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神の国の福音についての代表的な全能神の言葉 (選集)

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II.受肉の真理について

1.受肉というのは、神が肉の体で現れることで、神が自分の創った人間のもとで働くために人間の姿で来るのである。さて、神が受肉するというのは、まず肉の体、普通の人間性を備えた肉体でなくてはならず、それが最も基本的な前提条件である。実際、神が受肉するということは、神が肉体において生き働くということ、その本質において肉となり、ひとりの人になるということを意味する。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

 2.受肉とは、神の霊が肉となる、つまり、神が肉となるということである。神が肉において行う働きは、肉において実現し、肉において表される霊の働きである。神の肉体以外には誰も、受肉した神の働きを成就できない。つまり、受肉した神の肉だけが、他の誰でもなくこの普通の人間だけが、神の働きを示せるのだ。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

 3.普通の人間性をもつキリストは、霊が顕現した肉体であり、普通の人間性、普通の理知、人間的思考をもっている。「顕現」とは神が人間となること、霊が肉となることである。わかりやすく言えば、神自身が普通の人間性をもつ肉に宿るということで、それによって神性の働きを表す──これが顕現、または受肉の意味である。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

 4.神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

 5.受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

 6.受肉した神をキリストと呼ぶ。キリストは神の霊が肉をまとった姿である。この肉はいかなる肉ある人間とも異なる。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が受肉したものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を持っている。キリストの神性はいかなる人も持っていないものである。キリストの普通の人間性は肉的な活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。

『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の心への従順」より

 7.神の本質を備えた人間だから、被造物であるどの人間、神の働きを行うことのできるどの人間よりも上位に位置する。そこで、このような人間の姿をした者たちの中で、人間性をもつすべての者の中で、神だけが受肉した神そのものである。他はみな、被造物である人間である。受肉した神と人間の双方に人間性があるが、被造物である人間には人間性以外には何もない。ところが、受肉した神は違う。受肉した神は、その肉体において人間性だけではなく、さらに重要なことに神性をも備えている。神の人間性は肉の体の外見や毎日の生活に見られる。しかしその神性は感知しにくい。神の神性は人間性があってはじめて現れるのだから、また、人々が想像するほど超自然なものではないから、人々がそれを見るのは極めて難しい。……神が人間になると、その本質は人間性と神性の合わさったものである。この組み合わせが神そのものと呼ばれる、地上における神そのものなのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

 8.神の受肉した生活と働きは二つの段階に分けられる。第一は職分を始める前の生活。神は普通の人間の家族として暮らし、ごく普通の人間性をもち、人間生活の通常の道徳や法に従い、普通の人間の必要(食物、衣服、住まい、睡眠)をもち、普通の人間の弱さ、普通の人間の感情をもって暮らす。つまり、この最初の段階で、神は神ではなく完全に普通の人間として、あらゆる普通の人間的な活動を行いながら生きる。第二の段階は、職分を果たし始めた後の生活である。神はまだ普通の人間の外形で通常の人間性において暮らし、表向きには超常的なしるしは何も現さない。しかし、神は純粋にその職分のために生き、この期間の普通の人間性は、ひたすら神として普通の働きのために存在する。そのころには、普通の人間性は職分を果たせるほどに成熟していたのだから。そこで、第二の段階では普通の人間性において職分を果たすこととなり、それは通常の人間性と完全な神性を兼ね合わせる生活である。前半生で神がまったく普通の人間的な生活をする理由は、まだその人間性が神性の働きの全体と同等でないから、まだ成熟していないからである。人間性が成熟して、その職分を背負えるようになってはじめて、職分を果たし始めることができるのである。肉体をもつ者として神は成長し、成熟する必要があるので、その生涯の最初の段階は普通の人間のものである。第二段階に入ると、その人間性が働きに着手し、職分を果たせるようになっているので、職分を果たす間の受肉した神の生活は、人間性と完全な神性の二つを併せもつものである。もし受肉した神が生まれた瞬間から本格的に職分を果たし、超自然のしるしや不思議を示し始めたなら、その肉体の本質は何もないであろう。だから、受肉した神の人間性は、肉体的な本質のために存在するのである。人間性なくして肉は存在しない。また、人間性のない人は人間ではない。このように、神の肉の人間性は、受肉した肉のなくてはならない性質である。「神が人間になった時、神は完全な神で、まったく人間ではない」と言うのは瀆神行為である。なぜなら、これは受肉の原理に反する、あり得ない立場だからである。神がその職分を始めた後も、その神性は働きを行う人間の外形にまだ宿っている。ただその時、神の人間性は神性が通常の肉の体で働きを行えるようにするという目的だけを果たすのである。だから、働きをする者は、人間性に宿る神性である。働いているのは神の人間性ではなく神性だが、それは人間性の中に隠れた神性である。神の働きは、つまるところ、完全な神性が行うのであって、人間性によるのではない。しかし、働きを実践するのは神の肉である。このような神は、人間でありかつ神であると言えるだろう。神は肉の体で生きる神となり、人間の姿と人間の本質をもつが、また神の本質をも備えているからである。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

