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神の三段階の働きだけが神の完全なる人類救済の働きである

恵みの時代に主イエス様を本当に信じた人たちは全て、イエス様が人類を贖う御働きの一段階を本当になさったと認めることができました。主は十字架に釘付けにされることで堕落した人類の罪のための生贄になることに成功され、そのおかげで堕落した人間が神様の御前に来ることができ、主イエス様の御名によって祈り、自らの罪を認め、自らの罪の全てを余すところなく神様に告白し、悔い改め、そうして神様の容赦と赦しを得ることができたのです。人々は直ちに赦されたことの平安と喜びを心の奥底から喜ぶことができ、それから主イエス様の御名によって祈り願うならばそれが何であろうと神様はそれを授けてくださいます。求めていたものを見つけることができ、扉を叩けば主が開いてくださり、このようにして人々は神様の真実と全能性を見ることができ、また神様の御性質が慈しみと愛に満ちていることを知りました。これは主イエス様の贖いの御働きが正真正銘のものであったことを完全に証明します。このおかげで人々は神様に対する本当の信仰を育てたのです。しかし人々は夢中になって、自らの罪の赦しを得るために主イエス様の罪のための生贄に頼ることができ、救われて天の御国に入るために御恵みに頼れると信じながらも、サタンの罪深い本性の束縛への服従を味わったがゆえに苦悶し、頻繁に罪を犯し、神様に抵抗し神様を恥ずかしめました。ですから彼らが聖書のヘブル書に「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちに もなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。」(ヘブル人への手紙10章26節)とあるのを読んだとき、突然疑問を抱きました。「このように頻繁に罪を犯す者が天の御国に入ることができるのでしょうか。」主を信じる者が罪を赦されることは事実ですが、人々の罪深い本性は変わっても解消してもいないので、いつものように罪を犯して神様に抵抗し続けます。これも事実です。そして、神様は聖なる義なる神様です。頻繁に罪を犯して神様に抵抗するこの堕落した人間を、神様は本当に天の御国に入ることをお許しになることができるのでしょうか。特に、ヨハネの黙示録において、神様の右手に七つの封印で閉じられた巻物があり、それを開くに値する人がいなく、ヨハネが泣くところを読むと、神様の人類を救う御働きには何かまだ明かされていない隠された奥義があるに違いないと、神様の人類を救う御働きが絶対にそれほど簡単ではありえないと人々は感じます。これらの事柄は神様を信じる全ての者にとって計り知れない奥義です。それは、主に呼びかける全ての者が天の御国に入れるとは主イエス様は一度もおっしゃらなかったからです。天の御父の御心に従う者だけが天の御国に入れると主イエス様はおっしゃったのです。これは主イエス様を信じる全ての者を悩ませます。神様を信じること、救いを得ること、天の御国に入ることは容易なことではないようです。主を信じるだけで救いを得て天の御国に入れるという信仰における想像と期待からは大幅に違います。全ての宗教的な教会では「信仰によって義と認められる」、「恵みによって救われる」と言われますが、どのような人たちが神様の御心に従う者であり、本当に救われること、天の御国に入れることとは何であるかを誰も説明することができません。実際にこれを明確に説明できる人はいません。しかし、宗教界の全ての人が天を見上げて主イエス様が雲に乗って降りてこられるのを期待していた間、神様はずっとそれ以前に静かに受肉され、人の子となり密かに中国本土に降りられたのです。1991年に、神様の家を初めに、神様は正式に裁きの御働きを開始なさいました。受肉された全能神は人類を救う真理の全てを表現し、人類を救う神様の経営の奥義を完全に明らかにされ、黙示録にある完璧に封印された巻物を完全に開かれました。そのとき初めて、終わりの日の神様の御働きを受け入れた神様の選ばれた人々は、恵みの時代に主イエス様がなさった贖いの御働きが、終わりの日の神様の人類に対する裁き徹底的に人類を救う御働きの道を備えるためだけのものであったことを見たのです。終わりの日の神様の裁きと刑罰の御働きを受け入れる者だけが完全に清められ、救いを得、彼らの罪を脱ぎ捨て、心から神様に向き直って神様の御前で生きることができ、本当に神様に従い神様を礼拝する人々になれるのです。神様の選ばれた人々は、終わりの日に戻られた主イエス様、全能神がなされた御働きが徹底的に人類を救い時代を終わらせる御働きであることを今になって初めて本当に見たのです。終わりの日の全能神の御働きの中で、神様は完全に全ての真理と全ての奥義を明らかにされ、人々に目を大きく見開いて存分に見ることができるようになさいました。神様は黙示録の小さな巻物の奥義も明かされて、さらけ出されました。「終わりの日にわたしがわたしの巻物を開く時、わたしはあなたがたにこのことを告げよう。(巻物とは、わたしが語った全ての言葉を指す。終わりの日のわたしの言葉──それが、その巻物の内容である)」(「キリストが最初に発した言葉と証し」より)「三つの段階の働きは、神による人の経営の内部事情であり、全宇宙の福音の到来であり、全人類における最大の奥義であり、また福音を述べ伝えることの基盤でもあるのだ。もしあなたが自分のいのちに関係する単純な真理を理解することだけに集中し、この最大の奥義とビジョンに関しては一切知らないとすれば、あなたのいのちは、ただ眺めること以外に役に立たない不良品と言えるのではないか。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)全能神の御言葉は、神様の御働きの三段階のみが人類を救う完全な御働きであることを余すところなく証明しました。神様の人類を救う経営の奥義が完全に開かれたことは明白です。どうしてこれが人々にとって大きな喜びでないことがあるでしょう。

全能神によって表現された全ての御言葉の中には、神様の御働きの三段階の経営の奥義に関する箇所が多くあります。ここにはそのほんの数箇所が引用されていますが、人々が熱心にそれら全てを読んで真剣に考えれば、神様の御働きの三段階の知識と理解を少しは得ることができます。

