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キリストの言葉の記録

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自らの真心を神に捧げた後に真理を得ることができる

1.解放と自由は、自らの意図と願望を捨て去った後に初めて実現できる

指導者として、あなたがたは他人の才能を羨んではならず、それをもって資格を得て自らの責任を果たし、自らの献身を完全に示すであろう。あなたがたは、他人が自分よりも傑出することや、強くなることを常に懸念している。それは、価値と能力に対する嫉妬ではなかろうか。それは神の旨に配慮した態度であろうか。これはどのような性情であろうか。これは毒性である。この毒性は、自分の事だけを考え、自分勝手な願望のみを満たし、神の家の利益を考慮せず、他人の本分に配慮せず、自らの利益だけを配慮する。事実、この毒性は個人の利益に影響を与えない。あなたがたが他人の才能育成を支援するならば、神の家に才能ある者が1名追加させることとなるのだから、あなたがたは自分の業を周到に遂行しているのではなかろうか。それでは、あなたがたはこの本分を忠実に尽くしたのではないか。それは神の前における善行である。あなたがたは、人間の前で行動してはならず、神の前で行動すべきである。神の監督と検分を受け容れることにより、あなたがたの心は正しくなる。あなたがたが他人に見られることを気にして行動しているならば、あなたがたの心は決して正しくならないであろう。また、行動する時に、自分自身のために行動してはならない。自分の利益を考慮してはならない。人間の利益を考慮してはならない。自分の地位や体裁、名声を考慮してはならない。まず、神の家の利益を考慮する必要がある。神の家の利益を優先させる必要がある。神の旨に配慮する必要がある。自分の本分を優先して配慮する必要がある。あなたがたの行動に不純な部分は無いであろうか。あなたがたは完全に献身しているであろうか。あなたがたは自らの責任を果たしているであろうか。あなたがたは、自らの最大限の努力をしているであろうか。あなたがたは、全力で、専心して、自分の本分と神の家に関する業に配慮して行動しているであろうか。あなたがたは、こうした点を検討する必要がある。あなたがたは、こうした物事に留意したならば、自分の本分を尽くす時に不十分になり過ぎることは無いであろう。ただし、自らの人間性が不足していたり、経験が浅薄であったり、経験が皆無であったり、自分の業に不慣れであったり、熟練度が不足していることが原因で、あなたがたの業が向上しなかったり、自分の業に過誤や不十分さが生じる場合は、この限りでは無い。しかしながら、あなたがたは既に全力を尽くしており、自分勝手な願望に基づいて行動したり、自分の利益のために行動したりすることは無いが、全てにおいて神の家に関する業を念頭に置き、神と神の業の利益に配慮している。あなたがたの心は正しくされ、あなたがたは神の前で善行を積み重ねてきた。そうした善行を行う人間は、真理の現実性を備えた者ではなかろうか。この者には、証しがある。あなたがたが常に自分勝手な願望に従って生活し、自分勝手な願望を満たしているならば、そうした者には、神の前における証しが無く、サタンの前における証しも無い。それは神を辱めている印であり、あらゆる物事において神を辱める。あなたがたは「しかし自分は何もしていないのに、一体どのようにして神を辱めたというのか」と言う。自分の行動の意図、目的、動機に関するあなたがたの考えや、あなたがたの行動の結末において、あなたがたは全面的にサタンを満足させ、サタンの笑い草となり、サタンの非難に自らを曝しており、キリスト教信者として備えるべき最低限度の証しを備えて居ない。あなたがたは、あらゆる物事において神の名を汚し、真の証しを備えて居ない。それならば、神はあなたがたの行動を覚えているであろうか。あなたがたが行った行動や尽くした本分に関し、神は最終的にどのような結論を出すであろうか。結果が存在する筈ではなかろうか。それとも、存在するのは意見であろうか。聖書において、主イエスは、 「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう」(マタイ7:22) と述べた。その後、主イエスは何と述べたであろうか。「そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」(マタイ7:23)主イエスがこのように述べたのは、何故であろうか。主の名において病人を癒やし、悪霊を追い出し、説教するために旅をした者が、悪行を行う者となったのは、何故だろうか。何故、そうした者は悪行を行う者なのであろうか。そうした者は神を信じない者であろうか。(そうではない。) そうした者は何者であろうか。(神を信仰しているが真理を実践しない者である。)その通りである。そうした者は、神を信仰し、神に付き従っている。また、そうした者は自らを神のために費やし、物事を捨て去り、自らの本分を尽くしている。しかし、そうした者は、本分を尽くす時に忠実ではなく、証しをしておらず、そうした者が本分を尽くす業は邪悪になっている。ゆえに、主イエスは「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と述べた。

ある者の行動の善悪に関する判断基準は何であろうか。それは、あなたがたの考え、表現、行動において、真理を実践し、真理の現実を態度で表現する証しが、あなたがたに有るかどうかである。あなたがたに、こうした現実も態度による表現も無い場合、あなたがたは確実に邪悪を行う者である。神は邪悪を行う者を、どのように考えるであろうか。あなたがたの考えや外面的行動は、全て神を辱める。そうした物事は、神を証しするものでは無い。そうした物事は、サタンを辱めることも倒すことも無く、むしろそうした物事は神を辱める印である。あなたがたは神の証しに立って居らず、自らを神のために費やしておらず、神に対する自らの責任または義務を果たしておらず、むしろ自分自身のために行動している。「自分自身のために」には、どのような含意があるか、というと、サタンのために、という含意がある。ゆえに、結局神は「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と言うであろう。報いは無い。神は、そうした者を覚えていない。神の目から見ると、そうした者の行動は良くないのではなく、邪悪な行動に変わっている。それは空虚ではなかろうか。現在、あなたがたの客観的願望が真理の追求であるかどうか、その願望が曖昧であるために、あなたがたが真理の追求とは何かを確信していないかどうかを問わず、最も簡明な実践方法は、神の家の利益を第一に考えることである。万事において、神の家の利益を第一に考える必要がある。あなたがたは、自らの身勝手な欲望を捨て去る必要がある。自らの個人的動機、意図、体裁や地位に対する懸念を捨て去る必要がある。そうした物事から去り、神の家の利益を第一に考える必要がある。それは最低限度として行うべき事である。本分を尽くす者が、それさえも出来ないならば、どうしてその者が本分を尽くしていると言えようか。それは本分を尽くすことでは無い。あなたがたは、まず神の家の利益、神の業に配慮し、それを優先すべきである。その後に、あなたがたの地位の安定性や他人にどう見られるかを考えるべきである。あなたがたは、そう出来るだろうか。これらの段階に分け、段階同士で相互調整したほうが、あなたがたは多少平易に感じるのではなかろうか。あなたがたは、それを暫く続けたならば、神を満足させることが難題では無いと感じるようになるであろう。また、自らの責任と義務を果たし、本分を尽くし、自分勝手な願望や利益、動機を捨て去り、神の旨に配慮し、神と神の家の利益を最優先することが可能な期間を経験した後、あなたがたは「こうして生活するのは実に良いことだ。これは実直な生活であって、意地悪な者や無益な者、心の狭い者、賤しい者になることではなく、正しく立派に生きることだ。人間はこのように生活し、行動すべきだ。」と思うであろう。あなたがたの心にある、自分の利益を満足させたいという願望は、次第に減ってゆくであろう。

長年にわたり神を信仰して来たが、真理の追究の教訓や真理の実践、真理の現実性に対する本格的かつ真摯な取り組みを未だに行っていない者も居る。また、そうした者は実践による学びもそれほど深くないので、経験も深くない。そうした者には真の経験が全く無い。そうした者は、真に経験から学んだことが無い。ゆえに、そうした者は真の証しに立つことができない。ここで、簡単な実践について述べる。まず、自分の意図や利益、自分勝手な欲望を捨て去ること。それを暫く実行した後、あなたがたの内面的な状態は、無意識のうちに変化するであろう。あなたがたは、自分の状態が変化すると間も無く、神への信仰に限定的な関心がある状態と、信仰に反対ではない状態の間で言い逃れている状態から、それとは別の状態、すなわち神への信仰や、善人たることは良いことだと感じる状態、善人たることに対する志を感じ、善人となることに関心がある状態、そのように生活することが有意義だと感じる状態、そのように生きることにより満足や確実性、安らぎ、喜びを感じる状態へと変化する。このような状態への変化は、大変良い結果である。こうした結果には、人間の協力の側面と、聖霊の業の側面がある。人間には、鬱、消極性、弱さ、脆さ、無益さ、持続性の賤しい意図、体面に関する懸念に支配されること、自分勝手な願望、自分自身の利益、自尊心の低さなど、好ましくない状態がある。こうした物事にあなたがたが常に支配されてしまう、否定的な状態がある。こうした不快な状態で生活している時、あなたがたにとって聖霊の業を得ることが極めて困難となる。聖霊の業を得ることが困難な場合、あなたがたの中にある肯定的な物事は少ないであろう。自分の中に肯定的な物事が少ししか無い時、あなたがたにとって真理を得ることは困難である。人間は意図的な抑圧に依存している。すなわち、人間は様々な方法で自制し、否定的ないし不利な条件から逃れることが出来ない。人間が自分に適した実践の道を見つけられない時、そうした状態は部分的に人間が原因である。その他、大きな理由として、人間が常にそうした否定的、衰弱的、衰退的状態に陥り、聖霊が業を行わないことがある。神は、時折啓きを授けたとしても、大規模な業を行わない。ゆえに、人間は何をするにも大いに努力する必要があり、物事を理解するのが困難である。啓きや照らし、光を得ることは困難である。なぜなら、否定的かつ衰退的で不利な物事が、あなたがたの内面の全てを占めているからである。したがって、別の理由として、人間が聖霊から啓きを得られず、聖霊の業を得られず、それゆえにそうした状況から脱することが出来ないことがある。そうした否定的状態を変化させる方法は無い。聖霊は業を行わず、あなたがたは進むべき道を見出せない。こうした2種類の理由のため、あなたがたにとって肯定的かつ正常な状態となることは、困難である。あなたがたは、本分を尽くすにあたり、多くの物事に耐え、熱心に業を行うことが可能であり、従前大いに努力し、家庭や職業を捨て、何も手元に残さずに来たが、それでもなお、あなたがたの内面の状態は真に変化を遂げていない。あなたがたが真理を実践し、真理の現実性に対して真摯に取り組むのを阻み続ける物事が多すぎる。個人的な観念や想像、知識、人生哲学、そして自分勝手な願望や関心、体面に関する懸念、他人との争いといった否定的な物事など、様々な物事が、あなたがたの内面空間を満たしている。あなたがたが若かったとしても、あなたがたのうち誰が愚かな者であろうか。私が発言したり咳をしたり、座る位置をずらすなど、行動したり物音を立てたりする時、あなたがたの頭の中には、毎回何かしらの考えが浮かぶ。それは何故であろうか。あなたは愚かであろうか。あなたがたのうち、愚かな者は居ない。私はあなたがたを過小評価したことが無い。人間には、肯定的物事が何も無い。人間の頭は、否定的で不利な考えで満たされている。それは、誰も否定出来ない事実である。人間の心はサタンの物事で満たされ、占められている。あなたがたがこうした物事を根絶せず、そうした状況から脱することが出来ず、小さな子供のように、快活で可愛らしく、純真で悪意が無く、正直かつ純粋に神の前に来ることが出来ないならば、あなたがたにとって、真理を得るのは究めて困難であろう。

