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神の国の福音についての代表的な全能神の言葉 (選集)

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III.受肉の真理について

1.救われるべき者たちにとって、霊の使用価値は、肉にはるかに劣る。霊の働きは、全宇宙、すべての山々、川、湖、大海に及ぶ。しかし、肉の働きで神は、触れるすべての人と効果的に交流できる。そのうえ、触れることのできる形をもつ神の体は、人間には理解しやすく、信頼しやすく、神についての人間の認識を深めることができ、神の実際の業の深い印象を植え付けられる。霊の働きは神秘に包まれていて、死すべき人間には理解し難く、見ることはそれ以上に難しい。だから、無意味な想像に頼るしかない。しかしながら、肉の働きは正常で、現実に基づいており、豊かな知恵を含み、人間の肉眼で見ることのできる事実である。人間はその身で神の働きの知恵を経験できるから、豊かな想像力を働かせる必要もない。これが受肉した神の働きの正確さ、本物の価値である。霊には、人間の目に見えず、想像しにくいことしかできない。たとえば、霊による啓示、霊の動き、それに霊の導きなど。しかし、知性のある人間には、こうしたものは何ら明瞭な意味をもたない。こうしたものは一つの動き、あるいは漠然とした意味しか提供せず、言葉による指示を与えられない。しかしながら、受肉した神の働きは、大いに異なる。言葉を用いて正確な導きができるし、明確な意図、そして、目指すべきはっきりとした目標がある。だから、人間は手探りして歩きまわる必要がないし、想像力を働かせる必要も、まして、推測する必要もない。これが肉における働きの明瞭さであって、霊の働きとの大きな違いである。霊の働きは限られた範囲においてのみ適しており、肉の働きと置き換えることができない。肉の働きは、霊の働きよりはるかに正確で、必要な目標とずっと現実的で価値ある認識とを人間に与える。堕落した人間にとって最も価値ある働きは、正確な言葉と目指すべき明確な目標を与え、そして見て触ることのできるものである。実際の働きと時宜にかなった導きだけが人間の嗜好に合う。そして、現実の働きだけが人間をその堕落した邪悪な性質から救える。これを成し遂げられるのは受肉した神だけである。受肉した神だけが、人間をかつて堕落した邪悪な性質から救えるのだ。

(『言葉は肉において現れる』の「 堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より)

2.神が受肉したのは、その働きの対象がサタンの霊や肉体を持たない何かではなく、人間、つまり肉体をもち、サタンに堕落させられた存在だからである。人間の肉体が堕落しているからこそ、神は肉体をもつ人間を働きの対象とした。さらに、人間は堕落の対象であるため、神は救済の働きの全段階で、人間をその働きの唯一の対象としている。人間は死すべき存在で、生身の体をもっているが、人間を救える唯一の存在は神なのである。そこで、その働きでよりよい成果が得られるよう、神は働きを行うために人間と同じ属性をもつ肉体をもたなければならない。神がその働きを行うために受肉しなければならないのは、人間が肉体をもっていて、罪を克服することも、肉体を捨て去ることもできないためだ。

(『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より)

3.人間はサタンのせいで堕落したが、神の被造物のうちで最高のものだ。そこで、人間には神による救済が必要だ。神の救済の対象はサタンではなく人間であり、救われるべきものは人間の肉、人間の魂であり、悪魔ではない。サタンは神が滅ぼす対象であり、人間は神に救われる者である。人間の肉はサタンによって堕落させられた。だから、まず人間の肉が救われなければならない。人間の肉は極めて深く堕落しており、神に敵対するものになっている。そして、公然と神に敵対し、神の存在を否定しさえする。この堕落した肉は、まったく手に負えない。堕落した肉の性質以上に扱いにくく、変えにくいものはない。サタンは人間の体に入って混乱させ、人間の体を使って神の働きを妨害し、神の計画を妨げる。それゆえ人間はサタンとなり、神の敵になった。人間が救われるには、まず征服されなければならない。このため、神は挑戦に立ち上がり受肉した。働きを行い、サタンと戦うためである。神の目的は堕落した人類の救済と、自分に抵抗するサタンを打ち破り、滅ぼすことである。神は人間を征服する働きによってサタンを破り、同時に堕落した人間を救う。そうして、神は二つの問題を一度で解決する。