「六千年にわたるわたしの経営(救いの)計画全体は、三つの段階、あるいは時代から成る。まず律法の時代、次に恵みの時代(贖いの時代でもある)、そして最後に神の国の時代である。これら三つの時代におけるわたしの働きは、各時代の性質によって異なるが、それぞれの段階で人の必要性に対応している、というよりむしろ、わたしに対する戦いでサタンが用いるその策略に応じて異なっている。わたしの働きの目的は、サタンを打ち負かし、わたしの知恵と全能を明らかにし、サタンの策略をすべてあばくことで、その支配下に生きるすべての人間を救うことである。それはわたしの知恵と全能を示すと同時に、サタンのおぞましさを明らかにするものである。それに加えてわたしの創造物が善悪を区別し、わたしこそがすべての物を治める者であることを認識し、サタンが人類の敵、下の下、悪い者であることがはっきり分かるよう教え、善悪、真理と偽り、聖さと汚れ、偉大さと卑劣の違いを明白にすることである。それにより無知な人間が、人間を堕落させるのはわたしではないこと、創造主であるわたしだけが人間を救うことができ、楽しみとなる物事を授けることができることを、わたしに対して証しし、わたしこそがすべての物を治める者であり、サタンは後にわたしに背いたわたしの被造物の一つにすぎないと彼らは知ることができる。わたしの六千年の経営(救いの)計画は、次の効果を得るために三つの段階に分けられている。わたしの創造物がわたしの証人となり、わたしの心を知り、わたしこそが真理であるのを知ることである。」(『言葉は肉において現れる』の「贖いの時代における働きについての真実」より)

「三つの段階の働きの中心は人の救済、すなわち被造物すべてに創造主を崇めさせることである。従って、この働きのどの段階も非常に重要である。神は意味や価値のないことは決して行わない。一方では、働きのこの段階はひとつの時代を始めることと過去のふたつの時代を終わらせることから成っている。他方ではすべての人間の観念と人間のすべての古い信念や認識方法を打ち砕くことから成っている。過去ふたつの時代の働きは異なる人間の観念に従って行われた。しかし、今回の段階は完全に人間の観念を除去しており、それにより完全に人々を征服する。」(『言葉は肉において現れる』の「神はすべての被造物の主である」より)

「神の三段階の働きだけが神の性質の全てを余すところなく表せるのであり、人類全体を救う神の意図、そして人類救いの全過程を完全に示すことができるのである。これは、神がサタンを打ち負かし人類を取り戻したということの証拠であり、神の勝利の証拠であり、そして神の性質全体の表明でもある。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)

「三つの段階の働きは、神の経営(救い)全体の核心にあるもので、その三つの段階の中に、神の性質、そして神であるものが表されているのである。神の三段階の働きを知らない者は、神がどのようにしてその性質を表現するかを理解できないだけでなく、神の働きの英知も知らず、そして神が人類を救う様々なやり方や、人類全体に対する神の心を知らないままでいる。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)

「三つの段階の働きは、神の働きすべての記録であり、神の人類救済の記録であり、そしてそれは架空のものではない。もしあなた方が、神の性質全体を認識することを真剣に追い求めるのであれば、神によって為された働きの三段階を知らなければならず、しかもどの段階も欠けてはならない。これは神を知ろうと努力する人たちが達成しなければならない最低限のことである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)

「三つの段階の働きが人類を救う神の働きの全てなのだ。人は、人類を救う働きの中で、神の働き、そして神の性質を認識しなければならず、この事実なしには、あなた方の神に対する認識は、ただ無意味な言葉でしかなく、机上の空論にすぎない。そのような認識では、人を納得させることも征服することもできず、そのような認識は実情にそぐわないし、また真理でもない。その認識がたとえ十分で、聞こえの良いものであっても、神の元来の性質と合致しないのであれば、神はあなたを容認しない。神はあなたの認識を称賛しないだけでなく、神を冒涜した罪びととしてあなたに天罰を下す。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)

「初めのときから今まで、三つの段階の働きは全て神自身が行ったのであり、それは唯一の神がしたことである。三つの段階の働きの事実は、人類全体に対する神の統率力の事実であり、誰も否定できない事実である。三つの段階の働きの終わりには、万物が種類に応じて分別されて神の支配の下に帰り、そしてそこには全宇宙を通してただ唯一の神だけが存在し、その他の宗教は存在しなくなる。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)

「人の救いの働きは3段階で実行される。すなわちサタンとの戦いはサタンが完全に滅びる前に3段階に分割されるということである。しかし、サタンとの戦いにおける全ての働きの内なる真実は、人に恵みを施し、人の罪のいけにえとなり、人の罪を赦し、人を征服し、人を完全にすることによってその効果が達成されるということである。実際、サタンとの戦いは、サタンに武器で立ち向かうものではなく、人の救い、人のいのちへの働き、人の性質を変えることであり、それにより人が神の証し人となることである。サタンはこのようにして滅びるのである。サタンは人の堕落した性質を変えることで敗北する。サタンが敗北する、つまり人が完全に救われると、それから辱めを受けたサタンは完全に縛られる。こうして人は完全に救われる。そして、人の救いの実体はサタンとの戦いであり、サタンとの戦いはおもに人の救いの反映である。」(『言葉は肉において現れる』の「人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より)

「三つの段階の働きの目的は全人類の救いであり、すなわちそれは人をサタンの領域から完全に救い出すことを意味する。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)

「なぜわたしは今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると繰り返し言うのだろうか。これは、今日の働きは恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものであることを意味する。三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。……今の段階の働きは律法の時代、および、イエスの働きの堅固な支えを基礎に置いて築かれるということができるだろう。働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三つの働きの段階の組み合わせのみを六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。」(『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が受肉の意義を完成させる」より)

