自分の性情を変化させることについて、あなたがたが知るべきこと

長年にわたり業を経験し、説教を聞いて、自分を理解している人々と、自分を全く理解していない人々が居る。現実の物事について話をして自分の現実的状況や個人的に真摯な取り組みを始めた事柄、個人的進捗、自分の短所、真摯な取り組みを始めることを自分がどのように計画しているかを伝えることが出来る人々もいる。そうしたことが全く話せない人々も居るが、そうした人々は教義や外面的な業、現状、福音を広める取り組みの進捗についてしか話が出来ず、具体的ないのちへの真摯な取り組みや個人的経験については何も話ができない。このことは、そうした者が、依然としていのちへの真摯な取り組みを行う正しい道を進んでいないことを示す。性情の変化は行動の変化ではなく、虚偽的な外面の変化でもなく、一時的かつ熱狂的な変化でもなく、真の性情の変化であり、それにより行動の変化がもたらされる。こうした行動の変化は外面的態度の変化とは異なる。性情の変化は、自分が真理を理解し、経験し、真理が自分のいのちとなったことを意味する。従前において、あなたがたはこの事項に関する真理を理解したが、それを実行出来なかった。真理は、留まることの無い教義のようなものであった。現在は、自分の性情が変化し、真理を理解しているだけでなく、真理に従って行動している。あなたがたは、従前好んでいた行動を辞めることや、自分のやりたいことを諦めること、自分の想像や観念を捨て去ることが出来るようになった。あなたがたは、従前捨て去れなかった物事を捨て去ることが出来るようになった。これが性情の変化であり、それは自分の性情を変化させる手続である。言葉で言うと明解であるが、実際には、その手続の最中にある者は数多くの困難を受け、肉に打ち克ち、自分の本性にある肉の物事を捨て去らなければならない。またその者は、取り計らい、剪定、罰、裁き、審判を受ける必要がある。こうした物事全てを経験してはじめて、その者は自分の本性を理解する。ある程度の理解があることは、その者が即座に変化できるということではない。その過程において、その者は苦難を受ける必要がある。それと同様にして、理解した後は、それを実践できるか、というと、すぐにはそれを実践できない。あなたがたが理解するために必要とする期間において、他の者が自分を剪定し、取り扱い、また環境により、あれこれと特定の方法で実行することを余儀なくされる。あなたがたはこうしたことを経験したがらず「それはこの方法でやりたいが、なぜそうしてはいけないのか。その用法でしなければならないだろうか。」と言うことがある。他人は「この方法でしなければならない。あなたが神を信じるならば、この方法ですべきである。この方法は真理に従っている。」と言う。最終的に、試練を経験した後に神の御旨や真理の一部を理解するまでに達し、ある程度満足してその方法に従うことを望む。当初、あなたがたは、そうすることに気が進まなかった。例として、献身的に本分を尽くすことについて検討する。あなたがたは、自分の本分を尽くし、神に忠実であることに関して、ある程度理解し、また真理も理解しているが、自分が完全に神に対して献身的になるのは、何時であろうか。あなたがたが名実ともに本分を尽くすのは、何時であろうか。それには、少し時間を要するであろう。この過程において、あなたがたは多くの苦難を受け、人々があなたがたを取り扱い、剪定し、制限し、強制する。皆の目が自分に注目し、ついにあなたがたは「これは自分の問題だ。献身的にならずに自分の本分を尽くしても大丈夫だろうか。不注意になったり、おざなりになったりしてはいけない。」と悟る。聖霊は、内面からあなたがたを啓かれ、過ちを犯すとあなたがたを咎められる。この過程において、あなたがたは自分自身について一定の物事を理解し、自分の本分を尽くす時に、自分が不浄すぎること、個人的意向が多すぎること、希望が多すぎることを知る。