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真理の道を探し求めるための百問百答

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74.なぜ終わりの日の神の働きは霊を通して行われないのか。なぜ神は肉において働きを為すようになったのか。

神が受肉したのは、その働きの対象がサタンの霊や肉体を持たない何かではなく、人間、つまり肉体をもち、サタンに堕落させられた存在だからである。人間の肉体が堕落しているからこそ、神は肉体をもつ人間を働きの対象とした。さらに、人間は堕落の対象であるため、神は救済の働きの全段階で、人間をその働きの唯一の対象としている。人間は死すべき存在で、生身の体をもっているが、人間を救える唯一の存在は神なのである。そこで、その働きでよりよい成果が得られるよう、神は働きを行うために人間と同じ属性をもつ肉体をもたなければならない。神がその働きを行うために受肉しなければならないのは、人間が肉体をもっていて、罪を克服することも、肉体を捨て去ることもできないためだ。受肉した神の本質と存在は人間の本質や存在とは全く異なるものなのだが、神の外見は人間と変わらず、通常の人間と同じように見える。神は普通の人間のように生活し、神を見る者は、普通の人間との違いを見いだせない。この普通の外見と普通の人間性とは、普通の人間として神がその神性の働きをするには十分である。神の受肉は普通の人間として働くことを可能にし、人々の間での働きを容易にし、さらに、その普通の人間性は人々の間で救いの働きを進めることの役に立つ。神の普通の人間性は人間の間に多くの混乱を招いたが、そうした混乱は神の働きの成果に影響を与えていない。つまり、神の普通の肉体の働きは人間に素晴らしく有益なのである。たいていの人は神が普通の人間であることを受け入れないが、それでも神の働きは効果的であることができ、そうした効果は神が普通の人間であることで達成される。この点に疑問の余地はない。神の肉体における働きから、人間は、神の普通の人間性について人間の間に存在する観念から受けるよりも十倍、数十倍のものを得る。そして、そうした観念はいずれ、すべて神の働きに吸収されることだろう。また、神の働きが達成した成果、つまり、人間がもつ神についての認識は、人間が神についてもっている観念をはるかに超える。神の肉体における働きは想像もできないし、測りようもない。......

......神が受肉した唯一の理由は、堕落した人間が必要としているからである。人間が必要としているのであって、神が必要としているのではない。神のすべての犠牲と苦しみは人間のためであって、神自身のためではない。神には賛否も報奨もない。神はもともと自分のものであるもの以外、将来何らかの収穫を得るわけではない。神が人間のためにすること、犠牲とすることはすべて、何か大きな報酬を得るためではなく、純粋に人間のためである。受肉した神の働きには想像を超える困難が数多く伴うのだが、それが最終的に達成するものは、霊による直接の働きの成果をはるかに超える。肉の体の働きは多くの困難を伴う。肉体は霊のような偉大な身分をもたないし、霊のような超自然的な業は行えない。まして、霊と同じ権威をももたない。しかし、この平凡な肉の行う働きの本質は、霊が直接行う働きの本質をはるかに上回る。この神の肉体は、すべての人間の必要に応えるものなのだ。救われるべき者たちにとって、霊の使用価値は、肉にはるかに劣る。霊の働きは、全宇宙、すべての山々、川、湖、大海に及ぶ。しかし、肉の働きで神は、触れるすべての人と効果的に交流できる。そのうえ、触れることのできる形をもつ神の体は、人間には理解しやすく、信頼しやすく、神についての人間の認識を深めることができ、神の実際の業の深い印象を植え付けられる。霊の働きは神秘に包まれていて、死すべき人間には理解し難く、見ることはそれ以上に難しい。だから、無意味な想像に頼るしかない。しかしながら、肉の働きは正常で、現実に基づいており、豊かな知恵を含み、人間の肉眼で見ることのできる事実である。人間はその身で神の働きの知恵を経験できるから、豊かな想像力を働かせる必要もない。これが受肉した神の働きの正確さ、本物の価値である。霊には、人間の目に見えず、想像しにくいことしかできない。たとえば、霊による啓示、霊の動き、それに霊の導きなど。しかし、知性のある人間には、こうしたものは何ら明瞭な意味をもたない。こうしたものは一つの動き、あるいは漠然とした意味しか提供せず、言葉による指示を与えられない。しかしながら、受肉した神の働きは、大いに異なる。言葉を用いて正確な導きができるし、明確な意図、そして、目指すべきはっきりとした目標がある。だから、人間は手探りして歩きまわる必要がないし、想像力を働かせる必要も、まして、推測する必要もない。これが肉における働きの明瞭さであって、霊の働きとの大きな違いである。霊の働きは限られた範囲においてのみ適しており、肉の働きと置き換えることができない。肉の働きは、霊の働きよりはるかに正確で、必要な目標とずっと現実的で価値ある認識とを人間に与える。堕落した人間にとって最も価値ある働きは、正確な言葉と目指すべき明確な目標を与え、そして見て触ることのできるものである。実際の働きと時宜にかなった導きだけが人間の嗜好に合う。そして、現実の働きだけが人間をその堕落した邪悪な性質から救える。これを成し遂げられるのは受肉した神だけである。受肉した神だけが、人間をかつて堕落した邪悪な性質から救えるのだ。霊は神に備わった本質であるが、こうした働きは受肉した神にしかできない。もし霊だけで働いたなら、神の働きは効果的なものではないだろう──これは明確な事実である。......

