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19.偽善とは何か。

神の言葉

周りの注意を引こうとする傾向がある人たちがいる。そのような人たちは、兄弟姉妹の前では神に負い目があると言っているが、陰では真理を実践したりすることもなく全く違うことを行っている。これは宗教熱心なパリサイ人たちのようではないだろうか。神を心から愛し、真理を持っている人とは神に忠実でありながらそれを誇示しない人のことである。その人は問題が起こると喜んで真理を実践し、良心に逆らって話したり行動したりするようなことはしない。問題が起きると知恵を用い、どんな状況下でも原則に基づいて行動する。このような人こそ真に仕えている人である。神に負い目があるとただ口先だけの人たちも中にはいる。彼らはしかめっ面をし、感情たっぷりにみじめな表情を装って一日中過ごしている。なんと卑劣な態度だろう。彼に「どんな風に神様に負い目があるの。教えてください。」と聞いたとしたら、彼は何も答えられないだろう。あなたが神に対して忠実ならば、公の場で口にするのではなく、神に対するあなたの愛を実践で示し、そして心から神に祈りなさい。神に言葉でしか接しない人たちは全て偽善者である。一部の人たちは祈りの度に神に対する負い目を語り、聖霊の働きがないにも関わらず祈る度に涙を流す。このような人たちは宗教的儀式と観念に捕われている。彼らはそのように儀式と観念で生きることを神は喜び、表面上の神への敬虔や悲しみの涙を神は好むと常に信じている。そのような馬鹿げた考え方を持つ者からどんな良いことが生まれようか。謙遜を振る舞おうと人前では憐れみ深いかのように話す人たちもいる。人前で故意に卑屈になり、無力の子羊のように振る舞う人たちもいる。これが神の国の人の有様だろうか。神の国の人とは、いきいきとして自由で、純真で率直、正直で愛に溢れ、束縛されない生き方をしているはずである。そのような人には品性と尊厳があり、どこに行っても証し人として立つことができる。神と人に愛されている人である。信仰に未熟な人たちは外観にこだわりすぎる。彼らはまず神に扱われ、打ち砕かれる時期を通らなければならない。信仰を持つ人たちは、外見は同じでも、彼らの行動と行いは褒めるに値する。そのような人たちこそ神の言葉に沿って生きている人たちだと言える。もしあなたが多くの人々に福音を毎日述べ伝え、彼らを救いに導いても、あなたが依然として規則や教義にのめりこんで生きているなら、神に栄光をもたらすことはできない。そのような人たちは宗教熱心なだけの偽善者である。

そのような宗教熱心な人たちはいつ集まっても、「お元気でいらっしゃいましたか。」と尋ねる。そして姉妹は、「神様に負い目がありますが、神様の御心をなかなか成就することができません。」と答える。また別の人は「私もなんです。神様に負い目がありますが、神様に満足していただくことができません。」と答える。この僅かな言葉にも、彼らの心の奥深くにある卑劣な心が表現されている。そのような言葉は実に忌まわしく、あまりにも不快だ。そのような人たちの本性は神に敵対している。現実に焦点を合わせている人たちは、心にあることをそのまま言葉にし、会話の中で自分たちの心をさらけ出す。偽りの行いはひとつもなく、礼儀にこだわらず、空虚な社交辞令もない。彼らはいつも単刀直入で、この世の規律を守ることはない。また、理性を失って大げさに振る舞う人たちがいる。他の人が歌うと踊り始め、鍋の米が焦げていることさえも気が付かない。そのような人たちは敬虔でもなく、尊敬に値しない。あまりに軽率な人たちである。全て現実の欠如の顕れである。ある人たちは集って霊的いのちについて語り、神に負い目があるとは語らなくても心の中には神への心からの愛を秘めている。あなたが神にどれほど負い目があるかは他の人たちとは無関係だ。あなたは人ではなく神に負い目があるのだから。それならあなたがこのことを絶えず誰かに話したところでどうなるのだろうか。あなたは外観の熱心さや見せかけではなく、現実において成長することに重点を置くべきだ。

