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XII. 神の声を聞く賢い乙女についての真理の側面を明白に伝えなければならない

2. 時代を通じて神によって使われた人々の真理と一致する言葉と神自身の言葉の違いは何か

関連する神の言葉

実際、真理とは、人生の格言の中でも最も現実に則しており、人類の全ての格言に勝るものなのだ。それは神が人間に要求すること、神が自ら為した業である。だから、人生の格言と呼ばれる。これは何かから要約された格言ではなく、また、偉人の有名な引用でもない。そのようなものではなく、これは天と地と万物の主から人間に告げたものであり、人間によって要約された言葉ではなく、神本来のいのちなのである。だからそれは、至高のいのちの格言と呼ばれるのだ。

『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より

あなたは真理の実際の範囲と、真理の範囲の外側にあるものを理解しなければなりません。

真理の言葉から自分の経験にもとづいて何らかの識見を得たり、何らかの理解を獲得したりすれば、それを真理と見なせますか。それはせいぜい真理についていくらか理解しているとしか言えません。聖霊の啓きの言葉はすべて神の言葉を表わしているわけでも、真理を表わしているわけでもなく、真理に関連しているわけでもありません。真理についていくらか理解しており、聖霊の啓きをいくらか有している、としか言えません。…誰もが真理を経験できますが、各人の経験の状況は違っていて、同じ真理から得るものは一人ひとり異なります。しかし全員の理解を統合しても、この真理はやはり完全には説明できません。真理はかくも深いのです。あなたが得たすべての物事や、あなたが有するすべての理解をもってしても真理の代わりにはなり得ないと、なぜわたしは言うのでしょうか。自分の理解を他人と分かち合えば、二、三日間はそれについて深く考え、それを経験し終えますが、人は一生かけても真理を完全には経験できません。たとえすべての人が集まっても余すところなく経験することはできません。それゆえ、真理は非常に深遠だということがわかるのです。言葉を用いて真理を完全にはっきりと表現することはできず、人間の言語に置き換えられた真理は人間の格言です。人間は決して真理を完全には経験しませんが、それに頼って生きるべきです。真理の一欠片により、全人類が何千年にもわたって生き残ることができるのです。

真理は神自身のいのちであり、神の性質を表し、神自身の実質を表し、神におけるすべてを表わしています。何らかの経験をすることが、真理を有していることを意味すると言うならば、あなたには神の性質を表わすことができますか。できません。真理の一つの側面や方面について何らかの経験か光を有していても、それを他人に永遠に与えることはできません。ですから、その光は真理ではありません。人間が到達可能なある段階に過ぎません。人間が有するべきなのは適切な経験と理解だけであり、それが人にとっての真理の現実的な経験なのです。そうした光、啓き、経験にもとづく理解は決して真理の代わりとはなり得ません。すべての人々が真理の一文を完全に経験したとしても、またそれらの言葉をすべて結合させたとしても、その一つの真理の代わりにはなりません。過去にこう言われた通りです。「それを人間世界のために格言で要約しよう。人間の中にわたしを愛する者は一人もいない」。これは真理の言明であり、人の生涯についての真の本質であり、最も深遠なものであり、そして神自身の表現です。あなたはそれを経験できます。それを三年間経験すれば浅い理解が得られ、八年間経験すればさらに理解が得られますが、あなたの理解がその真理の言明に取って代わることは決してありません。他の誰かが二年間経験すればわずかな理解を得、十年間経験すればもっと高次の理解を得、生涯にわたって経験すればさらにもう少しだけ理解を得ます。しかし両者の理解を結合させたところで、どれだけの理解が、どれだけの経験が、どれだけの識見があろうと、どれだけの光が、あるいはどれだけ多くの例があろうと、これらすべては先の真理の代わりにはなり得ません。これでわたしは何を言わんとしているのでしょうか。わたしが意味しているのは、人間のいのちはいつまでも人間のいのちであり、あなたの理解がどれほど真理や神の意図や神の要求と一致していようとも、真理の代わりには決してなれないということです。人が真理を有しているというのは、何らかの現実を有している、神の真理について何らかの理解を有している、神の言葉に実際にある程度入っている、神の言葉について何らかの実際的な経験を有している、神への信仰において正しい道にいる、ということを意味しています。神の言葉一つだけで、人間が生涯にわたって経験するのに十分です。人間が数度の生涯、あるいは数千年にわたる経験を有したとしても、それでもなお、ひとつの真理を完全に余すところなく経験することはできないのです。…