......神が受肉した唯一の理由は、堕落した人間が必要としているからである。人間が必要としているのであって、神が必要としているのではない。神のすべての犠牲と苦しみは人間のためであって、神自身のためではない。神には賛否も報奨もない。神はもともと自分のものであるもの以外、将来何らかの収穫を得るわけではない。神が人間のためにすること、犠牲とすることはすべて、何か大きな報酬を得るためではなく、純粋に人間のためである。受肉した神の働きには想像を超える困難が数多く伴うのだが、それが最終的に達成するものは、霊による直接の働きの成果をはるかに超える。肉の体の働きは多くの困難を伴う。肉体は霊のような偉大な身分をもたないし、霊のような超自然的な業は行えない。まして、霊と同じ権威をももたない。しかし、この平凡な肉の行う働きの本質は、霊が直接行う働きの本質をはるかに上回る。この神の肉体は、すべての人間の必要に応えるものなのだ。救われるべき者たちにとって、霊の使用価値は、肉にはるかに劣る。霊の働きは、全宇宙、すべての山々、川、湖、大海に及ぶ。しかし、肉の働きで神は、触れるすべての人と効果的に交流できる。そのうえ、触れることのできる形をもつ神の体は、人間には理解しやすく、信頼しやすく、神についての人間の認識を深めることができ、神の実際の業の深い印象を植え付けられる。霊の働きは神秘に包まれていて、死すべき人間には理解し難く、見ることはそれ以上に難しい。だから、無意味な想像に頼るしかない。しかしながら、肉の働きは正常で、現実に基づいており、豊かな知恵を含み、人間の肉眼で見ることのできる事実である。人間はその身で神の働きの知恵を経験できるから、豊かな想像力を働かせる必要もない。これが受肉した神の働きの正確さ、本物の価値である。霊には、人間の目に見えず、想像しにくいことしかできない。たとえば、霊による啓示、霊の動き、それに霊の導きなど。しかし、知性のある人間には、こうしたものは何ら明瞭な意味をもたない。こうしたものは一つの動き、あるいは漠然とした意味しか提供せず、言葉による指示を与えられない。しかしながら、受肉した神の働きは、大いに異なる。言葉を用いて正確な導きができるし、明確な意図、そして、目指すべきはっきりとした目標がある。だから、人間は手探りして歩きまわる必要がないし、想像力を働かせる必要も、まして、推測する必要もない。これが肉における働きの明瞭さであって、霊の働きとの大きな違いである。霊の働きは限られた範囲においてのみ適しており、肉の働きと置き換えることができない。肉の働きは、霊の働きよりはるかに正確で、必要な目標とずっと現実的で価値ある認識とを人間に与える。堕落した人間にとって最も価値ある働きは、正確な言葉と目指すべき明確な目標を与え、そして見て触ることのできるものである。実際の働きと時宜にかなった導きだけが人間の嗜好に合う。そして、現実の働きだけが人間をその堕落した邪悪な性質から救える。これを成し遂げられるのは受肉した神だけである。受肉した神だけが、人間をかつて堕落した邪悪な性質から救えるのだ。霊は神に備わった本質であるが、こうした働きは受肉した神にしかできない。もし霊だけで働いたなら、神の働きは効果的なものではないだろう──これは明確な事実である。......

