祈祷の重要性と実践

あなたがたは現在、どのように祈りを捧げているであろうか。信仰の祈祷の改善とは、どのようにすることであろうか。あなたがたは、祈祷の重要性について、何を理解しているであろうか。あなたがたは、こうした疑問について検討したことがあるだろうか。祈りを捧げない者は、皆神から遠ざかり、自分の意志に従っている。祈祷の欠如は、神からの隔離と神に対する裏切りを示唆する。あなたがたは、祈祷に関して、どのような実経験があるだろうか。今、神の御業は既に終盤を迎えており、神と人間の関係は、祈祷により知る事が出来る。あなたがたは、自分の務めで達成した実績に関して、目下の者がお世辞を言い、賞讃した場合、どのような態度を取るであろうか。あなたがたは、他人が自分に提案した時、どのように反応するであろうか。あなたがたは、神の存在の下で祈りを捧げるだろうか。あなたがたは、自分に問題や困難があるときに祈るが、自分の状況が良好な時や、集会が成功したと感じる時、祈るだろうか。あなたがたのうち、殆どの者が祈らないだろう。あなたがたは、集会が成功した時に祈り、讃美の祈りを捧げるべきである。他人が自分を褒め、自分に真理が備わったと感じて自尊心が高まったならば、あなたがたは誤った状況に陥っているが、それでも自分の心は満足し、祈祷や讃美をすることは無く、いわんや感謝の祈りを捧げることなど無いであろう。こうした状況に陥った結果、次回の集会は退屈なものとなり、自分が言う事は無く、聖霊は御業を行われないであろう。人間は、自分の状況を把握できず、多少の業を行い、その結果を手にする。好ましくない状況では、人間が回復するのに何日かかるかを知るのが困難である。こうした状況が最も危険である。問題が有る時や物事が不明瞭な場合、何かに対する疑いやためらいが有る場合、自分の腐敗した性情が暴露された時、あなたがたは皆、祈る。あなたがたは、自分が何かを求めている時のみ、祈る。あなたがたは、業に成功した時も祈るべきである。あなたがたは、自分の業で一定の成果を実現した時、興奮するが、興奮すると祈らない。あなたがたは常に満足し、自分の中に囚われている。あなたがたのうちには、こうした時に鍛錬を受ける者も居る。つまり、買い物へ出向いた時に、障害に遭遇して問題が起きた場合、店主は辛辣な言葉を吐き、あなたがたは不快になり、抑圧されたように感じるが、自分がどのようにして神に対する罪を犯したかが分からない。事実、たいてい神は外的環境を用いてあなたがたを鍛錬される。神は、たとえば自分と信者以外の者との口論、自分の金が盗まれて不快になることなどの物事を用いられる。最終的に、あなたがたは神の御前で祈り、祈っている時に何らかの言葉を述べるであろう。あなたがたは、自分の状況が不適であったこと、たとえば、自分が自己満足していたことなどに気付き、自分の自己満足に対する嫌悪感を覚えるであろう。自分の祈祷の文言と共に、自分の中の不正な状態が改善される。祈りを捧げるとすぐに、あなたがたに対して聖霊が御業を行われて、神はある種の感情を与えられ、よって、あなたがたはそうした不正な状態から脱するであろう。祈祷で重要な事柄は、願い事をし続けることでも、渇望している時に神を求めることでも無い。あなたがたは、自分が渇望していない場合、祈る必要があるであろうか。あなたがたは、充足している時でも祈る必要がある。

あなたがたは、祈りを捧げることなく長い期間が経過すると、自分に活力があり、否定的でなかったとしても、あるいは特に内部が正常な状態にあると感じていても、自分自身で行動し、その行動には結果が無いと感じることに気付いたであろうか。従前私が述べた事だが「人間は自分自身の物事に従事し、自分自身の行動を取っている。」昨今では、人間は業を行う時に祈らず、神は人間の心に全く無い。そして人間は「業の定めに従って業を行おう。そうすれば、どのような場合でも間違えることや何かの邪魔になることは無いだろう。」と考える。あなたがたは祈らず、その上感謝することも無い。こうした状況は劣悪である。往々にして、あなたがたはこうした状態が誤っていることを知っているが、それを正す適切な方法を知らず、結果として、あなたがたは改善することが出来ない。あなたがたは、自分が真理を理解していたとしても、それを実践出来ないであろうし、内面の不適切な状態 (傲慢であること、腐敗していること、反抗的であること) を自覚しているが、それを正すことも抑制することも出来ないであろう。