(『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より)

4.人間の肉はサタンによって堕落し、最も深く盲い、まことに深く損なわれた。神自らが受肉して働く最も根本的な理由は、救済の対象が肉の体をもつ人間であり、サタンもまた人間の肉を用いて神の働きを妨げているためである。サタンとの戦いは、実は人間を征服する働きであり、同時に、人間はまた、神による救済の対象でもある。このように、受肉した神の働きは不可欠なのだ。サタンは人間の肉を堕落させ、人間はサタンの体現者となり、神に打ち負かされるべき存在となった。このように、サタンと戦って人類を救う働きは地上で行われ、神はサタンと戦うために人間にならなければいけない。この働きは極めて実際的なものだ。神が受肉して働いている時、神は実際はサタンと肉において戦っている。神が肉において働くとき、神は霊的領域の働きをしており、霊的領域での働きのすべてを地上で現実的なものにする。征服される者は神に逆らう人間であり、打ち負かされる者はサタンの体現者(もちろん、これもまた人間)、神に敵対する者であり、最終的に救われる者もまた人間である。このように、神が被造物の外形をもつ人間になることがますます必要なのは、神がサタンと真の戦いを行えるようにであり、それにより神に対して不服従で神と同じ姿をもつ人間を征服し、神と同じ姿をもちサタンによって損なわれた人間を救うためである。神の敵は人間、その征服の対象は人間、救済の対象も神の被造物である人間だ。そこで、神は人間とならなければいけない。そのほうが、ずっと働きをしやすくなるのだ。神はサタンに勝利し、人間を征服し、そのうえ、人間を救うことができる。

(『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より)

5.神の二度目の受肉では、征服の働きを行いサタンを打ち負かすのは完全な肉の体なのである。完全に普通で現実的な肉だけが征服の働きをその全体におよんで行い、力強い証しを示すことができる。つまり、人間征服の働き[a]は、受肉した神の現実性と正常さによって効果的になるのであって、超常的な奇跡や啓示によるのではない。この受肉した神の職分は、話すことであり、それによって人間を征服し、完全にすることにある。つまり、肉として現れた霊の働き、肉の務めは、話すことで、それによって人間を征服し、顕示し、完全にし、淘汰することである

(『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より)

6.裁かれるのは人間、肉の体をもち堕落した人間であり、直接裁かれるのはサタンの霊ではなく、裁きの働きは霊的世界ではなく、人間の間で行われる。人間の肉体の堕落を裁くのには、受肉した神以上にふさわしいものはいない。もし神の霊が直接裁いたならば、それはすべてを含むものではないであろう。そのうえ、そうした働きは人間には受け入れがたいものだったろう。なぜなら、霊は人間と直接会うことができず、そのため効果は即座に見られるものでもない。まして、人間が神の侵しがたい性質をより明確に目にすることはできないであろう。もし受肉した神が人間の堕落を裁くなら、はじめてサタンを完全に打ち負かせる。 … この働きが神の霊によって行われたなら、それはサタンに勝利したことにはならないだろう。霊は本来、死すべき者たちよりも高い地位にあり、神の霊は本質的に聖く、肉に優る。もしこの働きを霊が直接行ったならば、神は人間の不服従のすべてを裁くことができず、人間の不義をすべて露わにすることもできないだろう。裁きの働きもまた人間の神についての観念を通して行われるからである。人間は霊について何の観念も抱いたことがない。そのため霊には、人間の不義をよりよく露わにすることができないし、まして、そうした不義を完全に明らかにすることもできない。受肉した神は、神を知らない者すべての敵である。人間の観念と神への敵対を裁くことで、神は人間のあらゆる不服従を明らかにする。受肉した神の働きの成果は、霊の働きよりも明らかである。そのため、すべての人間の裁きは霊が直接するのではなく、受肉した神の働きなのである。人間の体をもつ神は、人間が目で見、触れることができる。また、受肉した神は完全に人間を征服できる。