現在、あなたがたには有意義な事がひとつ有る。それは、苦難を受ける決意と、信仰である。それだけで、あなたがたは救われた。あなたがたにそうした物事が無いならば、あなたがたに望みは無いであろう。苦難を受ける決意も、自らのいのちを神のために費やし、神に捧げる精神や志も無く、したがって自らの本分を尽くす熱意が無い者も居る。一定期間にわたって本分を尽くすが、その本分に関心が無くなるとすぐに止めてしまう者も居る。そうした者は、配偶者を探したり、富を求めたり、結婚したり、労働したりする。そうした者は、ここで時間を費やすことに何も効果が無いと感じる。そうした者には、それを継続することに対する信念が無い。またそうした者は、ここに留まることは、青年期、人生最良の時期、時間、人生の無駄だと考えている。幸運なことに、ここに居る者の殆どが、そうした物事に囚われておらず、既にそうした状況から脱している。しかし、あなたがたの頭を満たしている観念、想像、知恵、個人的な意図や願望は、相変わらず当初のままである。ゆえに、神の家では様々な才能を育成していると聞いたり、それに地位や体面、名声が関連するようになるとすぐに、皆必ず期待に胸を躍らせ、傑出し、成功し、名声や名誉を得ることを欲する。あなたがたは譲歩したがらず、対立することは恥であるにもかかわらず、常に対立を望む。神の家において、対立は不適切であるが、あなたがたは対立しないと気が済まない。あなたがたは、傑出した者を見ると嫉妬し、憎み、不満になり、不公平だと感じる。「自分が傑出できないのは何故だろう。傑出するのが決して自分では無いのは何故だろう。傑出するのは常にあの男で、自分が傑出する番が一向に回って来ないのは何故だろう。」そこには、一種の憤りがある。あなたがたは、その憤りを抑制しようとするが出来ないので、祈る。祈った後、あなたがたは暫く気を直すが、後にその問題に再度直面すると、それを克服出来ない。それは未熟な器量の問題ではなかろうか。こうした状態に陥ることは、罠ではなかろうか。これは、サタンのように堕落した本性の呪縛である。それゆえに暫く考えて欲しいことがある。すなわち、ある者がそうした堕落した性情を捨て去ったとしたら、その者は自由で解放されているであろうか。よく考えて欲しいのだが、ある者が、こうした状態に陥るのを避け、それを捨て去り、そうした物事の苦悩から自由になりたいと願うならば、その者はどのように変化する必要があるだろうか。こうした物事の苦悩から解放され、こうした物事の呪縛を解き、真に自由となり解放されるために、人間が得る必要のある物事は何であろうか。その一側面として、人間は物事を明瞭に理解する必要がある。そうした名声や地位は、人間を堕落させ、罠にかけ、衰退させ、危害を加えるサタンの手法である。あなたがたは、まずこの側面を理論上で明瞭に理解する必要がある。また、こうした物事を捨て去るのは、若者であるか年配者であるか、信者としての期間が長いか短いかを問わず、極めて困難である。大人しい性格の者は、口数の多く外向的な者よりも困難さが少ないと考えてはならない。それは誰にとっても困難である。それを克服出来る物は居ない。各人の内面的状態は同じであり、そうした物事は、人間を堕落させるためにサタンが用いる物事そのものであり、また人間に生来備わっている物事でもある。ゆえに、各人の堕落した本性は同じであり、異なるのは、その表出されかただけである。無言であるが心に考えが浮かぶ者も居る。話をする時にそれを表す者も居る。苦しむ者も居る。争う者も居る。苦しむことも争うことも無いが、密かに悪意を抱く者も居る。密かに不平不満を言い、物を投げたり壊したりする者も居る。人間が自らを表出する方法は様々であるが、人間の本性は皆同じであり、少しも変わらない。そして殆どの者の本性は、こうした物事で満たされている。どうすればこうした物事を捨て去れるであろうか。あなたがたには解決策があるだろうか。まず、あなたがたはそうした物事を明瞭に理解し、その後そうした物事を捨て去る方法を習得する必要がある。あなたがたが常にこうした物事に重点を置き、こうした物事のために苦しみ、こうした物事だけで心が満たされ、決してこうした物事を捨て去ることを望まず、こうした物事を捨て去らず常に心に抱き続けるならば、あなたがたは、そうした物事に支配され、囚われている。あなたがたは奴隷となり、そうした物事を捨て去れない。あなたがたは、そうした物事を捨て去り、他の者を推薦し、他の者が傑出するのを認めることを学ぶ必要がある。譲ることを学ぶ必要がある。苦しんではならない。また競い合ってはならない。機会が到来すると、傑出したり栄誉を得たりするために、猛烈に努力し、それをすぐに利用しようと焦ってはならない。譲ることを覚える必要がある。しかし本分を尽くす際は遅れてはならない。人目につかない所で人知れず本分を尽くす者、そして他人に自己顕示しない者となる必要がある。あなたがたが捨て去れば捨て去るほど、あなたがたの心は一層安らかになり、心の中に一層の余裕が出来て、自分の状態が一層改善されるであろう。あなたがたが一層苦しみ、争うほど、自らの状態も一層暗くなるであろう。このことが信じられないならば、試すとよい。こうした状態を解消することを望み、そうした物事に支配されたく無いのであれば、まずそうした物事を捨て去る必要がある。あなたがたが苦しめば苦しむほど、一層あなたがたの周りは一層暗くなり、自分の心の嫉妬や憎しみが増し、欲望が強くなるであろう。欲望が強くなればなるほど、それを得る能力が低下し、得る量が減ると、憎しみが増すであろう。あなたがたの憎しみが増すと、あなたがたの内面は一層暗くなるであろう。あなたがたの内面が暗くなればなるほど、あなたがたが本分を尽くすのが不十分になるであろう。あなたがたが本分を尽くすのが不十分になると、あなたがたは次第に役務から外され、排除されるであろう。これは相互に関連性のある悪循環である。

ある者の中で聖霊が業を行い、その者の状態に肯定的な変化をもたらすには、その者が次第に神へと近付いて協力するため、その者が高度に変化すること、捨て去ること、苦難を受けること、放棄することが必要とされる。しかし、聖霊があなたがたを暴くならば、それは瞬間的なものとなる。あなたがたが精進せずに名誉を求めたり、地位や体面、名声、自らの利益のために争ったりするならば、それはあなたがたが奉仕することを望んでいることであろうか。あなたがたは、自ら望むならば奉仕できるが、奉仕が完了する前に暴かれる可能性もある。あなたがたが暴かれるとすぐに、あなたがたの終わりの日が来る。その日になっても変化が起こりうるであろうか。その時、あなたがたの状態が改善出来るか如何は問題ではなくなり、むしろあなたがたの結末が既に決定されている可能性が高く、それがあなたがたの問題となるであろう。通常、人間は罪を犯して自らの堕落した性情を表す。それが自分勝手な願望を満たすことであれ、裏心あって発言することであれ、ずるをすることであれ、人間は、何回か些細な過ちを犯す。大きな混乱を巻き起こしたり、神の性情を侵害したり、神の業を阻害したりすることが無ければ、そうした過ちは赦免できるものである。しかし、そうした者は、自らの行動の結果として災いや大いなる邪悪が起きたならば、依然として改心し得るであろうか。それは共に暮らす夫婦のようなものである。夫婦の間には些細な軋轢や批判がある。時として、夫婦は傷つけ合う言葉を述べることもある。しかし、夫婦双方が我慢し、譲歩し、妥協するならば、依然として共に暮らせる。しかし、夫婦の一方が浮気をして他方の元へ戻ることを拒み、他方の者がよりを戻すために何も出来ない状態となったならば、そうした婚姻は継続できるだろうか。あなたがたの配偶者があなたがたに絶望し、もはやあなたがたを愛していなかったとする。配偶者の心には、あなたがたのことは無い。そうした場合、その配偶者があなたがたと共に暮らすことは出来るだろうか。従前、その配偶者はあなたがたの全てに魅力を感じていたが、現在は感じていなかったとする。あなたがたは、そうした状態で共に暮らせるであろうか。あなたがたには不可能であろう。いくら辛抱しても、妥協しても、それは無益であり、効果が無い。婚姻は破綻し、離婚するほか無い。夫婦がそうした状態になったならば、その婚姻はもはや存在しない。夫婦がひとつ屋根の下に暮らしていたとしても、その婚姻は名ばかりであり、離婚してもしなくても同じである。それゆえに、あなたがたが本分を尽くす上でそうした状態に達したならば、多くの機会を逃し、心が常に憤り、決して悔い改めず、正しい道に戻ることも省みることも無く、すなわち神が幾度となく機会を授けたにもかかわらず自らの行動や追求を堅持し、自らの意図や目的、追求方法を捨て去らない状態に達したならば、些細な物事の中で、あるいは発言内容において、あるいは至って日常的環境において、あなたがたが暴かれる日が、遅かれ早かれ来るであろう。ゆえに、ある者が聖霊の業や真理を得られず、様々な意図や堕落したサタンの性情に束縛されて支配され、自分勝手な欲望、意図、個人的欲望から脱することが出来ないならば、その者は深刻な危険にさらされており、その者が躓き倒れ、暴かれるのは、時間の問題である。現在あなたがたは躓き倒れていないであろうが、それは将来あなたがたが躓き倒れないということではない。あるいは、現在あなたがたは依然として自分の本分を尽くし、自らを費やす多少の意志や願望があり、完全にされ、神のために費やし苦難を受ける決意が多少あるかも知れないが、それをもって真理の現実に対するあなたがたの真摯な取り組みに代えることは出来ず、またそれはあなたがたが将来躓き倒れないということでは無い。また、それはあなたがたが将来弱くならないということでも無い。