…真理の一側面について何らかの経験を有していれば、それが真理を表すことができますか。それは絶対に真理を表すことはできません。あなたは真理を余すところなく説明できますか。まったくできません。あなたは神の性質と本質を真理から発見できますか。できません。各人による真理の経験は、その一側面、一部分、一範囲に過ぎません。自分自身の限られた範囲の中でそれを経験したところで、真理のすべてに触れることはできません。真理の意味は人類に共通の本性を明らかにします。あなたのわずかな経験は全体のどれほどの割合になりますか。砂浜の砂一粒、大海の水一滴に過ぎません。それゆえ、経験から得たあなたの理解や感覚がどれほど貴重なものであろうと、またそれらが実にかけがえのないものだとしても、真理とは見なされません。真理の源と意味は非常に広大な範囲を覆っています。それを否定できるものありません。…しかし、人のもつものや人が得た光は、その本人やある範囲内の他人にしか適しておらず、別の範囲の中ではふさわしくありません。人の経験はとても限られているので、それがどんなに深いものであろうと、その経験は決して真理の範囲に届きません。人間の光や理解は決して真理に匹敵するものではないのです。

『キリストの言葉の記録』の「真理とは一体何なのか知っていますか」より

人の実践方法と真理の認識はすべて特定の範囲に適用される。人が歩む道は完全に聖霊の意志であると言うことはできない。人は聖霊によって啓発されるだけで、聖霊で完全に満たされることはできないからである。人が経験できることはすべて通常の人間の範囲内のもので、通常の人間の心の中の考えの範囲を越えることはできない。実践的表現をする人々はすべてこの範囲内で経験する。彼らが真理を経験するとき、それはいつも聖霊の啓発を受けた通常の人間生活の経験であり、通常の人間生活から逸脱した方法による経験ではない。彼らは人間生活に基づいて聖霊に啓発された真理を経験する。そのうえ、この真理は人によって異なり、その深さは人の状態に関連している。彼らが歩む道は真理を追及する人の通常の人間生活であり、その道は聖霊によって啓発された通常の人間が歩む道であると言えるだけである。彼らが歩む道は聖霊が取る道であると言うことはできない。通常の人間の経験では、追求する人々が異なるので、聖霊の働きも異なっている。さらに、彼らが経験する環境や経験の範囲は同じではなく、彼らの精神や考えが混ざり合うため、その経験の混ざり合う程度もさまざまになる。各人は個々の異なる条件に従って真理を理解する。真理の本当の意味を完全に理解することはなく、ほんの一部にすぎない。人が真理を経験する範囲はいつも個人の異なる条件に基づいているため、同じにはならない。こうして、同じ真理を表した認識でも人が異なれば同じにはならない。つまり、人の経験にはいつも限界があり、聖霊の意志を完全に表すことはできず、たとえ人の表すものが神の心にかなり一致していても、たとえ人の経験が聖霊の実行する人を完全にする働きに非常に近くても、人の働きを神の働きとして把握することはできない。人は神の僕にすぎず、神に任せられた働きしかできない。人は聖霊の啓発を受けた認識や自分の個人的経験から得た真理しか表すことはできない。人は無資格で、聖霊の流出口となる条件を持たない。人の働きは神の働きであると言う資格は与えられていない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