(『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より)

7.あなたが知らない事実が一つある。それは、人間の堕落した性質と反抗、抵抗が、人間がキリストを見た時に露わになり、そこで露わになった反抗や抵抗はそれ以外の場合よりも絶対的で完全なものだということだ。キリストが人の子であり、正常な人間性を備えているため、人がキリストを崇めることも尊敬することもないのだ。神は肉の中に生きているので、人間の反抗が徹底的に、またはっきりと明らかにされたのだ。それゆえに、キリストの到来が人間の反抗を全て明るみに出し、人間の本性を際立たせた、とわたしは言っているのだ。これを、「山から虎をおびき出す」、「洞窟から狼をおびき出す」と言う。

(『言葉は肉において現れる』の「キリストに味方しない者は確実に神の敵だ」より)

8.なぜなら、受肉した神の正常さと現実性は、人間の想像の中にある漠然とした超自然な神とは正反対なものだからだ。人間の元来からの固定観念は、受肉した神との対照によってのみ明らかになる。受肉した神と比較することなしには、人間の固定観念は明らかにならない。言い換えれば、現にそこにあるものと比較しなければ、漠然とした物事は明らかにならない。言葉によってこの働きのできる者は誰もいない。また、言葉によってこの働きを明確に表現できる者は誰もいない。ただ神自身がその働きができるのであって、ほかの誰も神に代わってその働きをすることはできない。人間の言語がどんなに豊かであろうと、神の現実性と正常性を言い表すことはできない。神が人間のもとで自ら働き、自分の姿と実在とをすっかり示してはじめて、人間はもっと実際的に神を知ることができ、もっとはっきり神を見られるのだ。肉体をもつ人間には、この成果を成し遂げられない。もちろん、神の霊もまた、これを成し遂げることはできない。神は堕落した人間をサタンの影響から救うことができるが、この働きは、神の霊には直接できないことだ。そうではなく、神の霊のまとう人間の体だけが、受肉した神の肉体だけができることだ。この生身の体は人間であると同時に神であり、正常な人間性を備えている一人の人間であるが、また、完全な神性を備えた神でもあるのだ。だから、この肉体は神の霊でなく、霊とは大きく異なっているのだが、それでも、人間を救う受肉した神自身であって、霊であると同時に肉体でもある。どのような名で呼ばれようと、つまるところ、それは人間を救う神そのものだ。神の霊は肉体から切り離すことはできず、肉の働きはまた、神の霊の働きでもあるからだ。これはただ、この働きが霊として行われるのではなく、人間として行われるということである。霊が直接行う必要のある働きは、受肉を必要としない。また、生身の体を必要とする働きは霊には直接できないもので、受肉した神だけが可能なのだ。これがこの働きに必要なものであり、また、堕落した人間に必要なものなのだ。

(『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より)

9.神が受肉した唯一の理由は、堕落した人間が必要としているからである。人間が必要としているのであって、神が必要としているのではない。神のすべての犠牲と苦しみは人間のためであって、神自身のためではない。神には賛否も報奨もない。神はもともと自分のものであるもの以外、将来何らかの収穫を得るわけではない。神が人間のためにすること、犠牲とすることはすべて、何か大きな報酬を得るためではなく、純粋に人間のためである。受肉した神の働きには想像を超える困難が数多く伴うのだが、それが最終的に達成するものは、霊による直接の働きの成果をはるかに超える。肉の体の働きは多くの困難を伴う。肉体は霊のような偉大な身分をもたないし、霊のような超自然的な業は行えない。まして、霊と同じ権威をももたない。しかし、この平凡な肉の行う働きの本質は、霊が直接行う働きの本質をはるかに上回る。この神の肉体は、すべての人間の必要に応えるものなのだ。

