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性状の変化とは何か、そして性情の変化への道

性情の変化は、簡明なものではありません。神への信仰において、人間は性情の変化に関する話をしますが、それは大いなる展望です。なぜなら、神が救う者の集団は、サタンにより堕落させられているからです。そうした者は、造られたばかりで堕落した性情やサタンの毒、神への反逆的な性情が無い人間ではありません。その集団は、むしろサタンの堕落した性情と毒を備え、サタン同然の集団です。それは、手術による治療が必要とされる、がん患者のようです。そうした疾患の手術や治療は極めて複雑であると言えるのではないでしょうか。がん患者が治療を受けたことや、どのように治療を受けたか、化学療法に対する術後の患者の反応、どの程度の期間にわたり、患者が予後検診で来院する必要があるか、などの話を聞いたことがあるでしょう。これは極めて複雑な手順です。したがって、性情の変化を簡明な問題と考えてはなりません。人間のいのちのうち、変化を要するのは、外面的な欠点や習慣ではありません。性情の変化は、自分が望むだけで得られるものではありません。性情の変化には多数の手順が含まれ、それらの手順は神の言葉の中にあります。ゆえに、神を信じ始めた日から、神への信仰に対する自分の見方は、変化し始めるはずです。神への信仰とは、神が自分が善人や行儀の良い者、法令を遵守する者、自分のことを考えられない者、自分の頭脳を活用する者となることなどを要求している、ということを意味するものではありません。かつて、人間は、神への信仰に由来する性情の変化とは、まともな人間となること、外観上で一定の人間像を得ること、育ちが良いこと、辛抱強いこと、信心深く、愛情深いと思われるようになること、他人を助けるのを、いとわないこと、思いやりを持つ事であると考えていました。つまり、それは自分の観念や想像の中の善人のようになることを意味していました。そうした状況は、「自分が裕福ならば、貧しい者や物乞いをする者に与えるべきだ」と言う者がこの世に居るのと似ています。こうした観念は、各個人にあると言えるでしょう。皆こうした観念を持っていますが、それは一種の毒です。昔は、神を信じていた者に、こうした問題を明確に説明する者は居らず、皆神への信仰の問題に関して、それほど詳しく知りませんでした。それは、人間がこうした物事を生まれてすぐに理解できないということでも、キリスト教を数年信仰した後に理解できるということでもありません。その原因は、以前は神自身がそうした問題を完全に説明せず、この側面について業を行わなかったことにあります。ゆえに、多くの者が、神への信仰は自分の外面的態度、考え方、行動を多少変えることでしかないと考え、その上に、神への信仰とは、多くの苦難を受け、豪華な食事をせず、上質な衣類を着用しないことであると考える者も居ました。たとえば、西洋では、神への信仰とは、多くの苦難を受け、豪華な食事を減らし、人生において極めて多くの高級品等を自粛し、貧しい者や恵まれない者に施しを与えて一生を過ごすこと、あるいは善行や他人に対する思いやり、他人の役に立つことを増やしながら一生を過ごすことである、と考えているカトリックの尼僧 (カトリック教は宗教でもあり、信者にとっては信仰でもあります) が居ました。その者は、生涯を通してひたすら苦難を受け、豪華な食事をせず、上質な衣類を着用しませんでした。その者が死んだときに身に付けていた物には、2ドルを超える物が一切ありませんでした。その者のことは、世界中に大ニュースとして報じられました。このことから、何が分かるでしょうか。人間から見ると、宗教界では、こうした者だけが善良で思いやりのある人間であり、親切な行動を取り、善行を行い、変化し、神への信仰がある者であると考えられています。したがって、あなたがたも、それと同様に、神を信じることや信仰を持つこととは、善人となることであると、何も疑わずに考えている可能性がります。その善人とはどのような者かというと、他人と争わず、他人を罵倒せず、悪行を行わず、神を信仰しているように見える者です。さらに、神に栄光をもたらす者となることであると言う者も居ます。これが、神を信仰する者、キリスト教信者、過去の信者、そしてつい最近神を信じ始めた者それぞれの精神状態です。そうした者は、こうした状態が性情の変化であり、神が真に愛す者となるということであり、こうした状態である場合に限って人間は天国へ入ることが可能であり、好ましい終着点を得ることが出来るようになるであろうと考えています。ゆえに、以前そうした見方がどれほど深く根付いていたか、そうした見方が形成されたかどうか、以前にそうした問題を考えたことがあるかを問わず、自分の精神には、そうした見方があるはずです。なぜなら、神の言葉を大量に読み、しかし正確に言うと性情の変化とは何か、神への真の信仰とは何か、真の人間となることとは、どのようなことか、神に愛される者とは、どのような者か、神はどのような者を受け入れ、得ることを望むかを的確に言い当てることが出来ない者も居るからです。こうした問題を理解していないならば、それは自分の考えている物事が依然として根ざし、それが自分の考え方や見方を組み立て、それを支配していることを示しています。

「いまだに自分が変化したと感じたことが無い。自分の子が私の言うことを聞かなくなったり、自分の夫が、私の気に障ることをしたりすると、私はすぐに立腹してしまう。それは自分の本性が自然と現れているということではないだろうか。それは、性情が変わっていないということではないか。信者以外の者が神を信じていないことを知ると、その者を忌み嫌ってしまうが、それは性情の変化が欠如しているということではないか。」と言う者も居ます。これは正しいでしょうか。こうした場合、問題は何でしょうか。こうした場合は、外面的態度に重点が置かれています。神の言う性情の変化とは、そうした機嫌や性格などの外面的変化を指すと言えるでしょうか。(性情の変化とは、自分と神の関係が完全に正常になった時です。)それでは、現在あなたがたは、自分と神の関係が極めて親しく、自分が神の味方となっている部分もあるが、自分が激怒して他人を怒鳴りつけたり、悪いと知っていることをしたりすることもある、と考えています。そうした状況に関して、あなたがたにはどのような知識があるでしょうか。あなたがたは、そうした状況をどのように判断するでしょうか。あなたがたは、そうした状況をどのように説明するでしょうか。あなたがたは、性情の変化の構成要素を知っているでしょうか。あなたがたは、性情の変化を遂げた者の状態や態度が何かを知っているでしょうか。(知りません。)あなたがたには分からない、ということですが、それでは、この問題について考察したことがあるでしょうか。それならば、あなたがたは、性情の変化をどのように理解しているでしょうか。まずあなたがたに質問します。よく考えてください。自分の性情が変化し、真理を得たとしたら、あなたがたの見方は、神の味方をするものとなります。あなたがたの見方が神の味方をするものである時、あなたがたは依然として堕落した者の味方となるでしょうか。そうはならないでしょう。あなたがたは堕落した人々と対立し、そうした人々を憎み、そうした人々から拒絶され、忌み嫌われるでしょう。これが、性情の変化がもたらすであろう効果ではないでしょうか。あなたがたは、そうした者の本質を明瞭に理解できます。なぜなら、あなたがたは既に自分自身の本質を明瞭に理解しているからです。あなたがたは、自分が変化した場合、堕落した人々の本質も明瞭に理解できるのではないでしょうか。あなたがたは、自分がそうした者の本質を明瞭に理解出来て、神の味方であるならば、堕落した人々に嫌悪感を覚えるのではないでしょうか。あなたがたは、神を信じない人々、神に敵対する人々、神を拒む人々、神を裏切って反抗する人々に嫌悪感を覚えるのではないでしょうか。それならば、あなたがたは、どうしてそうした者の味方で居続けられるでしょうか。このように、あなたがたは、自分の性情が変化したならば、必ず堕落した人々に嫌悪感を覚え、そうした人々から拒絶されるでしょう。しかし、現在、私たちは堕落した人々の中で生活しているので、生活の中でそれに耐え、知恵を働かせることしか出来ません。私たちは「自分は性情が変化した。他人のことは気にせず、他人とひたすら言い争うつもりだ。」と言うことは出来ません。そのような事をしてはなりません。私たちは、知恵を働かせる必要があります。それが正しい行動です。