「それぞれの時代、神は異なった業を明らかに示す。それぞれの時代、神はその業の一部だけを明らかにする。各時代の働きは神の性質の一部、神の業の一部だけを示す。神が明確に示す業はその働く時代によって異なる。しかし、どれもみな、人間が神についてより深い知識、より現実的で真実に近い信仰を得られるようにする。人間が神を信じるのは、神の業すべてのためであり、神がまことに驚くべきで、偉大だからであり、神が全能で測り知れないからだ。」(『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知るということ」より)

「神は常に神であり、決してサタンになることはない。サタンは常にサタンであり、決して神になることはない。神の知恵、神の素晴らしさ、神の義、そして神の威厳は決して変わることはない。神の本質、神がもつものと神であるものは決して変わることはない。しかし神の働きは常に前進しており、常に深くなっている。神は常に新しく決して古くないからである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より)

「神の働きはいつも新しく古いものは何ひとつなく、規定を形成することも一切なく、むしろ、継続的により大きい範囲で変化したり小さい範囲で変化したりして、新しくなっている。この働きは神自身の本来の性質の表れである。それはまた神の働きの本来の原則でもあり、神が自身の経営を成し遂げる手段の一つである。もし神がこの方法で働かないとしたら、人は変わらず、神を知ることもできず、サタンに打ち勝つこともないだろう。よって、神の働きのうちに一貫性のないように見える変化は継続して起きるが、それは実は周期的なものである。」(『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知る人々のみ神に仕えることができる」より)

「神の性質のすべては六千年の経営(救いの)計画を通して表わされた。それは恵みの時代もしくは律法の時代だけに現れたのではなく、もちろん終わりの日のこの時期だけに現れるのでもない。終わりの日になされる働きは、裁き、怒り、刑罰を表す。終りの日になされる働きは、律法の時代の働きや、恵みの時代の働きに取って代わることはできない。しかし、三段階は互いに繋がって一つの実体となり、それはひとつの神の働きのすべてである。当然、この働きの遂行は別々の時代に分けられている。終わりの日になされる働きはすべてに終わりをもたらし、律法の時代になされた働きは始まりであり、恵みの時代になされた働きは贖いである。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)

それらの全能神の御言葉から、神様が既に人類を救う御働きの三段階をなさったことが完全に認識できます。各段階はその前の段階よりも高く、それぞれが次の段階に密接に関わっています。神様の御働きの三段階は本当に人類を救う完全な御働きなのです。ちょうど全能神が、以下のようにおっしゃられるとおりです。「ヤーウェの働きからイエスの働きまで、イエスの働きからこの現在の段階の働きまで、これら三段階は神の経営の全幅を覆うもので、そしてすべてひとつの霊による働きである。神が世界を創造した時から、神は常に人類を経営して来た。神は初めであり終わりであり、最初であり最後であり、時代を始められる存在で、また時代を終わらせられる存在である。違った時代、違った場所における三段階の働きは確かにひとつの霊によって行なわれる。これら三段階を切り離す者たちはすべて神に反抗している。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より)

上記の全能神の御言葉から、律法の時代から恵みの時代、更には最後の神の国の時代にいたるまで、神様の御働きの三段階が全て同じ霊の御働きであることをはっきりと見ることができます。それはつまり聖霊の御働きです。聖霊が働きのために人々を使われても、受肉されて直接働かれても、それは全ての神様御自身の御働きです。これは誰も否定できない事実です。神様の御働きの三段階のみが人類を救う完全な御働きなのです。神様を信じる全ての者は、終わりの日の神様の御働きを受け入れなければ、清められ救いを得ることができません。神様の御働きの三段階を通してのみ、人は本当に神様を知り完全にされることが可能であると認めなければならず、神様の御働きの三段階を認識できない人は全て、本当には神様を知らない人たちなのです。ですから彼らはまだ神様に抵抗し、神様を裏切ることができるのです。これらの事実は誰も否定できません。神様の御働きの各段階の中で、神様は神様の御性質の一部を表現して明らかにされ、神様の御働きのそれぞれの段階において、人類に対して神様は違う要求をなさいました。特に神様が終わりの日の御働きの中で表現なさった裁きと刑罰の全ての御言葉は、堕落した人類に対する神様の義、裁き、怒り、そして刑罰を完全に表しています。これらは神様の義なる御性質と全能性と英知を表しているのです。このため、終わりの日の神様の御働きのみが堕落した人類のサタンのような性質を完全に清め、排除し、解消できるのであり、堕落した人間が完全にサタンの影響から開放され、神様への本当の従順を達成することを可能にするのです。神様の裁き、威厳、怒り、そして刑罰なくしては、人類はサタンによる自らの深い堕落の真相と本性の本質に決して気付かないので、決して清めを得ることができず、決して本当に神様を敬い、神様に従うことができません。終わりの日の神様の御働きのみが、完璧に人類を救う重要で決定的な御働きであることは明白です。この御働きは人類を救って完全にする重大な意義をもっているのです。

どうすれば実際に神様の御働きの三段階を知るかは本当にとても重要です。私たちは神様の御言葉を通して御働きの三段階を知って体験しなければならないのであり、私たちはそれぞれの時代における神様の御働きに関する正真正銘の理解を持たなければなりません。これによって私たちは神様の御働きのそれぞれの段階の間の関係とそれぞれの特定の意義を理解し、そのとき私たちは神様の御働きの三段階が密接に関わっていて一つにまとまっていることを見ることができ、それらは本当に同一の神様の御働きであることを見ることができます。私たちが神様の御働きの三段階について正真正銘の理解を持ったとき、私たちは神様の全能性と英知と義なる御性質を完全に見ることができ、どのように神様が人類を導いて贖い、最終的にどのように人類を救って完全になさるかを余すところなく見ることができます。私たちはまた、神様の御働きの各段階において、神様がサタンとの戦いの勝利者であり、完全に栄光を受けておられることも見ることができます。人々が救いを達成するとき、神様の義なる御性質と本質を理解するだけでなく、サタンの悪の勢力がどのように人類を堕落させて神様に抵抗しているかを見抜き、最後にはその勢力がどのように敗北して破滅するかも見ることができます。神様の選ばれた人々が救いを得るとき、彼らは徹底的にサタンの影響を脱ぎ捨てて心から神様に向き直ります。このため、神様の御働きの三段階を知ることが、神様の選ばれた人々が心から神様を理解して救いに達成するためにとても重要なのです。