(『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より)

10.この肉が人間にはできない働きができるのは、その内なる性質が人間のそれと異なっているためで、それが人間を救えるのは、その身分が人間とは異なるからだ。この肉の体が人類にとって極めて重要なのは、それは人間である、かつそれ以上に神であるからだ。それは通常の人間には不可能な働きが可能だからであり、神には地上で共に暮らす堕落した人間を救うことが可能なためである。神は人間と同じ外見をもつが、受肉した神はどんな重要人物よりも人間にとって重要である。それは神の霊には不可能な働きが可能だからであり、神自身について霊よりも優れた証しができ、神の霊よりも完全に人間を得ることができるからだ。その結果、この肉は普通で平凡であっても、その人類への貢献と人類存在にとっての意義により、この肉体は極めて尊いものとなる。そしてこの肉の真の価値と意味は誰にとってもはかりしれないものがある。この肉は直接サタンを滅ぼすことはできないが、神はその働きによって、人間を征服し、サタンを打ち負かせる。サタンを完全に支配下に下せる。これは、神が受肉したから、サタンに勝利して人類を救うことができるのだ。神は直接サタンを滅ぼしはしないが、サタンによって堕落させられた人類を征服する働きをするため受肉する。このようにして、神は被造物のもとで自分を証しでき、堕落した人間をよりよく救える。受肉した神がサタンを打ち負かすことは、神の霊が直接サタンを滅ぼすよりも偉大な証しであり、より説得力がある。受肉した神は、人間が創造主を知る手助けをよりよく行うことができ、被造物のもとでよりよく神自身を証しできる。

(『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より)

11.神が肉として到来するのは、おもに神の実際の業を人々が見ることができ、形のない霊を肉において実体化し、人々が神を見たり触れたりできるようにするためである。このようにして、神によって完全にされる人々は神を現すように生き、神のものとされ、神の心に適うものとなる。神が天において話すだけで、実際に地上に来なかったのなら、人々はまだ神を知ることができず、空虚な理論を使って神の業を説くことができるだけで、現実として神の言葉を持つことができない。神が地上に来たのは何よりも、神に獲得されるべき人々の手本、モデルとして行動するためである。このようにしてのみ、人々は実際に神を知り、神に触れ、神を見ることができ、そうして初めて神のものとして獲得されるのである。

(『言葉は肉において現れる』の「 実践的な神は神自身であることを知るべきである」より)

12.神がある程度まで自分を謙らせることによって、つまり、神が肉となる時、初めて人間は神の親友となれるのだ。神は霊的存在だ。それほど崇高で測り知れない霊と、どうして人間が親友として相応しくなれよう。神の霊が肉の中に下り、人間と同じ外観をした被造物になってはじめて、人間は神の意志を理解でき、本当に神のものとなれる。神は肉として語り、働く。喜びや悲しみ、人間の患難を共にし、人間と同じ世界に生き、人間を守り、人間を導く。神はそうして人間を清め、人間が救いと祝福を得られるようにする。これらのものを得て、人間は真に神の意志を理解し、そうなってはじめて、神の親友となれる。これだけが実際的なことだ。もし神が人間の目に見えず、触れることもできないのなら、どうして人間が神の親友になれよう。これは空虚な教義ではないか。

(『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より)

13.ある意味で、神の受肉は終わりの日に人間の心から漠然の神の姿を除くもので、そうしてもはや人間の心に漠然の神の姿がないようにしたのである。その言葉と働き、地上のあらゆる場所での動き、そして人々の間でするまことに真実で普通の働きは、人々に神が実在することを知らせ、人間の心にある漠然の神の居場所を取り除く。つまり、神は肉の体で語った言葉で人間を完全にし、すべてを成就するのだ。これが神が終わりの日に成就することだ。