それを知った後、あなたがたは徐々に正しい道へと進み始め、自分の行動を変えることが出来るであろう。あなたがたは、自分の本分を尽くすことの本質について、実際にどの程度良好に自分の本分を尽くしているであろうか。あなたがたは、自分の性情が変化した後、どの程度良好に真理に従って自分の本分を尽くしているであろうか。このことを自省することにより、あなたがたは自分の性情が実際にどの程度変化したかを知ることができる。性情の変化はそれほど単純では無い。「自分の行動が変化したし、真理を理解している。真理のあらゆる側面に関する多少の経験について話しをする事も、多少の識見について話しをする事もできる。その上、この問題について聖霊が自分を咎められ、それを多少捨て去り、従順になることが出来るようになった。」こうした事柄は性情の変化とはみなされない。それは何故だろうか。あなたがたは多少捨て去ることが出来るが、自分がしている行動は、まだ本当に真理を実践する段階に達していない。おそらく、自分の環境が一時的に適したものであったり、状況が好ましかったり、状況によりそのような行動を余儀なくされたり、自分の精神状態が安定し、聖霊が御業を行われていたかも知れず、そうした時は、そのように行動できる。試練の苦悩を受けたヨブや、神に死ぬよう命じられたペトロのように試練の真っ直中に居たとしたら、「私が神を知った後に死んだとしても、問題ありません」と言えるであろうか。性情の変化は一夜越しに発生するものではないが、それは、あなたがたが真理を理解した後に、あらゆる環境下で真理を実践出来ることを意味するものではない。これには人間の本性が関連している。あなたがたは、外面的には真理を実践しているかのように思われるが、実際には、あなたがたの行動は真理を実践していることを示していない。表面上の態度を身に付けた人々が多数居り、そうした者は「自分は真理を実践している。見よ、私は自分の本分を尽くしているではないか。私は自分の家族や職務を捨て去ったではないか。私は自分の本分を尽くし、よって真理を実践しているではないか。」と考える。しかし神は「おまえが真理を実践しているとは認めない。」と述べておられる。これは何であろうか。これは一種の態度であり、真剣に言うと、あなたがたはそれを罪として咎められる可能性もあり、賞讃されることも祝されることも無いであろう。さらに真剣に言うと、このことを分析すると、あなたがたは邪悪を行っており、あなたがたの行動は神に反抗するものである。あなたがたは、外面的には真理を阻害することも損傷することも、それに反することも無い。あなたがたの行動は論理的かつ合理的であるように思われるが、あなたがたは邪悪を行い、神を拒否している。したがって、あなたがたは神が要求されるとおり、根源を検討し、自分の性情が変化したかどうか、真理を実践しているかどうかを確かめる必要がある。そこで重要なのは、想像や人間の意見、個人的な好みに従うことでは無い。そうしたことではない。むしろ、あなたがたが神の御旨に則しているか、あなたがたの行動に真理があるか、行動が神の基準を満たしているかを判断するのは、神であられる。正しい方法は、自分自身を神の要求に対して評価すること以外に無い。性情の変化と真理の実践は、人間が考えるほど単純で容易なものではない。あなたがたは、それを理解しただろうか。あなたがたはそうした経験があるだろうか。この問題の本質が関与する場合、あなたがたは理解できないかも知れない。あなたがたの真摯な取り組みは、浅薄すぎる。あなたがたは朝から晩までかけずり回り、朝早く起きて夜遅く就寝するが、性情の変化が何か、その真相は何かを明瞭に理解していない。これは浅薄ではなかろうか。あなたがたが若いか年老いているかを問わず、性情の変化の本質や深遠を感じないかも知れない。神が自分を賞讃しているかどうかは、どうすれば分かるだろうか。