全能神教会 アプリ

神の声を聞き主イエスの再臨を喜んで迎えなさい!

真理を探求されている方々からのご連絡をお待ちしています

全能神、終わりの日のキリストの代表的な言葉

ソリッドカラー

テーマ

字体设置

字体调整

ラインスペース

ページ幅

0 件見つかりました

一致する内容が見つかりませんでした!

Ⅰ 人を救うための神の働きの3つの段階についての代表的な言葉

 恵みの時代、イエスはすべての堕落した人類(イスラエル人だけではない)を罪から救うために現れた。イエスは人に慈愛と憐れみを示した。恵みの時代に人が見たイエスは憐れみに満ちており、いつも愛情にあふれていた。というのは、イエスは人を罪から救い出すために来たからである。イエスは磔刑を受け、本当に人類を罪から救い出すまで人の罪を許すことができた。その間、神は人の前に慈愛と憐れみを持って現れた。すなわち、イエスは人のために罪の生け贄になり、人が永久に許されるように人の罪のため磔刑にされた。イエスは慈悲深く、憐れみ深く、我慢強く、愛情があった。恵みの時代にイエスに従ったすべての人々も、あらゆることにおいて我慢強く、愛情深くあろうとした。彼らはすべての苦しみに耐え、たとえ叩かれても、罵られても、石を投げつけられても、決して反撃しなかった。

『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が受肉の意義を完成させる」より

イエスの働きは、その時代における人の必要性に応じて行われた。その務めは人間を贖い、その罪を赦すことであるがゆえに、そのすべての性質は謙遜、忍耐、愛、敬虔、寛容、憐れみ、慈しみのどれかであった。イエスは人間を豊かに祝福し、あふれんばかりの恵みと、平和、喜び、イエスの寛容と愛、その憐れみと慈しみといった、楽しむためのすべての物事をもたらした。その当時、人が直面したのはすべてあふれんばかりの楽しむことがらであり、人の心は平安で安心し、その霊は慰められ、救い主イエスによって支えられた。これらのものが得られたのは、人の生きた時代の結果によるものであった。恵みの時代、人はサタンによって堕落させられており、すべての人間を贖う働きには満ちあふれる恵み、限りない寛容と忍耐、そしてさらに多くの、人間の罪を贖うのにふさわしい捧げ物が必要だった。恵みの時代に人々が見たのは、ただ人間に対するわたしの捧げ物であるイエスに過ぎなかった。そして彼らは、神は憐れみ深く寛容であり得ることだけを知っており、イエスの慈しみと憐れみだけを見た。それは彼らが恵みの時代に生きていたからである。そのようなわけで、彼らは贖われる前にイエスが授ける多くの恵みを楽しまなければならなかった。それだけが彼らにとって有益なことであった。そうすることで、彼らは恵みを楽しむことを通してその罪を赦されることができ、イエスの寛容と忍耐を楽しむことを通して贖われる機会を持つことができた。イエスの寛容と忍耐を通してのみ、彼らは赦しを得ることができ、イエスによって授けられるあふれる恵みを楽しむことができたが、それはイエスが「わたしは義人ではなく罪人を贖い、罪人がその罪を赦されるようにするためにきたのである」と言ったとおりであった。……イエスが人類を愛し、その罪を赦し、十分な慈しみと憐れみを与えれば与えるほど、人類は救われることができ、イエスが大きな代価で買い戻した迷える子羊と呼ばれることができた。イエスは従う者たちをあたかも母親が愛するその子を腕のなかであやすように取り扱ったので、サタンはこの働きに干渉することができなかった。イエスは彼らに対して腹を立てたり嫌ったりせず、慰めに満ちており、彼らの間で怒り狂ったりすることは決してなく、「七の七十倍までも相手を赦しなさい」と言うほどまでに彼らの罪を耐え忍び、彼らの愚かさと無知を見逃した。そのようにしてイエスの心は他者の心を作り変え、この方法で人々はイエスの寛容を通して赦しを受けた。