あなたがたはある者がどのような状態にある時、その者が真に安全だと考えるであろうか。「神を信じ、神の御前に居ることは、卵の殻の上を歩くようなものだ。それは切っ先の上で生きているようなものだ。」と言う者も居る。一方では「神を信じることは、信者以外の者の諺にあるように『王と共に居るのは虎の傍らに居る』ようなもので、全く酷いものだ。一度でも誤った発言や行動をすると、それだけで排除され、見捨てられ、地獄で滅ぼされるであろう。」と言う者も居る。それは正しいだろうか。(誤っている。) その誤りは、何であろうか。答えて欲しい。「王と共に居るのは虎の傍らに居るようなものだ」という諺が常に用いられるのは、どのような場合だろうか。また、「卵の殻の上を歩く」、とは何を意味するであろうか。さらに、「それは切っ先の上で生きているようなものだ。」と言う者も居る。それはどのような意味であろうか。その表面的な意味は皆知っているであろう。それらは、すべて大いなる危険を指す。それは獅子や虎を手懐ける者のようである。こうした諺は、毎日が卵の殻の上を歩くようであり、切っ先の上で生活しているようなものである、という状況を指す。虎と獅子は、何時、突如として獰猛な本性を現してもおかしくない野獣である。虎や獅子は、いかに長いこと人間と交わったとしても、人間に対して一切同情を示さない残忍な動物である。虎や獅子は、あなたがたを食べたいと思ったならば、そうするであろう。虎や獅子は、あなたがたを負傷させたいと思ったならば、そうするであろう。たとえあなたがたが虎や獅子を調教し、虎や獅子があなたがたを知り、主人であると認識していたとしても、虎や獅子が血や汗をかぎつけるとすぐに、あなたがたを食べるであろう。人間を食べる行為は一瞬であり、1秒以内に完了する。それならば、そうした言葉を用いて、神への信仰を説明するのは、正しいであろうか。時折、あなたがたは、「神を信じることは、まさに卵の殻の上を歩くようなものだ。私達は何時でも見捨てられ得る。神の怒りは一瞬であり、何時でも起こり得る。神が誰かの地位を奪うことは、何時でも起こりうる。神を満足させない者は皆排除され、神はそうした者を暴き出して捨て去る。ある者を用いないと神が言ったならば、その者は用いられないであろう。」と考えないだろうか。そうであろうか。(そうではない。) 皆こうした発言に関する問題を経験し、理解しているので欺されないであろう。こうした発言は誤信であり、不合理な発言である。

人間が狡猾であるか正直であるか、臆病であるかどうかを問わず、人間の意図や願望は、皆同じである。あなたがたがそうした物事から逃れ、そうした状況を変化させることが出来る限り、あなたがたは少なくとも自らの本分を十分に尽くすことが出来るであろう。あなたがたが常に自らの意図で、個人的動機や願望から本分を尽くしているならば、神の旨に則して自らの本分を尽くすのは極めて困難であろう。この問題には、偽りと、身振りをする姿勢の両方が関与している。それは大きすぎる問題であり、過度の不純さがある。しかし、こうした物事については、心配無用である。まず自らの意図と願望の問題を解決すれば、あなたがたの内面の状態は次第に改善されるであろう。まず自らの状態を調整し、改善すれば、自らの中の肯定的な物事が増加し、自らの状態は好転するであろう。そうすれば、自らの本分を尽くす際の不純さは減少し、心は次第に純粋かつ明瞭となり、自らの本分を十分尽くす願望により、本分を十分尽くすようになるであろう。このようにすると、教義的観点や哲学など、堕落させるサタンの物事があなたがたを支配するのが困難となり、あなたがたは益々解放され、安堵し、明るくなるであろう。やかん、鍋、へら、ひしゃくなど重荷を負い、その上に袋2つを持ち、子供2人の手を引いている者が居るとする。歩く時に、それらの調理具が立てるガラガラという音が、子供が父や母を呼ぶ声と混ざっている。あなたがたは、この者の様子から何を感じるであろうか。その者は大きな負担を負い、全く自由では無い。そしてその者の身体は楽ではなかった。そうした者は、終着点に到着した時、やっとそうした負担が無くなるが、その時そうした者は、どう感じるであろうか。その者の身体は突然軽くなったように感じ、そうした負担を追わずに移動するのがどれほど楽であったかに驚くであろう。それが、解放された者や自由を得た者が感じることである。あなたがたが真に自由と解放を得た日に、そのことについて日記や信仰録に記すとよい。あなたがたが日々捨て去る負担や意図、どの分野で意図や動機を捨て去るか、その時にどのような気持ちになったかなど、全てを記す必要がある。どのような啓きを得て、自分の状態がどのように改善されたかを記す必要がある。こうしたことを全て記す必要がある。あなたがたが完全に解放と自由を得て、負担や束縛が一切無くなった日、あなたがたは自由な人間となるであろう。すなわち、あなたがたは、ヨブのような人間となるであろう。ヨブは何故、自分が取った行動について述べることが出来たのであろうか。ヨブがそうした言葉を容易に述べることが出来たのは、何故だろうか。それは1日で為し得ることであっただろうか、というと、そうでは無い。それは日々、長年にわたる精錬と、少しずつ捨て去ってきた結果であった。あなたがたが捨て去る物事が多ければ多い程、あなたがたは一層楽になるであろう。あなたがたは自由になり、解放されるであろう。あなたがたが自由になり、解放された日、あなたがたは自らが捨て去った物事が鉄条網であり、真に得た物事が最も貴いと感じるであろう。あなたがたはそうした物事が最も貴重で大切な物事であると感じるであろう。物質的な悦楽、名声、富、地位、金銭、体面、他人の称賛など、あなたがたが好んだ物事は、あなたがたにとって無価値に思えるであろう。あなたがたは、自らに大いなる苦難を与えたそうした物事を欲しなくなるであろう。あなたがたは、そうした物事を与えられたとしても、欲しくならないであろう。あなたがたに、そうした物事は不要である。あなたがたは、まだその程度に達していない。あなたがたは、現在そうした物事を捨て去ることが出来ない。あなたがたの人生は極めて退屈であり、前進も後退も出来ない。あなたがたは競おうとしないが、競うと、それが誤りであると感じる。あなたがたは、びっこをひいて左右によろめきながら人生を送ってきた。それがまさに、サタンにより堕落させられた者の悲惨な状態である。そうした者は平静を装っている一方、些細な物事で心が乱されて荒れ模様となる。そうした者は極めて鋭敏で繊細である。そうした者は、若いものの極めて経験豊富で深みがあるように思われ、他人はその者の外観に隠された内面を見抜けない。そうした者は「世渡り上手」そのものである。あなたがたは、人間が外面を通して見抜けない内面を、神が見抜けないと思うであろうか。(神は見抜くことが出来る。)あなたがたは本当にそう思うであろうか。(そう思う。)あなたがたは口だけで答えているかも知れないが、いずれにせよ経験を積み続ければ、人間には基本的にそうした単純な物事しか無いということが、いつか分かるであろう。あなたがたは、まだそうした物事が鉄条網であるとは思わないかも知れない。それは、荷物の詰まった数個のバッグを持ってあなたがたの町へやって来て、バスに乗る愚か者のようである。その者は、荷物を持って何とかバスに乗りこむと、車掌がその者に対して「荷物を床に置いたらどうか。バスの中でバッグを手に持っていると疲れるであろう。その必要は無い。」と言うと、その者は「いいや、心配無用だ。バスにとって、私だけでも重荷となるであろう。バスに私の荷物も載せたら、バスにとって難儀ではないか。バスに少し楽をさせよう。」と答えた。それを聞いた者は、どう思うだろうか。バスは、その者を乗せた時、その者の荷物も一緒に載せている。その者が荷物を担いでも、荷物をバスの床に置いても、それは変わらない。しかし、その者は、バスの中で荷物を担ぐと言い張っている。これは、愚行ではなかろうか。他の者は、たいていバスに乗るとすぐに荷物を網棚に載せるか、床に置く。「バスに乗っているが、この荷物を担いでいるのは疲れる。バスの中なら少し息をつける。」それが賢い者である。愚か者は、その原理を理解せず、バスに乗った後も荷物を担ぎ続けている。そのような者は居るであろうか。居るはずである。これは喩えである。