人間は自分自身の事柄に対する取り組みで手一杯であり、聖霊の御業やはたらきに留意しない。そうした者は、自分自身の事柄のみを考え、その結果聖霊はそうした者を見捨てられる。聖霊がそうした者を見捨てられると、そうした者は暗い、また枯渇していると感じ、糧や喜びを受けることは一切無い。多くの人々が、半年に1回しか祈らない。そうした人々は自分の問題に対処し、自分の業を行うが、退屈して、時々「自分は何をしているのだろう。またこれは何時終わるのだろう。」などと考える。こうした考えが浮かぶ時さえあるであろう。長期にわたり祈らず過ごすことは、危険である。祈祷は不可欠であるのだ。祈ることが全く無い教会生活は極めて退屈で無味単調である。したがって、あなたがたは、自分達が集会に集うとき、常に祈り、讃美を捧げる必要があり、そうすれば聖霊は特に快調に御業を行われるであろう。聖霊が人間に授けられる強さは、無制限である。人間は、使い尽くす事無く、常にその強さを用いることが出来る。その強さは、常に利用できる。自分自身に依存している時、人間は雄弁になる場合もあるが、聖霊がそこで御業を行われていない場合、そうした者は何を成し得るだろうか。多くの場合、人々は、「神よ、あなたに感謝し、あなたを讃えます」など、一言、二言だけで3回から5回程度、祈るだけで、それ以上述べることが無く、口を開くことが出来ない。こうした信仰の段階は、どの程度か分かるであろう。これは極めて危険である。そうではないか。人々は神を信じているものの、神を讃える言葉も、神に感謝する言葉も、神に栄光を帰する言葉も無い。そうした人々は、「神に願いましょう」という言葉でさえも口にするのを憚り、恥ずかしくて口に出来ない。そうした人々は堕落し過ぎである。あなたがたが神について話し、神が心にあることを認めるにもかかわらず、神の存在と係わらず、自分の心が神から遠いのであれば、聖霊は御業を行わないであろう。特にあなたがたのうち指導者である者 (指導者に従う者については述べない) は、毎朝、起床時に祈らなければならない。祈りを捧げた後、その日は殊更良い日となり、豊かになり、聖霊が自分の傍らで常に自分を守られていると感じるであろう。終日にわたって祈らなかった場合や、3日から5日の間、祈らずに過ごした場合、あなたがたは特に孤独で寂しいと感じるであろう。あなたがたは、自分が愛する人々に会いたいと感じ、その衝動と望みは特に強くなるであろう。

私は、人間が全員、ある問題を抱えていることを見出した。つまり、人間は、問題があると神の御前に来るが、祈りは祈り、問題は問題として、祈る時に問題のことを述べるべきではないと考えている。あなたがたが真の祈りを捧げることは殆ど無く、祈り方さえ知らない者も居る。実際には、通常の会話と同様、祈りは専ら自分の心にある物事を述べることである。しかし、祈る時に誤った主張をして、それが神の御旨に則しているか如何を問わず、神に対して、自分が求める物事を与えるよう要求する。その結果、祈りを捧げれば捧げるほど、その祈りは退屈なものとなる。祈りを捧げる時は、自分の心が願い、望み、求めているのが何かを問わず、あるいは自分が完全に理解していない問題に対処することを願っているか、あるいは神に対して求めているのが知恵か、強さか、啓きかを問わず、あなたがたの話し方は、合理的である必要がある。あなたがたが不合理で、跪いて「神よ、私に力を授け、自分の本性を理解させたまえ。私はあなたにそうするよう願う。あるいは、私はあれやこれを私に授けるよう願い、私をこうさせてそうさせるよう願う。」と言う時、その「願う」という言葉には、力の要素があり、それは神に対して圧力をかけて神にそのようにさせるようなものである。さらに、あなたがたは、自分の問題を事前に決めている。あなたがたはそのように祈るにもかかわらず、聖霊は「あなたは問題を自分で事前に決め、自分でそうしたいのであれば、そうした祈りの結果はどうなるだろうか」と理解されている。あなたがたは、祈りにおいて求め、服従すべきである。たとえば、自分に問題が発生し、それをどうしてよいか分からない場合、あなたがたは「神よ、私にこの問題が起きましたが、どうしてよいか分かりません。この問題について、私はあなたにご満足いただくことを望み、あなたを求めることを望み、あなたの御旨が成就することを望み、自分の意向ではなく、あなたの意向に従って行動することを望んでいます。あなたがご存じの通り、人間の意向はあなたの御旨に反し、あなたに反抗し、真理に則しておりません。私はあなたの意向に従って行動することのみを望みます。この問題において私があなたの怒りに触れないよう、私を啓いていただけるよう、あなたに御願いします。」と言う必要がある。祈りにおいては、こうした口調が適切である。あなたがたが単に「神よ、あなたにあれとこれをして貰えるよう願います。助け導いてください、私が業を十分に行えるよう適切な環境と人々を用意してください」などといった祈り終わっても、自分は神の御旨を知らない。なぜなら、あなたがたは自分の意向に従って神に御業を行わせようとしているからである。