もうひとつ、あなたがたが明瞭に理解していない問題があります。あなたがたは性情の変化と神の味方となることを、自分が信者以外の者に対して立腹しないことと関連づけます。それは誤っています。私がこう述べるのはなぜでしょうか。神は人間を救うことを望み、多くの言葉を述べ、多くの業を行います。それでは、神は人間にどのようであって欲しいと望んでいるでしょうか。神は、人間の考えが真理により導かれること、真理を座右の銘として生活することを望んでいます。神は、あなたがたが操り人形のように無思考になることを求めておらず、ましてや植物のようにあなたがたが無感情で、普通の感情が欠如した状態であることなど、望んでいません。むしろ、神は、あなたがたが自分が愛する物事を愛し、憎んでいる物事を憎み、うれしい事に喜び、嫌いな物事を嫌う、普通の人間であることを望んでいます。あなたがたは、このことを受け入れられるでしょうか。これで明瞭に理解出来たはずです。私たちが自分の性情を変化させるとき、神は私たちに何を変化させることを望んでいるでしょうか。神は、人間を救い、あらゆる者を変化させるために多くの言葉を述べました。神により完全にされた後の人間は、どのような者となるでしょうか。あなたがたは、この疑問について考えたことがあるでしょうか。多くの兄弟姉妹が「自分は長いこと神を信仰してきたが、まだ外面的な物事により制約されている。」と言います。また「信者以外の者の着衣を見ると、自分もそれを着たくなるし、収入を得ている者を見ると、うらやましくなって自分も収入を得たくなる。それに美しく着飾っている者を見ると、その者に見とれてしまう。」と言う姉妹もいます。また「金持ちで暮らし向きの良い家族を見ると、自分もどこかで収入を得たくなるし、美女が居ると見とれてしまう。それに、自分の思い通りに行かない物事があると、怒り出したくなる。このように、自分はまだ性情が変化していない。問題があると、取り乱してしまう。こうした状況は、どうすれば抑制できるだろうか。こうした状況は、いつ変化するだろうか」と言う兄弟も居ます。あなたがたは性情の変化の意味を知らない、と私が言うのは、このためです。あなたがたは、単に自分の態度や外面的行動、機嫌や性格を制限するだけです。こうした方法によって、あなたがたが性情の変化を実現することは不可能です。神の言葉の中で、自分を制限し、言葉使いに気をつけて、感情を抑え、機嫌を損なわないようにし、自分の自然な姿をさらすことのないよう注意し、自分が買って着ている衣服の中に制限されるべきだと言っている部分は、どこにあるでしょうか。神はそう述べたことがあるでしょうか。そうした事柄に触れている部分はありますが、それは神の言葉の要点ではなく、人間の性情の変化をもたらす主な真理でもありません。神の言葉の大部分は、人間の堕落した性情について、人間が性情の変化を実現することの出来る方法について、自分の堕落した性情を知ることの出来る方法について、人間が自分の堕落した性情から解放されて、神の要求に従って行動し、神自身の心に付き従い、神の願望をかなえることの出来る方法について語るものです。それを理解したならば、それでもあなたがたは外面的行動について努力するでしょうか。あなたがたは、依然としてそうした外面的問題にとらわれたままで居るでしょうか。ゆえに、性情の変化の意味を理解していない場合、性情の変化の本質を把握し、自分の性情の変化を実現出来ることは、決して無いでしょう。特に、宗教から来たばかりの者のうちには、宗教的な儀礼や、思考、思考の中の観点、神の信仰に対する展望から、まだ移行が完了していない者もいます。そうした者は、それでも霊的で信心深く、本質的に人並みで、善行や他人への施しを好んで行う者になろうとします。それは完全な誤りです。そのような者となることを追求しても、神にたたえられることも、自分の性情が変化することも決して無いでしょう。また、そうしても、霊を理解しないでしょう。こうした物事を追求する者は、真理の本質を理解できるでしょうか。そうした者は、神の言葉に対して努力できるでしょうか。ゆえに、性情を変化させることを求める者は、まずそれが何か、神に対する真の信仰とは何かを理解する必要があります。

性情の変化とは、儀式や規則の変化をさすものではなく、また特に自分の着衣や表面的行動、性格や気性を指すものではありません。それは穏やかな気性を荒い気性に、あるいは荒い気性を穏やかな気性に変えることでも、内向的な者を外向的に、すなわち内向的な者を話し好きな者に変えることでも、話し好きな者を口数の少ない者に変えることでもありません。それは全くの見当違いであり、神の要求とは全く異なります。人間が神への信仰を追求し始めると、皆そうした物事を行います。そうした物事に着手するとすぐに、そうした者の重要な任務に遅れが出ます。そうした者は、真理の追求とは何かを知らず、その結果としてそうした物事の追求を2年から3年続けた後に、様々な曲折を経て、「神がそう言ったのは、人間にそのような外面的行動を変えさせるためではない。」と考えます。そうした者は、常にそうした物事について話し合いますが、しばらくすると行き場を失います。そうした者は、神に対する自分の信仰が行き詰まって、なすすべが無い、どうすることもできないと考えます。そうした者が神の言葉を読んで、自分が真摯に取り組んでこなかった神の言葉を見て初めて、神が人間に人間自身の性情を変えさせた時、まず神は人間に自分自身について、すなわち自分の堕落した本質について理解させ、それを根絶するよう努力させ、その源を見いださせる、ということに、突然気付きます。あなたがたは、ここで何か気付かないでしょうか。あなたがたは、長年にわたって信者であり続けていますが、性情の変化に至っていません。あなたがたは、その源が何かを知っているでしょうか。それは、性情の変化とは何かを知ることではありません。おそらく、このことを認めずに「性情の変化とは何かは知っているが、自分を抑えきれない。自分は常に好きなように行動し、自分が正しいと考える行動をとってきた。」と言う者も居るでしょう。あなたがたがこのようなことを言うならば、その言い方を問わず、それは概してあなたがたが性情の変化とは何かを理解していないことを示しています。これで、あなたがたは理解したでしょうか。あなたがたが何も言わないのは、なぜでしょうか。雰囲気が重すぎるでしょうか。性情の変化について話をすればするほど、あなたがたは、ますます自分がそれとかけ離れている、自分は少しも変化していないと感じます。性情の変化について話をして、人間の本性と本質を暴露すればするほど、あなたがたは、自分はそれを全く経験していない、引き続き努力する必要がある、と感じるでしょう。あなたがたにこう尋ねるのは、なぜでしょうか。実は、あなたがたが答えられない問題もあることは、承知しています。「あなたは私たちの問題を難しくしているだけではないか。私たちが答えられない問題もあることを知っているならば、なぜそれを尋ねるのか」と言う者も居るでしょう。それはあなたがたの問題を難しくするためではありません。あなたがたが私の質問を全て真剣に受け止めることを願います。述べられたことや、交流での話題は、全て単なる普通の会話とみなして、普通に聞き流すだけにしてはいけません。私たちが交流している事柄、その内容の側面は、すべて今後の神への信仰において、必要な手順であり、経験する必要のある事柄です。ひとつも省略出来ません。また、そうした事柄は、各個人の考えや概念に欠けている事柄です。あなたがたに私が質問した目的は、あなたがたがそれを再検討し、自分の心に存在するものかどうかを検討することに対する願いです。こうしたことを考えたことが無いならば、この話題を心に留めて、良く考えてください。こうした話題が、あなたがたが以前に考えたことのあるもの、あるいは、あなたがたにそうした見地や観念があったとしても、自分にそうした物事が備わっているかどうかを確認し、一層詳しく検討し直してください。