現在、自分の本分を尽くすことが、あなたがたに与えられた最善の機会である。あなたがたは、自らの堕落した性情を捨て去る方法や神の導きを得る方法、自らの本分を忠実に尽くす方法を経験できる。また、あなたがたは神の旨を満たす方法、本分を虚偽無く尽くす方法、自らの個人的責任を果たす方法、自らの心を神に捧げる方法を習得できる。さらに、あなたがたは、自らの本分を尽くすことで、神の業を知り、理解する経験を得ることが出来る。それは極めて良い機会である。いつの日か、あなたがたの状態が変わり、現在のような状態でなくなった後に、競い合ったり、他人を羨んだり、体面のために競い合ったりしてはならない、と言われた時、あなたがたが悲しむことも、「それは困難すぎます。主よ、何故あなたは私の生活を全面的に支配しようとされるのでしょうか。」と考えることも無くなるであろう。そうしたことを言われた時、あなたがたは「それ以上説明は不要です。そうした物事のために競い合う者は、ここには居ません。皆譲り合い、そうした物事に支配されてはおりません。そうした物事に価値は無く、些細なことであって、信者以外の者がすることです。長年神を信仰してきた私達が、そうした器量に達さないことが、どうして有り得るでしょうか。最適なものが適正かつ合理的に選ばれます。」と言うであろう。それは正しく、皆自らの本分を普通に尽くすことが出来る。

ある者が常に心の中の本音を忌憚なく明瞭に述べるならば、その者には望みがある。その者が常に婉曲的な発言をして他人に誤った印象を与えるならば、その者は危険に曝され、問題に見舞われている。人間の観点は、日常生活や言動によるということが分かるであろう。ある者が常に気取って行動しているならば、その者は危険にさらされており、好ましい道を歩んでいない。あなたがたが歩んでいるのは、どの道であろうか。正直者となる道を歩むことは、決して誤りでは無い。あなたがたは、自分が他人に愚か者呼ばわりされた時、どう対処するであろうか。「あなたは何でも喋ってしまうが、それは何故か。あなたは自分の考えを、全て他人に知らせる。あなたは何と愚かな者だろうか。」こう言われて、あなたがたはどう感じるであろうか。(そうした話には無関心である。)それは正しい。「そうした話には無関心だ。あなたは、物事を自分の好きなように解釈している。私が正直者であるということは、私の問題だ。それは私の責任であり、私が進むべき道だ。」信者が歩むべき最も正しい道が変わることや他人の影響を受けることは有り得ない。人間は決して心を開こうとせず、常に隠し、気取り、演技し、他人に高潔だと思われることを望み、自分の本当の考えや真の状態や本性を他人が見ることを決して望まない。このような者は愚かではなかろうか。(愚かである。)そうした者は、どのような道を歩んでいるだろうか。(それは偽善的なパリサイ人の道である。)パリサイ人の道は危険ではないだろうか。それは、どのような道であろうか。それは滅びへと続く道である。

2.真理を得ることが出来るのは、正直な心のみである

あなたがたは、現在どのような試練を受けることが出来るであろうか。あなたがたは、敢えて自分には既に基礎があると言うであろうか。誘惑に遭遇した時、あなたがたは揺るぎなく立ち続けられるであろうか。あなたがたは、環境の試練、地位や名声、物質、金銭の誘惑を克服できるであろうか。 (そのうち一部を克服出来る。)誘惑には数段階あるが、あなたがたはそのうちどの段階を克服出来るであろうか。たとえば、あなたがたの知り合いには、人間性に優れ、神に対して敬虔であり、自宅や職を手放して大いに苦難を受けた者が居るであろう。あなたがたは、その者がある日突然逮捕されて有罪判決を受け、その後暴行を受けて死んだと知らされたとする。それはあなたがたにとって誘惑であろうか。そのような誘惑の最中に、あなたがたはそれをどう感じるであろうか。あなたがたは、それをどう克服するであろうか。そうした出来事に直面したあなたがたは、真理を求めるであろうか。あなたがたは、どのようにして真理を求め、その誘惑に負けず、神の旨を理解し、その誘惑から真理を得ることが出来ることを確実化するであろうか。あなたがたは、そうしたことについて考えたことがあるだろうか。あなたがたは、その者が逮捕されたと聞いても、他の誰かが逮捕されたり、残酷な拷問を受けたりするのを見ても恐れないかも知れないが、自分自身が逮捕され、自らがそうした環境に遭遇した時、あなたがたは、揺るぎなく立ち続けられるであろうか。これは、大いなる誘惑ではなかろうか。そうした誘惑を克服するのは、容易であろうか。これは、特殊な事件ではなかろうか。あなたがたは、どのようにして特殊な事件や、通例に反する事件を克服するであろうか。あなたがたは、どうすれば不平を言わず、神の業に関する観念を一切抱かずに、こうした誘惑を克服できるであろうか。それは、真理の追究のために、あなたがたが備えるべき物事ではなかろうか。しかるに、あなたがたの器量は、現在どのような水準にあるであろうか。あなたがたが克服できるのは、どの程度の誘惑であろうか。あなたがたはその答えを知り、それを心から確信しているであろうか。そうでないならば、こうした質問に答えるのは困難である。あなたがたは、たった今「そのうち一部を克服出来る」と言った。それは紛らわしい発言である。あなたがたは、自分の器量の水準や、自分が備えて居る真理が何かを、明瞭に理解する必要がある。あなたがたは、どの誘惑を克服可能であり、どの試練を受け容れることが出来るかを知る必要がある。また、あなたがたは、神を満足させる人間となるために、自分にとって不可避な真理、追求すべき試練と真理を知る必要がある。あなたがたは、そうした物事を熟知する必要がある。あなたがたは、人間が頻繁に直面し、頻繁に話題となり、個人的に覚悟が出来ている、恒常的な問題や物事に直面した時、そうした人間の観念や想像に比較的適合した問題や物事を克服出来るであろう。しかし、あなたがたは、自分の観念や想像に適合しない出来事に遭遇した時、あなたがたはそれをどのように克服するであろうか。そうした出来事を無事に乗り切るために、あなたがたは、どのようにして、そしてどのような真理を身に付けるべきであろうか。それが追求すべき事であろうか。あなたがたが経験する一般的な誘惑は、何であろうか。基本的に、地位、名声、異性との関係などは、一般的な誘惑である。あなたがたの現在の器量で、こうした一般的に経験する誘惑について検討した場合、真理を犯す行動、阻害的ないし破壊的な行動、神に反抗したり反逆したりする行動、神の心を傷つけたりするような行動を一切取ることなく、あなたがたが自らを律し、十分に本分を尽くすことが出来るようになるのは、そのうちどの誘惑によるであろうか。これについて、実践の道はあるであろうか。自分を省みて、神に反抗するような物事が無いかを検討するのも一法である。さらに、あなたがたは、頻繁に真理を追求し、自分の行動が真理や神の旨、神の要求に則しているか確認する必要もある。また、自分の行動において、神の旨に配慮があるか、真理を実践しているかを確かめる必要がある。あなたがたは、これら両面を実行する必要がある。すなわち、能動的側面と受動的側面の両面に対する真摯な取り組みを行う必要がある。そうしたならば、人間は本分を十分に尽くせる。

「誘惑に遭遇する時は、殆どの場合、答えの求め方が分からず、答えを求めても見つからない」と言う者も居る。「何度も祈りを捧げ、求め、待っていたが、何も効果が無かった。どうやって答えを求めれば良いか分からない。神の御言葉を調べたが、沢山ありすぎて、どれが自分に関係するものか、どう実践すればよいか分からない。」と言う者も居る。多数の問題に遭遇して、どう対処してよいか分からない時に、最終手段となる最も基本的な基準がある。それは最も基本的な最低限として守るべき基準であり、実践の原則である。あなたがたは、それが何か知っているだろうか。(神に対して自分の心を開き正直に話をして従うことである。)それは何に依存しているであろうか。最も基本的な基準がある。行動時に全員が従う事柄は、何であろうか。(良心に従う。)あなたがたには少なからず経験があるようである。あなたがたの話は、かなり正確である。それでは、ある者に対して、良心はどの程度影響を及ぼすであろうか。それは、その者の人間性により異なる。あなたがたが真理を知らない時に、自分の良心が担う役割の大きさは、あなたがたの人間性がどのようなものかにより異なる。ある者が真理を知らずに行動し、その時良心に従わずに行動し、その者の行動には神の旨に対する配慮が見られず、その者の心には神を畏れる部分が全く見られなかった場合、その者には良心があるであろうか。その者は良心がある者では無い。そうした者には、人間性があるであろうか。(無い。)それでは、その者は、どのような人間であろうか。その者には人間性が無く、人類の最低基準以下である、というのが、その正確な定義である。その者には良心が無く、その者は理知にも良心にも従わずに行動する。「理解できない真理が多すぎる。正しい行動が分からない。それに、原則も覚えて居ない。」と言う者も居る。こうした場合は、どうすべきであろうか。人間は良心に従って行動すべきである、というのが最低基準である。良心に従って行動するには、どうすれば良いであろうか。良心に従うこととは、具体的には、行動時に真心に従って行動し、神にいのちを授けられたこと、そして救いを得る機会を授けられたことに恥じないよう行動することである。それが良心のはたらきではなかろうか。こうした最も基本的な基礎を備えた後、あなたがたは守りを得るであろう。それならば、神に反抗したり自分の責任を回避する行動を、それほど簡単に取ることは無いのではなかろうか。それならば、身振りだけをしたり、欺したり、自分の地位や名声、利得、将来のために、それほど簡単に謀ることは無いであろう。これが良心の役割である。ある者の人間性のうち、最も重要な部分は、良心と理知である。ある者に良心も正常な人間性の理知も無かったとしたら、その者は、どのような人間であろうか。一般に、そうした者は人間性の無い者であり、悪質な人間性を備えた者である。具体的に言うと、その者は、その者には人間性が無いと他人が言うほどに堕落した人間性を、どのようにして示すであろうか。そうした者の性格を分析してみよう。そうした者全員が持つ性質は、何であろうか。そうした者が示す事柄は、具体的にはどのようなものであろうか。(身勝手さと賤しさである。)身勝手さと賤しさは、それぞれ一種の表示である。それに加えて、そうした者は行動時にどのような態度を取るであろうか。そうした者は不誠実で不正直であり、自分に利益が無い物事に関して無関心で冷淡である。また、そうした者は神の家の利益を考慮せず、神の旨に配慮しない。さらに、そうした者は神の証しに立つ負担を負わず、自分の本分も尽くさず、責任感が無い。そうした者は、何を考えているであろうか。(自分の利益や損得を考えている。)そうした者が最初に考えるのは、「これをやったら、神はそれを知るであろうか。その行動は他人に見られるだろうか。これを正直に精一杯やっても他人には知られず、神もそれを知る事が無いなら、努力し苦労してそれをやっても意味が無い。」ということである。それは自分勝手ではないだろうか。同時に、それは極めて賤しい意図ではなかろうか。その者がこのように考えて行動した場合、良心は何かしら役立っているであろうか。そうした行動に、良心的な部分は有るだろうか。良心の役割や良心的部分は無いのではなかろうか。その他、問題を見ても黙っている者も居る。他の者が阻害し、混乱させているのを見ていながら、それを止めさせるために話をしたり行動したりすることが無い。そうした者は、少なくとも神の家の利益を考慮せず、自らに課せられた義務や責任を考慮することも無い。そうした者が行動し、傑出し、努力し、話をするのは、自分自身の虚栄、体面、地位、利益、名声のためだけである。そうした者の行為や意図は、誰が見ても明らかである。すなわち、そうした者は、栄誉を得る機会や恵みを授かる機会がある時は必ず現れる。しかし、栄誉を得る機会が全く無い場合や、苦難の時が来るとすぐに、臆病な亀のように、頭を殻の中に引き込む。そうした者には、良心や理知が有るであろうか。良心や理知が無く、そのように振る舞う者は、自責の念に囚われるであろうか。そのような者の良心は無益であり、そのような者は決して自責の念を感じたことが無い。それならば、そうした者は聖霊の咎めや鍛錬を感じることが出来るであろうか。