人の分かち合うものは神の言葉とは違う。人の分かち合うものはその人の個人的見識や経験を伝え、神の働きを基にして見るものや経験するものを表す。彼らの責任は、神の働きや話の後、自分たちが何を実行するべきか、または何において成長すべきかを見つけ、次にそれを従う者たちに伝えることである。したがって、人の働きはその人の成長と実践を表す。もちろん、そのような働きには人の教訓と経験、あるいは人間的考えの一部が混入している。聖霊がどのように働こうとも、聖霊が人に働き掛けようと、肉となった神で働こうと、自分たちが何であるかを表わすのはいつも働き手である。働くのは聖霊であるが、働きは人が本質的に何であるかに基づいている。なぜなら聖霊は基礎なしには働かないからである。言い換えれば、働きは無からなされることはなく、いつも実際の状況や現実の条件に応じている。このようにしてのみ、人の性質は変換させることができ、人の古い見解や思考も変えられる。人が表すものは自分が見るもの、経験するもの、想像できるものである。教義、あるいは見解であっても、これらはすべて人が考えれば到達可能である。人の働きは大きさに関係なく、人の経験、見るもの、想像、あるいは思いつけるものの範囲を越えることはできない。神が表すものは神自身であり、これは人の力が及ばないもの、つまり、人の考えの及ばないものである。神はすべての人類を導くという働きを表し、これは人の経験の詳細とは関係なく、むしろ神自身の経営に関係している。人は自分の経験を表し、神は自身の存在を表す──この存在は神に固有の性質であり、人の力の及ばないものである。人の経験は、神が表した神の存在に基づいて獲得した見識や認識である。このような見識や認識は人の存在と呼ばれる。それらは人の本来備わっている性質、および人の実際の力量を基礎に表される。そこで、それらも人の存在と呼ばれる。人は自分が経験するものや見るものを分かち合うことができる。経験したことも、見たこともないもの、あるいは心が到達できないもの、すなわち、自分の心の中に持っていないものを分かち合うことはできない。人が表すものが自分の経験でなければ、それは想像、あるいは教義である。一言でいうと、その言葉には現実性がない。社会の状況と接触がなかったら、あなたは社会の複雑な関係を明確に話すことはできないだろう。家族がないのに、他の人々が家族問題について話していたら、あなたは彼らが話していたことの大半を理解できないだろう。そこで、人が話すことや行う働きは、その人の内面存在を表す。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