ここでは、自分が祈りで述べる物事が合理的であるかどうかを把握する必要がある。自分が愚かであるかどうか、意図してそのように祈っているかどうかを問わず、あなたがたの祈りが合理的でない場合、聖霊は自分に対して御業を行われない。したがって、あなたがたが祈る時に述べる言葉は合理的である必要があり、かつそれを適切な口調で、たとえば「神よ、あなたは私の弱さや反逆的部分を知っておられます。どうか、せめて私がこの環境の試練に耐えられる力をください。しかし、あなたの御旨に従って力をください。私の願いはそれだけです。また私はあなたの御旨を知りませんが、あなたの御旨がなされることを望みます。あなたが私を務めで使われるか、引き立て役とされるかどうかを問わず、いずれも私の望むところです。しかし、この問題において私があなたにご満足いただけますよう、強さと知恵をください。ただあなたのご計画に従うことを望みます。」と述べる必要がある。このように祈ると、その後は確固とした気持になるであろう。あなたがたが、頑なに願い続けるだけであれば、願い終わっても、それは空虚な言葉の羅列に過ぎない。なぜなら、あなたがたは自分の意向を予め決めているからである。あなたがたが跪いて祈る時、あなたがたは、たとえば「神よ、あなたは私の反逆的部分や状況を知っておられます。この問題において、私を啓き、あなたの御旨を私が理解できるようにしていただけるよう、あなたに御願いします。私は、あなたの計画全てに従うことだけを望み、私の心はあなたに従うことを望んでいます。」などと述べる必要がある。あなたがたがこのように祈った場合、聖霊が自分を感激させるであろう。またその祈りが誤った方向である場合、その祈りは退屈で無味乾燥なものとなり、聖霊は自分を感激させないであろう。あなたがたは、単にぶつぶつと独り言を言ったり、黙して祈ったり、目を閉じて好きな言葉を少し述べたりしているだけで、それは単なる手抜きである。あなたがたがぞんざいである場合、聖霊は御業を行われるだろうか。神の御前に来る者は、皆適切な態度を取り、敬いを示す必要がある。律法の時代に祭司が犠牲を捧げたのを見ると、祭司は皆跪いていた。祈祷はそれほど単純では無い。人々は神の御前に来るが、そうした人々は依然として反抗的であり、慎むことを知らず、床に伏して目を閉じようとする。これは容赦されない。私がこうした話をするのは、人々に対して特定の規則に従うことを要求するためではな。最低限度として、そうした人々の心が神に向かい、神の御前では敬いの態度を取る必要がある。

あなたがたの祈祷は理知に欠けていることが極めて多く、そうした祈祷は全て、「神よ、あなたが私を指導者とされたのであるから、あなたは、私の業すべてを適切なものとし、あなたの御業が阻害されないよう、また神の家族の利益が損なわれないようにする必要があります。あなたは、このようにして私に業を行わせる必要があります」などと言った口調である。これは必要であろうか。この祈祷は不合理である。あなたがたが神の御前に来て、こうして不合理に祈ったとしたら、神は自分に対して御業を行うことが出来るであろうか。あなたがたがキリストの御前に来て、私に理知無く話したならば、私はそれを聞くだろうか。あなたがたは、退けられるであろう。それは、御霊の御前やキリストの御前に居るのと同じではなかろうか。あなたがたは、神の御前に来て祈る時、合理的に話す方法や、自分の内面の問題を敬いとするために言うべき事柄について考える必要があり、しかる後に祈りを捧げれば、あなたがたは聖別されるであろう。人間は、祈る時に、跪き、目を閉じて黙し、単に「神よ、神よ」と述べるだけのことが多々ある。そうした人々は、長いことその二言を述べるだけで、それ以外に何も言わない。それは何故であろうか。あなたがたの状況は正しくない。あなたがたに、こうした状況が起きるだろうか。あなたがたの現況に関する限り、あなたがたは自分に出来ることと、それをどの程度出来るか、そして自分が誰かを知っている。