聖霊は、通常どのような者の中で業を行うであろうか。人間に最低限として必要とされるのは、何であろうか。人間は、最低限として良心を備える必要がある。人間は、最低限として正直な心を備える必要がある。良心には、正直な部分があるだろうか。良心には、正直な部分が含まれているであろうか。良心には、まず正直さが含まれている必要がある。神は心の深淵を見て、全てを見守っている、人間は外観を見るが、神は心を見る、と人は常に言う。しかし、一部の者が聖霊の啓きや恵み、喜びを決して得られず、常に否定的で落ち込み、決して肯定的になることが無いのが何故かについて、人間は決して知ることが無い。ゆえに、そうした者の状態を見ると、そうした者全員に確実に当てはまるのは、良心が機能しておらず、正直な心を備えて居ない、ということである。常に平穏と喜びがあり、活動的で、自分の本分を尽くす際に改善を続け、理解力があり、一定期間後に何かしら得るものがある人々は、自分が得るものを想像するだけであろうか。そうしたものは、書籍から学んだものであろうか。それは、どのようにして習得されたものであろうか。(それは、経験によって次第に意識されるものである。)それならば、信者以外の者がそうした物事を感じられないのは、何故だろうか。聖霊の業は除外され得るであろうか。そうしたことは無いであろう。聖霊の御業は基礎である。人間性が備えて居るべき正直な心と、良心、そして理知があなたがたにあるならば、神はそれを認識している。あなたがたは、聖霊が業を行う方法の規則性や、ある者の心が特に正直な時に、その者が感激させられ、真摯な取り組みを行い、その者が行動する時、物事が円滑に進むことに気付いているであろうか。あなたがたにそうした感覚があるならば、どのような人間の中で聖霊が業を行うかを知っているであろうか。ある者が極めて正直であり、しかし一定期間にわたってその者の心が神から離れ、その者は向上を望まなくなり、否定的な状態になり、立ち直らず、協力しないのであれば、聖霊はそうした一時的に暗くなった状態や、劣化した状態の期間中は、その者の中で業を行わない。それならば、どうして人間性の意識が無い者に対して聖霊が業を行うことが有り得ようか。それは一層不可能である。人間の理知も良心も全く無いものに関し、神はどうするであろうか。神はその人間を無視する。それならば、そうした者には脱却方法があるだろうか。(そうした者は心から悔い改める必要がある。)そうした者は心から悔い改める必要がある。それは今しなければならないだろうか。(人間は正直で無ければならない。)あなたがたは、どのようにして自分が正直者であると示すであろうか。まず、あなたがたの心が神に対して開かれている必要があり、主に指揮を委ねるために自分の日々、1分1秒を捧げる必要がある。あなたがたは、まず体面、虚栄、個人的利益に対する自分の願望を捨て去る必要がある。まずそうした物事を捨て去るよう努め、その後自分の全身全霊をもって自分の本分を尽くし、神の証しをする業を行う必要がある。その上で、神があなたがたをどう導くか、あなたがたの内面に安らぎや喜びがあるかどうか、そうした堅信があるかどうかを確認する必要がある。あなたがたは、まず心から悔い改める必要がある。あなたがたは、まず自らを捨て去り、自らが愛し大切にしている物事を捨て去る必要がある。あなたがたは、そうした物事を捨て去らずに堅持しつつ、神に対し要求しようとし続けたならば、聖霊の業を得られるであろうか。聖霊の業には条件がある。また神は、邪悪を忌み嫌い、純粋で聖い神である。人間が常にそうした物事を維持し、神に対して閉鎖的であり、神の業や導きを拒否し続けたならば、神はそうした人間に対する業を止めるであろう。神は必ずしもあらゆる者に対して業を行うことを必要とされておらず、あなたがたに対してあれこれと行動することを要求しない。神は、あなたがたを強制しない。悪霊の業は、人間をあれこれと行動するよう強制する。聖霊は極めて柔和に業を行う。神はあなたがたを感激させるが、あなたがたはそれを感じず、単に無意識のうちに何かを理解したり認識したような気がするだけである。したがって、この種の者は真に悔い改める必要があり、そうしなければ聖霊はその者に業を行わないであろう。

自らの心を捧げるという行動的表現には、どのようなものがあるだろうか。具体的にはどのような行動が関与するであろうか。その行動とは、体面、名声、地位など、あなたがたを拘束し得る物事を捨て去ることである。あなたがたは、自らが神の前に来るのを阻害し得る物事を全て捨て去る必要がある。あなたがたは重荷を負ってではなく、むしろ何も持たずに神の前に来て、自らの本分を受け容れ、神が自らの中で業を行い、導くことが出来るようにする必要がある。こうした真の心があなたがたに有るならば、神がそれを知るとすぐに、聖霊が業を行うであろう。まず、あなたがたはそうした真の悔い改めを行い、その種の行動を取る必要がある。あなたがたの心が活動を開始し、あなたがたが行動を開始する必要がある。「私はこうするが、神は神の旨の通りに業を行うであろう。いずれにせよ私はこうする。」などと言ってはならない。そうした姿勢は何であるか。そうした条件は何であるか。(消極的な反抗である。)それは反抗である。それは不服従である。あなたがたは、神が自分を救う必要がある、自分が救われない筈が無い、と思っていたであろうか。そうであろうか。神の業が異邦人の国に及び、イスラエルには及ばなくなったのは何故だろうか。あなたがたは、それが何故か知っているであろうか。良心と理知を備えた者には、誇るべき物事が一切無く、多少の良心と、最も基本的な人間性の一部があるだけである。そうした者は、自己満足した状態で生活できずに、頻繁に祈り、自らの行動が神を畏れ、神の旨を満たし、真理に則して居るかを、検討する必要がある。あなたがたの人間性、理知や良心がいかに優れているかを問わず、神の前における人間の真理の追究には、終わりが無い。ある者に良心があるというだけでは甚だ不十分である。神の心が満たされるのは、あなたがたが真理を備えた場合のみである。優れた人間性を備え、多少の良心を備えている者も居るが、それでは不十分である。そうした者は、何をすべきであろうか。そうした者は、全ての側面について自らを検討する必要がある。「自分は好感のある人間だ。それに温和であることが目標であり、それを人生の行動原則として行動している。」と言う者も居る。その者は、表面的には好ましい人間性を備え、あらゆる面で正常な理知を備えているように思われる。通常、その者は率直に話したり自分の意見を述べたりすることが無い。そうした者は、どのような者であろうか。決して自分の意見を述べることも示すことも無い者は、理知のある者に該当しない。それとは逆に、他人はそうした者のことを、偽ることに長け、自分の意図を隠し、抜け目が無いと言う。他人に対して率直でない者は、神に対して率直になることが出来るであろうか。あなたがたは、他人に対して決して胸中を明かすことも、率直になることも無いならば、神に自分の真心を捧げる者であろうか。無論そのような者では無い。聖霊があなたがたに業を行い、何かを理解させようとする際は、それが極めて迅速な場合もある。神は、あなたがたに一定期間にわたり経験させ、その後漸進的に理解させることもある。それは、神があなたがたに何も経験させずに、無味乾燥な言葉を理解させようとしている、ということではない。聖霊が業を行う際の原則は、何であろうか。聖霊は、あなたがたの環境、人間、出来事、物事を計画することによって業を行い、そうした中であなたがたが成熟し、そうした物事を経験してゆくうちに、漸進的に真理を理解できるようにする。神は、あなたがたを直接啓いたり照らしたり、あなたがたが直接光を得られるようにすることは無い。神は無味乾燥な言葉や教義をあなたがたに与えることは無い。むしろ、神は様々な出来事や環境、人間、物事を経験することにより、あなたがたを学ばせ、成熟させ、次第に成長させる。神は、こうした成長過程により、漸進的に真理をあなたがたに理解させる。それならば、聖霊は極めて自然な原則にもとづいて業を行わないであろうか。神は一切強制する事無く、完全に人間の自然な成長様式に従って業を行う。その聖霊の業の原則と範囲によれば、人間が備えるべき理知や良心を少しも備えていない者は、聖霊の業を得られるであろうか。その者は、神の導きと啓きを得られるであろうか。私が何を言おうとしているか分かるだろうか。人々は常に、自分は真理を求めている、多くの真理を理解している、と言う。しかし、人々は何かを見過ごしている。そうした人々は、何を考えているだろうか。「自分の人間性の善悪や、自分に良心があるかどうか、自分の心を神に捧げるかどうかを問わず、自分はひたすら一層多くの真理を追求するだろう。」どのようにして真理を追求するというのだろうか。「一層多くの物事を見聞きし、読み、さらに一層多くの本分を尽くし、一層努力し、苦難を受ければ、それでよいだろう。」そのような人々は、基本中の基本を認識しておらず、ゆえに基本中の基本を知らない。あなたがたは、これで理解出来たであろうか。