 9.受肉した神の人間性は、肉において普通の神性の働きを維持するためにある。神の普通の人間としての考え方が、その普通の人間性とあらゆる普通の身体的活動を維持する。神が普通の人間的思考をするのは、神が肉においてする働きをすべて支えるためなのだと言えるだろう。この肉が普通の人間の心をもたないのなら、神は肉における働きができず、肉においてするべきことを成就できない。受肉した神は普通の人間の心をもつが、その働きは人間の思考によって劣化しない。神は普通の心をもつ人間として働きを行うが、心をもった人間性はその前提条件であり、通常の人間の考えを行使することによりその働きを行うのではない。神の肉の体がどれほど崇高な考えをもとうと、神の働きは論理や思考の産物ではない。つまり、神の働きは肉の体から生まれるのではなく、人間性の内における神性の働きの直接的な現れなのである。その働きはみな、成就するべき職分であり、そのどれも人間の頭脳の産物ではない。たとえば、病人の癒し、悪霊祓い、磔刑はイエスの人間としての心の産物ではなく、人間の心をもった人間がなし得ることはなかったであろう。同様に、今日の征服の働きも受肉した神が行うべき務めであるが、人間の意図による働きではない。これは、キリストの神性が行うべき働きであって、肉の体をもつ人間に可能な働きではない。だから、受肉した神は普通の人間の心をもたなければいけない。普通の人間性をもたなければいけない。なぜなら、普通の心をもった人間性の内にあって働かなければいけないからである。これが受肉した神の働きの本質、受肉した神の本質そのものである。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

 10.受肉した人の子は、神の人性により神の神性を表現し、神の旨を人間に伝えた。また、神は、旨と性質を表出することにより、霊的領域では見ることも触れることもできない神を人間に啓示した。人々が見たのは、肉と骨を持ち、姿形のある神自身であった。そうして受肉した人の子により、神の正体、地位、像、性質、神の中にある物事や神の存在が、具体的かつ人間的なものとされた。人の子の外観は、神の像に関してある程度の制約があったものの、人の子の真髄と人の子の中にある物事や人の子の存在は、神自身の正体と地位を完全に示すことが可能であり、表出の仕方に僅かな相違があるのみであった。それが人の子の人性であるか、人の子の神性であるかを問わず、人の子が神自身の正体と地位を示していたことを否定することはできない。しかし、この時期、神は肉により業を行い、肉の見地から言葉を述べ、人の子という正体と地位により人間の前に姿を見せたので、それによって人間の中にある神の真の言葉と業に遭遇し、体験する機会が人々に与えられた。また、それにより神の神性と、謙遜の中にある神の偉大さについて、人間が知見を得ることが可能となり、また神の真正さと実在に関する暫定的な知識と定義を得ることも可能となった。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

 11.受肉した神の外観は人間と全く同じであり、人間の知識を学び、人間の言葉で話し、時には人間と同じ方法や表現で考えを表現されるものの、人間に対する見方や物事の真髄に対する考え方は、イエスと腐敗した人間では、決して同じということはない。イエスの視点と、イエスの立場の高さは、腐敗した人間が得ることの出来ないものである。なぜなら、神は真理であり、肉となった身体にも神の真髄が存在し、イエスの考えや、その人性で表出される考えもまた真理であるからである。腐敗した人間にとって、イエスが肉にあって表出する事柄は、すべて真理と生命の提供である。これらのものは、ひとりだけではなく、人間全体に与えられているものである。……受肉した神の身体がいかに普通で慎み深いものだったとしても、あるいはいかに多くの人間に見下されたとしても、人間に対するイエスの旨と態度は人間が抱くことの出来ないものであり、だれも真似することの出来ないものである。イエスは、常に神性の視点で、創造主の立場から人間を見る。イエスは神の真髄と心によって人間を見る。イエスが通常の人間の立場で、腐敗した人間の目線で人間を見ることは決して出来ない。人間が人類について考える時、人間は人間の視点で見て、人間の知恵や規則、理論を基準として用いる。これは人間が人間の目で見ることが出来る物事の範囲内であり、腐敗した人間が成し得る範囲内である。神が人類について考える時、神は神の視点で見、神の真髄と神の持っているものとその存在を用いて人間を見る。この範囲には、人々が見ることの出来ないものも含まれているという点が、受肉した神と腐敗した人間では全く異なる。この相違は人間と神の異なる真髄により決定され、人間と神の身分や立場、そして物を見る視点を決定するのは、この真髄の相違である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

 12.神の霊が纏った肉は、神自身の肉である。神の霊は至高のものであり、神の霊は全能であり、聖であり、義である。それと同様に、神の肉も至高のものであり、全能であり、聖であり、義である。このような肉は、義であり人間に有益な物事、聖なるものであって栄光ある物事、力ある物事しか行うことが出来ず、真理や道義に反する物事を行うことが出来ず、ましてや神の霊を裏切る物事を行うことなど出来ない。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(2)」より

 13.神が肉となったため、キリストは自身の肉において神の本質を実現し、よってキリストの肉は神の働きを引き受けるに充分になる。神の霊の働きはすべて受肉の期間にキリストがなす働きに取って代わられる。受肉の期間を通してすべての働きの核心となるのがキリストの働きである。そこにほかのどの時代の働きが混ざり合うこともない。そして神が肉となるのであるから、神は肉としての働きをする。神は肉の形をとって来るので、自身のなすべき働きを肉となった姿で成し遂げる。神の霊も、キリストも神自身であり、神はしかるべき働きをし、しかるべき職分を果たす。

『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の心への従順」より

 14.神が人を救うとき、霊の手段を用いたり霊として直接行なわない。というのは、神の霊は人が触れることも見ることもできず、人が近づくこともできないからである。もし神が霊の立場で直接人を救おうとするなら、人は神の救いを受け入れることはできないであろう。そして、もし神が造られた人の外形をまとわないなら、人はこの救いを受け入れることはできないであろう。というのは、ちょうど誰もヤーウェの雲の近くに行くことができなかったように、人は決して神に接近することができないからである。被造物である人となることによってのみ、すなわち、言葉を神がまとう肉体に入れることによってのみ、神は従ってくるすべての人たちに直接言葉を働かせることができる。その時初めて、人は自分自身で神の言葉を見聞きし、さらに言葉を自分のものとし、これによって、完全に救われることができる。もし神が肉とならなければ、肉なる人はそのような大きな救いを受けることもできないし、誰一人救われることもないであろう。もし神の霊が人の間で直接働いたなら、人は打ち倒されてしまうか、神と係わる方法がないまま、サタンにすっかり連れ去られ囚われるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

