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45.終わりの日の働きにおいて、なぜ神は堕落した人類を裁き、罰するのか。

わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、大声で言った。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」(ヨハネの黙示録14:6-7)

終わりの日の働きとは、時が近づき神の日が来たので、神の経営(救いの)計画を完成させるべく、その者の性質に応じて全ての人を分けることである。神はその国に入った者、すなわち神に最後まで忠実であった全ての者たちを神自身の時代に連れて来る。しかし、神自身の時代が来る前に、神がしたい働きとは、人の行為を観察したり、人の生活について尋ねたりすることではなく、人の神に対する背きを裁くことである。なぜなら、神は自分の玉座の前に来る者全てを清めるからである。今日まで神に付き従ってきた全ての者は、神の玉座の前に来た者であるから、神の最後の働きを受け入れる全ての者が、神によって清められる者である。すなわち、神の最後の働きを受け入れる全ての者が、神の裁きを受けることになる者である。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

懲らしめや裁きという神の働きの本質は、人類を清めることであり、それは、最後の安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないあるいは安息の中に入ることもできない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの仕事こそが人類の不義を洗い清め、懲らしめ、裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが識別されるようになる。神の仕事が終わる時、生き残ることのできる人は、洗い清められ、人類のより高い領域の中に入って、地上でのよりすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が懲らしめや裁きを受けた後、彼らの正体が露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、悪者、不道徳者であって、義なる人ではないからである。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

今日、神はあなたたちを裁き、あなたたちを罰し、あなたたちを糾弾するが、あなたたちを糾弾するのはあなたたちが自分を知るためであることを知りなさい。糾弾、嘲り、裁き、懲罰――これらはみなあなたたちが自分を知るため、あなたたちの性質が変わるため、さらにあなたたちが自分の価値を知り、神の行動はすべて義であり、神の性質や働きの必要性に応じていること、神は人を救済する計画に応じて働くこと、彼は人を愛し、人を救い、人を裁き、罰する義の神であることを理解するためである。あなたたちが、自分たちは低い地位の者で、堕落して、反抗的であることは知っているが、神が今日あなたたちに行う裁きや罰を通して救済を明らかにしようと望んでおられることを知らないならば、あなたたちは経験するすべがないし、ましてや前進を続けることはできない。神は人を殺したり、滅ぼしたりするためにではなく、裁き、苦しめ、罰し、そして救うために来られた。神の6000年の管理計画が終了する前に――神が人の各カテゴリーの最後を明らかにする前に――地上における神の働きは救済のためであり、すべては神を愛する人々をすっかり完全にし、神の領土に戻すためである。……人の目から見れば、救済は神の愛であり、神の愛は罰、裁き、呪いのはずがない。救済は愛、慈悲心、さらには、癒しの言葉を含んでいなければならず、神によって与えられる無限の恩恵を含んでいなければならない。神が人を救う時、神は彼らに触れ、神の祝福と恩恵を通して彼らの心を神に委ねさせることによって救ってくださると人々は信じている。すなわち、人に触れる時、神は人を救う。このような救済は交換が行われている救済である。神が彼らに100倍与える時のみ、人は神の御名の下に来て、神のためによくやろうと努力し、神に栄光をもたらす。これは人類に対する神の御心ではない。神は堕落した人類を救うために地上で働きに来られた――このことにうそはない。そうでなければ、神は直接その御働きを行うために来ることは絶対にないだろう。昔、神の救済手段は最大限の愛と慈悲を見せることだったので、神は人類全体と交換するためにサタンに持てるすべてを与えた。今日は昔とはまったく違っている。今日、あなたたちの救済は終わりの日に、種類によって各々を分類する間に生じる。あなたたちの救済手段は愛や慈悲ではなく、人がより完全に救われるための懲罰と裁きである。従って、あなたたちが受け取るすべては懲罰、裁き、無慈悲な打ちのめしであるが、この無情な打ちのめしの中に罰は少しもないこと、私の言葉がどんなに辛辣であっても、あなたたちに降りかかるものはあなたたちには完全に無情だと思われるほんの数語だけであり、私の怒りがどんなに大きくても、あなたたちに降りかかるものは教えの言葉であることを知りなさい。私はあなたに危害を加えるつもりはないし、あなたを殺すつもりもない。これはすべて事実なのだ。今日、義のための裁きであろうと、無情な改善や懲罰であろうと、すべては救済のためであることを知りなさい。今日種類に応じて各々の分類があろうと、人のカテゴリーのない層があろうと関係なく、神の御発言と御働きのすべては本当に神を愛する人々を救うためである。義のための裁きは人を浄化するためであり、無情な改善は人を清めるため、厳しい言葉、あるいは懲罰はすべて人を浄化するため、救済するためである。従って、今日の救済方法は、過去のものとは違う。今日、義のための裁きはあなたたちを救い、種類に応じてあなたたち各々を分類するためのよい道具であり、無情な懲罰はあなたたちに最高の救済をもたらす――この懲罰と裁きに直面してあなたは何を言わなければならないだろうか。あなたたちは初めから終わりまで救済を享受しなかっただろうか。あなたたちは神の受肉を見たし、神の全能性と英知もはっきり理解した。そのうえ、あなたたちは繰り返される強打や罰も経験した。しかし、あなたたちは最高の恵みを受けたではないか。祝福は他の誰のものより大きいではないか。あなたたちの恵みはソロモンが享受した栄光や富よりも豊富である。考えてもみなさい。神がやってきた意図があなたたちを非難し、罰するためであるなら、あなたたちの日々はこのように長く続くだろうか。この罪深い生身の存在であるあなたたちは今日まで生き残れただろうか。あなたたちを罰するためだけなら、なぜ神が人の姿になり、そのような大きな事業に乗り出したのだろう。ただの人間にすぎないあなたたちを罰するにはわずか1語で済むのではないか。神はあなたたちを非難した後でもまだあなたたちを滅ぼす気持ちなのだろうか。あなたたちは神のこうした言葉をまだ信じないのだろうか。神は愛と慈悲だけで人を救うことができるのだろうか。それとも神は人を救うために磔刑だけしか使えないのだろうか。神の義なるご性質は人を完全に従順にさせるために一層寄与するのではないだろうか。人を一層完全に救うことができるのではないか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたたちは地位の恩恵は脇に置き、人を救済する神の御心を理解するべきである」より

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