(『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知るということ」より)

14.肉体において生きるすべての者にとって、性質を変えるには目指すべき目標が必要だ。そして、神を知るには、神の本当の業を見、神の本当の顔を見る必要がある。この二つは神の受肉した体でのみ可能なことだ。そして、いずれも普通の現実の体でのみ成し遂げられる。だから受肉が必要なのであり、すべての堕落した人間はこれを必要としているだ。

(『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より)

15.神は肉の働きを全うするためだけに肉となるのであり、人間が神を見ることができるように肉となるのではない。むしろ、キリストは働きを通して身分を明確にし、自身の現すものによって自身の本質を証明する。キリストの本質は根拠のないものではない。キリストの身分は自身の手によって握られてはいなかった。それはキリストの働きと本質によって決定される。キリストは神自身の本質を持っており、神自身の働きをすることができるが、やはりキリストは霊とは違って、肉である。キリストは霊の性質を持つ神ではない。肉の外殻を持った神である。

(『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の心に従うことである」より)

16.霊の行った働きは隠された、測り難いものであり、人間には恐ろしくて近寄りがたいものであった。霊は直接救済の働きをするには適していないし、直接人間にいのちを与えるにも適していない。人間に最も適しているのは、霊の働きを人間に近い形に変えることで、それはつまり、最も人間に適しているのは、神が普通の正常な人間になって働きをするということである。これには、神が受肉して霊の代わりに働くことが必要であり、人間のために神が働くのに、これ以上ふさわしい方法はない。こうした三段階の働きの中で、二つの段階は、肉体によって行われたが、その二つの段階は経営(救いの)計画の中の肝要な部分である。二回の受肉はそれぞれ補い合うもので、補完的である。神が最初に受肉した段階は、第二の段階の基礎を敷いたのだが、これは、神の二回の受肉が一つの全体をなし、互いに相容れないものではないと言える。この二つの段階は全経営(救い)の計画の中でまことに重要なものであるため、神が受肉してこの二つの段階を実行する。こう言ってもいいだろう──神の二回の受肉の働きがなければ、経営(救い)の計画全体は停止し、人類救済の働きは空虚な言葉でしかなかっただろう。この働きが重要であるかどうかは、人間の必要、人間の堕落の現実の状態、サタンの甚だしい不服従、それが働きを妨げている程度による。誰が任務にふさわしいかは、その働きの性質と重要性とによって決まる。この働きの重要性という点では、どんな方法を用いるか、すなわち霊が直接働きを行うか、それとも神が受肉して働くのか、あるいは人間を通じて行うかという意味においては、選択肢から最初に除かれるべきは、人間を通じて行う方法である。働きの性質という点では、霊の働きの性質対肉の働きという観点からは、最終的に、肉によって行う働きが、霊が直接行うより人間にとって有益で、効果的であるということになった。霊と肉とどちらの働きをするかの決定の際の、これが神の判断であった。各段階の働きには意味と根拠がある。それらは根拠のない想像ではなく、また、恣意的に行われたことでもない。そこにはある種の知恵が働いている。それが神の働きの背後にある真実である。とりわけ、神自らが受肉して人間の間で働くような偉大な働きにおいては、さらなる神の計画がある。そこで、神の知恵と神の存在すべてがあらゆる行為、考え、働きの構想に反映されている。これは神のより確固として体系的なありかたである。こうした緻密な考えや構想は人間には想像しにくく、信じ難いし、そのうえ、知ることも困難だ。

(『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より)