I.律法の時代における神の働きの意義はおもに人類を導くこと

全能神が、律法の時代における神様の御働きの意義について明かされたことは次のとおりです。

(神様の御言葉は省略されています)

Ⅱ.律法の時代における神の働きについて必要な理解

律法の時代における神様の御働きの意義と本質を明かされた全能神の御言葉を熱心に考えることができるならば、律法の時代における神様の御働きが、神様が人間をお創りになった後の人類を導く最初の御働きであったことを私たちは完全に認識することができます。律法の時代においてヤーウェは、イスラエルの民に現れた永遠の唯一無二の真の神様であり、神様は彼らを最初にエジプトの王の支配下と奴隷制度から導き出し、その後イスラエルの民に掟と戒律を命じ、それにより人々の生活の神様による直接的な導きを開始なさったのです。律法の時代において、神様は人類が守らなければならない多くの掟と戒律を命じられ、その中で最も重要な三つは、一番目に十戒、二番目に安息日、三番目に生贄でした。生贄はおもに罪の生贄、和解の生贄、そして全焼の生贄でした。神様が決められたこれらの三つの要求は、律法の時代における神様のおもな御働きであり、三つの要求の肝心な意義は、当時のイスラエルの民にどのように地上で生きるべきか示して導くことでした。次に、律法の時代におけるこれらの三つの神様の基本的な要求の肝心な意義の理解について語ります。

1.律法の時代において神様により命じられた十戒の意義は深いものでした。これらの内容は次のとおりです。

「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。

あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。

安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。

あなたは殺してはならない。

あなたは姦淫してはならない。

あなたは盗んではならない。

あなたは隣人について、偽証してはならない。

あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。(出エジプト記 20章3〜17節)

これらは律法の時代において神様が人々を導くために使われた最も重要で有名な十戒です。堕落した人類のために神様が制定された十戒は簡単で明白であり、完璧に道理に合っており、善悪を明確に区別し、公平でまっすぐです。神様の十戒は完全に公正と正義、畏怖の念を起こさせ義である天と地の法則、道徳を表します。このことから、神様がまっすぐで義であり、聖なるお方であり、悪を憎む神様であることを人々は見ることができます。十戒は神様の創造物である人類に対する要求と御心を完全に象徴します。これらは簡明で、豊かで、包括的であり、全ての人々の良心と理性により証明できる正しく高潔で好ましい事柄です。十戒の意義は深いものです。一つ一つの戒律はとても意味深く、それらは全て人々に神様を理解させ、悪を避けさせ、神様が何を憎み何を愛するかを知らせ、人類が何を守るべきかを知らせることができます。良心と理性を持つ全ての者は、神様が制定された十戒を賞賛し祭るべきです。これらはその導きのもと、人々に正常な人間性の似姿を生き抜くことを可能にしたからです。人々が十戒に基づいて生きる限り、神様の祝福を得ることが完全に可能なのです。これは本当です。もし世界の全ての国が十戒に基づいて憲法を制定し国を統治すれば、確実に神様の祝福を得て、国々はもっと規律正しくなるでしょう。そして十戒を学校の教科書に組み込み、全ての人がそれを子供のころから受け入れるようにすれば、彼らは皆、神様を礼拝することができるでしょう。それは更に意味深いことになるでしょう。もし全ての国の人々が十戒の原理に基づいて地上で生きてきたのなら、人類は絶対に今日ほど堕落してはいなかったでしょう。しかしサタンによる人類の堕落は深過ぎて、人類は完全にサタンにコントロールされるばかりで、それゆえ全世界は悪の恐ろしい闇に覆われてしまったのです。ですから深く堕落した人類が律法の時代に十戒を受け入れ支持するのはそれほど難しかったのです。唯一成し遂げられた結果は、人々に自らの罪を認識させることでした。しかし神様の御働きは着実に続き、徐々に積み立てられ、それぞれの段階が他の段階を補助してきました。神様が制定された掟と戒律は成就されなければならないのです。

2.安息日を守ることの原則も非常に重要です。人間が安息日を守るという要求を神様は何度も繰り返されました。ヤーウェはこうおっしゃいました。「あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。六日のあいだは仕事をしなさい。七日目は全き休みの安息日で、主のために聖である。すべて安息日に仕事をする者は必ず殺されるであろう。ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである」。(出エジプト記31章13〜17節)神様の選ばれた人々は、神様が人間に安息日を守るよう要求されることの意義が深いことをはっきりと理解しなければなりません。神様が天と地と全てのものをお創りになったとき、六日間でなさいました。七日目にはお休みになられました。ですから神様は人々にも六日間働いて七日目には休むことを要求なさるのです。これは神様の愛を含むだけでなく、深い意義も含んでいるのです。紛れもなく神様が人類に安息日を守るように要求なさるのは、神様が人類の生活を導いておられる証明です。これは神様の人類に対する限りない御配慮、思いやり、そして愛を余すことなく表しています。神様は人間がいつも急がされて、夜明けから日暮れまで働いて、適切な食衣住のため、家族を養うためだけに生きることを望んではおられません。神様の安息の日は人間にも安息の日を与えるためであり、だからこそ神様は人々が安息日を守るようお命じになられたのです。これは本当に意義深いことです。