『言葉は肉において現れる』の「贖いの時代における働きの内幕」より

 主イエスが業を始めた時、イエスは律法時代の制約を既に過去のものとし、律法時代の規制と原則を破っていた。イエスには、律法に関連する部分が全く見られなかった。イエスは律法を完全に捨て去り、それを守ることはなく、律法を守ることを人間に要求しなかった。そうしたわけで、ここでは主イエスが安息日に麦畑を歩いていた、すなわち休まずに外出して活動していたのである。こうしたイエスの行動により人々の考え方に対して衝撃が与えられ、イエスはもはや律法に従っていないこと、神は安息日の制限を破棄し、新たな印象と新たな業の実行方法とともに人間の前に現れたことが伝えられた。こうしたイエスの行動により、神は律法や安息日から解放されることから始まる、新たな業を人々に伝えた。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

 イエスが来て新しい働きをし、新しい時代をもたらし、イスラエルにおける以前の働きを打ち破り、もはやイスラエルにおけるヤーウェの業によって働くことも、ヤーウェの古い原則に従うこともなく、いかなる規則にも従わず、自身のすべき新しい働きをする──そうして初めて、新しい時代となる。神自身が時代を始めるために来て、神自身が時代を終えるために来る。人は時代を始めたり、時代を終えたりする働きをすることはできない。もしイエスがヤーウェの働きの終局をもたらさなかったなら、それはイエスはただの人であり、神を表していなかったということを証明する。イエスは来てヤーウェの働きを終え、自身の働きを始めることによりヤーウェの働きからイエスの働き、つまり新しい働きに継続したからこそ、それは新しい時代で、イエスは神自身であったことが証明される。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

 受肉したイエスは全く感情がなかったけれども常にその弟子たちを慰め、施し、助け、支えた。どれほどの働きをしても、どれほどの苦しみを耐えても、決して人々に過大な要求を課すことなく、恵みの時代に「愛すべき救い主イエス」と親しみを込めて知られたように、常に忍耐強く、彼らの罪を耐え忍んだ。当時のすべての人々にとってイエスが持っているすべてとイエスであるすべては、慈しみと憐れみであった。イエスは決して人々の過ちを心に留めず、その過ちゆえに人々への接し方を変えるようなことはしなかった。それは異なる時代だったため、イエスはよく十分な食事と飲み物を人々に与え、彼らが満腹になるようにした。イエスは従う者たちすべてに優しく接し、病気をいやし、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせた。人々がイエスを信じ、その行いすべてが真剣かつ真心からのものであることが分かるように、腐った死体をよみがえらせることさえして、その手の中では死人さえも生き返ることを彼らに示した。このようにしてイエスは彼らの間で静かに耐え忍び、その贖いの働きをした。十字架につけられる前でさえ、イエスはすでに人間の罪を負い、人類のための罪の捧げ物となった。イエスは十字架につけられる前から、人類を贖うために十字架への道をすでに開いていた。ついに十字架で釘づけにされ、十字架の働きのために自分自身を犠牲として捧げ、そのすべての慈しみ、憐れみ、そして聖さを人類に授けた。人々を耐え忍ぶことにこだわり、決して復讐を求めず、むしろ人々の罪を赦し、人々が悔い改めるよう勧め、忍耐、寛容、愛を持ち、自らの足跡に従い、十字架のゆえに自分自身を捧げるよう教えた。イエスの兄弟姉妹に対する愛は、マリアへの愛に勝るものだった。イエスの働きの原則は、人々をいやし、悪霊を追い出すことであり、それらはすべてその贖いのためだった。どこへ行っても、イエスは従ってくる者たちすべてに思いやりを持って接した。貧しい者を豊かにし、中風の人を歩けるようにし、目の見えない人を見えるようにし、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、最もしいたげられた乏しい者たちや罪人らを共にする食事に招くことさえし、彼らを遠ざけることなく常に忍耐強くあり、「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行く。そしてそれを見つけたら、大いに喜ぶだろう。」と言うことすらあった。イエスは雌羊がその子羊を愛するように、従ってくる者たちを愛した。イエスの目に彼らは愚かしく無知であり、罪人で、さらには社会で最もしいたげられた者であったにもかかわらず、イエスは他の人々からさげすまれていたこうした罪人らを自分のひとみのように大切なものとして見た。彼らへの好意ゆえに、イエスはあたかも祭壇に捧げられる子羊のように、彼らのためにその命を捨てた。彼らの間ではしもべのようにふるまい、利用されるがままにし、なぶり殺されるにまかせ、無条件に彼らに服従した。従ってくる者たちにとってイエスは愛されし救い主だったが、上座から人々に教えるパリサイ人に対してイエスは慈しみと憐れみを示すことはなく、むしろ彼らを忌み嫌い、嫌悪した。パリサイ人らの間で多くの働きをすることはなく、ごくまれに彼らに教えをなし叱責したが、彼らを贖うことはなく、彼らの間でしるしや奇跡を行うこともなかった。イエスはその慈しみと憐れみを、従ってくる者たちのためにとっておき、こうした罪人たちのために十字架に釘づけられた最後の最後まで耐え忍び、ありとあらゆる恥を負い、ついにすべての人間を完全に贖った。これがイエスの働き全体の要約である。

