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携挙に関する特別な話題

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2.ある人たちはこう尋ねます。「主イエスはすでに私たちの罪を赦したので、もはや私たちを罪ある者として見られません。 私たちは終りの日における神の裁きと清めの働きを受け入れる必要はありません。 主が来られると、私たちは直接天に携挙され、主と共に祝宴の席につくことができます。 そうではないですか。 」

参考聖書箇所

「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)

「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。」(ヨハネによる福音書 17:17)

「…わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』」。(レビ記 11:45)

「あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。」(ペテロの第一の手紙 1:5)

代表的な言葉

イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きを経験する者のみが真に神を信じる」より

あなたのように、罪を持った人間が罪から贖われたばかりで、変えられておらず、また神に完全にされたこともない状態で、神の心に沿うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪ある人とは見なされなくなったが、あなたが罪人ではないとか、汚れがないとかいうことではない。あなたが変えられないままであれば、どうやって聖人のようになれるというのか。内側では、あなたは不道徳、身勝手さと悪意に悩まされているにもかかわらず、イエスと共に降ることを望むというのは、よほどの運がなければいけない。あなたは、神を信じる上での必要な段階を一つ見落としている。あなたは、単に罪から救われただけで中身は変えられていないのである。あなたが神の心に沿うためには、神が直接あなたを変える働きをし、あなたを清めなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、高潔さを手に入れることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという肝心の段階を経験していないがために、神の良き祝福を共有する資格がないのである。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の財産を受け継ぐことはできないのである。

『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より

神の心と働きは、天地や万物創造のように簡単なものでないことを理解しなくてはならない。なぜなら今日その働きとは、堕落した人たちや極端に麻痺してしまった人たちを変え、創造されながらもサタンに影響を受けてしまった人たちを清めることであり、アダムとエバを創造することではなく、ましてや光を創ったり、あらゆる植物や動物を創造したりすることではない。神の働きは今やサタンによって堕落したすべてのものを清めて取り戻し、自分のものとし、自分の栄光とするためのものである。そのような働きは、人間が想像する天地や万物の創造のように簡単なものではなく、人間が想像するような、サタンを呪いながら底なしの淵へ送るようなものでもない。むしろそれは人間を変えるものであり、否定的なものを肯定的なものに変え、神に属さないものを神の所有物にすることだ。これがこの段階での神の働きの秘められた意味である。あなたがたはそれに気づかなくてはならないし、物事を安易に考え過ぎてはならない。神の働きは、どの普通の働きとも異なるものだ。そのすばらしさは人間の頭では考えることができず、その知恵は人間が獲得できるものではない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きは人間が想像するほど簡単か」より

終わりの日の働きにおいては、言葉はしるしや不思議の顕示よりも力強く、言葉の権威はしるしや不思議の権威を超越する。言葉は人の心のすべての堕落した性質を現す。あなたは自分でそれらを認識することはできない。それらが言葉を通して明らかにされるとき、あなたは当然それを認識し、否定することはできず、完全に確信するであろう。これは言葉の権威ではないであろうか。これは言葉の現在の働きによって得られる成果である。だから、病気を癒したり悪霊を追い出したりすることで、人が罪から完全に救われることはなく、またしるしや不思議を顕すことによっても、すっかり完全にされることはないのである。癒したり悪霊を追い出したりするための権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に残っている。すなわち、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているということである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、清められる。……裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

終わりの日の神の裁き、懲らしめの働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息の中に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られたに違いない。最終的に神によって得られたこのような人々が最後の安息へと入るのである。刑罰や裁きという神の働きの本質は、人類を清めることであり、それは、最後の安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないあるいは安息の中に入ることもできない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの仕事こそが人類の不義を洗い清め、刑罰、裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが識別されるようになる。…悪を罰し、善を賞するという彼の最後の仕事は、ひたすら全人類を完全に浄化するために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息の中に導き入れることができる。彼のこの段階の仕事は彼の最も重要な仕事であり、彼の経営の仕事全体の最後の段階である。もし神が不道徳者たちを全部滅ぼさないで、彼らを残しておけば、全人類はやはり安息の中に入ることができず、神も全人類をよりよい領域中に導き入れることができない。このような仕事では完全に終わりにすることはできない。彼が彼の仕事を終える時、全人類は完全に神聖である。このようになってはじめて、神は安らかに安息の中で生活することができる。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