3.罪の生贄、全焼の生贄、そして和解の生贄の原則については、ヤーウェ神に禁じられた罪を誰が犯したかに関わらず、また罪を犯したことを認識しているか否かに関わらず、イスラエルの民は祭司のもとへ行って罪のための生贄、全焼の生贄、または和解の生贄を神様に捧げなければ罪は赦されませんでした。これにより神様の御性質は義と威厳だけでなく、慈しみと愛を含むことを人々に見せたのです。人間はサタンにより堕落させられたので、罪を犯すのは自然なことですが、神様は人類のために罪の生贄、和解の生贄、そして全焼の生贄を制定され、人々がどのような罪を犯しても、罪のための生贄、全焼の生贄、または和解の生贄を神様に捧げさえすれば、神様に完全に赦されることができるとされました。これは堕落した人類に対する神様の御性質が神様の慈しみといたわりを含むことを知るのに十分です。神様は安易に人間を断罪なさらず、特に人間を軽々しく罰されることはありません。これから神様の御配慮と御加護、そして人類への恵みと祝福が更に明白になります。これは堕落した人類の罪のために神様が生贄を制定なさったことの背後にある原則が、人間の生活を導く神様の御働きであることを完全に表しています。

律法の時代において神様が完成された全ての御働きは、人類を正しい人間の生活の道に導くためであり、全ての人々が神様の御前で生き、神様を礼拝することができ、神様の祝福を得られるようにするためでした。これは神様の御心です。律法の時代において、神様はイスラエルの民の地上での生活を導くために掟と戒律をお使いになられました。根本的にこれは恵みの時代における神様の贖いの御働きの道を備えることでした。まず、イスラエルの民が神様の御前に来て、神様を認め、つまり神様が天地万物の主であることを認め、どのように人々は神様の御前で生きるべきか知らせることが必要でした。紛れもなくこれは神様が地上における人々の生活を導いた真の証明でした。神様の人間に対する愛を明らかにしただけでなく、神様が天地万物と人間をお創りになられたことを人間に理解させた上、神様が人間を導いてくださり、どのように生きるべきかを知らせ、どのように神様の御前で生きれば神様の祝福を得られるかを知らせたのです。このようにして、人々はどのように神様の御前で生き、どのように神様を礼拝し、どうすれば神様の祝福を得て、どのように生きれば平安、長寿、幸福を得られるかを知ることができるのです。これは堕落した人間にとっては本当にとても意味深いことです。もし全ての人間が神様に制定された掟と戒律に基づいて生きることができれば、人間の似姿が全くないほどまでにサタンに堕落させられることもなく、世界は今日ほど暗く邪悪ではないでしょう。人々が神様の導きの下で生きられたら、何と素晴らしいことでしょう。全能神がおっしゃったとおりです。「イスラエルの人々を導くことによって、神は地上での働きの拠点を築いた。この拠点から、神はその働きをイスラエルを越えて拡張した。すなわち、イスラエルから開始して、神はその働きを外に向けて拡張した。それにより、後の世代が、次第にヤーウェが神であること、ヤーウェが天と地とすべてのものを創造し、すべての被造物を造ったことを知るようになった。神はイスラエルの人々を通してその働きを広めた。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より)これは御働きの三段階を行われることで、神様は徐々に御働きの範囲を拡大され、最後には全ての人間を救われ徹底的にサタンの影響を排除され、人々が完全に神様の玉座に向き直るようになさることを意味しています。これが人類を救うための経営計画なのです。

律法の時代における神様の御働きの本質的な意義を一言でまとめるのなら、それは神様が最初に人類をお創りになった後、人々が地上でどのように生きるべきか導く御働きです。律法の時代における神様の御働きは、「導く」という本質的な意義をおもに強調していたのです。

Ⅲ.恵みの時代における神の働きの意義はおもに贖うこと

恵みの時代において主イエス様によって行われた贖いの御働きについて、全能神が明らかにされた意義と本質は次のとおりです。

(神様の御言葉は省略されています)