しかし、あなたがたの状況が異常な場合が多々ある。あなたがたは、時として自分の状況が正されるが、それがどのように正されたかを知らず、また黙して祈り、それは自分が教育されていないからだと考えることが多々ある。あなたがたは、祈るために、教育される必要があるだろうか。祈祷は論文の執筆ではなく、単に普通の人間の理知に従って話をすることである。イエスの祈祷を見ると (イエスの祈祷について述べているのは、人間を主と同じ観点や論点に立たせるためでは無い)、主はゲツセマネの園で、「できることなら」、すなわち「可能であれば」と祈られた。それは諮問により行われたのであり、「あなたに願います」と述べて行われたのではない。主は祈祷において服従の精神を保たれ、主は服従の姿勢をもって「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈られた。主は2度目もこれと同様にして祈られ、そして3度目には「神の御心が行われますように。」と祈られた。主は父なる神の御心を把握して「あなたの御心が行われますように。」と言われた。主は、少しも主ご自身を選ばれることなく完全に服従することが出来た。主は「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と言われた。それはどのような意味であろうか。それは息を引き取るまで十字架で血を流すこと、そして大きな苦痛のことを思ったためである。この御言葉は死が関連するものであり、主が父なる神の御心を完全に把握していなかったという前提で述べられたものである。したがって、主は、苦痛のことを念頭に置かれ、そのように祈ることが出来たため、極めて従順であられた。主の祈りは正常であり、主は取り引きをしたり、それを取り消す必要があると言ったりするためではなく、むしろ主が知らない状況において神の御旨を求めるために祈られた。主は、1度目に祈られた時、理解できずに「できることなら... そうではなく、御心のままに。」と言われた。主は服従した状態で神に祈られた。主は2度目も同様に祈られた。主は合計3度祈られ (この3度の祈りが僅か3日間で行われたのではないことは勿論である)、最後の祈りにおいて、主は神の御旨を完全に理解された。 それ以後、主は何も願われなかった。主の1度目と2度目の祈りにおいて、主は求められており、主は依然として服従の状態にあられた。しかし、人間は、このようには祈らない。人間は「神よ、ああして、こうしてください。またあれとこれで私を導いてください。それに、私のために状況を用意してください」などと言う。おそらく、神はあなたがたに適した状況を用意されず、あなたがたに困難を受けさせるであろう。人間が常に「神よ、私のために状況を用意し、力をください」などと言うならば、祈りは不合理となるであろう。あなたがたには、祈る時に理知を備え、服従を前提条件として祈る必要がある。何かを決めてはならない。あなたがたは、自分が祈る前に、神に自分が何をすべきか伺い、述べる必要があると、自分で何かを決めているが、こうした祈りは不合理である。御霊が人間の祈りを全く聞かれないので、その祈りが退屈なものとなることが往々にしてある。

人間は、自分が跪いて具体的でない領域で祈るにもかかわらず、人間は物を言い、祈る。あなたがたは、人間の祈りは聖霊が御業を行われる経路でもあることを知る必要がある。人間が祈り、正しい状態で求める時、それと同時に聖霊も御業を行うであろう。これら2つの側面により、神と人間が相互調和を実現することが可能である。つまり、人間の問題対処を支援するのは、神であられる。これは神の御前における人間の協力の一種であり、神が人間を完全にされる1つの方法でもある。それにもまして、これは人間がいのちへの真摯な取り組みを正常に行う道でもあり、儀式ではない。祈祷の本質は、単にある者の強さを刺激するものでも、標語を唱えることでもない。もしそれが祈祷の本質であったとしたら、一連の身振りを行い、標語を大声で言うだけでよく、何かを願うことも崇拝することも敬うことも不要であろう。祈祷の重要性は極めて深遠である。あなたがたは、祈る方法を知り、また服従して合理的かつ頻繁に祈りを捧げるならば、自分の内面がことさら平常であると頻繁に感じるであろう。