あなたがたは、最低限度として、自分の行動すべてにおいて、心がとりわけ確固としていると感じ、自分の本分を尽くす時や神の家族の中で業を行う時や通常時に聖霊が自分を導き、啓き、自分の中で御業を行われていると感じ、あなたがたの行動は神の御言葉に完全に適合し、さらに自分にある程度の経験がある場合、過去の自分の行動は比較的適切であったと感じる。一定期間にわたり経験を得た後、過去の自分の行動が不適であると感じ、それについて自分が不服であると感じ、そうした行動には本当に真理が不在であると感じるのであれば、それは過去の自分の行動が神に反抗するものであったことを示す。それは、あなたがたの務めが反抗と反逆、そして人間の態度で満ちていることを示す。それを踏まえ、あなたがたは自分の性情の変化を、どのように理解すべきであろうか。あなたがたは理解しているであろうか。通常、あなたがたは、自分の性情の変化について話し合うことは無く、個人的経験を伝えることは殆ど無いかも知れない。あなたがたは、せいぜい「この期間の自分は良くなかった。その後「神よ、私を啓き照らしたまえ」と神に祈った。神は「神を信じるものは試練を受ける必要がある」と言われた。そのことを自分で考えた時、それが正しいと思ったので、試練を受けようと思った。最終的に自分は立ち上がり、否定的ではなかった。結局、私は献身的に自分の本分を果たさなかった。」と伝えるのみである。そのような問題について伝え、それが終わると他の者は「人間は皆それほど変わらず、皆腐敗しきっている。人間は皆同様だ。」と言う。こうした事について話をするのは、常に困難である。最終的に深遠な物事を把握できなければ、性状の変化は無い。性情の変化とは、おもに自分の本性の変化をさす。本性は、外面から理解できないものである。本性には、人間の存在する価値と重要性が関連する。本性には、人間のいのちの価値、霊の深遠にある物事、そして人間の本質が直接関連する。人々が真理を受け容れられない場合、その人々にはそうした側面における変化が無いであろう。神の御業を経験する者が、真理に対する真摯な取り組みを本格的に行い、かつ自分の価値と存在、いのちの見通しを変え、自分の見解が神と同じとなり、自らを神に完全に服従させ、捧げる場合のみ、その者の性情が変化したと言える。あなたがたは、ある程度努力し、困難に対して柔軟に対処しているように考えられ、目上の者から手配された業を行い、あるいは行けと命じられたあらゆる場所に行くことが出来るかも知れないが、そうしたことは自分の行動の僅かな変化であり、自分の性情の変化としては不十分である。あなたがたは、多くの道を進み、多くの苦難を受け、大きな恥辱に耐えることが出来るかも知れず、また神に対して強い親しみを感じ、聖霊が自分に対して御業を行っていると感じるかも知れないが、神が自分に対して何か自分の観念に則していない物事を行うよう依頼された時、あなたがたは服従せず、言い訳を探し、神に対して反抗し、神を拒否して、神を非難し、神に反対することさえある。これは大問題である。これは、あなたがたには依然として神に反抗する本性があり、少しも変わっていないことを示す。神が義ではあられないと言って神を非難する者も居る。こうした者には自分の観念があり、「神は、それについて皆が話し合えるように、それを隠し立て無く行われるべきだ」など、神と論争したり、神に要求することができる。そうした行動は、そうした者が、神を拒否する邪悪な悪魔であることを示している。こうした者の本性は、決して変化しないであろう。こうした者は見放されるべきである。真理を受け容れることが可能であり、神の御業を理解できない時に真理を得るために追求と調査を行う者のみに、性情の変化を達成する見込みがある。自分の経験の中では、区別すべき通常の問題がある。祈りを捧げる時に号泣したり、自分の心の中で神に対する大きな愛を感じ、神に対する親しみを感じるかも知れない。これは単に聖霊があなたがたの中で御業を行われた状況であるが、依然としてあなたがたは神を愛しておらず、あなたがたには真理が無く、それが自分の性情が変化したことであると言えないことは確実である。