『言葉は肉において現れる』の「贖いの時代における働きの内幕」より

 イエスが現れたとき、イエスは神の役割も実行した。そして、いくつかの言葉を話した。しかし、イエスが成し遂げた主な働きは何だったろうか。イエスが主として成し遂げたことは、磔の働きであった。イエスは、磔の働きを完成し全人類を贖うために罪深い肉の似姿になった。そしてイエスが罪の贖いの供え物となったのは、全人類の罪のためであった。これが、イエスが成し遂げた主な働きであった。最終的に、イエスは、後から来るひとたちを導くために、十字架の道を与えた。イエスが現れたとき、それは主として、贖いの働きを完了するためであった。イエスは全人類を罪から救い、天の国の福音を人にもたらし、そして天の国をもたらした。その結果、やってきた人たちは皆こう言った。「我々は十字架の道を歩くべきだ。そして十字架のために、我々自身を犠牲にすべきだ」。もちろん、最初イエスは、人に悔い改めさせ罪を告白させるために、他の働きもいくつか行い、多少の言葉も語った。しかし、彼の本来の役割はやはり、磔であった。そしてイエスが道を説きながら費やしたあの3年半は、その後にやってきた磔に向けての期間であった。イエスが祈った何回かは磔のためでもあった。イエスが暮らした一人の普通の人としての人生や、地上で彼が生きた33年半は、主として、磔という働きを完成するためであった。そしてイエスに力を与え、イエスをこの働きに取り組むことができるようにした。その結果として神はイエスに磔という働きを託した。

『言葉は肉において現れる』の「すべてが神の言葉によって達成される」より

 当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より

 というのは、恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

 イエスの贖いがなければ、人類は永遠に罪の中に生き、罪の子で、悪魔の子孫となる。もしそれが続けば、サタンは地上に住み家を得て、地上全体がその住まいとなるだろう。しかしこの贖いの働きは人類に対する慈しみと憐れみを必要とし、それを通してのみ人類は赦しを受け、ついに全き者とされ、神に完全に得られる資格を得ることができた。この働きの段階がなければ、六千年の経営(救いの)計画は前に進むことはできなかっただろう。もしイエスが十字架にかけられることなく、ただ人々をいやし、悪霊を追い出しただけだったなら、人々はその罪を完全に赦されることはなかった。イエスが地上で働きをなした三年半は、その贖いの働きを半分完成させただけであり、十字架に釘づけにされ、罪深い肉の様と等しくなり、悪しき者に引き渡されることによってのみ、イエスは十字架での働きを完成させ、人間の終着点を掌握した。イエスがサタンの手に引き渡された後、ようやく人類は贖われた。三十三年半の間イエスは地上で苦しみ、あざけられ、中傷され、見捨てられ、まくらする場所や休む場所さえなく放置され、その後十字架につけられた。完全で罪のない体であるその存在全体が十字架で釘づけにされ、あらゆる類の苦しみの中を通った。支配と権威の者たちはイエスをあざ笑い、むち打ち、兵士たちはその顔に唾を吐くことさえした。それでもイエスは黙ったまま最後まで耐え忍び、死にまでも無条件に従い、そこですべての人間を贖い、それによって安息することができた。このイエスの働きは、恵みの時代のみを表すものであり、律法の時代を表すものではなく、終わりの時代の働きに代わるものでもない。これが人類にとって第二の時代である贖いの時代という、恵みの時代におけるイエスの働きの本質である。

『言葉は肉において現れる』の「贖いの時代における働きの内幕」より

前へ:(Ⅰ) 律法の時代の働きを明らかにする神についての代表的な言葉

次へ:(Ⅲ) 神の国の時代の神の働きについての代表的な言葉-世の終わり