17.神の働きの三つの段階では、一つの段階だけが霊によって直接行われた。そして残りの二つの段階は受肉した神が実行し、霊が直接働くことはない。霊の行った律法の働きは、堕落した人間の性質を変えることを伴わず、神について人間が知ることと何の関わりもないものだった。しかしながら、恵みの時代と神の国の時代の受肉した神の働きは、人間の堕落した性質と神についての認識に関わるもので、救済の働きにおける重要かつ不可欠な部分である。だから、堕落した人間は受肉した神による救いを、受肉した神の直接的な働きをさらに必要とする。人間には、受肉した神が導き、支え、水をやり、養い、裁き、罰する必要がある。そして、受肉した神からのさらなる恵みと贖いが必要だ。受肉した神だけが人間の親友となり、牧者となり、現実に存在する助けとなることができる。これらすべてが現在と過去において受肉が必要とされる所以である。

(『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より)

18.この受肉した神と人間との関係において、人間は敵対から従順、迫害から受容、観念から認識、そして、拒否から愛へと変わっていく。これが受肉した神の働きの成果である。人間は神の裁きを受け入れることによってのみ救われ、神の口から出ることばによって徐々に神を知るようになり、神に敵対している間に神に征服され、神の罰を受けている間にいのちの糧を受ける。この働きはみな受肉した神の働きであって、霊としての神の働きではない。受肉した神の働きは最も偉大で、最も深い働きであり、神の働きの三段階のうちの最も大事な部分は、受肉による働きの二つの段階である。

(『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より)

19.このようなことを考察するのは難しいことではないが、わたしたちそれぞれにこの真理を知ることが要求される。受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。

(『言葉は肉において現れる』の「 序文」より)

20.神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体である。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストを騙る者はみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。このようにして、あなたが真にいのちの道を求めるなら、あなたはまず、神は地上に来ることで人にいのちの道を与えるということを認め、そして神が人にいのちの道を与えるために地上に来るのは終わりの日なのだと認めなくてはならない。これは過去のことではない。今起こっていることなのだ。

(『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より)

21.受肉した神をキリストと呼ぶ。キリストは神の霊にまとわれた肉である。この肉はどのような肉の人間とも異なっている。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が肉となったものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を持っている。キリストの神性はどのような人も持っていないものである。キリストの普通の人間性は肉的な活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。キリストの人間性であれ、神性であれ、いずれも天の父の心に従う。キリストの本質は霊、すなわち神性である。ゆえに、その本質は神自身のものである。この本質は神自身の働きを妨げることはなく、キリストが神自身の働きを破壊するようなことは決してありえず、神の心に逆らう言葉を語ることも決してない。

(『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の心に従うことである」より)

22.受肉というのは、神が肉の体で現れることで、神が自分の創った人間のもとで働くために人間の姿で来るのである。さて、神が受肉するというのは、まず肉の体、普通の人間性を備えた肉体でなくてはならず、少なくとも、これは必要条件である。実際、神が受肉するということは、神が肉体において生き働くということ、その本質において肉となり、ひとりの人になるということを意味する。

(『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より)

23.普通の人間性をもつキリストは、霊が顕現した肉体であり、普通の人間性、普通の理知、人間的思考をもっている。「顕現」とは神が人間となること、霊が肉となることである。わかりやすく言えば、神自身が普通の人間性をもつ肉に宿るということで、それによって神性の働きを表す──これが顕現、または受肉の意味である。

(『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より)

24.神の本質を備えた人間だから、被造物であるどの人間、神の働きを行うことのできるどの人間よりも上位に位置する。そこで、このような人間の姿をした者たちの中で、人間性をもつすべての者の中で、神だけが受肉した神そのものである。他はみな、被造物である人間である。彼らには人間性があるが、被造物である人間は人間でしかない。ところが、受肉した神は違う。受肉した神は、その肉体において人間性だけではなく、さらに重要なことに神性をも備えている。

(『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より)