あなたがたの性情の変化は、何から始めればよいか、あなたがたは、知っているであろうか。それは、あなたがた自身の本性を理解することから始める。このことは重要である。それでは、本性を理解するには、どうすればよいだろうか。「探求せよ」探求が完了したら、どのようにして自分自身を確認すればよいだろうか。それは、あなたがたが自分の本分を尽くしている時に見つけられる。あなたがたが本分を尽くしていない場合は、どうすればよいだろうか。それを見出すことができるであろうか。それは、自分の家族と生活したり、人々と交流しながら見出せるだろうか。どのように見出せばよいだろうか。それは常に探す必要がある。あなたがたのうち古参の者は、長年にわたり、そのように実践しているが、自分の本性を理解したであろうか。あなたがたの前途は、まだまだ長い。どのように見出せばよいだろうか。何か方法が有るはずであり、空虚な話をしてはならない。あなたがたは、毎日、そして常にそれを自分で探す必要がある、食事と睡眠以外は常に探す必要がある、と言う。どこを探せばよいだろうか。何をしらべればよいだろうか。どのように見出せばよいだろうか。その結果はどうなるだろうか、「人間の本性を理解すること。」自分の本性を理解したならば、それを変えることができる。そう言うのは誰でも簡単に出来ることである。しかし、どのように探求すればよいだろうか。どのように解釈すればよいだろうか。何かしらの方法があるはずである。方法があるのであれば、経験する方法を知るであろう。方法が無いのであれば、あなたがたは「人間は皆、自分の本性を理解する必要がある。人間の本性は悪い。自分の本性を理解すれば、自分の性情を変化させることが出来る」と標語を述べているに過ぎない。その標語を述べ終えても、それは無意味な言葉を述べたに過ぎず、自分の本性を理解する者は居ない。これが、いわゆる道なくして教義を語るということである。こうした方法を採らなければ、物事が台無しになるだろうか。こうした方法を採った場合の成果は、どのようなものだろうか。通常、あなたがたは皆「自分の本性を理解しよう。人間は皆、神を愛す必要がある。人間は皆、神に従う必要がある。人間は皆、神の御前でひれ伏す必要がある。人間は皆、神を崇拝する必要がある。神を愛さない者は、受け容れられない。」など、標語を主張する。こうした教義を語ることは無益であり、それにより問題は解決されない。あなたがたは、こうした問題について検討したことが無い。それでは、どのように理解すればよいだろうか。理解するとは、実際には霊の深遠を分析することである。それは、自分のいのちの中にあるものである。元来あなたがたが生活上で従ってきたのは、サタンの論理であり、サタンの多数の見解であり、すなわち、あなたがたが生活上で従ってきたものは、サタンのいのちである。あなたがたは、自分の霊の深遠にある物事を明らかにして初めて、自分の本性を理解できるようになる。そうした物事は、どのようにして明らかにすればよいだろうか。そうした物事は、単に行動によるだけでは、多くの者がそうした物事を明らかにして分析できないであろう。何らかの行動の後、何らかの理解に達しないことが往々にしてある。3年後ないし5年後、あなたがたは目覚めを迎え、ある程度理解を得るであろう。さて、自分の本性を理解するために、あなたがたは数件の側面を含める必要がある。第1に、自分の心の中で、自分が好む物事が明らかである必要がある。それは好きな食べものや飲みものではなく、好きな物事、羨望する物事、崇拝する物事、追求する物事、自分が配慮する物事の種類である。あなたがたは、これらについて明確に理解しているであろうか。あなたがたは、自分が好む物事の種類には何があるかを知っているだろうか。それは、通常あなたがたが配慮する物事、崇拝する物事、知り合いたい人々の種類、やりたいと思う事柄の種類、心の中で偶像化している人々の種類である。