私たちの現行の集会は、特定の時間と場所で行われ、始まったら聞いて、それで完了するような、通常の教会の形式ではありません。それほど単純でしょうか。現在、私たちが話し合っている話題は、人間にとって最も高度な話題であり、他のどの話題よりも重要です。あなたがたも、そう思うでしょうか。この話題が重要な理由は、それが人間の将来の終着点と、万物の主である神の私たちに対する要求に関するものだからです。私たちは、毎日この話題について調査し、交流しています。私たちは常にこの話題に関して交流してきましたが、現在もそれを理解していない者も居り、また全て話して完了出来る話題は、ひとつもありません。ゆえに、人間は、いのちに関する問題を、多くの説教を聞き、メモを取り、神の言葉を多く読み、有名な聖句を暗記し、集会の時にそれらを用いて他人と交流し、それで完結する、と考えますが、この問題はそれほど簡明ではありません。それほど単純では無いのです。注意する必要があります。全ての話題について明瞭に理解する必要があり、話題はいずれも、各人が備える必要のある真理です。それが極めて重要だと思うならば、心に留めるでしょう。それが極めて重要だと思わず、心の中でそうした話題を嫌い、その話題に無関心であるならば、それを得ることも心の中で受け入れることも出来ないでしょう。神は切望する者を啓きます。神は、真理を追求しない者から身を隠します。あなたがたに切望し、追求する心があるならば、神はあなたがたを啓き、あなたがたの心の中で業を行い、真理のあらゆる側面を、少しずつあなたがたが明瞭に理解出来るようにするでしょう。性情の変化の話題は重要だと言えるでしょうか。それは絶対的に重要です。なぜなら、あなたがたはその真理の側面を早急に理解する必要があるからです。あなたがたは、自分が変化しないこと、災いが起こった時に自分が見捨てられること、その災いに苦しむことを恐れているでしょう。無論、中には現時点で十分な量の真理を理解しておらず、後で神が人間を裁く時に揺るぎなく立つことが出来ずに倒れることを恐れている者も居るでしょう。そして、こうした者は滅ぼされます。なぜなら、それは神の業の最終段階なので、ある者がその段階で救われなかったならば、その者は滅ぼされるからです。そうした者の神への信仰の戸は閉ざされ、終わりが告げられます。そうではないでしょうか。

私たちは、性情の変化を実現するため、まずその変化が何かを理解する必要があります。つい先ほど、人間の観念における性情の変化について話をしました。あなたがたも、皆その観念が正しくないこと、それは神が求める性情の真の変化では無いことを認めて、うなずきました。それでは、神はどのような性情の真の変化を求めているのでしょうか。あなたがたは、そう考えたことがあるでしょうか。第1に、性情の変化の基本条件は、神の言葉を食べ飲みする能力と、それを理解する能力を備えている必要があります。そうした能力が備わっていなければ、性情の変化を実現することは不可能です。なぜなら、それを実現するには、自分の欠点や堕落、神に反抗する本性を、神の言葉と比較し、その後にそうした神への反抗となり、神が忌み嫌い、神に対する裏切りとなる物事を自分の中から根絶させる必要があるからです。あなたがたに尋ねますが、神の言葉以外に、人間の性情を変化させ得る本や資料等は、あるでしょうか。そうしたものは無いでしょう。ゆえに、神の言葉を捨てたならば、あなたがたの性情の変化が不可能となることは確実です。「神の言葉は分量が多すぎて、どこから始めればよいか分からないので、読みたくない。それならば、私にとって性情の変化は不可能ではなかろうか。」と言う者も居ます。神の言葉を読みたくないと言うなら、それで問題ありません。神の言葉の歌があります。そうした歌を数多く歌うとよいでしょう。そうした歌の旋律は神の言葉を読むよりも多少効果が高いので、一層容易に神の言葉を覚えられるでしょう。こうした言葉により、関心を刺激することから始めると良いでしょう。神の言葉を食べ飲みすることに対する関心を刺激する必要がありますので、そうした者が神の条件から遠く離れていることが分かります。このことは、人間が本当に真理を愛していないことを示しています。神の言葉は極めて素晴らしく、最初から最後まで全てが人間のためになりますが、人間は神の言葉が好きではありません。人間は、神の要求する物事から遠くかけ離れています。まず、神の言葉を食べ飲みする際は、毎回祈る必要があります。あなたがたは「神よ、私はあなたの言葉を渇望し、自らの性情の変化を望んでいます。なぜなら、私は災いで倒れることを恐れ、満足な終着点を得たいからです。また、私は真の人間となること、あなたが好む人間となることを望んでいますが、あなたの言葉は極めて多いので、それを全て食べ飲みすることを全面的には望んでいません。あなたの言葉が私の心に留まる場所を見つけられるよう、私を導いてください。私を一層啓いて、あなたの言葉の中から一層多くの真理を理解し、あなたの言葉の重要性を理解し、あなたの言葉が自分のいのちであり、私が得るべきものであることを理解することが出来るようにしてください。」と言います。あなたがたが真剣にそう祈ったならば、あなたがたが気付く前に、あなたがたが表面的な段階から深層まで神の言葉を一層多く理解できるように、神があなたがたに業を行うでしょう。「神の言葉を食べ飲みするのが大好きで、既に最初から最後まで1回読破したが、食べ飲みすべき最も重要なものがどれか、理解すべき主要事項はどれか、性情の変化の実現方法や、自分と比較すべき真理はどれかが分からない。」と言う者も居ます。この問題は、どうすれば解決できるでしょうか。現在、教会では、神がどのようにして裁き、罰し、人間の堕落した本質を暴露するかに関する神の言葉を抜粋した小冊子を刊行しているのではないでしょうか。それならば、神の言葉の長い完全版は後回しにして、この抄録版を読めばよいでしょう。神の言葉により示される真理を、抄録により理解するよう努力すれば、範囲が比較的狭くなるでしょう。まず、神の言葉に対する取り組みを行う必要があります。 私たちが完全には交流出来ない話題もあり、そうした話題については出来るだけ交流すればよいでしょう。完全には交流出来ない話題がある場合は、まずその話題を保留にして理解しやすく、私たちの経験度で理解できる話題を交流し、表面から深層へと移行すればよいでしょう。真摯な取り組みにおいて、深層からさらに深い層へと短期間で移行することは不可能です。なぜなら、人間のいのちは、人間の身体のようなもので、段階的に成長し、積み重なるからです。

「神の言葉を食べ飲みした後に自分の性情が変化したかどうかは、実際にどうすれば判断出来るだろうか。」と言う者も居ます。これは、多くの兄弟姉妹が懸念する疑問です。子が生まれて、その親が子の世話をする時、あなたがたは、その子は自分がいつ成長するかを懸念すると思うでしょうか。その子は、自分が成長しているかどうかを懸念しているでしょうか。そうした懸念は必要か、というと、そうではありません。「それでは、自分が変化したかどうか、どの程度変化したかは、どのようにして知ればよいか。」と尋ねる者も居ます。その問題は、あなたがたが懸念する必要の無い問題です。なぜなら、あなたがたは、しかるべき時に自然と変化し、変化したならば、確実にそれを感じるからです。あなたがたは、自分がどの程度変化したかを感じることが出来るでしょう。神は、各段階、各時期に何らかの業を行ったり、あなたがたを問題に直面させたり、あなたがたが教訓を得るための人物や事件、物事を設定するでしょう。当初から現在までの自分自身に関して、自分の当初の観点と現在の観点について考察し、比較するとすぐに、自分が実際に変化したかどうか分かるでしょう。あなたがたにとって、現在最も重要なのは、神の言葉を一層食べ飲みし、交流し、交流を聞き、そして神の言葉に対する取り組みを一層増やすことです。それは完全に正しいことであり、性情の変化を実現するための主要な条件です。あなたがたがこうした事から離れつつ、聖霊により感激させられて同感じるか、霊において霊的に生きることができる方法、神に十分に仕える方法、心の迷いを回避可能な方法、そして穏やかに心から神の前に留まり、頻繁に祈ることが出来る方法に重点を置いたならば、それは副次的なものであるので、無益です。それでは、最重要事項は何でしょうか。それは、食べ飲みする神の言葉を増やすことです。神の言葉を食べ飲みしなければ、毎日きちんとした身なりで家の中を整頓するのに、食事をしない者のようになるでしょう。家の中をきれいに掃除し、きちんとした身なりをするのに、食事をしなかったら、生きて行けるでしょうか。このように、神の言葉から離れることは、全く食事せずに、きちんとした身なりをしているだけのような状態です。どれほどしっかりと洗顔するかを問わず、たとえ角質層をはがしたしても、無意味です。それが真理ではないでしょうか。神の言葉に対する取り組みに努力したならば、その成果は努力に見合ったものとなるでしょう。どの程度の成果となるかを調べたり計測する必要は無く、そのことを懸念する必要もありません。それは神が行い、神がその結果を伝えるでしょう。神があなたがたに啓きを授け、知らしめるでしょう。あなたがたはそれを懸念する必要も調べる必要も無く、それはあなたがたの任務ではありません。これで、あなたがたは理解できたでしょうか。ゆえに、後で誰かが「神はいつ私に試練を与えるだろうか。私は試練を乗り越えられるだろうか。実のところ、神は私の業を試しただろうか。私の性情は、実際どの程度変化しただろうか。神はなぜ何も言わないのだろうか。」と尋ねたならば、それは無意味で不合理な疑問です。あなたがたは、そうした事を懸念する必要がありません。あなたがたは、いつか自分の性情が真に変化した時、神の要求に従って自分が遭遇する環境を克服し、それに適切に対処して取り扱うことが出来る時に、自分が変化したことを知るでしょう。この変化は外面的では無く、内面に由来します。それは本質と性情の変化です。