Ⅳ.恵みの時代における神の働きについての必要な認識

恵みの時代における神の働きの意義と本質を明らかにする全能神の言葉を熱心に考えることができれば、恵みの時代における主イエスの働きは贖いの働きであったこと、堕落した人類のための贖罪の働きであったことを完全に認識することができます。恵みの時代における主イエスの言葉と働きはすべて贖いの働きを中心にしており、それは人々がイエスを救い主として受け入れ、神の御前に来てすべての罪を認め、神の御赦しを得、神の御前に生きるために神の恵みに頼れるようになるためのものでした。それはすべて、人々が神に立ち返った後に、神が与えるすべての恵みと祝福を享受し、神は憐れみと慈愛の神であると認識し、頻繁に神に祈り、神に与えられた恵みと祝福の中で暮らすために神を崇めることができるようになるためのものでした。またそれはすべてイエス・キリストが救い主であることを認識した後で、人々が福音を伝え、神による救いを証し、イエスの約束を引き受け、終わりの日の救いを得るために準備する方法を知ることができるようになるためのものでした。恵みの時代において主イエスが行ったことはすべて人類の贖いのための働きであったということを人々に理解させるには、これで十分です。主イエスが十字架に磔にされ、罪の捧げ物となったことは、律法の時代における神の働きと密接に関連しています。律法の時代、イスラエル人は神の指導およびその律法と戒めに従う方法を知っていましたが、人類の堕落が原因で頻繁に律法と戒めを破るようになり、神に対して罪を犯し、神の怒りを買いました。これにより人々は、罪とは何か、罪を犯すこととは何か、人々はどのような罪を犯すか、そして罪を犯した後に神の赦しを得るための犠牲の捧げ方を理解したのです。このことから私たちは、神の律法と戒めから得られた主な成果は、人々が罪とは何であるかを知り、罪を犯した後に神に赦されるためにはいかに捧げものをすべきかを知ったことであると理解できます。これこそが、人類のための贖いの働きを完成させるために主イエスが恵みの時代に来られた理由であり、本当に深い意味があるのです。律法の時代において、犠牲を捧げること、焼かれた生贄および和解の供え物を捧げることは一つの罪を消し、それに対して一つの赦しが与えられるだけでした。恵みの時代においては、主イエスが永遠かつ完全なる罪の捧げ物として、人類のすべての罪を一回で永遠に赦したのです。これは人類に対する神の愛がどれほど偉大であり、神の性質が義と威厳と怒りだけでなく、憐れみと慈愛をも含み、特に人に与える恵みが広大で豊かであるということを人々に理解させました。罪が赦されると、以前と同じように神の恵みをすべて楽しむことができます。人類に対する神の愛は真実であり、その恵みは本当に偉大で、計り知れないことが分かります。主イエスは、堕落した人類のための罪の捧げ物となり、その一つの行いで永遠に人類の罪を赦しただけでなく、互いに愛し合うこと、互いに寛容であること、他人を七たびの七十倍赦し合うことや、他人を永遠に赦し、敵のために祈り、他人を自分自身のように愛することなど、恵みの時代の多くの真理を人々に教えてくださいました。主は律法と戒めを廃止されなかっただけでなく、律法の時代の働きを完成され、それにより主イエスの贖いの働きを受け入れたすべての人が正しく集い、神に祈り、神を礼拝し、福音を伝え、神に証しできるようになったのです~まさにこれは証です。恵みの時代における神の働きは、律法の時代における神の働きの基盤の上に築き上げられたことは明確です。主イエスは、誠に罪の捧げ物となり、人類を贖うための働きを成し遂げられました。たった一度の行動で、神を拒むという堕落した人類の罪をすべて永遠に赦してくださり、人々が神の御前に来て祈り、礼拝できるようにしてくださったのです。しかしながら主イエスが罪の捧げ物であられることと、人類を完全に救い、神の経営(救いの)計画を完成させることは同じではありません。主イエスが十字架上で言われた「すべてが終った」という言葉は、主イエスは人類救済の働きを既に完了されたという意味だと信じている人がキリスト教には多くいます。これは間違いで、人々が神の働きについて全く理解していないことを示す人間の観念と想像以外の何物でもありません。もしイエスの贖いの働きが既に人類を完全に救っていたならば、今日の宗教者たちが絶えず祈って罪を認めることはないであろうし、また主要教派は現在のように低迷、荒廃していないであろう。また主イエスは「わたしはすぐに来る」とは決して言わなかったでしょう。主イエスの再臨、すなわち終わりの日における全能神の裁きと刑罰の働きだけが、完全なる人類救済の働きです。全能神は、裁きと刑罰、刈り込みと取り扱い、試練と精錬を通じてサタンの影響による束縛と拘束を徹底的に打ち消し、人々が真に神を知るが故に神に従い礼拝するように、人類の堕落の問題を解決しています。主イエスの贖いの働きは、終わりの日において人類を完全に救うために神が道を準備していただけであったことが事実により十分証明でき、終わりの日の神の働きを受け入れて初めて人々は完全なる救いを得ることができるのです。これはまったく疑う余地のない事実です。

主イエスの贖いの働きは、イスラエルにおける神の働きの範囲を急速に広げ、それを完全に異邦人の世界と地球の果てまで広げりました。このように、恵みの時代において神の働きはイスラエルから全世界へと広がり、あらゆる国と地域で多くの人々が神の御前に来て神に祈り、神を礼拝しました。神の御名はあらゆる国とあらゆる地域に広がりました。これにより、終わりの日における神の働きのために道を開きながら、人類を救うための神の経営計画がすでに途中まで完成していたことが明確に分かります。

恵みの時代における神の働きの実質的な意義を一文にまとめるとすると、受肉された神は人類救済のためにご自身を堕落した人類の罪の供え物とされた、となります。恵みの時代における神の働きの実質的な意義で一番大事なことは「贖い」です。

Ⅴ.終わりの日の神の裁きと刑罰のみが人類を救うための神の重要で決定的働きである

終わりの日の裁きと刑罰の御働きを行われるにあたって、全能神は何百万語もの御言葉を発せられましたが、終わりの日の神様の裁きと刑罰の意義について全能神が明らかにされたことから幾つかの箇所を下記に引用します。もし人々が熱心にこれらの御言葉について考えることができれば、終わりの日の神様の御働きについて少しは理解と知識を得ることができます。

(神様の御言葉は省略されています)

Ⅵ.終わりの日における神の裁きと刑罰の働きについての必要な理解

終わりの日における全能神の働きの意義についての言葉を読んだ後、それについて熱心に考えることができれば、終わりの日における全能神の働きについての認識と理解を必ず得ることができます。終わりの日における神の働きのあいだに全能神が著した『言葉は肉において現れる』という本を読み、終わりの日の神の働きを数年間経験することができれば、神の国の時代においての神の働きは人類を完全に救済するための裁きと刑罰であることが確実に理解できるはずです。これによってあなたは救いを得て、完全にされることができます。