25.受肉の意義は、平凡な普通の人間が神そのものの働きをするということであり、つまり、神が人間性の内に神としての働きを行い、それによってサタンを打ち破るということである。受肉とは、神の霊が肉となる、つまり、神が肉となるということである。神が肉において行う働きは、肉において実現し、肉において表される霊の働きである。神の肉体以外には誰も、受肉した神の働きを成就できない。つまり、受肉した神の肉だけが、他の誰でもなくこの普通の人間だけが、神の働きを示せるのだ。もし最初の顕現で、神が二十九歳になる前に普通の人間性をもっていなければ──もし生まれてすぐに奇跡を行うことができたなら、もし、話せるようになってすぐに天の言葉を話せたなら、地上に初めて着いたときにすべての世俗的な物事を理解し、すべての人の考えや意図を知ることができたなら──普通の人間とは呼ばれなかったであろうし、その肉は人間の肉とはいえなかっただろう。もしキリストがそういうものであったなら、神の受肉の意味と本質は失われていたであろう。イエスが普通の人間性をもっていたことは、イエスが肉の体をもった、受肉した神であったことを示している。イエスが普通の人間としての成長過程を過ごしたことは、イエスが普通の人間であったことをさらに証明するものだ。そのうえ、イエスの働きは、イエスが神の言葉、神の霊が人間となったものであることの十分な証拠である。神が人間になるのは、働きに必要なためである。つまり、その段階の働きには肉の体で、普通の人間性において行う必要があるからである。これが「言葉は肉となる、「言葉は肉において現れる」ための前提条件であり、これが神の二度の受肉の背後にある実話だからである。

(『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より)

26.イエスは、「言は神と共にあった。」の実体のみを満たす御業の段階を行った。神の真理は神と共にあり、神の御霊は肉と共にあり、主と不可分であった。つまり、受肉した神の肉は神の御霊と共にあったのであり、それは受肉したイエスが最初の受肉された神であったことの大いなる証拠である。この段階の御業は「御言葉が受肉した」の内面的意味を満たし、「言は神と共にあった。言は神であった。」に一層深い意味を加え、「初めに言があった。」という御言葉を、あなたがたが確信することを可能とした。つまり、神は創造の時に御言葉を備え、神の御言葉は神と共にあって神と不可分であった。そして、最後の時代には、神の御言葉の力と権威は一層明瞭となり、人間は神の御言葉すべてを理解できるようになり、御言葉全てを聞くことができるようになった。それが最後の時代の御業である。……これは2度目の受肉、そして神の最後の受肉の御業であるため、この御業は受肉の重要性を完全なものとし、受肉された神の御業が完全に遂行され、実施され、肉にある神の時代の幕を閉じる。

(『言葉は肉において現れる』の「 実践(4)」より)