無論、性情の変化は一夜越しに発生するものではありません。自分の欠点を変化させることから初める者も居ますが、そうした者は往々にして失敗します。失敗したり挫折したりした後、立ち直ってからまた失敗するという否定的な期間を過ごした後に「もう終わりだ。自分に望みは無い。自分は性情の変化とは無縁だ。自分は変わることが出来ない。わずかな欠点や悪い習慣を変えるのでさえ極めて困難なのだから、性情の変化はそれよりも困難なのではないか。」と考えます。そうした者は、絶望感を覚えて、神の言葉を食べ飲みすることを望まない状態で長いこと過ごします。そうした者は、誰かが神への信仰について語ると不快になり、自分の本分を尽くすよう命じられても、そうすることに意欲的ではなく、神への信仰に全く興味がありません。それは、どのような状態でしょうか。あなたがたには、こうした経験が有るであろうか。あなたがたは、失敗を恐れているでしょうか。あなたがたは、自分が性情の変化を真に求めている時、常に失敗して否定的になり、躓いて弱くなることを恐れているでしょうか。あなたがたが恐れているかどうかを問わず、性情の変化は一夜越しには実現しません。それは事実です。なぜなら、性情の変化とは、がん患者の腫瘍が成長している場合、患者は手術台の上でその腫瘍を切除する必要があるのと同様、人間の堕落した本質の根源を根絶することにより実現される変化の一種だからです。そうした者は苦痛を受ける必要があり、その過程は複雑です。この過程の中で、おそらくあなたがたは多くの物事を経験した後、たったひとつの事柄を理解し、その後初めて性情の変化の一側面を実現するでしょう。あるいは、あなたがたは、多くの人々、事件、物事や、様々な環境を経験し、多くの曲折を経て初めて、わずかな変化を実現できます。実現した変化の規模を問わず、それは貴重です。神の見地では、それが貴ばれ、祝福されます。なぜなら、あなたがたは多くの苦難を受け、大きな代償を払ったからです。神は人間の心の深層を見抜き、人間の望みが何であるかを知っています。また神は、あなたがたの弱みや、あなたがたに必要な物事も知っています。ゆえに、性情の変化の前に、それに関する真理のこの側面について話をしているだけの時点で、私たちは、ある決意を固める必要があります。すなわち、自分が遭遇する環境や困難がどれほど厳しくても、また自分がどれほど弱く、否定的であっても、性情の変化に対する確信と、神の言葉に対する確信を失ってはなりません。神は多くの物事を人間と約束していますので、人間には、その約束を守る決意と根気が必要です。神は臆病者が嫌いであり、意を決している者を好みます。たとえあなたがたが堕落した部分を大いに示したとしても、数多くの曲折を経てきたとしても、その過程で数多くの罪を犯したり、何度も神に反逆してきたとしても、神はそれを見逃します。あるいは、神に対する冒涜を心に抱いていたり、神を非難したり、神に反対したりする者も居ますが、神はそれを見逃します。神が評価するのは、その者がいつか変化出来るかどうかだけです。聖書には、帰って来た放とう息子のたとえ話があります。このようなたとえが記されているのは、なぜでしょうか。それは、神が人類を救う旨が誠実であるからです。神は人間に対して悔い改めの機会と変化の機会を与え、その過程において、神は人間を理解し、人間の弱さと堕落の深さを明瞭に理解します。神は、人間が躓くことを知っています。人間が歩くことを覚えようとしている幼い子である時のように、いかに人間の体格が良く、丈夫であるかを問わず、人間が倒れる時、躓く時、壁にぶつかる時、転ぶ時が何度も来るでしょう。神は、母親が自分の子を理解しているのと同様に、人間ひとりひとりを知っています。神は各人の苦難、弱さ、そして確認が必要とする物事を知っています。さらに、神は各人が進行過程でどのような困難に遭遇するか、性情の変化への真摯な取り組みの過程、どのような弱点や失敗が発生するかを知っています。こうした物事は、神が最もよく知っている物事です。神は人間の心の深層を見通すと言われるのは、このためです。あなたがたがどれほど弱いかを問わず、あなたがたには、自分で神の名を捨てず、神から去らない限り、性情の変化を実現する変化が常にあるでしょう。そして私たちに性情の変化を実現する機会があるならば、生存の望みがあります。私たちに生存の望みがあるならば、神に救われる望みがあります。

私たちは、性情の変化とは何か、性情の変化のために経過する必要のある過程はどのようなものかを、知っているならば、恐れる必要はありません。むしろ、私たちは確信を持つべきであり、また神の前で「神よ、堕落した人間である私は、極めて深刻に堕落しているので、真理とは何かを知りません。ましてや性情の変化とは何かなど全く知りません。私は、あなたの言葉を理解する方法を知り、それを実践することが出来るようになるため、そしてあなたの言葉に関する知識と経験を得て、あなたの言葉を自分の生活にもたらすため、あらゆる言動、あらゆる動作と意図、そして自分の生活の中のあらゆる行動においてあなたの導きを得るために、本当にあなたの救いと、助け、そして施しを必要としています。私は、自分がそのように出来ることを願い、切望しています。私は、正常な人間性を行動で示し、真の人間像を行動で示して、あなたを満足させることを切望しています。しかし現在、それは私にとって不可能です。なぜなら、私は堕落しすぎていて、自分でそれに気付かないからです。あなたが私を暴き、私を助け、施しを与えますように。それが今の私に必要な物事です。」と祈る必要があります。あなたがたは、このような祈りをささげ、このような決意を持つべきです。このような祈りをささげると、気付かぬうちに、あなたがたの心といのちは変化するでしょう。なぜなら、私たちがどのように祈るかを問わず、神はその通りにかなえ、私たちがどのような決意を固めるかを問わず、神はその通りに実現するからです。あなたがたが常に恐れているならば、それはいけません。私たちは実際に何かに遭遇する前に、恐ろしくなってしまいます。それは、私たちが自分の性情の変化に決意や自信が無い証拠です。私たちは、まず性情の変化が一夜越しのものではない、ということを理解する必要があります。サタンによる人間の堕落は極めて深いですが、一夜越しでそうなり得るでしょうか。人類は数千年にわたりサタンにより堕落させられてきました。また人間の堕落した本性は完全に暴かれています。人間の堕落は、自分で制御不可能な程度に達しており、人間のサタン同様の自然な表現は、克服不可能な程度、神の敵となる程度に達し、また自分が真理や神の言葉、神に由来する物事を全て忌み嫌い、そうした物事に無関心となる程度にまで達しています。人間はそれほど愚鈍ですので、性情の変化はそれほど早急なものとなり得るでしょうか。性情の変化は、それほど簡明ではありません。ゆえに、私たちは性情の変化に関する適切な知識を備える必要があります。性情の変化について、私たちは適切な姿勢をとる必要があり、非現実的になったり、即時的な変化を期待して「自分は神を信じているから、神の言葉を大量に食べ飲みしている限り、私は変化するのではないか。神がもう少し余分に業を行ったり、奇跡を行ったりしたら、私は変わるのではないか。」などと言ったりしてはなりません。性情の変化の問題から、神の業が現実的かつ実践的であること、そして神には人間が持つサタンの堕落の本質から人間を救う力、サタンの手から人間を奪い返す力、そして人間が性情の変化を実現出来るようにする力と知恵があることが分かります。

