終わりの日のキリストから発せられる言葉(選集)

目次
  • 第一部 全宇宙に向かって語った神の言葉 (キリストが初めに語った言葉) (抜粋)
    • 第二部 キリストが諸教会の間を歩いた時の言葉 (抜粋)
      • 第三部 キリストが自分の業の後期に語った言葉 (抜粋)

        十三番目の言葉

        わたしの告げる言葉の中には、わたしの意図がいくつも隠されている。しかし、人はそれを何も知らず、わたしの言葉の表面的な意味だけを受け入れ、表面的な意味だけに従い、わたしの言葉の内にあるわたしの心に気づかず、わたしの言葉の内にあるわたしの思いを悟らない。たとえわたしが、わたしの言葉をありのまま示しても、誰が理解しただろう。わたしはシオンから人類の中にやって来た。わたしは普通の人間として、人間の肉の体でやって来たので、人々はわたしの外見だけを見て、わたしの内のいのちを知らないし、霊の神に気づかず、肉の体を持つ人間だけを知っているのだ。実際の神自身は、人間が知ろうとするに値しないということだろうか。実際の神自身は、人間が「つまびらかに知る」努力に値しないのだろうか。わたしは全人類の堕落を憎んだが、彼らの弱さには同情している。わたしはまた、全人類の古い性質に取り組んでもいる。中国にいるわが民の一人として、あなたがたもまた人類の一員ではないのか。わが民全員の中で、また、わたしの子ら全員の中で、つまり、全人類の中からわたしの選んだ者の中で、あなたがたは最も低いグループに属している。そのため、あなたがたの上に大量のエネルギー、最大量の努力を注いだ。あなたがたは、今日享けている幸いな生活を大切に思っているのではないか。あなたがたは、まだ心を硬くして、わたしに逆らい、自分の計画を立てているのだろうか。わたしがまだ憐れみと愛をもっているのでなければ、全人類はとうの昔にサタンに捕らえられ、その口の「おいしい食べ物」になってしまっていただろう。今日、全人類の中にあって、わたしのためにほんとうに自己を費やし、ほんとうにわたしを愛す者は、いまだに片方の手で数えられるほど少ない。今日、「わが民」という称号[a]は、すでにあなたがたのものとなっているのだろうか。あなたの良心は、ただ氷のように冷たくなったのだろうか。あなたはほんとうに、わたしが求めるような民となるにふさわしいだろうか。過去を振り返り、また今日を見て、どちらのあなたが、わたしの心を満足させるだろうか。誰が本当にわたしの思いをそのまま求めるだろうか。わたしが促さなければ、あなたがたはいまだに目覚めず、冬眠しているかのように、凍ったような状態のままでいただろう。

        逆巻く波の中に、人々はわたしの怒りを見る。渦巻く黒い雲の中、雷雨の中で流されることを恐れるように、人々は恐怖に我を忘れ、逃げ惑う。それから、激しく吹き荒れた雪嵐がようよう通り過ぎると、気持ちがゆったりと穏やかになり、自然の美しい眺めを楽しむ。しかし、そうしたとき、あなたがたの誰が、わたしが人類に抱く無限の愛を経験したろうか。人々の心には、わたしの形はあるが、霊の本質はない。人間は公然とわたしに逆らっているのではないのか。嵐が去ると、人類はみな、新しくなったようだ。患難を通して練られ、光といのちとを再び得たかのようだ。あなたがたもまた、わたしの与えた打撃に耐えて、今日に至る幸運を得たのではないのか。しかし、今日が去り、明日になったとき、あなたがたは大雨の後の清さを保つことができるだろうか。精練された後の忠誠心を維持できるだろうか。今日の従順さを保てるだろうか。あなたがたの忠誠心は、堅固で変わらないままでいられるだろうか。まことに、これは人間のなし得る能力を超えるものではないだろう。毎日毎日、わたしは人間とともに生き、人々の中にあってともに行動する。しかし、誰一人これに気づいた者はいない。わたしの霊の導きがないなら、全人類の中の誰が今のこの時代にまだ存在できただろう。わたしが人間とともに生き、行動するというとき、わたしは誇張しているのだろうか。以前、「わたしは人間を創り、すべての人間を導き、すべての人間に命令した」と言ったが、これは実際そうだったのではないか。これらの経験があなたがたには不十分だということなのだろうか。「奉仕者」という語だけでも、説明するために生涯を費やすに十分なはずだ。実際の経験なしには、人間はけっしてわたしを知るようにならない。また、わたしの言葉によってわたしを知るようにもなれない。しかし、今日わたしは、自らあなたがたの間を訪れている。これで、わたしのことがわかりやすくなるのではないか。わたしの受肉はあなたがたにとっての救いでもあるのではないか。もしわたしが自ら人間の中に来ることがなければ、全人類はとうにもろもろの観念に満たされていただろう。つまり、サタンのものになっていただろうということである。あなたの信じるものは、サタンの姿でしかなく、神自身とは何らの関わりもないからだ。これはわたしによる救いではないのか。

