真理を愛する者には進むべき道が有る

1.人間の状態が正常であるかどうかは、人間が真理を愛しているか如何により決まる

多くの人々抱えている問題がある。それは、上記の交流の後、明瞭に理解し、強くなり、否定的な感情が無くなるが、そのような状態が継続するのは10日程度で、その後は正常な状態を維持できなくなる、という問題である。この問題は、どのようなものであろうか。あなたがたは、この問題が何に起因するかを考えたことがあるだろうか。その10日間程度、あなたがたの状態が極めて良好なのは何故だろうか。それは真理に重点を置いていないからだ、と言う者もいる。しかし、それならば、あなたがたはどのようにして交流を聞いた後その程度まで正常になるのであろうか。何故、真理を聞いた後に、それほどまで幸福になったのであろうか。それは聖霊の御業のおかげだ、という者もいる。それならば、聖霊の御業が10日間程度で止まるのは何故だろうか。それは人間が怠惰になり、前進ないし向上に努めるのを止めるからだ、という者もいる。それならば、人間が進歩に努めている時も、こうした問題が起こるのは何故だろうか。いずれにせよ、聖霊が御業を行われないのは、何故だろうか。あなたがたは、前進や向上のために努力していたのではなかろうか。それならば、聖霊が御業を行われないのは、何故だろうか。その理由として人間が指摘する物事は、真理と一致しない。これについては、聖霊が御業を行われているか如何を問わず、人間自身の協力を軽視してはならない、という点を指摘する必要がある。真理を明瞭に理解し、真理を愛する者は、聖霊が御業を行われているか如何を問わず、常に正常な状態を維持できる。真理を愛していない者については、たとえその者にとって真理がことさら明瞭であり、聖霊が御業を大いに行われていたとしても、その者が実践しうる真理や、実践する時間の長さに制限がある。その者は、その時を除き、ただ自分の本性と個人的な関心を示すのみである。したがって、ある者の状態が正常となるか如何、その者が真理を実践できるか如何は、ひとえに聖霊が御業を行われているか如何や、その者が真理を明瞭に理解しているか如何だけで決まるものではなく、むしろその者が真理を実践することを望むか如何、真理を愛しているか如何で決まる。

通常、人間は真理の話を聞くと、暫くの間万事極めて正常だと感じる。その時、人間の状態は真理により正常な状態へと押し上げられている。真理により自らの腐敗した本性に気付かされ、心が満たされ、自由になって、自分の状態が向上しはじめる。しかし、暫くすると、何かに惑わされることがあり、自分の中にある真理が不明瞭となって、気付かぬうちに、その真理を心の中で二の次にしてしまう。行動により神を求めようとしなくなり、すべてについて自分の思い通りに行動し、全く真理を実践しようとする意向が無くなる。嘗て得た真理は、時の流れと共に失われる。常に自分自身の本性を示し、聖霊が自分に対して御業を行う機会を全く与えなくなる。神の御旨を決して求めず、神に近付いた時でさえもひととおりの身振りをするだけである。自分が病んでいるという事実を認識する瞬間、自分の心は神から遠く離れており、すでに多くの物事において神に反抗し、神を冒涜する多くの言葉を口にしてしまっている。この方向性へと過度に進行していない者については依然として贖いがあるが、過度に進行してしまい、神を冒涜し、神に反抗し、地位や食料、衣料を求めて争ってしまった者については、購いは無い。真理に関する明瞭な交流は、人間を満足させることだけでなく、人間に真理を実践させること、そして人間の性情を変えることを目的とする。真理を理解しているが、それを実践しないのであれば、真理に関する交流や理解には、全く重要性が無いであろう。真理を理解しているが、それを実践しないのであれば、真理を得る機会を失い、救われる機会を全て失うであろう。理解した真理を実践すれば、一層多く、一層深い真理と、神の救い、そして聖霊による啓きと光、導きを得るであろう。聖霊から一切啓示が与えられないという不平を言う者が多数居るが、そうした者は、根本的に自分が真理を実践していない事に気付かない。したがって、そうした者の状態は決して正常となることは無く、そうした者は神の御旨を決して理解できないであろう。