神の統御計画について質問しますが、神の計画の目的は、サタンを倒すために人間を救うことでしょうか、それとも人間を救うためにサタンと戦うことでしょうか。(人間を救うためにサタンと戦うことです。)神の統御計画について、正確な知識を得る必要があります。そして今後は「なぜ、神は単にサタンを倒さないのだろうか。サタンが居なければ、神により救われずに済むだろう。特定の人間集団を救って最終的に残す神の統御計画も無しで済むだろう。」と言ってはなりません。神がサタンと戦うのは、ひとえに人間を救い、特定の人間集団を得るためです。それはサタンと戦うことが目的ではなく、単に付随的に一部の人間を得ているのではありません。ここまでで、神の旨と、神の統御計画の目的の中核について説明しました。神は特定の人間集団、すなわち真の人間の集団を救うことを求めています。それが、神の統御計画です。神を信じる者として、自分の性情を変化させ、神が愛する者、そして神が望むような、正常な人間となることは、極めて重要です。

あなたがたには、性情の変化を実現する道があるでしょうか。あなたがたには、何を変化させる必要があるかに関する知識があるでしょうか。あなたがたは、真理のその側面に関して交流したことがあるでしょうか。つい先ほど、性情の変化は、外面的な行動や実践、規則を変えることをさすのではない、と言いましたが、それでは性情の変化とは何でしょうか。あなたがたはそれについて考えたことがあるでしょうか。性情の変化は、人間性の変化ではありません。まず、私たちは、神が私たちに、私たちの性情や何らかの物事を私たち自身が変化させるようにした時、それは知識に基づくものでは無く、客観的な考え方における変化ではない、ということを明瞭に理解する必要があります。むしろ、神は、神の言葉によって各人の観念を変化させることを望んでいます。それが性情の変化の一側面です。もう一つの側面は、私たちがどのように行動するかの背景にある原則です。あなたがたがどのように行動するかの背景にある原則は、あなたがたの展望です。それに加えて、もう一つ側面があります。それは、人間が表す、深く根付いたサタンのような腐敗した本性です。概して、性情の変化には、この3つの側面があります。

人間の観念とは、様々な物事に対する観点ですが、神はそれを変えることを望んでいます。観念の側面について、簡単な例を挙げて検討しましょう。私たちは、知識について、どのように理解しているでしょうか。知識に対する私たちの観念は、どのようなものでしょうか。(自分に知識がある場合、自分は地位や将来性、名声を得られると考えています。)それゆえに、あなたがたは知識を大いに貴び、崇拝します。(私たちがそうした物事を捨て去り、そうした物事を神と同様の見地から見る必要があるのは、そのためです。)その通りです。あなたがたは、そうした物事を神と同様の見地から見る必要があります。しかし、あなたがたは、そうした物事をどのような見地から見ているでしょうか。まず、その否定的な側面について説明します。この世の物事である知識は、人間の観念において、どう理解されているでしょうか。皆、知識はこの世の人間生活に不可欠だと考えているのではないでしょうか。人間は、自分の知識が多ければ多いほど、この世における自分の地位も高くなり、教養が多ければ多い程、自分が一層上流階級で洗練されていると考えています。それゆえ、人間は知識を身に付けずにはいられません。そして、一部の人々は、自分が高学歴で豊富な知識を身に付けていれば、地位や富、良い職、明るい将来性など、何でも自然と手に入ると考えています。ゆえに、知識不足は問題です。この世においては、知識が無く、低学歴だったならば、皆に見下されます。誰も自分とかかわりたいと思わず、下級社会で生活し、知識に乏しくや地位が低い低層社会の人間と関わるしかありません。あなたがたは、自分にこうした観点があるならば、知識を真剣に称賛し、崇拝します。あなたがたは真理よりも知識を高く評価し、重要な物と考えます。「自分に学歴がないならば、神の言葉を理解できるだろうか。神は知識や文字を用いて話をしているではないか。」と言う物もいます。これら2つの事柄は、別個の物事です。ここで言う知識は、歴史、商業、政治、系譜学、文学、現代科学技術、一部の技能、そして各種学科における研究など、人間が信じている事柄です。人間は、そうした知識を得ると、ある種の長所を得たものと考え、また知識があれば、この世に足がかりを得て、全てを手に入れられるであろうと考えます。そうした者は、知識を大いに重要視します。あなたがたがそうした状況をどう考えるかを問わず、それはあなたがたの観念です。古代の人間のことわざには、「万巻の書を読み、万里の道を行く」というものがあります。それはどのような意味でしょうか。それは、本を読めば読むほど、全てが円滑にはこぶであろう、理解する物事が多ければ多い程、行く先々で高い地位を得られるであろう、という意味です。各人の心には、こうした観念があります。ゆえに、就学年齢の時期に貧しい家庭で生活した者や、学歴が高くない者、学位を取れなかった者は、それを大いに後悔します。そうした者の家計状況が良好ならば、その後の世代、すなわち子や孫が教育や高校進学、大学の学位を確実に得られるようにし、場合によっては高等教育のために留学させたりします。知識について、皆の願望、観点、考え方、取り組み方は、そのようなものです。そのため、多くの親が、自分の子が受ける教育を高められるようにするために最善を尽くし、費用を考慮せず、さらには自分たちが破産してでも、自分の子を修養し、教育を受けさせることさえあります。そうした親は、自分の子が受ける教育を減らすことは決してありません。それでは、親は自分の子をどの程度まで勉学に励まさせるか、というと、子に毎日3時間しか眠らせない親も居ます。そうした親は、午前1時まで子が就寝するのを許さず、朝4時に起床させます。そうした親は「優秀になりたければ、もっと勉強する必要がある。一生懸命に勉強する必要がある。」と言って、子に勉学を強要します。そして、子の頭髪を頭上のはりに結びつけて、子が居眠りしないようにするという、古代の手法を子に倣わせる親もいます。子はひたすら勉強し続けます。古代から今日に至るまで、このような事情、このような悲劇が見られ、誰もがそれを経験しています。これが、知識に関する人間の観念に支配されて、知識を得ることを切望する者全ての行動や態度です。