 15.もし神が肉とならないなら、神は人の目に見えず、触れることの出来ない霊のままである。人は肉の被造物で、人と神は二つの違った世界に属し、性質も異なっている。神の霊は肉からなる人とは相いれず、それらの間には何の関係も作ることはできない。さらに、人は霊になることはできない。それだから、神の霊は被造物の一つになって、神の本来の働きをしなければならない。神は最高の場所に昇ることもできれば、へりくだって、被造物である人になって人々のもとで働き、生きることもできる。しかし人は高みに昇り、霊になることもできなければ、ましてや最も低い場所に降りることなどできない。よって、神はその働きを実行するために人とならなければならない。最初の受肉のときのように、受肉した神の肉体のみが十字架にかけられることによって人を贖うことができたが、神の霊が人のために罪のためのいけにえとして十字架にかけられることはできなかったであろう。神は人のための罪のためのいけにえとして直接人となることができたが、人は神が人のために用意した罪のためのいけにえを受け取るために直接天に昇ることはできなかった。そういうわけで、この救いを受け取るために人を天に昇らせるのではなく、神に天と地のあいだを数回行ったり来たりすることをたのむことだけが可能なことなのである。というのは、人は堕落したので天に上ることはできず、ましてや罪のためのいけにえを手にすることはできないからである。よって、イエスは人のもとに来て、人がどうしても達成することができない働きを自ら行なう必要があった。神が肉となるときは必ず、どうしてもそうする必要があるからである。もしいずれかの段階が神の霊が直接行なうことができたなら、神は受肉という屈辱に耐えることはなかったであろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

 16.救われるべき者たちにとって、霊の使用価値は、肉にはるかに劣る。霊の働きは、全宇宙、すべての山々、川、湖、大海に及ぶ。しかし、肉の働きで神は、触れるすべての人と効果的に交流できる。そのうえ、触れることのできる形をもつ神の体は、人間には理解しやすく、信頼しやすく、神についての人間の認識を深めることができ、神の実際の業の深い印象を植え付けられる。霊の働きは神秘に包まれていて、死すべき人間には理解し難く、見ることはそれ以上に難しい。だから、無意味な想像に頼るしかない。しかしながら、肉の働きは正常で、現実に基づいており、豊かな知恵を含み、人間の肉眼で見ることのできる事実である。人間はその身で神の働きの知恵を経験できるから、豊かな想像力を働かせる必要もない。これが受肉した神の働きの正確さ、本物の価値である。霊には、人間の目に見えず、想像しにくいことしかできない。たとえば、霊による啓示、霊による感動、それに霊の導きなど。しかし、知性のある人間には、こうしたものは何ら明瞭な意味をもたない。こうしたものは感動あるいは漠然とした意味しか提供せず、言葉による指示を与えられない。しかしながら、受肉した神の働きは、大いに異なる。言葉を用いて正確な導きができるし、明確な意図、そして、目指すべきはっきりとした目標がある。だから、人間は手探りして歩きまわる必要がないし、想像力を働かせる必要も、まして、推測する必要もない。これが肉における働きの明瞭さであって、霊の働きとの大きな違いである。霊の働きは限られた範囲においてのみ適しており、肉の働きと置き換えることができない。肉の働きは、霊の働きよりはるかに正確で、必要な目標とずっと現実的で価値ある認識とを人間に与える。堕落した人間にとって最も価値ある働きは、正確な言葉と目指すべき明確な目標を与え、そして見て触ることのできるものである。実際の働きと時宜にかなった導きだけが人間の嗜好に合う。そして、現実の働きだけが人間をその堕落した邪悪な性質から救える。これを成し遂げられるのは受肉した神だけである。受肉した神だけが、人間をかつて堕落した邪悪な性質から救えるのだ。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

 17.もしもこの働きが霊により行なわれたならば、つまり神は受肉せず、代わりに霊が雷鳴を通して直接語りかけ、人間には神と直接接触する方法がないようにしたならば、人間は神の性質を知ることができたであろうか。もしも霊のみがこの働きを行なったならば、人間には神の性質を知る方法がなかったであろう。人々が神の性質を自らの目で見ることができるのは、神が肉となるとき、言が肉に現れるとき、神がその全性質を肉体をもって表現するときだけである。神は本当に人間のもとで暮らしている。神は触れることができる。人間は本当に神の性質、神のもつもの、神であるものと関わりをもつことができる。この方法においてのみ、人間は本当に神を知ることができるのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

 18.神が肉として到来するのは、おもに神の実際の業を人々が見ることができ、形のない霊を肉において実体化し、人々が神を見たり触れたりできるようにするためである。このようにして、神によって完全にされる人々は神を現すように生き、神のものとされ、神の心に適うものとなる。神が天において話すだけで、実際に地上に来なかったのなら、人々はまだ神を知ることができず、空虚な理論を使って神の業を説くことができるだけで、現実として神の言葉を持つことができない。神が地上に来たのは何よりも、神に獲得されるべき人々の模範、手本として行動するためである。このようにしてのみ、人々は実際に神を知り、神に触れ、神を見ることができ、そうして初めて神のものとして獲得されるのである。