あなたがたが数件の標語を用いて頻繁に祈り、自分に負担が無く、祈りにおいて合理的に話す方法や真の崇拝でない話し方は何かについて考えず、かつそうした問題について真剣さが一切無いのであれば、あなたがたの祈りが成功することは無く、自分の内面の状況は常に異常になり、また正常な理知とは何か、真の服従とは何か、真の崇拝とは何か、どのような立場にあるべきかに関する教訓に対する真摯な取り組みを深遠に行うことは決して出来ないであろう。これらは全て微妙な問題である。殆どの者は滅多に私と接することが無いので、そうした者は御霊の御前に来て祈ることしか出来ない。あなたがたが祈る時、その祈りには、自分の言葉が合理的かどうか、その言葉が真の崇拝に関するものかどうか、自分が願う物事を神が讃えられるかどうか、自分の言葉が取引に関連するかどうか、その言葉に人間の不浄さがあるかどうか、自分の言葉や行動、決意が真理に則しているかどうか、自分には神に対する深い畏敬の念があり、神に服従しているかどうか、自分が真に神を神として扱っているかどうかが関与する。あなたがたは、自分がキリストの御前に居ない時の自分の祈りの言葉に対して真剣であり、それに熱意を持つ必要がある。キリストの御前で正常であることが出来るようになるためには、その方法によるしか無い。あなたがたは、自分が御霊の御前で真剣ではないならば、人 (キリスト) の御前に来た時、自分が常に矛盾したり、自分の言葉に理知が無かったり、自分の言葉が正直でなかったり、常に自分の言葉や行動を阻害するであろう。あなたがたは、問題が解消された後に、常に自分を咎めるであろう。あなたがたが常に自分を咎めているのは何故だろうか。それは、神への崇拝や神の取り扱い方において、あなたがたが恒常的に真理の理解を欠いているからである。したがって、あなたがたは、自分に問題が発生した時、困惑し、実践する方法がわからず、常に誤った方法で行動するであろう。神を信じる者が神の御前に来る手段は何であろうか。それは祈りである。あなたがたが祈る時は、理知のある話をする方法、適切な場所で他人に話をする方法、服従した状態で話をする方法、自分の心が不快になる話し方 (誠意を持って述べられた祈りを除く) について検討しなければならない。あなたがたが一定期間実践した後、神の御前に来る方が格段に良いであろう。通常、あなたがたは、御霊の御前における祈祷が不合理であり、自分がそのことに重点を置くことは無い。あなたがたは、神が自分を見ておられないと考えているので、言いたいことが言える上に、失言があっても問題ではない。あなたがたは一日中不注意で頭が混乱した状態であり、その結果自分がキリストの御前に来ると、誤った言動をしてしまうことを恐れる。あなたがたは、失言を口にするのを恐れるが、失言を口にするであろうし、また誤った行動を取るのを恐れるが、誤りは不可避である。また負い目を作ることを恐れるが、必ず負い目を作り、その負い目を償還することは出来ないであろう。あなたがたは、頻繁にキリストに接することも、キリストから直接話を聞くことも出来ない。あなたがたに出来るのは、頻繁に御霊の御前で祈り、求めて服従することだけである。なぜなら、あなたがたは、私が直接話をしても、自分自身に頼ってこの道を進む必要があるからである。今後、あなたがたは、自分が祈る時に言う言葉に、一層注意する必要がある。あなたがたは、自分が祈り、考え、感じて、聖霊に啓かれるにつれ、この側面で進歩するであろう。聖霊による啓示の感覚は、特に微妙である。あなたがたは、自分にそうした微妙な感覚や意識があり、その後に行動して物事に対処したり、キリストに接して物事に対処したならば、理知が有る言葉と無い言葉、理知が有る物事と無い物事を認識できるであろう。こうしたことにより、祈りの目的が達成される。

あなたがたは、祈りの扱い方について真剣である必要がある。あなたがたが床で横になって祈り、神が自分の話を聞かれると思っているのであれば、あなたがたは敬意を示して居ない。聖書で述べられている多くの人々について考えると、そうした人々は、祈りを捧げ、何かを相談した後、考えることなく結論に達していない。万事について、最終的には祈りにより聖霊が決定された。エリコは祈りにより攻められた。ニネベの人々も、祈りにより悔い改めて神に赦しを求めた。祈りは儀式ではなく、祈りには大きな重要性がある。人々の祈りから、何が分かるであろうか。人々は神に直接仕えている。あなたがたは、これを儀式であると考えるのであれば、神に十分仕えないであろう。