私がこのように述べると、あなたがたはひいてしまうかも知れません。なぜなら、あなたがたのうちには、極めて知識が豊富な者や、高学歴な者が居るからです。無論、私は学歴が高いことが悪いことだとは言っていません。あなたがたは、こうした問題にうまく対処すべきであり、サタンに属する物事にうまく対処し、それに関して適切な知識を得て、適切な見方をする必要があります。私は、あなたがたが教育を受けるべきでないとも、具体的には、あなたがたは自分の子が高校へ進学して大学の学位を得て、良い職を得るように育てるべきではない、とも言っていません。私は、そう言っているのではなく、あなたがたを制限しているのでもありません。私は自分の見方を説明し、堕落した人間がどの程度知識を崇拝しているかを述べているに過ぎません。こう言うと、「仮に、私たちが知識を得ていなかったならば、今、あなたと話をすることが出来たであろうか。」と言う者も居ます。あなたがたの現在既得の知識や、あなたがたの知識がどの程度増えたか、あなたがたの頭の中にある高尚な観念や思想は何か、あなたがたが何冊の本を読破したか、何年学生生活を送ったか、どれほど高度な学位を取得したかは、無関係です。そうした物事は、いずれも私がここであなたがたに対して述べている話題とは無関係です。私は事実を述べているだけで、私が述べているのは、知識に対する人々の見方と、私の見方です。あなたがたは、神が知識をどう考えているか、知っているでしょうか。ある姉妹は「神は人間が科学を進歩させること、人間が一層多くのことを理解することを望んでいる」と言いました。無論、それは正解です。神は人間がそうしたことを十分に行うことを望んでいる、というのは、本当です。神は、人間が何も理解せず、知らずに居ることではなく、神はそうした物事を奉仕の実施に用います。神はそうした物事を褒めず、神がそうした物事を真理の代わりに用いることや、そうした物事で人々の人間性を高めたり、人々の性情を変化させることが無いのは間違いありません。神の言葉では、知識に関する見方や意見が述べられている部分が随所にあります。当然、あなたがたはそのことを明瞭に把握していないでしょう。つまり、神の言葉には、そうした言葉が含まれています。たとえば、儒教や儒教理論、社会学などについて、一部が象徴的に述べられており、その行間を読むと、神が人間の知識を忌み嫌っていることが分かるでしょう。

知識とは、単なる簡明な文や方程式ではありません。知識には、特定の物事や観念が含まれていますが、そこには何らかの毒があり、各種知識には、それぞれ固有の毒がふくまれています。各種知識の内容には、それぞれ固有の悪性腫瘍があります。人間が学習して、そうした腫瘍を把握すると、その腫瘍が人間の精神に入り込み、人間はそうした側面の知識により堕落させられ、その知識のとらわれの身となります。ゆえに、人間が習得して把握する知識が多ければ多いほど、神の存在を信じることが一層困難となり、その存在を一層否定しやすくなります。なぜなら、知識は物質的だからです。人間は知識により、地の上で見て触れられる物事を研究して把握するよう教育されます。それは神にとって有害です。あなたがたは、歴史書や名著、偉人の伝記を読んだ場合、あるいは科学技術の側面を学んだり、技能を習得した場合、何を得るでしょうか。たとえば、あなたがたが物理学を研究して物理学的原理やニュートニアニズムなどの主義を理解したとすると、それを習得した後、あなたがたはそれを心に取り込み、それに支配されます。そうした物事があなたがたの内部で渦巻き、考え方を主導するものとなります。そしてその後に神の言葉を読んだ時、あなたがたは「神の言葉では地球の引力や、宇宙について述べられていないのは、なぜだろう。月には空気があるだろうか。神の言葉では、地球にある酸素の量や、山岳地帯や水域、平地の割合が述べられていないのだろうか。神がそうした事について述べなかったのは、なぜだろう。神は、そうした物事を明示すべきだ。そうした物事を明示する必要性があるから、明示すべきだ。神は、そうした物事を人間に伝えるべきだ。」と考えるでしょう。あなたがたの中に葛藤が生まれるのではないでしょうか。あなたがたは神の真理と言葉を副次的なものと考え、自分の知識や理論を主要なものとします。あなたがたは、神の言葉をこのように扱います。いずれにせよ、そうした知識は、人間に誤った感覚を与え、人間を神から引き離します。あなたがたが信じるか、今認めるかどうかを問わず、いつかこの事実を認めるでしょう。知識は人間を破滅させ、地獄へと導くおそれがあります。あなたがたは、これで完全に理解したでしょう。おそらく、こうした話を認めたくない者も居るでしょう。なぜなら、あなたがたの中には極めて知識が豊富で学歴が高く、高い学位を保持している者や、自分の学歴が高いと思っている者も居るからです。私はあなたがたをからかっているのではありません。これは事実です。私は、あなたがたがこの事実を直ちに認めることを願っていると言っているのではなく、この事実をあなたがたが徐々に理解することを願っています。知識は、あなたがたと、神に関するあなたがたの知識、そしてあなたがたが経験する神の業との間の障壁となる恐れがあります。知識は、あなたがたが神に近付くことを困難にし、あなたがたを神から引き離し、あなたがたの知識の精神で神が行う業を全て分析して取り扱うようにさせるおそれがあります。しかし、あなたがたは既にある程度の知識を得ていますので、どうすることも出来ません。あなたがたは、知識に基づく物事や、それがいかにしてあなたと神との正常な関係を阻害し、妨害するか、そして神への信仰に対する真摯な取り組みをあなたがたが適切に実行するのを妨害するかを認識し、分析する必要があります。あなたがたは、この事実が正しいことを認めるべきです。そして、あなたがたはこの問題について正しく理解する必要があります。あなたがたは何も誤解しないでしょう。高い学位を保有している兄弟姉妹も間違い無く居ることは承知しています。しかしこの話は、あなたがたを責めているのでも、あなたがたを馬鹿にしたり、疎外したりするためのものでもありません。本日、突然この話題について説明を始めたので、最初にこの話題の代表的な一側面について話をして、あなたがたの注意を喚起したいと私は考えました。この話の目的は、あなたがたのうち高い学位を保持する者や学歴のある者に、わざと困難を与えることでも、あなたがたを否定的にしたり落胆させたりすることでもありません。そうした事が目的ではありません。あなたがたは、このことを正しく理解出来るでしょうか。(理解出来ます。)あなたがたがそれを理解できたならば、私はほっとしてため息をつくことが出来ます。

ここまで長いこと話をしましたので、あなたがたも性情の変化は簡明な問題ではないことが理解出来たでしょう。あなたがたは、自らの観念を深く掘り下げて、そのうち何が神に有害で、神が嫌うものかを確認する必要があります。あなたがたの学歴がどの程度か、あなたがたがどのような種類の人間かを問わず、あなたがたのサタンのような本性は、あなたがたに深く根付いています。それは皆同様です。あなたがたの内面のこうした物事に関して、あらゆる物事が神に有害であり、あらゆる物事の根源、本質、内容が人間性や真理の本質に則していることは、全くありません。あなたがたは、このことを認められるでしょう。