『言葉は肉において現れる』の「実践的な神は神自身であることを知るべきである」より

 19.神がある程度まで自分を謙らせることによって、つまり、神が肉となる時、初めて人間は神の親友となれるのだ。神は霊的存在だ。それほど崇高で測り知れない霊と、どうして人間が親友として相応しくなれよう。神の霊が肉の中に下り、人間と同じ外観をした被造物になってはじめて、人間は神の意志を理解でき、本当に神のものとなれる。神は肉として語り、働く。喜びや悲しみ、人間の患難を共にし、人間と同じ世界に生き、人間を守り、人間を導く。神はそうして人間を清め、人間が救いと祝福を得られるようにする。これらのものを得て、人間は真に神の意志を理解し、そうなってはじめて、神の親友となれる。これだけが実際的なことだ。もし神が人間の目に見えず、触れることもできないのなら、どうして人間が神の親友になれよう。これは空虚な教義ではないか。

『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より

 20.裁かれるのは人間、肉の体をもち堕落した人間であり、直接裁かれるのはサタンの霊ではなく、裁きの働きは霊的世界ではなく、人間の間で行われる。人間の肉体の堕落を裁くのには、受肉した神以上にふさわしいものはいない。もし神の霊が直接裁いたならば、それはすべてを含むものではないであろう。そのうえ、そうした働きは人間には受け入れがたいものだったろう。なぜなら、霊は人間と直接会うことができず、そのため効果は即座に見られるものでもない。まして、人間が神の侵しがたい性質をより明確に目にすることはできないであろう。もし受肉した神が人間の堕落を裁くなら、はじめてサタンを完全に打ち負かせる。……この働きが神の霊によって行われたなら、それはサタンに勝利したことにはならないだろう。霊は本来、死すべき者たちよりも高い地位にあり、神の霊は本質的に聖く、肉に優る。もしこの働きを霊が直接行ったならば、神は人間の不服従のすべてを裁くことができず、人間の不義をすべて露わにすることもできないだろう。裁きの働きもまた人間の神についての観念を通して行われるからである。人間は霊について何の観念も抱いたことがない。そのため霊には、人間の不義をよりよく露わにすることができないし、まして、そうした不義を完全に明らかにすることもできない。受肉した神は、神を知らない者すべての敵である。人間の観念と神への敵対を裁くことで、神は人間のあらゆる不服従を明らかにする。受肉した神の働きの成果は、霊の働きよりも明らかである。そのため、すべての人間の裁きは霊が直接するのではなく、受肉した神の働きなのである。人間の体をもつ神は、人間が目で見、触れることができる。また、受肉した神は完全に人間を征服できる。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

 21.もし神の霊が直接人に話しかけたら、人はみなその声に服従し、啓示の言葉がなくても倒れ、ちょうどパウロがダマスコへの途上で光の中で地にひれ伏したようになる。もし神がこのように働き続けたなら、人は言葉による裁きを通して自分の堕落を知り、救いを得ることもできないであろう。肉になることによって初めて、神は言葉を直接すべての人の耳元に届け、その結果聞く耳のある人はすべて言葉を聞き、言葉による裁きの働きを受けることができる。これだけが神の言葉による成果であり、霊が出現して人を脅かし、服従させるというようなものではない。このような実践的でしかも並はずれた働きを通してのみ、長い間奥深く潜んだ人の古い性質を完全に明らかにし、人がそれを認め、性質を変えることができる。これらはすべて受肉した神の実践的働きである。この働きにおいては、神は実践的に語り裁くことで、言葉によって人に裁きの結果を達成する。これは受肉した神の権威であり、神の受肉の意義である。それは受肉の神の権威を知らせ、言葉の働きが達成した結果を知らせ、霊が肉となったことを知らせるためになされ、また言葉による人間への裁きを通して神の権威を実証するためになされる。神の肉体は平凡で普通の人間の外形であるが、神が権威に満ちており、その「人」が神自身であり、その言葉は神自身の表現であることを人に示すのは言葉が成し遂げる結果である。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

 22.……あなたが知らない事実が一つある。それは、人間の堕落した性質と反抗、抵抗が、人間がキリストを見た時に露わになり、そこで露わになった反抗や抵抗はそれ以外の場合よりも絶対的で完全なものだということだ。キリストが人の子であり、正常な人間性を備えているため、人がキリストを崇めることも尊敬することもないのだ。神は肉の中に生きているので、人間の反抗が徹底的に、またはっきりと明らかにされたのだ。それゆえに、キリストの到来が人間の反抗を全て明るみに出し、人間の本性を際立たせた、とわたしは言っているのだ。これを、「山から虎をおびき出す」、「洞窟から狼をおびき出す」と言う。

『言葉は肉において現れる』の「キリストに味方しない者は確実に神の敵だ」より

 23.肉となったのは、肉は権威を持つこともでき、人に見え実体のある実践的な方法で、人の間で働きをなすことができるからである。そのような働きは、すべての権威を所有する神の霊によって直接なされる働きよりも現実的で、その結果も明らかである。これは受肉した神の肉体は実践的な方法で語り、働くことができるからである。肉体の外形は権威を持たず、人が近づくことができる。一方、彼の本質は権威を伴うが、その権威は誰にも見えない。彼が話し働くとき、人は彼の権威の存在を感じることはできない。これは彼の実際の働きにとっても好都合である。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