あなたがたの祈りが熱心でも誠実でも無いのであれば、神はあなたがたのことを考慮されず、無視されるであろう、またあなたがたが無視されたならば、聖霊はあなたがたに御業を行わないであろう、と言える。ゆえに、あなたがたは業を行う気持ちをくじかれる。今後、あなたがたは、祈り無しでは業を行えないであろう。業と務めをもたらすのは、祈りである。あなたがたは、自分が指導者であり、神に仕える者であると言うが、祈祷に自らを献じたことは無く、祈祷において真剣であったことが無い。このように務めるならば、あなたがたは失敗するであろう。人間にどのような資格があって、祈る必要が無くなるというのか。それは神が受肉されたからであろうか。それが理由ではない。私も時々祈る。イエスが肉にあられ、主に重要な問題が降りかかり、主が祈りを捧げられた時のことを考える必要がある。主は山で祈られ、小舟で祈られ、園で祈られ、また弟子達を導き、祈らせた。あなたがたは、頻繁に神の御前で祈るのであれば、それはあなたがたが神を真剣に考えていることを示している。あなたがたは、自分が頻繁に業を行うが、頻繁に祈らず、主に隠れてあれこれと行動するのであれば、神に仕えておらず、自分の用事を行っているだけである。自分の用事を行っているのであれば、あなたがたは咎められるのではなかろうか。端から見ると、あなたがたは妨害するようなことは何もしていないように思われ、また冒涜していないように思われるが、あなたがたは自分の用事を行っている。あなたがたは邪魔をしているのではなかろうか。そうではないか。端から見る限り、あなたがたは邪魔をしているようには思われないが、実は神を拒否している。

あらゆる者が、そうした事を経験する。つまり、自分が望まない状態で起きる物事は、特に耐え難い。あなたがたは、不快であれば誰かに相談し、その後暫くは不快感が無くなるであろう。不快感を避けても、問題は解決されない。業を行っている時に困難が起きると追い詰められたと感じ、また剪定や取り計らいが自分に起きると、殊更追い詰められたと感じる。あなたがたは、こうした不快な状況の最中に、何度神の御前に来て祈りを捧げたであろうか。毎回、あなたがたは自分で調整を行い、わけのわからない改善を行ってきた。このように、人間は神を信じるが、自分の心に神は存在しない。人間は皆、盲目に無価値な物事を行っており、それはあたかも、くず入れをあさり、あれこれと少しずつ拾って自分の袋に入れる乞食のようであるが、それは無価値であり、完全に盲目な状態で行われる。人間が頻繁に正しい道を逸れるのを見かける。人間は時々正しい道から離れる。そうした事から、人間の本性を知ることが出来る。このことから何が分かるであろうか。人間の本性は、裏切ることである。人間には、業を行う時に神が不在である。人間は「神を信じている私に、どうして神が不在であられようか。私は神のために業を行っているではないか。」と考える者さえ居る。何をする時も、あなたがたの心には神が居られず、あなたがたは神から離れ、主を裏切る。祈りは最も重大な事である。あなたがたは、祈りもせずに仕えるのであれば、無駄に仕えている。あなたがたの状況は、さらに異常となり、成果は減るであろう。祈りで重要なのは、祈る時にあなたがたの言葉がいかに優れているかでは無く、あなたがたは自分の心の言葉を述べ、自分の困難に従って正直に話をするだけでよい。創造物の一員としての観点で、また服従する観点で「神よ、あなたは私の心が固すぎる事をご存じです。神よ、この問題において私を導いてください。あなたは、私に弱い部分があること、足りない部分が多過ぎること、私はあなたが用いられるには不適であることをご存じです。私は反抗的で、自分が物事を行う時あなたの御業を妨害し、私の行動はあなたの御心に則していません。あなたご自身の御業を行っていただくことを願います。私共は協力するのみです。」というように話す必要がある。あなたがたは、こうした言葉を述べられないのであれば、絶望的である。「自分が祈る時は、その祈りが合理的であるかどうかを判断する必要がある。私は祈ることが出来ない。」と考える者も居る。これは問題無い。しばらく練習すれば身につくであろう。祈りを捧げれば、不適な言葉があるかどうか分かるであろう。祈りと神の関係は最も直接的であり、人間と神の関係は、祈祷時に最も緊密なものとなる。通常、何かする時に、あなたがたはすぐ跪いて祈ることが出来るだろうか、というと、出来ない。人間と神の関係は、人間が跪いて祈る時に最も親しくなる。あなたがたが神の御言葉を読んでいる時、祈ってからもう一度読むと、異なる感覚を覚えるであろう。あなたがたが一定期間祈らずに過ごした場合、神の御言葉を読んだ時に御言葉を理解できないであろう。読み終えた時に、御言葉の意味が分からないであろう。