たった今、私が人間の観念に含まれる知識の理解方法について話し始めた途端に、多少不快になったように見える者も居ます。私は、特定の者を対象として話をしていません。私は単に皆と共にこの問題について探求し、それについて交流しているだけです。あなたがたの中には、不快感を覚える者も居るでしょう。あなたがたは、この問題が自分の痛い所を突いているので不快に感じます。神に由来する真理と、神の言葉のうち、あなたがたが受け入れることを望まない物事を、あなたがたが全て段階的に受け入れられることを願って、私はこの点について交流します。そうした物事を受け入れるよう、努力する必要があります。そうすることにより、私たちは神の心と、神の要求する物事に、次第に近づいてゆくことが出来ます。私たちがこうした物事を現実的かつ実践的に経験して理解しないならば、神に対する私たちの信仰は、常に単なる標語となり、実質的な側面は無いでしょう。そうではないでしょうか。本日、ここでは実質的な問題について話をしましたが、それがあなたがたを大いに困惑させています。あなたがたが不快になったならば、すみませんでした。私たちは、こうした現実に向き合う必要があり、そうした問題はあなたがたにとって不可避です。あなたがたがそうした問題を回避したならば、あなたがたは、自分の観念に含まれる物事が正しいか、誤りかを、いつ知る事ができるでしょうか。あなたがたは、おそらくそれを知る事が出来ません。あなたがたが、こうした事実と向き合わなければならない日が来るでしょう。信者以外の者の間では「醜い嫁は、いつか義理の家族と会わなければならない。」ということわざがあります。あなたがたの容姿が悪い場合、義理の家族に会いに行く時に「私は容姿が悪いから会いたくない」とは言えなくなる日が来るでしょう。あなたがたが結婚せずにいない限り、それは不可能です。あなたがたは神を信仰し、神の罰と裁きを受けること、そして変化を実現し、真摯に取り組み、救われることを望んでいるので、こうした事実と向き合う必要があります。初めてこうした事実と向き合うと、3日か4日ほど不快になり、神の前で祈る時に適切な言葉が無く、神に何を言って良いかわからなくなるかも知れません。2回目にこうした事実と向き合うと、ふたたび3日か4日ほど不快になり、やはり神に何を言って良いかわからなくなるでしょう。3回目にこうした事実と向き合うと、気付かぬうちに、自分の観念には、本当にそうした物事があるという事実を、心の中で見出すでしょう。あなたがたは神の言葉に同意し、それを認め、神の言うことが本当であり、純粋なものであることを正直かつ真剣に認めることが出来るでしょう。人間と、各人の心にある物事を最も深く理解しているのは、まさしく神です。いつか、あなたがたの経験がこの段階に達した時、あなたがたは神への信仰の正しい道を歩み始め、あなたがたのいのちの性情が変化するでしょう。なぜなら、その時あなたがたは神の言葉の一語一句に反対したり、そのために不快になったりせず、自分に関して神が示す事実のために不快になったり、拒絶されていると感じたりせず、それを避けずに、適切にそれと向き合うことが出来るからです。そうなった時、あなたがたが神の言葉に対して真摯に取り組み始めたことが証明されるでしょう。本日、ここで手始めにほんの少し実際に試してみました。あなたがたは少し不快になったり困惑したりしましたが、それは問題ではありません。私は気になりませんが、あなたがたも気にならないことを願っています。なぜなら、神が人間を裁く言葉は、これらの言葉よりも辛辣だからです。神が本当にあなたがた各人を裁くことを望むならば、神の言葉は、これらの言葉よりも辛辣なものでしょう。堕落し、何も備えず、理知が分からない者を神が見る時、神は自らの言葉において、肯定的姿勢になるでしょうか。神があなたがたを暴く時、神は好ましい姿勢になるでしょうか。好ましい姿勢とはならないことは確実です。神の言葉は極めて辛辣で激しいものとなることに相違ありません。神は、はっきりした口調で指摘するでしょう。あなたがたが本日説明した事実、本日ほんの少しだけ交流した事実を認められるならば、それは、あなたがたが神の言葉と罰と裁きを受け入れ始めるにあたり、好調であることを示して居ます。

ここで最初にとりあげた問題は、観念の問題でした。私は、皆が知っている知識の話題という簡単な例を挙げました。ここではそれほど多く交流しませんでした。なぜなら、私は不快な者も居ることを懸念したからです。私は一部の者の感情に配慮したいと思ったので、少しだけ説明しました。ここで話した内容は完全ではありませんが、あなたがたがそれを経験によって徐々に理解しようと努められることを願っています。ここでは、この側面について少しだけ注意を喚起しただけですので、あなたがたはこの真理の側面について徐々にそれを経験し、知識がもたらす物事を自分で経験するとよいでしょう。そして将来、この問題に関する交流を再び行った時、あなたがたが不快になったり「この話は私のあら探しでしか無いのではないか。この話は私のことに関するものではないか。」などと考えないことを願います。それでは、この最初の話題に関する交流を終わりにしましょう。

次に、2番目の話題である、展望について交流しましょう。あなたがたの展望は、どのようなものでしょうか。あなたがたの生存の原則は、どのようなものでしょうか。それついて、何か自分で理解している事はあるでしょうか。あなたがたには原則があるでしょうか。あなたがたには、何か考えがあるでしょうか。(現在自分で理解している事は、神に関する知識の追求です。)他に何かあるでしょうか。(創造物として自分の本分を尽くすことです。)そうです。それはかなり正解に近く、現実的です。その他にあるでしょうか。心で何も考えないことはできないでしょう。あなたがたは、そのようにして神を信じ続け、それでよしとするでしょうか。あなたがたは、自分が何を感じているか知っているでしょう。(まず、神が好む者になることを追求することです。)それもひとつの観点です。私が言っているのは、あなたがたは概してどのような者になることを望んでいるか、あなたがたの展望や人生の方向性はどのようなものか、ということです。(今後の人生において最後まで神に付き従うことです。)それも極めて良いことであり、現実的なことです。あなたは、人生を通して、とは言わず、今後の人生において、と言いました。(神に服従し、真理の現実性を備えた者となることです。)それも良いことです。(以前にこの世から受け取った展望と、従前の性情をいち早く捨て去り、神の真の救いを得ることです。)神の救いは追求の目的です。今、あなたがたから聞いたのは、「今後の人生において神に付き従う者となり、サタンに付き従う者でなくなることを望む」、「神に関する知識を追求すること」、そして「神の救いを追求すること」という発言です。そうしたことは全て極めて良いことであって、私たちは、それぞれ心の中で、何も言わずに努力していることを示しています。私たちの考えは空虚ではなく、私たちは皆最後まで神に付き従うと決意しています。私たちは、どのような者となるべきかを考え、皆目的と方向性があります。そのことは、現時点で私たちの心の中に、神への信仰に対する何らかの実体があることを示しています。私たちの心は空虚ではなく、何かしら得られる物を得て無為に日々を過ごしているのではありません。あなたがたは皆、その間に進歩していますが、それは変化です。少なくとも、あなたがたは「人間は食べ物と着る物のために生きている」と言うような信者以外の者とは違います。あなたがたは、そうは言わないでしょう。また、そうした発言を聞くと、あなたがたは不快で気分が悪くならないでしょうか。あなたがたは、その言葉により不快になり、それに反対します。あなたがたは、自分が全体としてどの程度真摯に取り組んで来たかを問わず、こうした言葉を聞くと「それは今私が付き従うべきものでも、自分が心から必要としているものでも無い。現在、私は、神に十分に付き従う者となることを目的としている。神は私たちに対して神の奥義や旨、神の統御計画の目的、そして神が私たちを救う旨を既に示しているのだから、私たちが受動的であり続けるならば、私たちは神の役に立たず、神への負債は実に大きなものになるであろう。」と考えます。私たちがこうした思いを抱いているということは、既に私たちの霊が目覚め、私たちが変化し始めていることを示します。「私にはまだ展望が無い。」という者も居ます。そうした者が展望が無いというのは、おそらく自分でそれを明瞭に言い表せないからでしょう。しかし、ひそかに「私は何も言わないが、私にも展望があり、最後まで神に付き従う。私は既に決意したが、何も言わないので、他人はそれを知らない。時が来れば、皆私に驚くだろう。」と決意している者も居ます。いずれにせよ、私たち各人の展望は、概して神による私たちの救いという目的の追求に努める方向性です。これは正しい事です。こうした展望の各側面には、固有の実践的重要性があります。真剣に神を崇拝する者となることは、私たちが持つべき展望でしょうか。神を拒むこと、神を忌み嫌うこと、私たちに対して神がいらだったり怒ったりすることを無くし、神の心を安らげ、アブラハムのように、神を真に崇拝する者となること、といったことが、私たちが持つべき人生の展望ではないか、というと、実にそれが私たちが持つべき人生の展望です。このような人生の展望と考え方があなたがたの心に根付き、あなたがたの追求がそうした方向性になると、この世の富や地位、名声などの誘惑は減るのではないでしょうか。そうした物事の魅力は減るのではないでしょうか。あなたがたの努力と実践、経験が、こうした展望に向けられているならば、気付かぬうちに神の言葉が自分の中で座右の銘となり、自分の生存の基礎となり、いのちとなり、自分の中の人生の道となります。その時、この世の物事は、あなたがたにとって全て重要では無くなるのではないでしょうか。ゆえに、あなたがたの人生の展望は極めて重要です。神に対するあなたがたの信仰において、あなたがたの追求はどのような方向性になっているでしょうか。その方向性は正しいでしょうか。それは正しい道でしょうか。それは、神の要求からどの程度離れているでしょうか。あなたがたの追求が、神があなたがたに実現することを要求する物事に基づき、かつあなたがたの方向性が正しいならば、たとえあなたがたが多少道をそれたり、多少気弱になったり、多少失敗しても、それは深刻な問題ではありません。神はそれに気づき、あなたがたを支援するでしょう。神はどのような者を好むでしょうか。神は、たとえ無知であったとしても、真理を追求し、意志が強く、正直な者を好みます。神はあなたがたが無知であったり、気弱であったり、知恵が無かったりすることを恐れません。神が忌み嫌うのは、あなたがたが全く追求しない時、あなたがたの人生の展望がこの世の者の展望と同様である時、そしてあなたがたのいのちの追求が獣の追求と同様で、魂が無く目的も方向性も無い時です。神は、神に対するあなたがたの信仰において、そのような姿勢を忌み嫌います。ゆえに、あなたがたの信仰において、自分の人生の展望がどのようなものであるかは、性情の変化に対して極めて重要です。「自分の人生の展望は、神に大いに用いられ、神に仕えることが出来る者になることだ。」と言う者も居ます。これは良いことでしょうか、それとも良くないことでしょうか。これは至って良いことで何も問題ありませんが、人間の器量は限られており、人間の能力と状況は様々です。この目的を追求することは正しいものの、それは必ずしもあなたがたに適しているとは限りません。ゆえに、人間が持つべき人生の展望は、真理と人間性、良心と理知を備え、神を礼拝する者、すなわち、真の人間となることであり、それが最適な追求です。「今、私たちは真の人間とはみなされないのだろうか。」と言う者も居ます。私たちは、外観上は人間です。私たちは、目と鼻が付いている人間の形状をしています。しかし私たちの本質に基づいて検討すると、私たちは真の人間ではありません。したがって、私たちは真の人間になること、真理を備え、神を礼拝する人間になることを追求する必要があります。それで十分です。神に用いられる能力や、神に仕える能力を備え、そのための状況も備えたている者にとって、これは別の問題です。これは、個々の実践の問題です。