説教と交わり:

終わりの日の神の働きを受け入れることが、災害の前に軽挙され、主と共に祝宴の席につくことです。

「終わりの日である現在、神は出現されて働きを開始されました。つまり、受肉された全能神は、終わりの日における裁きの働きを既に開始されました。それゆえ、全能神の働きを受け入れられる者たちは最も恵まれている人たちです。宗教関係者の中には、それを聞いても否定して、この言葉を認めず、「私たちの主イエスは真の神であられ、キリストであられる。私たちは、天の御国に入るために、全能神を信じる必要はない。」と言う人々も居ます。宗教関係者は、全員このように考えているのでしょうか。これは神の御旨に則しているでしょうか。主イエスは、あなたは主を信じたならば天の御国に入ることが出来る、とは決して言われませんでした。主はそのようなことを言われませんでした。あなたが贖いの働きを受け入れたならば、主があなたの罪を赦し、あなたが天の御国に入ることを許される、とは言われませんでした。また主は、あなたが主イエスの御名という、4文字にすがったならば、天の御国に入ることが出来る、とも言われませんでした。主はそのようなことを言われませんでした。主は、終わりの日に花婿が来ると聞いて、その花婿と食事をする者は皆幸いである、と言われました。そうした人たちは携挙されて、天の御国に入る機会が与えられます。賢いおとめたちは主の再来を受け入れることが出来ますが、愚かなおとめたちは、主の再来を歓迎しないでしょう。愚かなおとめたちは、最後にどうなったでしょうか。愚かなおとめたちは、見捨てられ、排除されるでしょう。このように、主を信じる者のうち、賢いおとめたちだけが、終わりの日における神の働きを受け入れ、全能神により表された真理によって神の声を認識し、神の再来の確実性を知ることが出来ます。主は、この種の人々と共におられます。彼らは、神と共に食事をし、やがて清められて救われ、天の御国へと連れて行かれるでしょう。」

『いのちに入ることに関する交わりと説教』の(シリーズ131)より

人類の救いは、おもに2つの段階で構成されています。第1に、受肉された神は贖いの働きを行われ、贖罪のためのささげものとなられました。第2に、受肉された神は人間に対する裁きと刑罰、清めを行われます。これが、神が人類を救われる働きの真の証しです。第1段階だけしか受け入れられないならば、つまり贖罪のためのささげものだけを受け入れて、終わりの日における神の裁きと刑罰を受け入れられないならば、贖罪のためのささげものは全く無意味です。贖罪のためのささげものは人間を清めません。それは贖罪のためのささげものには不可能な事です。人間を清め得るのは、裁きと刑罰だけです。それでは、贖罪のためのささげものとは何か、というと、それはあなたに資格を与えます。あなたは、贖罪のためのささげものと主イエスの御名を受け入れたならば、自分の罪をゆるされ、そして神に祈り、神の御前に来て、神の働きを受け入れる資格を与えられます。これは、一種の資格ではないでしょうか。「それは違う。主イエスを受け入れると、すぐに罪はゆるされる。どうしてそれが単なる資格の一種だと言えるのか。」と言う者も居ます。それは正しい考え方でしょうか。そうした主張は成り立つでしょうか。罪のゆるしは清められることと等しいことでしょうか。そうではありません。したがって、あなたの罪のゆるしは、神の恵みであり、神があなたに恵みを授けられることです。神はあなたの罪を無視されますが、それはあなたに罪が無いということではなく、また当然ながら、それはあなたが罪を犯さないということではありません。したがって、罪をゆるされた信者は依然として罪を犯し、従前と同様にうそをつき、だます可能性があり、引き続き罪を犯してそれを告白することを繰り返します。そうではないでしょうか。この真理の側面から見ると、贖罪のためのささげものは人間の清めに相当するでしょうか。贖罪のためのささげものは清めの働きでしょうか。それは単に人間に資格を授けるだけです。その資格を得ると、神に祈り、神の恵みを享受できるようになります。それでは、神の恵みとは何でしょうか。それはあなたをゆるすものですが、それはあなたが清められたということではありません。それは単なるゆるしです。恵みの時代に、贖罪のためのささげものが捧げられた後、人間は天の御国に入る資格を得たでしょうか。(いや得ませんでした。)そのことについて、どのような証拠があるでしょうか。主イエスは、 「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイ 7:21)と言われました。あなたが「主よ、主よ」と言ったならば、あなたの罪は赦されるでしょうか。あなたが天の御国に入ることが出来ないのは、なぜでしょうか。この御言葉によると、あなたは、自分の罪がゆるされても、依然として御国には入れません。そうしたゆるしは、御国に入る資格をあなたに与えません。それは単に、神に祈り、神の御前に来る権利をあなたに与えるだけです。それでは、神が人間のために贖罪のためのささげものとなられたのは、なぜでしょうか。神は聖くあられます。あなたが罪人であり、罪を犯す者であって、かつサタンと同類であるならば、あなたには神の証しに立つ資格がありません。あなたは、神の証しに立つ者としても、神に祈る者としても、不相応です。神に祈っても、あなたは神に恥辱と汚名をもたらすだけでしょう。そうしたわけで、神は贖罪のためのささげものを備えられました。神は、あなたの罪をゆるされました。神はそうした罪を無視され、あなたが神に祈る資格を得られるように、あなたを赦されました。主イエスの働きにより、終わりの日における裁きと刑罰の道がひらかれました。主は贖罪のためのささげものとなられ、それによって人間は主の再臨を授かり、終わりの日における神の裁きと刑罰を受ける資格を得ました。それが贖罪のためのささげものの働きの意味するところでした。

