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終わりの日のキリストの証人

目次

2.神によって使われた人々の働きと宗教指導者たちの働きの違いは何か。

聖書の言葉

主はこう言われた。「... わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者すべてに信頼されている。 」(民数記 12 :6-7)

「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。 お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。 お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。 彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。 わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。 」(エゼキエル書 34 :2-6)

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。〔偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。〕 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。(マタイによる福音書23: 13-15)

関連する神の言葉

宗教的な教会における実践が旧態化していると言われているのは、何故だろうか。それは、そうした教会で実践されている物事が現在の業と断絶されているからである。...聖霊の業は常に進行しており、聖霊の流れの中に居る者もまた一層深化し、漸進的に変化する必要がある。人間は、ある段階で停滞すべきではない。神の元来の業に留まり、聖霊の新たな業を受け容れないのは、聖霊の業を知らない者のみである。聖霊の業を得ることが出来ないのは、不従順な者だけである。人間の実践が聖霊の新たな業に遅れたならば、人間の実践もまた、現在の業から分離していること、そして現在の業と相容れないことは確実である。そうした旧態化した人々は、明らかに神の心を実現出来ず、いわんや神の証しに立つ最後の者となることなど出来ないであろう。さらに、経営の業全体は、そうした人々の中では完結できない。嘗てヤーウェの律法を遵守していた者と、十字架のために苦難を受けた者にとって、終わりの日の業の段階を受け容れられなければ、そうした者が行った物事は全て無に帰し、無駄になるであろう。聖霊の業の最も明瞭な表出は、その時その場所を受け容れることであり、過去に固執することでは無い。現在の業から遅れ、現在の実践から乖離した者は、聖霊の業に反抗し、それを受け容れない者である。そうした者は、現在における神の業に反抗している。

『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より

人の心の中の働きは人によってあまりにも容易に達成される。たとえば、宗教界の牧師や指導者は自分の才能や立場を信頼して働きを行なう。長い間彼らに従う人々は、彼らの才能に感化され、彼らの人格からいくらか影響を受けるだろう。彼らは人々の才能、能力、知識に重点を置き、多少の超自然的なものや多くの深遠で非現実的教義に注目する(もちろん、これらの深遠な教義は達成不可能である)。彼らは人々の性質の変化に注目せず、むしろ人々の説教する能力、働く能力の訓練、人々の知識や豊かな宗教的教義の改善に注目する。人々の性質がどのくらい変えられたか、あるいは人々はどのくらい真理を理解しているかには注目しない。彼らは人々の本質には関心を持たず、ましてや人々の通常の状態、異常な状態を知ろうとはしない。彼らは人々の見解に反論せず、明らかにもしない。ましてや人々の欠点や堕落を修正したりはしない。彼らに従うほとんどの人々は生来の才能によって仕え、彼らが表すのは知識と曖昧な宗教的真理であり、それらは現実とは離れており、人々にいのちを与えることは全くできない。実際、彼らの働きの本質は才能を育むこと、何もない人物を後になって仕事に就き、指導する有能な神学校卒業生に育てることである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

あなたは本来持っている性質と自分の好みによって、神に仕えているのである。またそれ以上に、あなたが好きなものは何でも神は愛され、あなたが嫌いなものは何でも神は憎まれると思い込み、そうしてあなたの働きはひたすら自分の好みによってなされていく。これで神に仕えていると言えるだろうか。結局のところ、あなたのいのちの性質はみじんも変えられていない。実際、あなたは神に仕えてきたことで更に頑固になり、あなたの堕落した性質が深く根差すことになる。あなたは神に仕える規定を持つようになる。それは正にあなたがた自身の性質から出たもので、あなたの性質に従って神に仕えた経験を基盤としている。これが人間の経験であり学び方である。それは人の人生哲学である。このような人々はパリサイ人や宗教家である。もし彼らが目を覚まし、悔い改めなければ、究極的には彼らは終わりの日に現れる偽キリストになってしまうだろう。彼らは惑わすものたちである。偽キリストや惑わす者たちとはこのような人たちから生まれるであろう。神に仕えようとする人たちが自身の性質のまま、自分たちの意思通りに行動するなら、神に見捨てられる危険が絶えず付いて回る。長年神に仕えた経験を利用して人々の心を誘惑し、人々に説教し支配し、自らを高める人々―決して悔い改めることもなく、罪を告白することもなく、自分の立場を利用し続ける人たち―そのような人たちは神の前で倒れるだろう。彼らはパウロと同じ種類の人々で、うぬぼれていて、自分たちの地位や経歴を自慢している。神はこのような人々を完全にすることはないだろう。この種の奉仕は神の働きを妨げる。

『言葉は肉において現れる』の「宗教奉仕を取り締まるべきである」より

各教派、各分派の指導者を見ると、そうした指導者は全て傲慢で独善的であり、聖書を前後関係を無視して、自分の想像に従って解釈している。そうした指導者は、全員が才能と学識に依存して業を行う。そうした指導者が何も説教出来ないのであれば、人々はその指導者に従うであろうか。結局のところ、そうした指導者は、教義をある程度習得し、教義について多少の話をすることが出来るか、あるいは他人を説得する方法、策略の利用法を知っており、それによって人々を自分のところに集めて騙したのである。こうして集まった人々は、名目上は神を信じているが、実際にはその指導者に付き従っている。そうした人々が真の道を説教する者に出会うと、「私達の神への信仰について、指導者と相談する必要がある」と言う者も居る。このように、こうした人々には、神を信じるために誰かの同意が必要であるのが分かると思うが、それは問題ではなかろうか。それならば、そうした人々の指導者は、どのような存在ということになるであろうか。そうした指導者はパリサイ人や偽の羊飼い、反キリスト教主義者のような存在であり、人々が真の道を受け容れるのを阻害する存在となっているのではなかろうか。

『キリストの言葉の記録』の「真理の追求のみが真の神への信仰である」より

荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を朗読するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と自称しているが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは「健全な肉体」の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神を知らない者はすべて神に反対する人々である」より