次に、3番目の側面である、サタンのような本性について交流しましょう。これもまた、私たちが把握する必要のある性情の変化に含まれる、もうひとつの側面です。これは、もうひとつの主要な側面です。サタンのような本性は、人間の堕落した性情であり、人間の堕落した本性でもあります。この種の話題は、神の言葉において多くの部分を占めています。神の言葉において、この側面は大部分が暴かれる側面であり、この話題に関する神の言葉は最も辛辣です。この側面は様々な方法で述べられています。直接的に暴露し、裁く方法もあれば、この側面に関する言葉の一部は、人間が受け入れられない恐れがあるため、間接的な方法で述べられて居ます。しかし、それがどのよう、どの方法で、どのような口調で述べられているかを問わず、最終的に神が暴くのは、人間の本質です。これは絶対的に正しいものです。神の言葉では、サタンのような本性に関する最も古典的な側面が述べられています。神は2つの聖句を活用して、それを暴いています。サタンのような本性で、どのような本質が表されるかを、あなたがたは知っているでしょうか。(裏切りの本性です。)その通りです。それは裏切りの本性です。この裏切りの本性は、神の言葉「裏切り (1)」と「裏切り (2)」で明らかにされています。これがサタンの本性の最も古典的な描写です。なぜ、神はその言葉を述べたのでしょうか。人間の独善、傲慢さ、邪悪さ、反抗、欺きなど、それ以外の側面は、それぞれの聖句で多少触れられています。これらの側面の真理が特に説明されている聖句はありません。神がその2つの聖句で説明しているのは、裏切りの本質だけです。このことから、裏切りが神からどう見られているか、人間の裏切りの本質が神からどのように扱われているかが分かります。神は人間の裏切りをうれしく思わないことは確かです。神はこの裏切りを憎み、忌み嫌い、また神に対する人間の裏切りを忌み嫌います。この裏切りが、サタンの本性の最も古典的な部分です。

人間の裏切りの本性の根源は何か、というと、それはサタンです。ゆえに、この人間の性情の側面を理解する必要があります。裏切りの根源はサタンであり、サタンの本性は裏切りです。神は、人間が自分の行動の多くで示すのは、裏切りであると考えています。このことを説明するために、神がそれほどまで大きな部分を充当したのは、なぜでしょうか。人間の裏切りは、あらゆる瞬間に存在し、時と場所を問わず発生します。人間が何をするかを問わず、人間の本性に深く根ざしている物事は、神と対立しています。「神と対立したくない。神を拒みたくない。」と言う者も居ます。それは不可能です。あなたがたの内面には裏切りの本性があり、それがあるために神に対して従順になれず、神に最後まで付き従えず、神の言葉を授かることが出来ず、神の言葉全てを自分のいのちとして受け入れられません。あなたがたが神を信仰してきた期間や神の言葉を食べ飲みしてきた期間の長さを問わず、どの程度神を理解しているかを問わず、神を裏切る本性があなたがたに有り、あなたがたが神の言葉を自らのいのちとして受け入れず、神の言葉の真理に対して真摯に取り組まない限り、あなたがたの本質は、常に神への裏切りです。換言すれば、あなたがたは、自分の性情がいまだに変化していないならば、神に対する裏切り者です。こう言うと、「神の言葉は理解できる。また神が言っている事は明瞭に理解している。自分はそれを受け入れることを望んでいるが、あなたはなぜ、それでも私が神を裏切っていると言えるのか。」と言う者も居ます。神の言葉を授かることを望んでいるということは、それを行動で示すことが出来ることと同じではありません。また、特にそれは神の言葉により完全にされることと同じではありません。そうではないでしょうか。自分の裏切りの本性を知ることに関する真理は、多少深いものですので、あなたがたが真理のその側面を理解することが出来るようになるために、おそらく一定期間の経験が必要でしょう。神の目から見ると、神を信じる者それぞれのあらゆる行動が、神に敵対しています。それもまた、あなたがたが受け入れられない事でしょう。あなたがたは「自分は神に仕え、神を礼拝し、神の家で自分の本分を尽くしている。自分は多くの物事を行って来た。そしてそれらの物事は全て十分であって、神の旨と業の采配に従って行われた。あなたはどうして、それが神を拒み、裏切ることであると言えるのか。あなたはなぜ、いつも私たちの肯定的な部分を無下にするのか。私たちにとって、家庭や職業から離れて神に付き従う決心をするのは、困難だ。あなたはなぜ、私たちにそのようなことを言うのか。」と言うかも知れません。私がそう述べることの目的は、ちょっとした善行、あるいは何かを手放すこと、多少の苦難を受けることは、自分の内面的本性が変化したことを意味するものではない、ということを、あらゆる者に認識させることにあります。それは全くありません。苦難を受け、本分を尽くすことは必要ですが、それは自分の中の堕落した性情が無くなったことを意味するものではありません。なぜなら、私たち各人の内部にあるいのちの性情は、神の要求を満たすには程遠く、神の旨に達するにも程遠いからです。ゆえに、これが神に仕えつつ神を拒むという言葉の意味です。神を拒むこととは、どのようなことでしょうか。あなたがたが神を拒む時というのは、あなたがたは神に反することをしている時であり、神に反する行動は、神を裏切ることです。

裏切りに関する話題の交流は、これで終わりです。次の話題は、サタンのような本性の古典的な表出である、人間の傲慢さです。人間の傲慢さも随所で暴かれ、表されるので、隠したり克服したり出来ません。往々にして、傲慢さは自然と、そして衝動的に表れます。人間はそれを自制できず、それが衝動的に表れた後、後悔して、二度とそうした傲慢さを衝動に駆られて表さないようにすると決意します。しかし、これについてはなすすべがありません。それはなぜでしょうか。ある者の性情が変化しておらず、そうした物事が依然として内在する場合、それは自然と表れます。それでは、そうした物事を表さずにいることが出来るようになるのは、いつでしょうか。それは、あなたがたの性情が徐々に変化した時です。あなたがたの理知が適切になり、あなたがたが一層多くの真理を理解し、把握し、あなたがたの物の見方が変化して深く、一層実践的になり、神の要求に近付いた時、あなたがたの傲慢さは多少減り、おそらくあなたがたは多少保守的な印象になるでしょう。極めて厚かましく、尊大で露骨な現況から考えると、それは困難でしょう。

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