27.今回は、神は霊体ではなく、まったく普通の体で働きを行うために来る。それは神の二度目の受肉の体というだけではなく、神がその中に戻る体でもある。それはごく普通の肉体である。この体の中に、他の人々と異なるものは何も見受けられないが、あなたは、今までに聞いたこともない真理を彼から受け取ることができる。この取るに足らない肉体は、神から来る真理の言葉のすべてを具現化したものであり、終わりの日の神の働きを引き受けるもの、また人が知るようになる神の全性質の現れでもある。あなたは天の神を見ることを大いに望んでいたではないか。あなたは天の神を理解することを切に願ったではないか。あなたは人類の終着点を見ることを大いに欲していたではないか。彼は、今まで誰ひとりとして語ることのできなかった奥義の全てをあなたに語るだろう。また、あなたが理解していない真理についてさえ語るだろう。彼は、あなたが神の国に入る入り口の門であり、あなたが新しい時代に入るための導き手である。このような普通の肉が多くの計り知れない奥義を握っているのである。彼の行いはあなたには測り知れないものが、彼の行うすべての働きの目標を知れば、彼が、人が思うような単なる肉ではないことを理解するのに充分である。なぜなら彼は、終わりの日に人類に神が示す配慮、及び神の意志も代表しているからである。あなたは天地を揺るがすような彼の語る言葉を聞くことはできず、燃え上がる炎のような彼の目を見ることもできず、また、鉄の杖のような彼の懲らしめを感じることもできないが、彼の言葉から神の怒りを聞き、人類に示している神の憐れみを知ることができる。あなたは神の義なる性質と神の知恵を見ることができ、更に神が全人類に対して持っている配慮をはっきり理解することができる。終わりの日の神の働きは、天にいる神が人々の間で生きていることを地上で人に見せることであり、また人が神を知り、神に従い、神を畏敬し、神を愛することができるようにすることである。これが彼が再び肉に戻った理由である。今日人が見るものは人と同じ姿の神、一つの鼻と二つの目を持つ神、目立たない神であるが、最終的には神はあなた方に次のことを示すだろう。この人の存在がなければ、天と地は膨大な変化にさらされ、この人の存在がなければ、天は薄暗くなり、地上は混沌に陥り、全人類は飢饉と疫病の中で暮らすことになるということを。終わりの日における受肉の神による救いがなければ、神はずっと前に全人類を地獄で滅ぼし尽くしていたはずであるということを、神はあなた方に示すであろう。またこの肉の存在がなければ、あなた方は永遠にずっと罪人のかしらと死体のままであろうということを神は示すであろう。この肉の存在がなければ全人類は避けることのできない災難に直面し、終わりの日の神の人類への一層厳しい懲罰から逃れるのはできないことをあなた方は知るべきである。この普通の肉の誕生がなければ、どのように求めようとも、あなた方にはみな生も死もやってこない状態に陥るだろう。この肉の存在がなければ、今日、あなた方は真理を受け取ることができず、神の玉座の前に来ることもできないだろう。むしろ、あなた方は罪深いのために罰せられるだろう。あなた方は知っているか。神が再び肉に戻って来なければ、誰にも救いの機会はないということを。また、この肉が来なければ、神はずっと以前に古い時代を終わらせていたはずである。これでも、あなた方は神の二度目の受肉をなおも拒むことができるか。あなた方は、この普通の人から大いに恩恵をこうむることができるのに、なぜすぐにこの人を受け入れないのか。

(『言葉は肉において現れる』の「神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを知っているか」より)

28.終わりの日の神の働きのすべてはこの普通の人を通して行われる。彼はすべてのものをあなたに授け、その上、あなたに関わるすべてのことを決定することができる。このような人が、あなた方が思っているように、言及する価値もないほどとるに足りないということがあろうか。彼の真理はあなた方を完全に納得させるのに十分ではないのか。彼の行いによる証しは、あなた方を完全に確信させるには充分でないというのか。あるいは、彼があなた方を導き入れる道は、あなた方にとってついて行く価値がないということか。あなた方が彼に反感を抱き、彼を見捨て、彼を避ける理由は何であろうか。真理を表すのは彼であり、真理を供給するのは彼であり、あなた方が進むべき道を見つけられるようにするのも彼である。あなた方はまだ、これらの真理の内に神の働きの足跡を見つけることができないなどということがあり得ようか。イエスの働きがなければ、人類は十字架から降りることはできないが、今日の受肉がなければ、十字架から降りた人々は神に称賛されることは決してないし、新しい時代に入ることもできない。この普通の人の到来がなければ、あなた方には神のほんとうの顔を見る機会も資格も全くない。何故ならあなた方は皆ずっと前に滅ぼされているはずの人々だからである。神の二度目の受肉の到来の故に、神はあなた方を赦し、あなた方に憐れみを示した。いずれにしても、最後にわたしがあなた方に言い残さなければならない言葉はやはりこうである。「神の受肉であるこの普通の人は、あなた方にとって極めて重要である。これこそが、神が人々の間で成し遂げた偉大なることである。」

(『言葉は肉において現れる』の「神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを知っているか」より)

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