神の御前で祈り求める事は、神に対してあれこれとして貰うことを強制することでは無い。合理的な祈りとは、どのようなものであろうか。不合理な祈りとは、どのようなものであろうか。しばらく経験を積めば、理解できるであろう。たとえば、今回あなたがたが祈った後、聖霊はそのようにされることも、自分をそのように導かれることも無いと感じる。次回あなたがたが祈る時、あなたがたは以前のような祈り方で、神を強制しようとしたり、自分の意志に従って物事を願ったりしないであろう。あなたがたが再度祈る時、あなたがたは「神よ、全てはあなたの御心のままに行われます。」などと言うであろう。あなたがたは、この方法に重点を置いて暫く模索する限り、「不合理」とは何かを知るであろう。また、人々が自分の意向に従って祈る時、自分が退屈し、言葉を失い、奇妙になり、言葉無しで話をするようになる、と霊で感じるような状況もある。話せば話すほど、祈りが一層奇妙になる。それは、あなたがたがこのように祈る時、その祈りは完全に肉に従っており、聖霊はそのような方法で御業を行われることも導かれることも無いことを示して居る。これは模索と経験の問題である。たとえ私が今すぐあなたがたに話すのを止めたとしても、あなたがたがそれを経験すると、あなたがたに特殊な問題が起きるかも知れない。祈りでは、たとえば「神よ、あなたは私の腐敗をご存じであり、今日、私は再び不合理なことをしてしまいました。私の内面には意図がありましたが、私は不忠です。その時、私はあなたの御心や真理ではなく、むしろ自分の意向に従って行動し、自分自身を守りました。現在、私は自分の腐敗を認めて、あなたが私をさらに啓き、私が真理を理解して実践出来るようにしていただけるよう、願います。」など、専ら正直に話しをすることが重要である。実際の問題について正直に告白し、述べるように話をすること。たとえば、「神よ、私は自分の腐敗を打ち破り、正常を変えて真理を実践することを望んでいます。」多くの場合、人々は真に祈らず、単に考えて反省し、精神的意識と悔い改めしか無い。しかし、こうした人々は真理を十分に理解していないが、それは祈りにより行う必要がある事である。祈祷の後、自分の理解は、反省していただけの時よりも格段に深まるであろう。聖霊は御業を行われて、あなたがたを感激させ、状況、感情、そして主があなたがたに与える感激により、その問題の深い理解を得ることができるようになり、自分の後悔の程度が特に深まるであろう。あなたがたは、その問題を深く後悔し、したがってそれを十分に理解するであろう。あなたがたが、自分の事をぞんざいに検証し、その後適切な実践の道が無く、真理において何ら進歩が無いのであれば、あなたがたは変化出来ないであろう。例えば、人間は決断した時「私は神のために自分を熱心に費やす必要があり、神の愛に熱心に報いる必要がある。」と考える。あなたがたに、こうした自分が費やすことを動機付ける意向がある時、必ずしも自分の情熱が極めて高いということは無く、また必ずしも自分の心がその側面に完全に傾注しているということは無いであろう。しかい、祈った時にあなたがたが感激してから決断した場合は「私は苦難を受け、あなたの試練を受け、あなたに完全に服従することを望みます。苦難がいくつあるかを問わず、私はあなたの愛い報いることを望みます。私はあなたの大いなる愛と讃美を享受しています。私は心の底からあなたに感謝し、あなたに栄光を帰します。」と考える。この種の祈りでは、あなたがたに力が与えられる。それが祈りにより得られる結果である。祈りを捧げた後、聖霊が人々を啓き照らし、導き、また真理と、真理を実践する勇気を人々に与えられるであろう。毎日神の御言葉を読んでも、こうした結果を生み出せない人々も居るのが分かる。そうした人々は、神の御言葉を読んで交流した後、自分の心が明るくなり、道を得るであろう。聖霊もあなたがたに感激、負担、導きを与えられた場合、それは大きく異なるであろう。神の御言葉を読んだ後に少し感激し、その時涙を流した場合、その感激は、暫く効果を及ぼしてから、すぐに減衰して無くなるであろう。涙を流して祈りを捧げた場合、情熱的な祈りを捧げた場合、あるいは真摯な祈りを捧げた場合、あなたがたの活力は、祈りの後、3日間は減衰しないであろう。皆にこうした経験があるのではなかろうか。