だから、新約のパウロの書簡はパウロが諸教会に向けて書いた手紙で、聖霊の霊感によるものではないし、また、聖霊が直接語ったものでもない。あれは単に、パウロが働きの間に諸教会に向けて書いた勧告と慰めと励ましの言葉である。また、当時のパウロの活動の大部分の記録でもある。あれは主における兄弟姉妹のために書かれたもので、当時のすべての教会の兄弟姉妹に、パウロの助言に従い、主イエスの教えを守らせるためのものだった。当時の教会であれ、未来のものであれ、パウロは自分の書いたものをみなが飲み食いしなければならないとは絶対に言わなかったし、また、自分の言葉がみな神から出たものだとも言わなかった。当時の教会の状況に合わせて、パウロは単に兄弟姉妹と心の交流をして、彼らを励まし、彼らの信仰を深めようとしていた。そして、彼は単に説教をしたり思い起こさせたりして、勧告していたのだ。彼の言葉は、彼自身の重荷に基づいて、言葉によって人々を支えたのだ。彼は当時の教会の使徒としての働きをした。彼は主イエスに用いられた働き手だった。そして、教会の責任を与えられていた。彼は教会の仕事を行なうよう任じられていて、兄弟姉妹の状況を調べなければいけなかった。そのために、主においての兄弟姉妹すべてに手紙を書いたのだ。彼が人々に向けて言った信仰を養い、確信に満ちた言葉はみな正しかったが、それは聖霊の言葉を代弁していたのではないし、パウロにも神の代理はできなかった。一人の人間の経験の記録や手紙を聖霊が諸教会に向けて語ったものとして扱うのは、ばかげた解釈であり、ひどい冒瀆である。パウロが諸教会に向けて書いた手紙については、特にそうである。彼の手紙は当時の各教会の事情や状況に基づいて兄弟姉妹に向けて、主における兄弟姉妹を励まし、主イエスの恵みを受けられるようにと書いたものなのだから。彼の手紙は、当時の兄弟姉妹を奮起させるためのものであった。これは彼自身の重荷であり、聖霊が彼に負わせたものだったといえる。結局のところ、彼は当時の教会を導いた使徒で、諸教会に手紙を書いて励ました。それが彼の責任であった。彼の身分は単に活動中の使徒であって、単に神に遣わされた使徒だった。彼は預言する者でも、予知する者でもなかった。だから、彼にとって自分の働きと兄弟姉妹の生活が最も重要なものであった。それで、彼は聖霊を代弁することはできなかったのだ。彼の言葉は聖霊の言葉ではなかったし、まして、神の言葉であったとは到底言えない。パウロは神の被造物でしかなく、受肉した神では絶対になかったのだから。彼の身分はイエスの身分とは違っていた。イエスの言葉は聖霊の言葉で、神の言葉であった。イエスの身分はキリスト、神の子であったのだから。どうしてパウロがイエスと対等になれるのか。もし人々がパウロの書いたような手紙や言葉を見て、聖霊の言葉として神のように崇めるなら、それはあまりにも分別がないと言うことになるだろう。もっと厳しい言い方をすれば、これは冒瀆以外の何物でもないのではないか。どうして人間が神に代わって話せるのか。また、どうして人々は人間の手紙や語った言葉の記録をまるで聖なる書か天の書であるかのように、その前に額づくことができるのであろうか。神の言葉は人間が何気なく口にできるものなのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。それで、どう思うのか──パウロが諸教会に宛てて書いた手紙には、彼自身の考えが混じっているのではないか。どうして人間の考えで汚れていないと言えるであろうか。彼は自分の個人的経験や人生の幅に基づいて諸教会に向けて手紙を書いた。たとえば、パウロはガラテヤの諸教会に向けて手紙を書いているが、そこには、ある意見が含まれている。そして、ペテロも別の手紙を書いているが、別の意見が見られる。どちらが聖霊から出たものなのか。誰一人確かなことを言えない。だから、彼らは二人とも教会のために重荷を負っていたが、二人の手紙は彼らの霊的背丈を、彼らの兄弟姉妹に向けた備えと支えを、諸教会への彼らの責任を象徴している。その手紙は人間の働きを表しているに過ぎない。すべてが聖霊から出ていたのではないのだ。もしもパウロの手紙は聖霊の言葉だというのなら、その人は愚かで、冒瀆を犯している。パウロ書簡と新約のその他の書簡は、もっと最近の宗教活動家の回顧録のようなものだ。それらはウォッチマン・ニーの著書やローレンスの経験その他と同じようなものだ。簡単に言えば、最近の宗教活動家の著作は新約には含まれていないが、そうした人物の本質は同じである。彼らは一定の期間、聖霊に用いられた人々であったが、直接神を代表することはできなかったのである。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(3)」より

神の言葉は人の言葉として語ることはできないし、ましてや人の言葉は神の言葉としては語ることはできない。神に使われる人間は受肉した神ではなく、受肉した神は神に使われる人間ではない。ここに実質的な違いがある。これらの言葉を読んだ後、あなたはこれらが神の言葉であることを受け入れず、ただ啓示を受けた人の言葉として受け入れるかもしれない。そうだとすれば、あなたは無知ゆえに目が見えなくなっているのだ。どうして神の言葉が啓示を受けた人間の言葉と同じでありえようか。人の姿になった神の言葉は新しい時代を開始し、人類全体を導き、奥義を明らかにし、人に新しい時代に向かう方向を示す。人が獲得する啓示は単純な実践、あるいは認識にすぎず、人類全体を新しい時代に導くことはできないし、神自身の奥義を明らかにすることもできない。神は結局神であり、人は人である。神は神の本質を持っており、人は人の本質を持っている。神によって語られた言葉を単に聖霊による啓示と見なし、使徒や預言者の言葉を神自らが語る言葉として受け取るならば、それは間違っている。とにかく、あなたは決して正しいものを誤りとするべきではないし、高いものを低いものとして話すべきではないし、深いものを浅いものとして話すべきではない。とにかく、あなたは真理であると知っていることを決して故意に論駁するべきではない。神の存在を信じる人はすべてこの問題を正しい観点から考えるべきであり、神の新しい働きと言葉を神の創造物として受け入れるべきである――さもないと神に排除されるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

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