『言葉は肉において現れる』「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

人間の肉はサタンによって堕落し、最も深く盲い、まことに深く損なわれた。神自らが受肉して働く最も根本的な理由は、救済の対象が肉の体をもつ人間であり、サタンもまた人間の肉を用いて神の働きを妨げているためである。サタンとの戦いは、実は人間を征服する働きであり、同時に、人間はまた、神による救済の対象でもある。このように、受肉した神の働きは不可欠なのだ。サタンは人間の肉を堕落させ、人間はサタンの体現者となり、神に打ち負かされるべき存在となった。このように、サタンと戦って人類を救う働きは地上で行われ、神はサタンと戦うために人間にならなければいけない。この働きは極めて実際的なものだ。神が受肉して働いている時、神は実際はサタンと肉において戦っている。神が肉において働くとき、神は霊的領域の働きをしており、霊的領域での働きのすべてを地上で現実的なものにする。征服される者は神に逆らう人間であり、打ち負かされる者はサタンの体現者(もちろん、これもまた人間)、神に敵対する者であり、最終的に救われる者もまた人間である。このように、神が被造物の外形をもつ人間になることがますます必要なのは、神がサタンと真の戦いを行えるようにであり、それにより神に対して不服従で神と同じ姿をもつ人間を征服し、神と同じ姿をもちサタンによって損なわれた人間を救うためである。神の敵は人間、その征服の対象は人間、救済の対象も神の被造物である人間だ。そこで、神は人間とならなければいけない。そのほうが、ずっと働きをしやすくなるのだ。神はサタンに勝利し、人間を征服し、そのうえ、人間を救うことができる。この肉は普通で現実のものであるが、神はありふれた肉体ではない。神は単に人間である肉体なのではなく、人間と神の両方ある肉体なのだ。これは神と人間との違いであり、これが神の身分のしるしなのだ。このような肉体にだけ、神の意図する働きができ、肉における神の務めを果たし、人間たちの間での働きを完了できる。そうでなければ、神の人間たちの間での働きは、いつも空虚で不完全なものとなる。神がサタンの霊と戦って勝利者となることができても、それでは堕落した人間の古い性質はけっして直せないし、神に不服従で敵対する者たちは、けっして完全に神の支配下に入ることもできない。つまり、神はけっして人類を征服することができず、けっして人類全体を得られないということだ。神の地上での働きが完了しなければ、神の経営(救い)はけっして終わらず、全人類は安息に入ることができない。もし神がすべての被造物と共に安息に入れなければ、このような経営(救い)の成果はなく、神の栄光はその結果消える。神の肉体には何の権威もないが、神の行う働きは成果を達成していることだろう。これが神の働きの明確な方向である。神の肉体に権威があるかどうかにかかわらず、神としての働きを遂行できるならば、それは神そのものだ。この肉体がどれほど普通で平凡なものであっても、神がするべき働きができるのは、この肉が単なる人間ではなく、神だからだ。この肉が人間にはできない働きができるのは、その内なる性質が人間のそれと異なっているためで、それが人間を救えるのは、その身分が人間とは異なるからだ。この肉の体が人類にとって極めて重要なのは、それは人間である、かつそれ以上に神であるからだ。それは通常の人間には不可能な働きが可能だからであり、神には地上で共に暮らす堕落した人間を救うことが可能なためである。神は人間と同じ外見をもつが、受肉した神はどんな重要人物よりも人間にとって重要である。それは神の霊には不可能な働きが可能だからであり、神自身について霊よりも優れた証しができ、神の霊よりも完全に人間を得ることができるからだ。その結果、この肉は普通で平凡であっても、その人類への貢献と人類存在にとっての意義により、この肉体は極めて尊いものとなる。そしてこの肉の真の価値と意味は誰にとってもはかりしれないものがある。この肉は直接サタンを滅ぼすことはできないが、神はその働きによって、人間を征服し、サタンを打ち負かせる。サタンを完全に支配下に下せる。これは、神が受肉したから、サタンに勝利して人類を救うことができるのだ。神は直接サタンを滅ぼしはしないが、サタンによって堕落させられた人類を征服する働きをするため受肉する。このようにして、神は被造物のもとで自分を証しでき、堕落した人間をよりよく救える。受肉した神がサタンを打ち負かすことは、神の霊が直接サタンを滅ぼすよりも偉大な証しであり、より説得力がある。受肉した神は、人間が創造主を知る手助けをよりよく行うことができ、被造物のもとでよりよく神自身を証しできる。

『言葉は肉において現れる』「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

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