人のうわべだけの善行が何を表すだろうか。そのようなものは肉を表し、外見上最善のことをしたところで、ただあなた個人の性質を現すだけで、いのちを現すわけではない。人のうわべだけの行動では神の願いを成就することはできない。あなたは絶えず神に負い目があると言うが、誰かにいのちを与えたり、神を愛するように誰かを導いたりすることすらできない。それで神を満足させられると信じているのか。あなたは自分のしている事が神の心からの願いであり、霊的なことだと信じているが、実にばかげている。あなたは自分が喜ぶものや自分が願うものを神も喜ぶと信じている。あなたが喜ぶものが神の喜びを表すだろうか。人の性格が神を表すことができるのか。あなたが喜ぶものはまさしく神が忌み嫌うもので、あなたの習慣は神がひどく嫌い拒絶するものである。もしあなたが神に負い目を感じるなら、神の前に出て祈りなさい。それを誰かに話す必要などない。神の前で祈ることもせず、人の注目を引こうとするばかりでも神の心の願いを成就することができるだろうか。もしあなたの行動が常に見せかけだけなら、あなたは最もうぬぼれが強い人間だ。表面上良い行いをするだけで、現実性に欠けている人はどんなタイプの人間か。それは偽善者のパリサイ人で、単に宗教熱心でしかない。あなた方が見せかけの行いを止めず、変わることができないなら、あなた方の中にある偽善的要素は増大するであろう。偽善的要素が大きくなればなるほど神に抵抗するようになり、そして遂には神に見捨てられるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「神の信仰は宗教的儀式にではなく現実に焦点を合わせるべきである」より

正常な霊的生活は、神の前で生活することである。祈りを捧げる時、心を神の前で静め、祈りにより聖霊の啓示を求め、神の言葉を知り、神の心を理解することができる。神の言葉を食べ飲みしている時、神がすぐに行うことを望んでいることについて一層明瞭かつ明晰に理解し、新たな実践の道を得て、保守性を回避することができるので、実践はすべていのちの進展を実現させることを目的とする。たとえば、祈りは美辞麗句を述べることや、自らの負い目を神の前でわめくことを目的とするものではなく、むしろ自らの霊を訓練し、神の前で自らの心を静め、万事に関する指導を求め、自らの心を日々新たな光へと惹かれてゆくものとし、受動的になったり怠惰になったりすることを避け、神の言葉を実践する正しい道へと進んでゆくことを目的とする。現在、ほとんどの人が方法に重点を置き、真理を求めていのちの進展を実現しようと努めていない。人々が逸脱するのは、この点である。また、新たな光を授かることができるにもかかわらず、方法が変わらない人々がいる。過去の宗教的観念を取り入れて今日の神の言葉を授かるので、彼らが受け容れるのは、宗教的観念が含まれる教義であり、現在の光を純粋に受け容れていない。したがって、彼らの実践は不純である。つまり、新たな名称の同じ事を行っており、実践がいかに優れていたとしても、それは依然として偽善的である。神は、毎日新たな事をするよう人々を導き、毎日新たな識見と認識を得て、時代遅れとなったり、単調となったりしないことを要求する。長年にわたり神を信仰してきたにもかかわらず、方法が全く変わっておらず、外見上は熱意に満ちて多忙で、神の前に来て静かな心で神の言葉を享受しないのであれば、何も得ることはできないであろう。

『言葉は肉において現れる』の「正常な霊的生活について」より

どうして神を信じるのか。ほとんどの人はこの質問に戸惑う。彼らは常に実際の神と天の神について2つのまったく異なる観点を持っている。そのことから分かるのは、彼らが神を信じるのは神に従うためではなく、何か恩恵を被るため、あるいは災難の苦しみから逃れるためなのである。その時だけ彼らは多少従順になるが、その従順さは条件付きである。それは、彼ら自身の個人的な将来性のためであり、彼らに押し付けられたものである。それでは、あなたは何故神を信じるのか。ただ自分の将来の見込みや運命のために神を信じるなら、信じない方がよい。そのような信仰は自己欺瞞、自己安心、自己満足である。あなたの信仰がもし神への従順という基礎に置かれていなければ、あなたは最終的には神に反抗することになり、その結果神に罰せられる。自分の信仰において神への従順を求めない者は皆神に反抗する者なのだ。神は、人々が真理を求め、神の言葉を渇望し、神の言葉を飲食し、それを実行に移し、その結果神への従順に達することを求めている。これがあなたの本当の動機ならば、神は必ずあなたを高め、必ずあなたに対し恵み深くなる。このことに疑問の余地はないし、誰もこれを変えることはできない。あなたの動機が神への従順のためではなく、何か他の目的があるならば、あなたが言うこと、行うことのすべては ── 神の前での祈り、さらにはあなたの行動の一つひとつさえ ── 神に反するものである。あなたの話し方は穏やかで、温厚かもしれないし、あなたの一つひとつの行動や表現はすべて正しく思われ、あなたは神に従う者のように見えるかもしれない。しかし、あなたの動機と神への信仰におけるあなたの見解に関して言えば、あなたの為すことのすべては神に反しており悪である。表面は羊のように従順に見えるが、心に邪悪な意図を抱いている人々は羊の皮を被った狼であり、直接神を犯し、神は彼らを一人として容赦しない。聖霊は彼ら一人ひとりを暴露するので、偽善者は全て必ず聖霊に忌み嫌われ、拒絶されることは誰の目にも明らかになる。心配しなくてもよい。神は彼ら一人ひとりに応じて取り扱い、解消する。

『言葉は肉において現れる』の「神を信じているなら神に従うべきだ」より

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