ある者が真理を理解し、得ることを望むならば、その者は最低限度として身に付けているべき物事は何であろうか。(良心と理知である。)良心と理知を身に付けるということを簡潔に説明すると、どのようなことであろうか。 それは、その者が最低限度として正直な心を備える必要がある、ということである。正直な心を備えていることを示すのは、何であろうか。好ましい人間性、誠実な心、良心と理知を備えている者に関して、つい先ほど私が述べた事は、見たり触れたり出来ない抽象的で曖昧な物事では無い。こうした物事が全て現実に存在することは、日常生活の随所で見出すことが出来る。たとえば、ある者が偉大であるとすると、それは見ることが出来る物か、というと、見ることは出来ない。たとえば、ある者が完璧であるとすると、それは見ることが出来る物か、というと、見る事も触れる事も出来ない。あなたがたは、完璧であることや偉大であることを、想像することさえ出来ない。しかし、ある者が身勝手であると言われているとしたら、あなたがたはその者の行動が、そうした評判の通りであることを確認できるであろうか。ある者が正直であり、心が誠実であると言われているとしたら、そうした態度は、あなたがたが確認できるものであろうか。ある者が悪賢い、狡猾である、卑しい、あるいは身勝手であると言われているとしたら、あなたがたはそれを確認できるであろうか。ある者の人間性の優劣は、あなたがたが目を閉じていたとしても、その者の言動から理解できる。したがって、「人間性の善し悪し」は空虚な言葉では無い。「身勝手で卑しい」、「狡猾で悪賢い」、「傲慢で頑固である」等の性格は、全て実生活でその者と接した時に把握出来る事である。それらは人間性のうち、好ましくない要素である。それならば、正直であること、真理を愛する事といった、人間が備えるべき、人間性の好ましい要素は日常生活で感じることが出来るものであろうか。ある者が聖霊の啓きを受けているかどうか、神の導きを得られるかどうか、聖霊がその者の中で業を行っているかどうか、あなたがたは見分けられるであろうか。そうした物事は、どうすれば見分けることが出来るであろうか。ある者の人間性の質は、その者が行動で示す事柄と、その者の行動しかたの本質という2つの基準により証明出来る。ある者と接した時、あなたがたは、まずその者の人間性の質を確認して、その者がどのような者であるかを判断し、真理を愛する者であるか、真理を受け容れられる者であるか、真理を得られる者であるかどうかを見分ける必要がある。その者の発言が甘い言葉で満たされ、その者が甘い言葉を語るが、誠実に行動せず、実際に行動するとなると自分のことだけを考え、決して他人のことを思いやらないのであれば、それはどのような人間性であろうか。(身勝手さと卑しさである。その者には人間性が無い。)人間性を欠いている者が真理を得るのは容易であるか、というと、それは困難である。苦難を受ける時や代償を払う時が来ると、その者は「まずはあなたがたがその苦難を受け、代償を払うとよい。まずあなたがたがやってみて基本的に結果が得られたならば、私もそうしよう。」と考える。それは、どのような人間性であろうか。そのような態度は、総じて「人間性の欠如」と称されている。堕落した性情は各人に有るが、有効な良心を備え、特定の出来事に遭遇すると自責の念を覚える者も居る。そうした者は意識的に「自分は真理を追求しているので、善人に相違ない」とは言わないものの、「そんなことは出来ない。自分は神の恵みを得て神に選ばれるに相応しい者である必要がある。」と考える。そうした者の良心は、このように機能する。それならば、そうした者の良心がそのように機能する場合、そうした者は真理を実践しているであろうか。実際には、そうした者は必ずしも真理を実践しているとは限らないが、真理を実践する道を歩んでいることは確かであり、それゆえにそうした者が真理を得るのは容易である。これが、人間が真理を得るための最も基本的な基盤となる。ある出来事に遭遇した時に前進する者も居れば、怖れて後退する者も居る。危険に遭遇した時に隠れる者も居れば、他人を守り、自分は急いで前進する者も居る。何らかの出来事に遭遇した時、受け容れて譲る者も居れば、対抗して競う者も居る。これが、ある者の人間性の質を知ることが出来る方法である。人間性には差異があるのではなかろうか。

あなたがたは、皆決意を固め、神の前で、自らのいのちを神に捧げ、一生涯を神のために過ごし、自分のためには何も追求しない、と誓う。しかし、人間性が劣る者は、常に対抗してもがき、決して譲って堪え忍ぶことが無い。良心に従って行動したことが無い者にとって、真理を得たり、神により完全にされたりするのは容易であろうか。それならば、神により完全にされ、真理を得るのが容易な者は、どのような者であろうか。あなたがたは、それを感じたことがあるだろうか。(それは優れた人間性を備えた者である。)「優れた人間性」には基準があるはずである。それは、温和となるための道を歩むことでは無い。それは他人の悪口を言わないことでも無い。それは、他人の物を盗まず、常に与えることでも無い。そうした事柄がその基準では無いならば、その基準は何であろうか。そうした者には人間や出来事、神に対する誠実な心がある。皆それを認識し、感じることが出来るが、それ以上に、神はそれを認識できる。自分は何も悪事を働いたことが無い、他人の物を盗んだり奪ったりしたことが無い、常に自分が損をして他人に得をさせている、他人の悪口を言わないと言って、優れた人間性の規範として自分自身を挙げる者も居る。しかし、そうした者が神の家で自分の本分を尽くす時、そうした者は悪意を隠して責任を回避し、自分が有利になるよう謀り、神の利益を一切考えず、また神が懸念し、考えていることを懸念することも考えることも一切無く、自分の本分を尽くすために自らの利益を捨て去ることが一切出来ない。そうした者は、自らの利益を捨て去ったことが無い。それは、どのような人間性であろうか。それは優れた人間性では無い。そうした者が言う事は、一切気にしてはならない。あなたがたは、そうした者が行動で示す物事や、そうした者が自分の本分を尽くす時に示す事柄や態度、そしてそうした者の内面的状態やそうした者が愛する物事を確認する必要がある。そうした者の自らの名声や富に対する愛が、そうした者の神に対する献身や、神の利益、そうした者が神に対して示す懸念を上回っているならば、そうした者は、人間性を備えた者であろうか。そうした者は、人間性を備えた者では無い。他人にも、そして神にとっても、そうした者の態度は、認識出来るので、そうした者が真理を得るのは、極めて困難である。ここまでの話で、あなたがたは、真理を得ることが出来る者がどのような者かを理解したであろうか。あなたがたは皆、真理を求める。あなたがたは集まり、各自の本分を共に尽くす。あなたがたが自分の本分を尽くす期間は、全員ほぼ等しい。あなたがたが神を信じてきた期間も、神の御言葉を読んだ分量も、全員ほぼ等しい。また、あなたがたが苦難を受けた量も、自分自身の決意も、全員ほぼ等しい。あなたがたが行った忠誠の誓いも、あなたがたの年齢も、基本的に同等である。あなたがたは、器量が近似する者の集団である。あなたがたの相違点は、人間性のみである。真理を容易に得るのは、どのような者であろうか。(神に対する真心を備え、正直であり、人間性と良心、理知を備えた者である。)これは非常に重要であり、確実な事である。