『いのちに入ることに関する交わりと説教』の(シリーズ136)より

終わりの日における神による人間への裁きと刑罰とは、どのような働きなのでしょうか。それは人類を救い、完全にする働きです。それはこれらの人々に救いをもたらし、彼らを神の国へ連れて行く働きです。 天の御国に軽挙されるためには、人は裁きと刑罰を受けなければなりません。神の裁きと刑罰を経験することは、神によって軽挙され天の御国に連れて行かれるという実践的な働きを経験することです。天の御国へ軽挙されるとはどういう意味でしょうか。それは、神の裁きと刑罰を受け入れて、清められ、それによって生き残り、天の御国に入ることです。 「さもなければ、あなたは神に賞賛されることは決してないのだ。」神はどのような人を褒められるのでしょうか。神は、神の裁きと刑罰を経験することによって、清められ完全にされた者たちを褒められます。あなたは今この問題がはっきり分かりますか。これは一つのビジョンです。そしてあなたは神の働きのビジョンをはっきりと見なければなりません。何故なら、これは唯一の機会であり、何千年にひとつという機会であるからです。これは天の御国に入るための唯一の機会です。神の働きを経験したイスラエル人は、このような機会を与えられませんでした。2000年に渡る恵みの時代に、主イエスを信じた者たちも、この機会を与えられませんでした。代わりに、終わりの日に生まれ、神の働きを受け入れた人たちに、この機会が与えられました。もしあなたがこれを逃すなら、神によって称賛される別の機会は決してありません。神によって賞賛される機会がなければ、あなたは天の御国に入れるでしょうか。そういう場合は、あなたは決してそこに入れません。なぜなら、このチャンスは一つしかないからです。

『いのちに入ることに関する交わりと説教』の(シリーズ122)より

前へ:主は明確に預言されました。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)。 主が戻られるとき、主は語り、言葉を発され、神の声を聞いて主を歓迎する者はみな、災害が起こる前に、神の御前に携挙され、主と共に祝宴の席につくということが明らかです。

次へ:終わりの日には、神は主に真理を表し、神の家から始まる裁きの働きを行っています。 終わりの日の神の裁き、刑罰、試練、精錬、及び神によって清められ完全にされ、最終的に真理を私たちの命として得ることを経験する過程のみが、本当に主と共に祝宴の席につくということなのです。

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