終わりの日における神の働きを理解するには、まず初めに、神がなぜ終わりの日に裁きと刑罰の働きをされているのかを明確に知っていなければなりません。恵みの時代において主イエスが贖いの働きを完了した後、神に選ばれた人々は皆、主イエスの御前に来て、各々の罪を認め、悔い改め、赦されることができました。彼らはまた、神から与えられた多くの恵みを楽しむことができましたが、サタンによる人類の堕落の後は、その罪深い本性の束縛と枷を取り除くことができた人はひとりもいません。主イエスを救い主として受け入れ、罪を赦された後も、誰もが罪を犯し続けましたのです。彼らは、罪を犯せば認め、認めればまた犯す、というサイクルに生きました。そのため主イエスによって贖われた人はすべて罪を赦され、神によって与えられた恵みすべてを楽しんだにも拘らず、人類を罪深さに導くサタンのような本性の束縛と枷を取り除くことが全くできないのです。そのため人々は「私は本当にみじめだ。一体何をしたらサタンのような本性の束縛を取り除き、真の救いを得ることができるのだろうか」と苦痛の悲鳴をあげるのです。堕落した人類が自分の罪深い本性を解決することができないのは明らかで、誰も自分のサタンのような罪深い本性の支配から自身を解放することはできません。彼らは皆、頻繁に罪を犯して罪の中で生きるほかどうしようもなく、それが理由で堕落した人類の罪は赦されているにも拘わらず、普通の人間性を生き抜くことができません。ではどうすれば真の人生を生き抜くことができるのでしょうか。これは、恵みの時代において神の贖いの働きを受け入れた、神に選ばれたすべての人々の実体験です。終わりの日において受肉された神が自ら行なう裁きと刑罰の働きは、堕落した人類をそのサタンのような罪深い本性から完全に救い、そのいのちの性質を変える働きです。全能神は、完全なる人類救済のための裁きと刑罰についての真理をすべて表してくださっています。堕落した人類のサタンのような本性の実質とその堕落についての真相を明らかして裁くためにその御言葉にある真理を用いられるだけでなく、人々のサタンの性質を解決し、変革するために刈り込みと取り扱い、試練と精錬という方法を活用されます。これは、堕落した人類にそのサタンのような本性とその堕落についての真相を本当に認めさせ、堕落した人類は本当に自分本位と卑劣さ、欺瞞と腹黒さ、貪欲と悪、真理に対する倦怠のようなサタンの本質でいっぱいであるということをありのままに見せてくれます。刈り込まれ、取り扱われることで、試練と精錬によって、人々は真理を理解し、諸問題、人生観、価値観に対する見解を根本的に変革する神の働きを知ることができるのです。これはすべて終わりの日における神の裁きの働きによってもたらされる果実であり、これによってもたらされる変化は、恵みの時代において主イエスを信じた後の罪の赦しによってもたらされたものよりもはるかに大きいものです。これで、終わりの日における神の裁きと刑罰こそが完全なる人類救済のための働きであることを証明するのに十分です。これ以外に、堕落した人類がサタンの悪しき影響から完全に解放され、真に神に立ち返り、神に服従し、完全なる救いを得るために神に得られるよりほかに道はありません。

深く堕落した人類は、救われる前に神の裁きと刑罰を受けなければなりません。これは人々が深く堕落し、サタンの知識と思想によって完全に支配され、サタンの性質に満ちているからです。裁きと刑罰の方法を通してのみ神は人類を清め救うことができ、このために終わりの日における裁きの働きを展開するなかで、神は最初に人類を征服する真理を示されました。堕落した人類を完全に征服するために神が真理を使われ、人々が真に確信した時にはじめて、人々は神の真の出現を見、その時にはじめて神の御前に伏して後悔するでしょう。その時になってようやく人々は自分たちが神を拒む者であることを知り、それ故に自分たちの傲慢さと自己欺瞞を知り、自分たちの心には神の入り込む余地がまったく無く、全く人間の姿を生き抜いてきておらず、サタンによって哀れなほど深く堕落させられたのだと気付くのです。人類が神の言葉によって征服されて初めて、人々はサタンによる堕落の事実と本質的な性質を正しく理解し、宗教の枠の中で神を信じて何年も経つにも拘わらず、聖書やいくつかの文字や教義の知識を幾分か理解するのみで、真理の現実を全く得ていなかったと、純粋に認めるのです。彼らは本当に可哀そうで、哀れで、無知で無防備な人たちです。その時になって初めて人々は神の御前で静かになり、神の言葉による裁きと刑罰を正式に受け入れ従い、神を信じる正しい道に入り始めるのです。これが神の裁きと刑罰によって達成される征服の最初の結果です。まさに律法の時代にヨブが試練を通して神の言葉を聞いた後に完全に征服されたのと同じです。神の言葉で征服される人々のみが真理を認め、受け入れる人々であり、神を信じる正しい道に入り、救われることができる人々になることができるのです。神の言葉の多くを聞いた後でさえ真理を否定し、忌み嫌い、神の敵となる者は皆、反キリストの範疇に属します。彼らが救われる方法は全くなく、排除と処罰の対象になります。救いは、神の言葉によって征服されるという基礎の上に築き上げられなければなりません。それは、神が言われたように、「人類の邪悪であるものを完全に根絶させ、破滅に至らせ、そうすることによって、もはやわたしに反逆することはできなくなり、まして、わたしの働きを妨害したりかき乱したりするための命を持つことができないようになることがわたしの意図であることを、あなた方は知るべきである。したがって、人間に関する限り、征服とは、そのことを意味する。」(『言葉は肉において現れる』の「本物の人とは何を意味するか」より)「厳密に言って人間はどのように征服されるのだろうか。それは、この言葉の働きを用いて、人間を充分に確信させることによって行われる。それは暴露と、裁きと、刑罰と、情け容赦ない呪いを用いて人間を完全に服従させる。また、人間の反抗的性質を明らかにし、その反逆を裁くことによって人間は人類の不義と汚れを知るようになる。それによって神の義の性質がいっそう強調されるであろう。主に、こうした言葉を用いて人間を征服し、完全に確信させる。」(『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内なる真実(1)」より)