あなたがたは、それを理解した後、真理を得ることは、人間の器量、教育、出生環境、年齢、家庭環境に関連しているかを考える必要がある。それは、人間の才能や、習得した技能、外観と関連性があるだろうか。こうした物事は、真理を得ることと全く無関係ではなかろうか。そうした物事は根本的に無関係である。器量に劣るが正直であり、絶えず毅然とした行動を取る者も居る。そうした者は行動が不器用だが、こつを掴んで、かなり良い結果を出す。それは誰にも想像がつかず、皆「どうしてそうした好結果が出たのだろうか」と不思議に思う。その上嫉妬する者も居るが、そうした嫉妬に何か意味はあるだろうか。それは無益である。それを決めるのは誰だろうか。(神である。)あなたがたは、そうした物事が全て神の掌中にあるということを明瞭に理解する必要がある。あらゆる物事は神の掌中にあり、あなたがたはそれを信じる必要がある。神は人間に恵みを授け、その者の外観を問わず、またその者が体裁を取り繕うことが出来るか、饒舌であるかどうか、その者がどの程度教育を受けているか、あるいはその者にどの程度の才能があるかを問わず、人間が真理を理解できるようにする。「自分は話しが下手だ。他の者は何と饒舌なことだろう。まるで鳩のようだ。自分は外観が醜く、背も低い。自分には全く望みは無いのではないか。こうした思考方法の本質は何であろうか。こうした見方をする者の内面は、どのような状態だろうか。それは神に対する誤解ではなかろうか。それは神の旨を知らないということでは無かろうか。そうした見方をする者は反抗的であり、神の旨を理解していない。そうした者は、神が完全にし、救い、啓き、導く人間がどのような人間であると考えているだろうか。そうした者は、それは容姿が良く、饒舌で十分な教育を受け、知識が豊富な才能ある人間であると考えているであろうか。そうした者は、それが踊りや文章を書くこと、絵を描くこと、期待させることが出来る人間であると考えているであろうか。それは神に対する中傷ではなかろうか。そうした者は、神の心を誤解し過ぎである。人々は、神は義であり、心の最も深淵な部分を知っていると常に言うが、しかし何かあるとすぐに神を誤解する。ここまでの話で、あなたがたはもう少し理解したであろうか。神は人間のどの部分を見るか、というと、神は人間の心を見る。人間の行動は、すべて人間の心により制御されている。あなたがたの心が正直である場合、あなたがたは好ましい人間性を備えており、徐々に真理を理解できる。そしてあなたがたは、一定の真理を理解した時、神の要求を満たし、神の旨に配慮することが出来る。あなたがたの心が過度に狡猾であり、閉ざされ、冷酷であり、身勝手であるならば、あなたがたは好ましい人間性を備えていない。そして、好ましい人間性を備えていない者は、どのような者であろうか。その者は、神はああである、こうであると想定したり想像したりするが、現実に直面すると神を誤解し、神の旨を決して理解できない。そうしたものは、真理を得られるだろうか。(得られない。)結局その者は、真理を得られなかった場合、自分や他人を非難したり、神は不公平だと言って神の愚痴を言うであろうか。(その者は自らを非難するであろう。)それならば、その者はどうすべきであろうか。その者は特定の行動と実践を行う必要がある。あなたがたは、身勝手さを示す時、「自分は身勝手だ」と言い、「どうすれば身勝手でなくなることが出来るだろうか」と考える。身勝手になるのを避けるには、まず自分の利益を捨て去る必要がある。あなたがたが何度も少しずつ捨て去るにつれ、あなたがたは、捨て去る量が増えるにつれ内面的に楽になってゆくであろう。またそのような人間となることが、誇るべきことである、「人間」という言葉に相応しいことである、地においてそのように生きることは開放的であり、容易である、神に授かったいのちや、その他あらゆる物事に相応しい生活を送る、真の人間となることであると感じるであろう。あなたがたは、そのようにして生活すればするほど、一層自らの心が楽になり、光で満たされるであろう。それが正しい道を歩み始めるということではなかろうか。

人間の身勝手さ、卑しさ、狡猾さ、傲慢さは、捨て去ることが出来るものであろうか。そうした物事は、実際に捨て去ることが出来るものだが、人間はそうする道を望まない。人間は自らの利益を過大に重視し、過度に頑固であり、神の旨を決して理解せず、常に考えが混乱している。神がそうした者を闇に閉じ込めているのであろうか。神がそうした者に対して何かを隠しているということでは無い。また、そうした者が神を理解することを神が阻んでいるということでも無い。神は人間に対して一切隠し立てすることが無い。しかし人間は神の前に来て神に全てを打ち明けることが無いにもかかわらず、神が授ける恵みを無条件に得ることを望む。神は「あなたがたがこの恵みと真理を得ることを望むならば、それでよろしい。しかし、条件がひとつだけある。すなわち、あなたがた自身の個人的利益を捨て去り、真心を私に捧げなさい。」と言う。誰も満たせないのは、この条件である。それでも、人間は恵みや平和、喜びを要求したがり、神から真理を得たがるが、自らの真心を神に捧げない。これはどのような種類の者であろうか。そうした者は、サタンと同類ではなかろうか。それらを両立できる方法は、実際に存在するであろうか。そうした方法は無いというのが現実である。実際には、神はあらゆる者を常に導いており、それをあなたがたが受け容れるかどうかを問わない。あなたがたは、自らの心を神に捧げず、あなたがたの心は過度に冷酷であるために、何も得られない、ということであって、神があなたがたに偏見をもって接しているということでは無い。人々は、神は随意で慈悲深く接する者を決めるであろうと往々にして言うが、そうした者は、その言葉を聞いた時、その実際の意味を理解しておらず、実際には誤解している。そうした者は、その言葉がどのように解釈しているか、というと、神は自ら贔屓にしようと望む者を贔屓にし、恵みを授けようと望む者に恵みを授け、恵みは神に由来するので、神はそれを授けようと望む者に授ける、と解釈しているが、実際にそうであろうか。人間は、そうした考えと実状を徹底して比較しない限り、そうであろうと感じ、そうした人間の観念と想像によれば、それが実状である。しかし、実際のところ、神は万人に対して公平であり、等しく授けている。それは単に、心が過度に冷酷で、神の前に来ることが無く、自らの手で満足な生活と将来を築くことを望み、自らの将来を掌握して神に支配されることを受け容れることを望まない一部の者が居る、ということである。ゆえに、そうした者は愚かであり、「自分の行動とは無関係に、万事は神の掌中にある。私は自らを神に捧げた方が良い。またそうすることは正当であり、私は一層多くを得ることが出来る。」とは言わない。そうした者には、この理知が無く、常に愚行を行う。そうした愚かな者は、常に自分が極めて利口で「家族を捨て去り、手元に何も残さず、最終的には自らの真心を神に捧げた者も居るが、そうした者は何を得ただろうか。私は自分が利口だと思う。なぜなら、私は眼鏡をかけていないが、算盤は誰にも負けない。私は誰にも自分のことを打ち明けない。私が極めて周到に計画を立てていることは誰も知らず、他人は私が何を計画しているかさえ知らない。私は着実にこの状態を維持して、何も捨て去らず、何を後回しにすることも無く、最終的には私も救いを得るであろう。あの者は、なんという愚か者だろうか。自分のやり方に固執し、神が将来何をするかさえ知らずに、全てを捨て去り、後戻りする術さえ残さなかった。」と考える。真の愚か者は、誰であろうか。真の愚か者は、そのように考える者である。これは人間性の相違の問題である。

神が認めるのは、どのような者であろうか。神が求めるのは、どのような者であろうか。(自らを捨て去り、神に捧げることを望み、神のために真剣に費やす者である。)神のために真剣に費やす者である。実際に、神はあなたがたに対して、それほど多くを要求していない。神はあなたがたの個人的利益を奪うことを望んでいない。むしろ神は、あなたがたに対して実践し、実施し、全ての能力を行使する機会を授ける。神は、人間の誠実な心を求めている。あなたがたが本分を尽くす場所や、あなたがたが備えている能力を問わず、神はあなたがたにそうした物事を全て認識させ、あなたがたの個人的な能力や才能を発揮する上で最適な機会を授ける。そして神は、最終的に各環境において、そしてあらゆる本分の最中において、あなたがたに真理を得させ、神の旨を理解させ、人間らしく生活させることを望んでいる。神はあなたがたから何かを奪うことではなく、むしろ諸事において、あなたがたが最大限の成果を実現することを望んでいる。人間は常に心が狭く、「自分はこの世で声楽を学んだが、私の声楽の前途は、自分の本分を尽くすことが原因で遮られるのであろうか。」などと考える。実際、その前途は遮られるであろうか。たとえ遮られるとしても、それはどの程度の損失であろうか。しかし、実際には、その道は遮られることが無いだけでなく、一層頻繁に示され、適用される。それは格好の機会ではないだろうか。個人的な趣味や才能を伸展させる機会も、あなたがたに与えられつつ、その機会において、あなたがたは人間としての本分を尽くしており、真理を得ることが可能であり、人生の正しい道を歩むことになる。それは極めて幸福な事であり、大いなる恵みでもある。あなたがたがそれをどう計画するかを問わず、損失は皆無である。あなたがたが邪悪と堕落の地から離れ、邪な集団と離別するならば、その時、あなたがたの考え、霊、そして心が虐げられたり堕落させられたりすることは無くなるであろう。あなたがたが清らかな場所へ来て、神の御前に来る時、それは大いなる恵みではなかろうか。人間が何世代にもわたり輪廻するうちに、そうした機会はいくつあるであろうか。そうした機会があるのは、終わりの日に生まれた者だけではなかろうか。それは素晴らしいことである。密かに喜ぶべきである。こうした状況は悲しむべきものでも損失でも無い。宇宙の万物や地球に住む数十億の人間のうちのひとりとして、こうした自らの本分を尽くし、責任を果たすことに自らを捧げることによって創造主の業の証しに立つ機会を得られる者は何人居るであろうか。誰がこうした機会が得られるであろうか。そうした者は多数居るであろうか。そうした者は全体の何割であろうか。(1万人に1人である。)1万人に1人居るであろうか。いや、それよりも少ないであろう。とりわけ、あなたがたは歌声と習得した知識を用いて自らの本分を尽くしている。これは極めて有意義である。これは極めて大いなる祝福ではなかろうか。あなたがたは、特定の人間の証しに立っているのでも、些細な活動に参加しているのでも無い。あなたがたが仕えているのは、創造主である。何と素晴らしい事であろうか。この期間において、あなたがたは水を注がれ、極めて良好な環境と機会を授けられている。あなたがたが何らかの実践的な利益も真理も得ないのであれば、あなたがたはそれを一生後悔するのではなかろうか。あなたがたは残りの半生においてそれを悔い、また笑いものとされるであろう。なぜなら、このことを語るのは恥だからである。ゆえに、あなたがたはこの機会を捉え、逃してはならない。あなたがたは、その機会から出来るだけ多くの物事を得る必要がある。あなたがたが本分を尽くす期間においては、本分を十分に尽くす必要がある。真理を得ることは、人生において最も貴く、最も有意義な部分である。全ての創造物のうち、ここに居る諸君以上の恵みを授かっている者や集団は一切存在しない。他人は何のために生きるであろうか。他の者は、輪廻のため、そして地の刺激のために生きる。あなたがたは何のために生きるであろうか。あなたがたは、創造物として自分の本分を尽くすために生きる。そのように生きることは貴いことではなかろうか。それは極めて貴い。ゆえに、あなたがたが尽くす本分を軽視してはならない。