 24.神が受肉したのは、その働きの対象がサタンの霊や肉体を持たない何かではなく、人間、つまり肉体をもち、サタンに堕落させられた存在だからである。人間の肉体が堕落しているからこそ、神は肉体をもつ人間を働きの対象とした。さらに、人間は堕落の対象であるため、神は救済の働きの全段階で、人間をその働きの唯一の対象としている。人間は死すべき存在で、生身の体をもっているが、人間を救える唯一の存在は神なのである。そこで、その働きでよりよい成果が得られるよう、神は働きを行うために人間と同じ属性をもつ肉体をもたなければならない。神がその働きを行うために受肉しなければならないのは、人間が肉体をもっていて、罪を克服することも、肉体を捨て去ることもできないためだ。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

 25.人間はサタンのせいで堕落したが、神の被造物のうちで最高のものだ。そこで、人間には神による救済が必要だ。神の救済の対象はサタンではなく人間であり、救われるべきものは人間の肉、人間の魂であり、悪魔ではない。サタンは神が滅ぼす対象であり、人間は神に救われる者である。人間の肉はサタンによって堕落させられた。だから、まず人間の肉が救われなければならない。人間の肉は極めて深く堕落しており、神に敵対するものになっている。そして、公然と神に敵対し、神の存在を否定しさえする。この堕落した肉は、まったく手に負えない。堕落した肉の性質以上に扱いにくく、変えにくいものはない。サタンは人間の体に入って混乱させ、人間の体を使って神の働きを妨害し、神の計画を妨げる。それゆえ人間はサタンとなり、神の敵になった。人間が救われるには、まず征服されなければならない。このため、神は挑戦に立ち上がり受肉した。働きを行い、サタンと戦うためである。神の目的は堕落した人類の救済と、自分に抵抗するサタンを打ち破り、滅ぼすことである。神は人間を征服する働きによってサタンを破り、同時に堕落した人間を救う。そうして、神は二つの問題を一度で解決する。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

 26.人間の肉はサタンによって堕落し、最も深く盲い、まことに深く損なわれた。神自らが受肉して働く最も根本的な理由は、救済の対象が肉の体をもつ人間であり、サタンもまた人間の肉を用いて神の働きを妨げているためである。サタンとの戦いは、実は人間を征服する働きであり、同時に、人間はまた、神による救済の対象でもある。このように、受肉した神の働きは不可欠なのだ。サタンは人間の肉を堕落させ、人間はサタンの体現者となり、神に打ち負かされるべき存在となった。このように、サタンと戦って人類を救う働きは地上で行われ、神はサタンと戦うために人間にならなければいけない。この働きは極めて実際的なものだ。神が受肉して働いている時、神は実際はサタンと肉において戦っている。神が肉において働くとき、神は霊的領域の働きをしており、霊的領域での働きのすべてを地上で現実的なものにする。征服される者は神に逆らう人間であり、打ち負かされる者はサタンの体現者(もちろん、これもまた人間)、神に敵対する者であり、最終的に救われる者もまた人間である。このように、神が被造物の外形をもつ人間になることがますます必要なのは、神がサタンと真の戦いを行えるようにであり、それにより神に対して不服従で神と同じ姿をもつ人間を征服し、神と同じ姿をもちサタンによって損なわれた人間を救うためである。神の敵は人間、その征服の対象は人間、救済の対象も神の被造物である人間だ。そこで、神は人間とならなければいけない。そのほうが、ずっと働きをしやすくなるのだ。神はサタンに勝利し、人間を征服し、そのうえ、人間を救うことができる。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

 27.ある意味で、神の受肉は終わりの日に人間の心から漠然の神の姿を除くもので、そうしてもはや人間の心に漠然の神の姿がないようにしたのである。その言葉と働き、地上のあらゆる場所での動き、そして人々の間でするまことに真実で普通の働きは、人々に神が実在することを知らせ、人間の心にある漠然の神の居場所を取り除く。つまり、神は肉の体で語った言葉で人間を完全にし、すべてを成就するのだ。これが神が終わりの日に成就することだ。

『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知るということ」より

 28.肉体において生きるすべての者にとって、性質を変えるには目指すべき目標が必要だ。そして、神を知るには、神の本当の業を見、神の本当の顔を見る必要がある。この二つは神の受肉した体でのみ可能なことだ。そして、いずれも普通の現実の体でのみ成し遂げられる。だから受肉が必要なのであり、すべての堕落した人間はこれを必要としているだ。人々は神を知る必要があるので、漠然とした超自然的な神の表象を心から消し去らなければならない。そして、堕落した性質を捨て去る必要があるのだから、まずその堕落した性質を知らなければならない。人間の力だけで漠然とした神の表象を心から消し去ろうとしても、望ましい成果は得られないだろう。人々の心にある漠然とした神の表象は、言葉だけではさらけ出したり、消し去ったり、完全に除いたりすることはできない。そうしてみても、人間の中に深く根付いているものを消し去るのは不可能だろう。実践の神と神の真の姿だけが、そうした漠然とした超自然的なものと入れ替わり、徐々に人々に教え、そうした方法によってのみ、目指すべき結果が得られるのだ。人間は、過去に求めていた神が漠然とした超自然なものであったことに気づく。これを成し遂げるのは、霊による直接の導きではなく、まして、特定の個人の教えでもなく、受肉した神なのである。受肉した神が本格的にその働きを行うとき、人間の固定観念が露わになる。なぜなら、受肉した神の正常さと現実性は、人間の想像の中にある漠然とした超自然な神とは正反対なものだからだ。人間の元来からの固定観念は、受肉した神との対照によってのみ明らかになる。受肉した神と比較することなしには、人間の固定観念は明らかにならない。言い換えれば、現にそこにあるものと比較しなければ、漠然とした物事は明らかにならない。言葉によってこの働きのできる者は誰もいない。また、言葉によってこの働きを明確に表現できる者は誰もいない。ただ神自身がその働きができるのであって、ほかの誰も神に代わってその働きをすることはできない。人間の言語がどんなに豊かであろうと、神の現実性と正常性を言い表すことはできない。神が人間のもとで自ら働き、自分の姿と実在とをすっかり示してはじめて、人間はもっと実際的に神を知ることができ、もっとはっきり神を見られるのだ。肉体をもつ人間には、この成果を成し遂げられない。もちろん、神の霊もまた、これを成し遂げることはできない。神は堕落した人間をサタンの影響から救うことができるが、この働きは、神の霊には直接できないことだ。そうではなく、神の霊のまとう人間の体だけが、受肉した神の肉体だけができることだ。この生身の体は人間であると同時に神であり、正常な人間性を備えている一人の人間であるが、また、完全な神性を備えた神でもあるのだ。だから、この肉体は神の霊でなく、霊とは大きく異なっているのだが、それでも、人間を救う受肉した神自身であって、霊であると同時に肉体でもある。どのような名で呼ばれようと、つまるところ、それは人間を救う神そのものだ。神の霊は肉体から切り離すことはできず、肉の働きはまた、神の霊の働きでもあるからだ。これはただ、この働きが霊として行われるのではなく、人間として行われるということである。霊が直接行う必要のある働きは、受肉を必要としない。また、生身の体を必要とする働きは霊には直接できないもので、受肉した神だけが可能なのだ。これがこの働きに必要なものであり、また、堕落した人間に必要なものなのだ。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