たとえば、殆どの人々は、偉人、発言や容姿が美麗な者、皮肉な話し方をする者を好むほか、気取る者を好む者も居る。人々が接したい者に関する側面は、こうしたものである。人々が好む物事の側面に関し、簡単に出来ることを好んでしたがること、他人が良いと考える行動をするのを好むこと、人々が見て賞讃し、喝采し、褒め称える物事がある。人間が本性で好む物事には、全般的な特徴がある。つまり、人間は、その物事の外観のために、他人が羨望する物事、外観が美しく豪華な物事、その物事の外観のために、他人に自分を崇拝させるような物事を好む。人間が好むのは、こうした物事である。人間が好む物事は、偉大であり、幻惑的であり、豪華であり、壮大である。人間は、皆こうした物事を崇拝し、人間には真理が皆無であり、真の人間像が無いと言える。こうした物事を崇拝することには全く重要性が無いが、人間はそうした物事を好む。神を信じない人間の目から見ると、人間が好む物事は特に良好であり、人間はそれらを求めることを特に希望する。簡単な例を挙げると、人間は特に俳優や有名人、歌手を崇拝する。中国における一部の有名人のように、信者以外の多数の者がその者を追いかけ、訪ねて行ってサインやメッセージを求め、あるいは握手したり抱きしめてもらうことを求めたりする。こうした物事は、信者の心にあるだろうか。あなたがたは、時々自分が崇拝する有名人の歌を歌うことがあるだろうか。あるいは、あなたがたは、時々自分の憧れのスタイルを模倣して着飾ることがあるだろうか。あなたがたは、そうした有名人や著名人を自分の崇拝対象とし、自分の崇拝の鑑としている。これらは、人間が内心好む一般的な物事である。信者は、こうした信者以外の者が崇拝する物事を真に崇拝するであろうか。殆どの者の心の深遠には、こうした物事を崇拝する心がある。あなたがたは神を信じ、こうした物事を明らかに求めているようには思われない。しかし、あなたがたは内心こうした物事を羨望し、好んでいる。時々あなたがたは有名人の音楽を聴いたり、テレビで有名人を見たりしたがるであろう。そうした有名人は、どのような生活をしているであろうか。そうした有名人は、今どこに居るだろうか。もし自分が有名人に会って握手しても問題無いだろうし、自分が死んだとしてもそのことを後悔しないだろう。たとえば、人々は有名人やスター、伝説の人物を崇拝する。人々は、一日中そうした有名人達のことを話題にし、有名人達やその近況、有名人達が来訪した場所、有名人達が歌った人気の曲に関するニュースを探す。こうした物事を尋ね、常に注意している人々も居る。結論として、誰を崇拝するかを問わず、あなたがたはこうした物事を好む。おそらく、あなたがたには、こうした人々や物事に会う機会や状況が無いかも知れないが、自分の内心には、こうした物事がある。こうした物事を羨望することは、この世の人々と共に泥沼で転げ回るに等しい。そうしたことは、神が忌み嫌われ、真理が無く、人間性の無い、悪魔のような物事である。これは簡明な例であり、人間が内心好む事柄である。あなたがたは、自分が好む物事から、自分の本性を明らかにすることが出来る。あなたがたが好む物事は、自分の身なりから理解できる。奇抜で人目を引き、色彩豊かで奇妙な服装をするのを好む者も居る。人々は、通常の人々が持っていない物を持つことを好み、異性を魅了する物事を好む。こうした人々の所有する物や着る服装は、その者の生活や霊の深遠に、そうした物がどのように存在するかを示している。こうした人々が好む物は尊重されることも高潔であることも無く、真の人間の物では無い。こうした人々が好む物は正しくなく、そうした人々の視点は、この世の人々の視点と同一のものである。私は、服装や装飾品、観点が、この世の人々のものと同一の人々と出会ってきたが、そうした者に真理を見出すことは出来なかった。従って、あなたがたが好む物事、重点を置く物事、崇拝する物事、羨望する物事、心の中で毎日考える物事は、すべてあなたがたの本性を表している。