神の言葉を貴ぶ者のみが、いのちへの真摯な取り組みに真に配慮する者である

神の家では、神の言葉の歌唱や朗読の様々な動画が制作されており、一般に繰り返し視聴できる。人々がこうした神の言葉について長年にわたり考えるにつれ、その言葉は人々の心に根ざし、その一部は、無意識のうちに人々に印象付けられる。そうした言葉が人間の心に根ざすとすぐに、その人間のいのちは、内面的に変化し始めるのではなかろうか。あなたがたは、自分が歌い、朗読している言葉の性質を理解しているであろうか。まず確信をもって述べるべき事は、そうした言葉が真実である、ということである。それならば、そうした真理は人間の中でどのような役割を担うであろうか。あなたがたは、そうした言葉が人間の霊に必要なものだと感じたことはあるだろうか。こうした言葉は人間の霊の糧であり、動機となる力である。また、そうした言葉は人間のいのちの状態を変化させる能力があり、人間のいのちにとって霊的な食べものである。あなたがたのうち、殆どの者には実践経験が全く無い。あなたがたは多少の教義を理解しているだけだが、極めて強大な活力を備えている。あなたがたが常にそうした言葉を聞き、そうした物事について交わり、そうした物事を食べ飲みし、実践経験と実践的学習を得るならば、あなたがたは真に優れた者となり、あなたがたのいのちの状態は大きな変化を遂げ、現在のように、あなたがたに活力があるか如何の問題では無くなるであろう。劣悪な状態にある者も居るが、そうした者は他者との交わりによってそれを解決できず、夜あまり良く眠れないほど不快に感じる。そうした者は思索し、祈るが、心の中には深い悲しみと、克服出来ない物事がある。そこで、そうした者は神の言葉を紐解き、2行程度を書き取ると、心が明るくなり、活力を得て、悲しく無くなる。そうした者が再び寝床に就くと、朝まではるかにぐっすりと眠ることが出来る。それは何故であろうか。そうした者は、書き取った2行の神の言葉を実際に理解しているであろうか。その者は、それを書き取った時に、実践経験を得ているであろうか、というと無論そのようなことは無い。書き取ることは、実践経験の代わりにすることが出来ない。しかし、そうした者がそれが効果を発揮する方法を正確に知らなかったとしても、その言葉を熱心に読み、それについて熟考するにつれ、その者にはそれほど大いなる光が無く、その表層的意義を理解しているだけであるものの、その者は自分の心の中で内面的な動機と平安を感じる。その者の内面的状態は変化し始め、その者は受動的でも虚弱でも無くなり、遭遇する物事を克服できる。

あなたがたのうち殆どの者が、現在まで神を信仰してきたので、神の言葉の人間に対する効果に関する基本概念、神の言葉に関するあなたがたの感情、あなたがたが自分の観点から神の言葉をどう考えるかに関する感覚的知識を備えている。あなたがたは、人間が強いか弱いかを問わず、人間は神の言葉と不可分であり、神の言葉は人間に対してどのような効果があるかを問わず、人間は一瞬たりとも神の言葉から離別することが出来ない。あなたがたのうち殆どの者には実践経験が無く、神の言葉に対する感情も無い。それはちょうど、空気や水に対する感情を抱くようである。人間は1日たりとも空気や水から離れることが出来ないが、空気や水を極めて普通な物と考えている。あなたがたは、自分が日常生活で水を飲み、空気を吸うことが出来るならば、空気や水は常に生活の中で与えられていると感じるので、「私にとって空気は極めて重要だし、水も極めて重要だ。」とは決して考えない。また、あなたがたは、水や空気を失った時の精神状態や感情を経験出来ない。あなたがたは、空気や水があなたがたの物理的な生活において担う不可欠な役割を意識することも感じることも出来ない。しかし、ある日突然あなたがたの周囲が真空になったとしたら、あなたがたは自分にとって空気がどれほど大切かを知るであろう。あるいは、あなたがたが周囲に一滴の水も無い砂漠地帯で日照りの中で喉が渇いたとしたら、あなたがたは自分にとって水がどれほど大切かを実感するであろう。神の御言葉を扱うあなたがたの姿勢は、大凡このような状況である。あなたがたは、自分にとって神の言葉がどれほど重要か、自分にどれほど大きな効果を及ぼしているかを感じられないが、それでも毎日それを少し読む必要がある。あなたがたは、神の言葉を読まずに暫く過ごしたならば、自らの霊が痛み、支えを失ったように感じるであろう。神の言葉を読むと、活力、動機となる力、そして真理を得るであろう。

現在、あなたがたのうち殆どの者が、神の言葉に関する僅かな概念的知識しか備えていない。概念的知識とは何であろうか。それは、あなたがたに理論的知識があるということである。ゆえに、理論上の神の言葉を聞いた時に「その通りだ」と声を上げるであろう。あなたがたはそれが理論的に正しいことを認めるので、その領域において誤った発言をする者は居ないであろう。しかし、人間に対する神の裁き、神の罰、神による人間の堕落した性情の暴露に関する神の言葉については、あなたがたはそれを認めるか、あるいは認識するのみである。性情の変化の領域に関する実践経験は、あなたがたには全く無いので、あなたがたは一層真摯な取り組みを行い、一層深く経験し、経験から一層多くを学ぶ必要がある。あなたがたのいのちは、このようにして進歩するであろう。あなたがたの心の中にある種は芽が出たに過ぎず、まだ花や実を付けていない。ゆえに、あなたがたにとって、神の言葉や真理を経験することに関して語るのは、極めて困難である。それならば、あなたがたは、自分がそうした状態の期間に、いのちを備えて居るものとみなすであろうか。あなたがたは真理の現実に対して真摯に取り組んでいるであろうか。それならば、あなたがたは真理を身に付けているであろうか。あなたがたは皆首を横に振っている。それは何故か、というと、あなたがたは通常、教義については多くを語ることが出来るものの、実際の状況でそれを行うことは出来ない。なぜなら、あなたがたには原則も前途も無く、正確に実践方法を知らないからである。人間は通常、一般的な商業活動における研修を3年で修了する。通常、格闘技の修行者は、3年から5年で修行を完遂する。しかし、いのちの享受や、真理の現実への真摯な取り組みは最も進行が遅い。それは単に、たとえば義理の娘は苦労の末に、いつか義理の母になる、といった、長年にわたり苦難を受ければ良い、という問題ではない。そのようなものではない。人間はあらゆる面について真摯に取り組む必要がある。その一面は、個人の能力、個人が追求する目的により決まり、苦難を受ける個人の能力や決意、そして自らを捨て去り、神のために費やす願望その他の条件を満たす必要がある。別の一面では、神の言葉を一層多く食べ飲みする事、一層多く集会を行うこと、一層多く他の者と交流すること、善良な者による主導が必要とされる。そうすることで人間の成長が促進されるであろう。人間は、この道を知るとすぐに真摯な取り組みを開始する術を得る。その後、あなたがたは、それぞれ自らの本分を尽くしている間に、服従する方法、あらゆる種類の剪定や取り扱い、そして訓練を受け容れる方法を知るであろう。あなたがたは、責任者としての地位にある者か、それ以外の地位にある者かを問わず、全ての兄弟姉妹と協調して業を行う方法を知るであろう。また、あなたがたは神の様々な条件を積極的に満たす方法や各自の本分を十分に尽くす方法を知るであろう。こうした物事を全て学べば、それで十分である。その時期は、あなたがたの人生において、最も鮮明に記憶に残る、最も貴い時期である。この時期は最も忘れ難い時期である。

自分の本分を尽くす時、真理を得て真理を実践し、いのちを享受する道を見いだすならば、あなたがたは安全であり、自信を得るであろう。そうであったならば、後に直面する小規模な試練や環境は、問題とはならないであろう。この時期は、互いに支え合い、助け合う必要がある。弱い者を見かけた時は、一層の支援と支持を与える必要がある。あなたがた全員が基礎を構築するため、真理を実践し、いのちを享受する道を見いだすに、熱心に業を行う必要がある。そして、あなたがたは、自らの経験の過程において、それまで以上に神を知るであろう。あなたがたの基礎が築き上げられ、あなたがたのいのちと、霊の状態は変化した後は、あなたがたの前途は安全になるであろう。神への信仰のうち最も困難な時期は、熱望する期間から現実に対する真摯な取り組みへと移行する段階である。ここで言う熱意に溢れている段階とは、教義について語ったり、標語を反復したりし、器量が未熟で、神への信仰は善良で好ましい事であると、何も分からないがひたすら信じている時期である。この段階から、真理の現実に真摯に取り組み、成長し、成熟する時期への移行期間は、暗中模索と変化の期間である。人間は、神を信仰し始めた時、通常は自らの熱意で行動する。そうした者は行動したい、傑出したいと思う。この熱意の段階から、真理の現実とは何か、教義の言葉とは何か、標語を声高らかに唱えることとは、どのようなことか、現実に対する真摯な取り組みとは何か、真理を理解するとは、どのようなことかを知っている段階へと移行できたならば、あなたがたは安全である。この時点において、典型的で小規模な試練や誘惑は、あなたがたにとって問題では無くなるであろう。そうした物事が困難な障害では無くなり、有意義に自分の本分を尽くし、多くの物事を得て居るであろう。

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