 29.受肉した神の働きで最もよい点は、神に従う人々に正確な言葉と勧告、人類への正確な心を残せるため、受肉した神の働きと全人類に向けられた心とを、後に信者たちがこの道を受け入れる人々により正確に、具体的に伝えられる点にある。受肉した神の人間の間での働きだけが、神が人間と共に存在し、生きている事実を真に確立できる。この働きだけが、神の顔を見たい、神の働きに立会い、神の直接的な言葉を聞きたいという人間の欲求を満たす。受肉した神は、ヤーウェの後ろ姿だけが人間に示された時代を終わらせ、また、漠然とした神への人間の信仰の時代を終わらせる。とりわけ、最後に受肉した神の働きは、すべての人間により現実的で実践的な快い時代をもたらす。神は律法と教義の時代を終わらせるだけではなく、もっと重要なことに、現実的で正常で、義であり聖なる神、経営(救いの)計画を明らかにし奥義と人類の運命を示す神、人間を創り、救済の働きを完了し、数千年にわたって隠されていた神を人類に明らかにするのだ。神は漠然の時代を完全に終わらせ、全人類が神の顔を求めても見つけられなかった時代を終わらせる。神は、すべての人間がサタンに仕えた時代を終わらせ、すべての人間をまったく新たな時代へと完全に導く。これはみな神の霊に取って代わる肉体における神の働きの結果である。神が受肉して働くと、神に従う者たちは、もはや漠然とした不可解なものを手探りで求める事をせず、漠然の神の心を推測することをやめる。神が肉体をもってその働きを広めると、神に従う人々は、神が受肉して行った働きをすべての教派、分派に伝え、その言葉全部をすべての人間の耳に伝えるだろう。神の福音を受ける者が聞くことはみな、神の働きの事実で、人間が自分で見たり聞いたりしたこと、事実であって、噂ではない。こうした事実は神がその働きを広める証拠であり、また、その働きを広めるために用いる道具である。事実がなければ、神の福音はすべての国々、あらゆる場所に伝わらない。事実なしで人間の想像だけであれば、神はけっして全宇宙を征服する働きを行うことはできない。霊は人間には理解のできないもので、人間には不可視で、霊の働きは神の働きのそれ以上の証拠も事実も人間に残せない。人間はけっして神の本当の顔を見ないだろうし、存在しない漠然とした神をいつまでも信じているだろう。人間はけっして神の顔を見ないし、また、直接神が語る言葉を聞くこともない。人間の想像するものは、結局のところ、むなしく、神の真の顔に取って代われない。神の本来の性質は、神自身の働きは、人間がまねる事ができない。目に見えない天の神とその働きは、受肉した神が自ら人間の間で働いて、はじめて地上にもたらされる。これが、神が人間に姿を現す最も理想的な方法であり、この方法により人間は神を見て、神の真の顔を知る。そして、これは受肉しない神では不可能なことだ。神はこの段階まで働きを実行しているので、その働きはすでに最高の結果を生み出しており、完全な成功である。神が受肉して直接行った働きは、すでに経営(救い)全体の働きの90%を完了している。この肉体は神の働きすべての良き始まりと神の働き全部のまとめを提供してきたのであり、神の働きすべてを広め、この働き全体に最終的かつ周到な付け足しをした。だから、もう神の働きには、また神が受肉して行う第四の段階はなく、三度目に受肉した神が驚くべき働きを行うこともない。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

 30.神が受肉した唯一の理由は、堕落した人間が必要としているからである。人間が必要としているのであって、神が必要としているのではない。神のすべての犠牲と苦しみは人間のためであって、神自身のためではない。神には賛否も報奨もない。神はもともと自分のものであるもの以外、将来何らかの収穫を得るわけではない。神が人間のためにすること、犠牲とすることはすべて、何か大きな報酬を得るためではなく、純粋に人間のためである。受肉した神の働きには想像を超える困難が数多く伴うのだが、それが最終的に達成するものは、霊による直接の働きの成果をはるかに超える。肉の体の働きは多くの困難を伴う。肉体は霊のような偉大な身分をもたないし、霊のような超自然的な業は行えない。まして、霊と同じ権威をももたない。しかし、この平凡な肉の行う働きの本質は、霊が直接行う働きの本質をはるかに上回る。この神の肉体は、すべての人間の必要に応えるものなのだ。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