これが祈りにより得られる結果である。祈りは、人々が神の御前に来て神がそうした人々に与える意向であられる物事を授かれるようにすることを目的とする。あなたがたが頻繁に祈り、神の御前に来るのであれば、あなたがたは神と継続的な関係を持ち、常に主に感激させられ、主の恵みを受け、したがって自分が変化するであろう。あなたがたの状態は継続的に改善され、退化することは無いであろう。兄弟姉妹が集まって祈祷する時は殊更である。祈りが終わった時、特に強い活力があり、皆の顔が汗に覆われ、皆多くの物事を得たと感じるであろう。事実、数日間を共にした後、兄弟姉妹はそれほど交わることが無く、兄弟姉妹の活力を喚起したのは祈りであって、兄弟姉妹は自分の家族と世界を一気に捨てること、神を除くすべてを一気に捨てることが出来るようになるよう望んだ。兄弟姉妹の活力が極めて強いことが分かる。聖霊は御業を行われて人間にこの活力を与え、人間はそれを無限に享受する。あなたがたがこの力に頼らず、自分の固く自分の心を決め、首を力ませて頑なになったとしたら、あるいは自分の意志や野望に依存したら、あなたがたは前進できるであろうか。あなたがたはそれほど前進しないうちに躓き倒れ、進む時にそうした活力は得られないであろう。人間は、最初から最後まで神との接触を保つ必要があるが、人間は進むにつれて神を捨て去る。神は神であられ、人間は人間であり、それぞれ別の道を歩む。神は御言葉を述べられ、人間は独自の道を行くが、それらは2つの別個の道である。人間に活力が無い時、人間は神の御前に来て少し話をして力を借りる。人間は、少し力を借りて走り去る。人間は暫く走った後に活力が尽き、神の御前に戻ってもう少し活力を求める。人間はこうした状態であり、それほど長期にわたって走り続けられない。人間は、神から去ると道を失う。

私は、抑制能力が特に不足している人々が多いことに気付いた。それは何故であろうか。それは、人々は全く祈らず、祈らないので放埒になり、放埒になると畏敬の念が無くなるからである。こうした人々は単に人間性や自分の腐敗した性情に配慮するだけである。人々は聖霊が御業を行い、人々を感激させる実際の方法や、自分は日常生活において、どのようにして神の御心を求めるべきであるかを無視する。人々の神への信仰は、単なる信仰でしかなく霊的な部分が全く無い。これら2つの事柄は、別個の物事である。それは単なる物質世界であり、霊を否定する。ゆえに、人々は、歩むうちに道を逸れて頭からどぶに落ちる。祈りが無ければ、人間の真理の実践は、特定の範囲の単一の原則に従うのみである。すなわち、人間は単に規則を実践する。あなたがたは、天の采配を満たし、よって神の怒りを買っては居ないが、単に規則に従っているだけである。昨今の人々の霊的な感情は麻痺し、動きが鈍い。人々の神との関係には、霊的に感激することや啓かれることなど、微妙な物事が多数あるが、人々は鈍感でそれを感じない。それは歌を歌うようなものであり、人々は頻繁に歌わない曲をよく覚えていない。人々は、神の御言葉を読まず、霊的生活の物事に全く接していない。人々は、自分の状況を把握していない。祈りも教会生活も無ければ、霊的生活の状況を把握することは不可能である。あなたがたは、そう感じるだろうか。神を信じるためには、そのように祈る必要がある。祈り無しでは、神への信仰の像を得ることは出来ない。現在、規制は不要であり、人間は何時でも何処でも祈ることができる、と言われている。そうしたわけで、滅多に祈らない人々も居り、そうした人々は、朝、起床しても祈らない。そうした人々は、起床後に髪をとかし、顔を洗って読書して歌を歌う。そして夜になると、祈らずに横になって就寝する。あなたがたは、そう感じるだろうか。あなたがたは、祈らずに神の御言葉を読むのであれば、神の御言葉を読み、それを理解できない、信者以外の者と同様である。祈りが無ければ、自分の心は完全に献身的になることが出来ず、自分の霊で微妙な感覚を覚えることも、感激することも無い。あなたがたは麻痺し、動きが鈍り、自分の性情を変える事に関して、単に外面的な物事を言うだけになるであろう。あなたがたは神を信仰しているかのように思われるが、実際には、自分の感情は浅薄である。あなたがたは神を信じていないかのように思われ、どうしても祈ることが出来ない。これは極めて危険であり、乏しいことである。霊に帰って祈ることは、その他の多忙な業を阻害することは無い。阻害しないだけでなく、その業にも利点がある。