        サタンがわたしの前に来ても、わたしは、その醜悪さに後ずさりなどしないし、そのおぞましさに怯えたりしない。ただ無視する。サタンが誘惑してきても、私はその策略を見通すので、サタンは恥と屈辱に、こそこそと立ち去る。サタンがわたしと戦い、わたしの選んだ民を奪おうとするとき、わたしは肉の身で全力で戦う。そして、肉の身でわたしの民を支え、養い、彼らが容易に倒れたり迷ったりしないようにし、一歩一歩導いて行く。そして、サタンが敗れて引き下がると、民はわたしに栄光をささげ、わたしについて輝かしい証を高らかにするだろう。それゆえ、わたしの経営(救いの)計画から引き立て役を取り払い、すべて底なしの淵に投げ入れる。これがわたしの計画であり、わたしの働きである。あなたがたが生きている間には、このような状況に出会う日が来るだろう。あなたは進んでサタンに捕らわれるのか、それとも、わたしに得られたいのか。これはあなた自身の運命なのだから、よくよく考えなければいけない。

        神の国での生活は、民と神自身との生活だ。すべての人間はわたしの世話と守りの下にあり、すべては赤い大きな竜との命がけの戦いに臨んでいる。この最終的な戦いに勝利するためには、赤い大きな竜を倒すには、すべての人がわたしの国でわたしにすべてをささげなければならない。わたしが「国」というのは、神性の直接の支配下で生きるという意味なのであって、そこではわたしが直接全人類を牧養し、直接訓練するので、全人類がまだ地上にありながら、あたかも天国でのように、第三の天での生活が真に具現化する。わたしは肉の身の中にあっても、肉の限界に縛られはしない。わたしは何度、祈りを聞くために人々の間にやって来たか、また、人々の間を歩いて、彼らのたたえを聞いたことか。人間はけっしてわたしの存在に気づかなかったが、わたしは今でもそのようにして、わたしの働きを行っている。わたしの住むところ、そこにわたしは隠れているのだが、それでも、その住まいですべての敵を打ち破った。わたしの住むところでは、地上に生きるということを真に体験した。わたしの住むところでは、人間のあらゆる言葉と行いとを観察し、全人類を見守り、采配を振っている。もし人間たちがわたしの意図を知ってわたしの心を満足させ、わたしを喜ばせたいと願うのなら、わたしは必ず全人類を祝福しよう。これはわたしが人類のためにしようとしていることではないのか。

        眠りこけている人間たちは、わたしの雷鳴によって、はじめて夢から醒める。目を開くと、多くの人は放たれた冷たい光の輝きに目を痛め、方向感覚を失う。どこから来て、どこへ行くのか、わからない。たいていの人はレーザーのような光線に打たれ、その結果、嵐の中、倒れてしまう。彼らの体は激しい流れにさらわれ、あとかたも残らない。光の中、生き残った者たちは、ついにわたしの顔をはっきりと見ることができる。そのときはじめて、わたしの外貌の幾分かを知り、わたしがまた彼らの肉を罰し、呪うのではないかと深く恐れて、もはやわたしの顔をまともに見ようとしない。どれほどの人々がとどめようもなく泣くだろう。どれほどの人々が絶望にくれるだろう。どれほどの人々が川のようにその血を流すだろう。どれほどの人々があてどなく漂う死体となるだろう。どれほどの人々が光の中に自分の場所を見出し、長い年月の不幸を思い出し、突然胸に痛みを覚え、涙を流すことだろう。どれほど多くの人々が恐ろしい輝きの下、自らのけがれを告白し、行いを改めようと誓うだろう。どれほどの人々が盲い、生きる喜びを失い、そのため、もはや光に気づきもせず、よどんだ状態で終わりの時を待つだろう。そして、どれほどの人々が生活を始めるために帆を揚げ、光の導きの下、明日を待ち望むことだろう。……今日、この状態にいないものはいるだろうか。わたしの光の中にいないものなどいるだろうか。たとえ強い人であっても、あるいは自分は弱いと思っていても、どうしてわたしの光の到来を免れようか。

        1992年3月10日

        脚注:

        a. 原文では「という称号」が省略されている。