 31.この肉体がどれほど普通で平凡なものであっても、神がするべき働きができるのは、この肉が単なる人間ではなく、神だからだ。この肉が人間にはできない働きができるのは、その内なる性質が人間のそれと異なっているためで、それが人間を救えるのは、その身分が人間とは異なるからだ。この肉の体が人類にとって極めて重要なのは、それは人間である、かつそれ以上に神であるからだ。それは通常の人間には不可能な働きが可能だからであり、神には地上で共に暮らす堕落した人間を救うことが可能なためである。神は人間と同じ外見をもつが、受肉した神はどんな重要人物よりも人間にとって重要である。それは神の霊には不可能な働きが可能だからであり、神自身について霊よりも優れた証しができ、神の霊よりも完全に人間を得ることができるからだ。その結果、この肉は普通で平凡であっても、その人類への貢献と人類存在にとっての意義により、この肉体は極めて尊いものとなる。そしてこの肉の真の価値と意味は誰にとってもはかりしれないものがある。この肉は直接サタンを滅ぼすことはできないが、神はその働きによって、人間を征服し、サタンを打ち負かせる。サタンを完全に支配下に下せる。これは、神が受肉したから、サタンに勝利して人類を救うことができるのだ。神は直接サタンを滅ぼしはしないが、サタンによって堕落させられた人類を征服する働きをするため受肉する。このようにして、神は被造物のもとで自分を証しでき、堕落した人間をよりよく救える。受肉した神がサタンを打ち負かすことは、神の霊が直接サタンを滅ぼすよりも偉大な証しであり、より説得力がある。受肉した神は、人間が創造主を知る手助けをよりよく行うことができ、被造物のもとでよりよく神自身を証しできる。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

 32.神の働きの三つの段階では、一つの段階だけが霊によって直接行われた。そして残りの二つの段階は受肉した神が実行し、霊が直接働くことはない。霊の行った律法の働きは、堕落した人間の性質を変えることを伴わず、神について人間が知ることと何の関わりもないものだった。しかしながら、恵みの時代と神の国の時代の受肉した神の働きは、人間の堕落した性質と神についての認識に関わるもので、救済の働きにおける重要かつ不可欠な部分である。だから、堕落した人間は受肉した神による救いを、受肉した神の直接的な働きをさらに必要とする。人間には、受肉した神が導き、支え、水をやり、養い、裁き、罰する必要がある。そして、受肉した神からのさらなる恵みと贖いが必要だ。受肉した神だけが人間の親友となり、牧者となり、現実に存在する助けとなることができる。これらすべてが現在と過去において受肉が必要とされる所以である。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

 33.この受肉した神と人間との関係において、人間は敵対から従順、迫害から受容、観念から認識、そして、拒否から愛へと変わっていく。これが受肉した神の働きの成果である。人間は神の裁きを受け入れることによってのみ救われ、神の口から出ることばによって徐々に神を知るようになり、神に敵対している間に神に征服され、神の罰を受けている間にいのちの糧を受ける。この働きはみな受肉した神の働きであって、霊としての神の働きではない。受肉した神の働きは最も偉大で、最も深い働きであり、神の働きの三段階のうちの最も大事な部分は、受肉による働きの二つの段階である。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

 34.イエスは、「言は神と共にあった。」の実体のみを満たす業の段階を行った。神の真理は神と共にあり、神の霊は肉と共にあり、神と不可分であった。つまり、受肉した神の肉は神の霊と共にあったのであり、それは受肉したイエスが最初の受肉した神であったことの大いなる証拠である。この段階の業は「言葉が受肉した」の内面的意味を満たし、「言は神と共にあった。言は神であった。」に一層深い意味を加え、「初めに言があった。」という言葉を、あなたが堅く信じることを可能とした。つまり、神は創造の時に言葉を備え、神の言葉は神と共にあって神と不可分であった。そして、最後の時代には、神の言葉の力と権威は一層明瞭となり、人間は神の言葉すべてを理解できるようになり、言葉全てを聞くことができるようになった。それが最後の時代の業である。……これは2度目の受肉、そして神の最後の受肉の業であるため、この業は受肉の意味を完全なものとし、肉における神の全ての業が完全に遂行され、実施され、肉にある神の時代の幕を閉じる。

