサイ人、偽の羊飼い、反キリスト、人々が真の道を受け入れるのを妨げる躓きの石となったのではありませんか。この人たちはパウロの同類です。

『キリストの言葉の記録』の「真理の追求だけが神への真の信仰である」より

神が肉となり、人々の間で働くようになると、すべての人がその目で神を見、神の言葉を聞き、すべての人が肉にある神の業を見るのだ。その時、人のすべての観念は溶けて泡となる。神が肉として現れるのを見る人々についていえば、従順さを心に持つ者は皆罪に定められることがないが、意図的に神に敵対する者たちは神の敵とみなされる。このような人間は反キリストで、故意に神に対立する敵である。神に関する観念しか持っていないが、それでも喜んで神に従う人々は罪に定められることはない。神が人を罪に定めるのはその意図と行動に基づいてであって、その人の考えや意見を理由にすることは決してない。そのような根拠で罪に定められるのなら、神の怒りの手から逃れられる者は誰もいないだろう。肉となった神に意図的に敵対する者たちは不従順を理由に罰せられる。彼らの神に対する意図的な反抗は神に関する彼らの観念が原因であり、それは神の働きを混乱させる結果を生む。そのような人々は承知の上で神の働きに抵抗し、それを破壊する。彼らは単に神に関する観念を持っているだけでなく、神の働きを阻害する行動をとる。それ故このような人々は罪に定められることになる。

『言葉は肉において現れる』の「神を知らない者はすべて神に反対する人々である」より

もしあなたが長年神を信じており、それでも神に従ったことがないか、神の言葉を全て受け入れたことはないばかりか、神が自分に従うよう求めたり、自分の観念に沿って行動するように求めたりするようであれば、あなたは最も反抗的な人間であり、神を信じない者である。そのような人間が、人の観念とは一致しない神の言葉や働きに従うことなど出来るだろうか。最も反抗的な者とは、意図的に神に逆らい拒絶する者である。そのような者は神の敵であり、反キリストである。そのような者は常に神の新しい働きに対して敵対する態度をとり、従う意志など微塵も示さず、喜んで服従を示すことや謙虚になることなど一度たりともないのである。他の人たちの前で得意になり、誰に対しても従うことをしない。神の前では、自分が説教者として最も長けており、他の人に働きかけることに自分が一番熟練していると考える。自分が獲得した宝を決して手放そうとせず、家宝として拝み、説教の題材にし、自分を崇拝するような愚か者への訓戒に用いる。このような人が、教会内に確かに数名存在する。このような人々は、「不屈の英雄」と呼ぶことができ、世代を超えて神の家に留まるのである。彼らは神の言葉(教義)を語ることを自分の最高位の本分と解釈する。何年も、何世代も、彼らは精力的に自らの「神聖で犯すべからざる」本分を続ける。彼らに触れる者は誰ひとりおらず、公然と非難する者もひとりもいない。神の家で「王」となり、何代にも亘ってはびこり、他の者を圧制する。このような悪魔の一団は、互いに手を組んでわたしの働きを潰そうとする。このような生きた悪魔をわたしの目の前に生かしておけるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「真心で神に従う者は確かに神のものとされる」より

あなた方が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、あなた方自身の観念と生まれつきの尊大さのせいである。それは神の働きが間違っているからではなく、あなた方が元々あまりにも反抗的だからである。人によっては、神への信仰を持った後に、人がどこから来たのかということさえ確信をもって言えないのに、あえて聖霊の働きが正しいかそうでないかについて演説を行ったりする。彼らは、聖霊の新しい働きを持つ使徒たちに説教したり、意見したり、立場をわきまえないで余計な口を挟んだりさえする。彼らは人間性が非常に低俗で、思慮分別のかけらも持っていないのである。このような人が聖霊の働きによって拒絶され、地獄の火に焼かれる日が来るのではないか。彼らは、神の働きを認識しない代わりに、神の働きを批判し、しかも神に対して働き方の指図までする。このように理不尽な人たちがどうして神を知ることができるだろう。人は、神を求め、経験する過程で、神に対する認識を得るようになる。つまり、気まぐれに神を批判する中で聖霊の啓発を受けて神を認識するのではない。神に対する認識が正しいほど、人は神に反発しなくなる。逆に、神への認識が少ないほど、人は神に逆らう。あなたの観念、古くからの本性、人間性、性格や道徳観は、あなたが神に逆らう「資本」であり、あなたが堕落して下劣で低俗であるほど、あなたはますます神の敵対者になる。欲深い観念の持ち主や独りよがりな性質の者は、さらに受肉した神の憎しみを買い、そのような人たちは反キリストである。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より

神の働きの目的を理解しない者は誰でも神に敵対する人々であり、神の働きの目的が分かっているのに神を満足させようとしない人々はなおさら敵対する。荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を暗唱するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と呼びはするが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊のかしら、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは「健全な肉体」の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神を知らない者はすべて神に反対する人々である」より

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