2.真理を実践しさえすれば、前途が開かれるであろう

真理の実践により問題が解決しないだろう、と言う者も居る。また、真理は人間の腐敗した性情を完全に解決しないと考えている者も居る。事実として、人間の問題は全て解決可能であり、真理に従って行動出来るかどうかが重要である。現下のあなたがたの問題は、がんや不治の病のようなものではなく、あなたがたが真理を実践できるのであれば、そうした問題は、全て自分が真理に従って行動出来るか如何により変化し得るものである。あなたがたが正しい道を進んでいれば成功するであろうし、誤った道を進んでいれば破滅するであろう。たとえば、神の御業に有利な方法について考えたり、自分の行動のしかたが神の御旨に則しているか如何について考えることなく行動し、結果として神が忌み嫌われる物事を多数行っている者も居る。こうした者があらゆる物事について真理に従って行動したならば、こうした者は神の御心を求める者ではなかろうか。真理を知っているが、真理とはそれ以上の何ものでも無いと考え、その真理を実践しない者も居る。そうした者は、真理は自分の意志や腐敗を解消できないと考えている。こうした者は愚かではなかろうか。こうした者は、不合理ではなかろうか。こうした者は、自分が聡明であるという妄想を抱いているのではないだろうか。人間が心理に従って行動したならば、人間の腐敗した性情は変化する。人間が生来の人間性に従って神を信仰し、神に仕えたならば、性情が変化する者は一人として居ないであろう。終日自分の不安のことだけを考え、真理について調べ、既知の真実を実践することが出来ない者も居る。こうした行動は極めて不合理であり、そうした者は生来苦悶する者であり、祝福を得ていながらそれを享受しない者なのだ。道はそこに有り、人間に必要とされるのは、それを実践することのみである。真理を実践すると決心したならば、自分の弱点や致命的な欠点は変化し得るものであるが、常に注意し、一層多くの苦難を受ける必要がある。神への信仰には、分別のある心が必要である。そのような不用意な方法で、正しく神を信仰することが出来であろうか。

緊急事態時、あるいは自分の問題を解決するのでなく、無私に他人を助ける時に限定して、一部の真理で武装する者も居るが、ここでは、そうした者を「無私な人々」という。無私な人々は、他人を真理の操り人形とみなし、また自分自身を真理の主とみなして、真理を押し通し、受動的になるのを回避するために他人に説教する一方で、自分自身は土俵の外に居る傍観者である。こうした無私な人々は、いったいどのような人々であろうか。他人に説諭する真理の言葉の一部で武装しているが、自分が破滅を迎えるのを防ぐためには何もしないというのは、何とお粗末な事であろうか。無私な人々の言葉が他人を救えるのであれば、無私な人々は、なぜ自分自身を救えないのであろうか。こうした人々は、現実性が欠如した偽善者と呼ぶべきである。こうした人々は他人に真理の言葉を与え、それを実践するよう指示するが、自分自身では実践する努力を一切しないが、こうした人々は忌み嫌うべき者ではないだろうか。こうした人々は、自分自身は明らかに真理を実践出来ないにもかかわらず、他人にそれを強要するのであるが、それは何と残忍なやり方であろうか。こうした人々は、現実性によらず他人を救おうとし、母性愛の精神で他人に与えようとしているのでなく、人々を欺いて腐敗させているだけである。こうした状態が続き、各人が真理の言葉を他の誰かに伝えるとしたら、最終的には誰もが真理の文字的理解のみで、真理を実践出来ない状態のままとなるのではなかろうか。どうしてそうした人々が変化し得ようか。そうした人々は自分自身の問題を全く認識しないが、そうした人々に道が存在し得るであろうか。

個々の問題には、解決方法が存在し、また関連性があり、将来の方向性を与え、自分の変化を可能なものとする、参照すべき真理がある。たとえその変化が即座に起こらなかったとしても、自分の状況を認識できるようになる。これらの真理により人間の問題が解決しないのであれば、神は無駄に御言葉を述べられたということになるのではないか。したがって、真理を実践することを望むのであれば、進むべき道が常に存在する。