『言葉は肉において現れる』の「実践(4)」より

 35.今回は、神は霊体ではなく、まったく普通の体で働きを行うために来る。それは神の二度目の受肉の体というだけではなく、神がそれをまとって戻ってくる体でもある。それはごく普通の肉体である。この体の中に、他の人々と異なるものは何も見受けられないが、あなたは、今までに聞いたこともない真理をこの人から受け取ることができる。この取るに足らない肉体は、神から来る真理の言葉のすべてを具現化したものであり、終わりの日の神の働きを引き受けるもの、また人が知るようになる神の全性質の表現である。あなたは天の神を見ることを大いに望んでいたではないか。あなたは天の神を理解することを切に願ったではないか。あなたは人類の終着点を見ることを大いに欲していたではないか。この人は、今まで誰ひとりとしてあなたに語ることのできなかった秘密の全てをあなたに語るだろう。また、あなたが理解していない真理についてさえ語るだろう。この人は、あなたにとっての神の国への入り口の門であり、新しい時代への導き手である。このような普通の肉が多くの計り知れない奥義を握っているのである。この人の行いはあなたには測り知れないかもしれないが、その人が行うすべての働きの目標は、この人が人々が思うような単なる肉ではないことを理解するのに充分である。なぜならこの人は、終わりの日に人類に神が示す配慮及び神の意志を表しているからである。あなたは天地を揺るがすような神の語る言葉を聞くことはできず、燃え上がる炎のようなその目を見ることもできず、また、鉄の杖のような神の懲らしめを感じることもできないが、その言葉から神の怒りを聞き、神が人類に示す憐れみを知ることができる。あなたは神の義なる性質と神の知恵を見ることができ、更に神が全人類に対して持つ配慮をはっきり理解することができる。終わりの日の神の働きは、天の神が地上で人々の間で生きていることを人に見せることであり、また人が神を知り、神に従い、神を畏敬し、神を愛することができるようにすることである。これが神が再び肉に戻った理由である。今日人が見るものは人と同じ姿の神、一つの鼻と二つの目を持つ神、目立たない神であるが、最終的には神はあなた方に次のことを示すだろう。この人の存在がなければ、天と地は膨大な変化にさらされ、この人の存在がなければ、天は薄暗くなり、地上は混沌に陥り、全人類は飢饉と疫病の中で暮らすことになるということを。終わりの日における受肉の神による救いがなければ、神はずっと前に全人類を地獄で滅ぼし尽くしていたはずであるということを、神はあなた方に示すであろう。またこの肉の存在がなければ、あなた方は永遠にずっと罪人のかしらと死体のままであろうということを神は示すであろう。この肉の存在がなければ全人類は避けることのできない災難に直面し、終わりの日の神の人類への一層厳しい懲罰から逃れることはできないことをあなた方は知るべきである。この普通の肉の誕生がなければ、どのように求めようとも、あなた方にはみな生も死も到来しない状態に陥るだろう。この肉の存在がなければ、今日、あなた方は真理を受け取り神の玉座の前に来ることもできないだろう。それどころか、あなた方の深い罪ゆえに罰せられるだろう。あなた方は知っているか。神の肉への再来がなければ、誰にも救いの機会はないのである。また、この肉が来なければ、神はずっと以前に古い時代を終わらせていたはずである。これでも、あなた方は神の二度目の受肉をなおも拒むことができるのか。あなた方は、この普通の人から大いに利益を得ることができるのに、なぜすぐにこの人を受け入れないのか。

『言葉は肉において現れる』の「神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを知っているか」より

 36.終わりの日の神の働きのすべてはこの普通の人を通して行われる。この人はすべてのものをあなたに授け、その上、あなたに関わるすべてのことを決定することができる。このような人が、あなた方が思っているように、言及する価値もないほどとるに足りないということがあろうか。この人の真理はあなた方を完全に納得させるのに十分ではないのか。その行いによる証しは、あなた方を完全に確信させるには充分でないというのか。あるいは、この人があなた方を導き入れる道は、あなた方がついて行く価値がないということか。あなた方がこの人に反感を抱き、見捨て、避ける理由は何であろうか。真理を表すのはこの人であり、真理を供給するのはこの人であり、あなた方に進むべき道があるようにするのもこの人である。あなた方はまだ、これらの真理の内に神の働きの足跡を見つけることができないなどということがあり得ようか。イエスの働きがなければ、人類は十字架から降りることはできなかったであろうが、今日の受肉がなければ、十字架から降りる人々は神に称賛されることは決してないし、新しい時代に入ることもできない。この普通の人の到来がなければ、あなた方には神のほんとうの顔を見る機会も資格も全くない。何故ならあなた方は皆ずっと前に滅ぼされているはずの人々だからである。神の二度目の受肉の到来の故に、神はあなた方を赦し、あなた方に憐れみを示した。いずれにしても、最後にわたしがあなた方に言い残さなければならない言葉はやはりこうである。神の受肉であるこの普通の人は、あなた方にとって極めて重要である。これこそが、神が人々の間で成し遂げた偉大なることである。

『言葉は肉において現れる』の「神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを知っているか」より

 37.神が新しい時代の到来を告げるために、わざわざ肉となることをあなたがたはみな知っている。そしてもちろん、神が新しい時代に案内するとき、同時に前の時代を終わらせる。神は初めであり終わりである。神の働きを始動させるのは神自身であるので、前の時代を終わらせるのも神でなければならない。それは神がサタンを負かし、世界を征服する証拠である。神が人々のもとで働くときはいつも、新しい戦いの始まりである。新しい働きの始まりがなくては、当然古い働きの終結もないということである。古い働きの終わりがないということは、サタンとの戦いの終わりがまだ来ていないという証拠である。神自身が人のもとに来て新しい働きを実践して初めて、人は完全にサタンの支配から自由になり、新しいいのち、新しい始まりを獲得することができる。そうでなければ人は永遠に古い時代に生き、永遠にサタンの古い影響下で生きることになる。……神の働きは神自身が行なう。神の働きを始動させるのは神で、それを終わらせるのも神である。働きを計画し管理するのも神であり、それ以上に、働きを成就するのも神である。それは聖書に、「わたしは初めであり、終わりである。蒔く者であり、刈る者である」と書かれている通りである。神の経営(救い)の働きに関連する全てのことは神自身により行なわれる。神は六千年の経営(救いの)計画の支配者で、誰も神の代わりに働くことはできず、神の働きを終わらせることはできない。というのは、すべてを支配するのは神だからである。神は世界を創造し、神は全世界が神の光の中に生きるよう導き、全時代を終わらせ、それにより神の計画すべてを成就させるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より

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