あなたがたの本性が不正を好み、深刻な問題に苛まれ、邪悪で治る見込が無いことを証明するだけで十分である。あなたがたは自分の本性をこのように分析すべきである。つまり、自分が何を好み、人生において何を捨てたかを調べるべきである。おそらく、あなたがたは誰かに親切にしているが、それは必ずしもその者を好んでいることを示すものではない。あなたがたが本当に好む物事は、正確に言えば自分の本性の中にあるものである。たとえ自分が骨折したとしても、あなたがたはそれを好み、捨て去ることが出来ない。それを変えるのは簡単ではない。誰かが自分の好きな伴侶を見つけた場合を考えると、その者がその伴侶を本当に好んでいれば、他人はそれを止めることが出来ない。たとえその者の両親が骨折したとしても、その者は、その伴侶と逃げるであろう。その者は死んでもその伴侶と結婚したいと思うであろう。それは何故だろうか。それは、誰かの心の深遠にある物事を変えることが出来る者は、居ないからである。たとえその者の心臓を取り出して、その者が死んだとしても、その者の魂は変わらないであろう。これが人間の本性であり、その者の本質を表している。人間が好む物事には、ある程度の不正が含まれている。不正には明瞭なものと不明瞭なもの、激しいものとそうでないものがあり、自制できる者と出来ない者、闇の物事へと没落する者も居る。このことは、そうした者には、いのちが一切無いことを示している。人間がそうした物事にとらわれたり制限されたりせずに居ることが出来れば、それは、そうした者の性情は多少変化し、ある程度の器量があることを示している。真理をある程度理解したので自分にいのちがあり、自分は神を愛していると感じる者も居る。実際には、それは時期尚早であり、人間の性情の変化はそれほど単純な問題ではない。本性は理解するのが容易であろうか。多少の本性を理解したとしても、それを変えるのは容易ではない。これは、人間にとって困難な部分である。時を問わず、また自分の周囲の人間や問題、物事がいかに変化したかを問わず、さらに世界がどのような大変革を迎えたかを問わず、あなたがたが自分の内面の真理により導かれ、その真理があなたがたに根ざし、神の御言葉があなたがたのいのち、あなたがたの好み、経験や存在を導くならば、あなたがたは真に変化を遂げるであろう。また、このいわゆる変化は、単に人間に多少の協力と熱意、真理があるということであるが、それを変化とみなすことは出来ず、またそれは人間にいのちがあることを示すものでは無い。それらは人間の好みの物事である。人間が自分の本性で好む物事を明らかにすることに加えて、たとえば、人間のものの見方、方法論や人生の目的、人生の価値や人生観、真理に関連する物事の見方など、自分の本性に関連する他の側面もまた明らかにする必要がある。これらの物事は、すべて自分の霊の深遠にある物事であり、性情の変化と直接的な関連性のある物事である。ここでは、本性が腐敗している者の人生観を検討する。そうした者は、他人が全て自分のために存在すると考え、落伍者を気にかけることは無い。人間は自分のために生き、簡単に言えば、人間は豚や犬と同様であり、食べ物、衣服、食べることしか考えていない。そうした者の人生には、それ以外に目的が無く、重要性や価値は全く無い。人生観は、生きてゆく上で自分が依存する物事であり、自分が生きる理由であり、自分の生き方である。こうした物事は、全て人間の本性の本質である。人間の本性を分析することにより、あなたがたは、人間がすべて神に反抗していることが分かるであろう。人間は全て悪魔であり、真の善人は居ない。人間の性情や腐敗を真に理解し、実際に人間が何に属するか、実際に人間に不足している物事は何か、人間が身に付けるべきことは何か、人間像を行動で示すには、どう生きるべきかを知るには、人間の本性を分析することによるほか無い。人間の本性を真に分析できるようになることは、容易ではない。真理と経験が無ければ、それは役に立たない。