これらは神の裁きと刑罰の働きによって達成されるまず最初の成果、即ち、神の征服の働きの成果なのです。神が人々を完全にすることは、彼らを征服するという基礎の上に成り立っており、征服された者たちが真理を追い求め、神の全ての裁きと刑罰に従うことができるなら、それは彼らが救われ完全にされるための道を既に歩み始めたことになります。一人ひとりが明確に理解すべきことですが、堕落した人類がこれほど傲慢で、自惚れ、無法で、理性に欠けているのは、ひとえに彼らがまだ征服されていないからなのです。彼らには自己認識が全く欠けており、狂気の沙汰と言ってもいいほど神を否定し神に反抗してきました。それ故、堕落した人間は神の裁きと刑罰を受けることによってのみ、清めと救いを得ることができるのです。これはまた堕落した人類が救われ完全にされる唯一の道でもあります。

堕落した人間への神の裁きと刑罰は、神の義の性質を完全に現し、それは神を知るための素晴らしい機会をもたらします。神の裁きと刑罰を受けなければ、人々は決して神の義の性質を知ることはできないでしょう。神の義と威厳と御怒りによる裁きと刑罰を体験した時初めて、彼らは神の性質はいかなる咎も容赦しないという真理を感知することができ、神は本当に人間の最も深いところを探り、彼らの心の全てを見張ることができ、人間の堕落した本質とサタンのような本性を知り尽くしていることを自分自身で体験し、また、神の全能と知恵を理解するようになるのです。彼らは神の裁きと刑罰を受け入れることができるので、彼らは神の性質と本質に関する真の知識を獲得でき、その結果神の救いと完全性を得ることができます。明らかに、堕落した人類が救われる過程とは、神の現われを認識する過程であり、また神の義の性質を知る過程でもあります。

堕落した人類が救いを得て完全にされることと、神が終わりの日の働きの中に現す神の義の性質の間には直接的な関係があります。神に選ばれた人々が神を畏れて悪を避けるようになったのは、専ら、神の義の性質を知り、神の全能と知恵を認識したからです。また、彼らが神の表した真理の全てを理解したのは、とりわけ、神の性質、神が何を備え持ち、神とは何であるかを知ることによってです。人々の物の見方、人生観、また価値観が根本的な変化を経て、彼らのいのちの性質が徐々に変化を遂げたのはこのためです。これは誰にも否定できない事実であり、神が言われたとおりです。

「人々は神の刑罰と裁きの働きによって神の性質を見た。したがって心の中で神を畏れる。神があがめられ、従われるのは、神の存在と性質が被造物のものとは同じでなく、上回っているからである。神は創造された存在ではなく、神のみが畏敬の念と服従を受けるに値する。人にはその資格がない。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より)

「わたしの義、威厳、そして裁きは永遠に尽きることがない。初めわたしは愛と憐れみに満ちていたが、それはわたしの完全な神性の性質ではない。義、威厳、そして裁きが、完全なる神自身としてのわたしの性質である。」(「キリストが最初に発した言葉と証し」より)

「義は聖さであり、人間の侵害を容赦しない性質であり、したがって不浄な物事や変化していない物事の全てが、神の嫌悪の対象となる。神の義なる性質は、法ではなく、行政命令である。それは神の国の中の行政命令であり、その行政命令は、真理を備えて居らず、変化していない者全ての義なる罰であり、救いの余地は無い。」(『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」より)

「神は何を通じて人を完全にするのであろうか。それは、義という神の性質によるのである。神の性質は主として義、怒り、威厳、裁き、呪いであり、神は主に裁きを通じて人を完全にする。」(『言葉は肉において現れる』の「辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる」より)

「今日、義の裁きであろうと、無情な鍛錬や刑罰であろうと、すべては救いのためであることを知りなさい。今日種類に応じた各人の分類があろうと、人を分類する範疇が露わにされようと、神の発する言葉と業のすべては本当に神を愛する者たちを救うためである。義の裁きは人を清めるためであり、無情な鍛錬は人を清めるため、厳しい言葉、あるいは懲らしめはすべて人を純化するため、救うためである。」(『言葉は肉において現れる』の「あなたたちは地位の恩恵は脇に置き、人の救いに関する神の心を理解するべきである」より)

「神は人間を完全にする業を今公けに開始した。人間は、完全にされるために、神の言葉による啓示、裁き、刑罰を受け、神の言葉による試練と精錬(奉仕者の試練など)を受けなければならない。それに加えて、人間は死の試練に耐えることが出来なければならない。つまり、神の意志を本当に実行する者は、神の裁き、刑罰、試練のただ中でも心の奥深くから讃美に溢れ、完全に神に従い、自我を捨て去り、こうして誠実で純粋な心を一つにして神を愛することが出来る。こういう人こそが完全にされた者である。またそれは、神が行いたいと願い、達成することを望んでいる業でもある。」(『言葉は肉において現れる』の「神の業の段階について」より)

「天の神は、最も不浄な悪徳の地に来て、決して不満を漏らさず、人間について不平を言わず、人間の略奪[1]や抑圧を黙って受けた。神は、人間の不合理な要求に報復することも、人間に対して過度の要求や不合理な要求をすることも無かった。神は単に、教えること、啓くこと、咎めること、言葉の精錬、注意を喚起すること、勧告すること、慰めること、裁くこと、現すことなど、人間により要求される働きを不平を言わずに行う。神の段階のうち、どれが人間のいのちのためでは無かったであろうか。神は人間の見通しや運命を取り去ったが、神が行った段階のうち、どれが人間の運命のためでは無かったであろうか。その段階のうち、どれが人間の生存のためでは無かったであろうか。どれが夜のように黒い闇の勢力がもたらす苦難や抑圧から人間を解放するためでは無かったであろうか。どれが人間のためでは無かったであろうか。愛情溢れる母のような神の心を、誰が理解できるというのか。神の真剣な心を、誰が理解できるというのか。」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(9)」より)

「神の本当の愛は神の全性質であり、神の全性質があなたに示される時、これはあなたの肉体に何をもたらすだろう。神の義である性質があなたに示される時、あなたの肉体は必然的に多くの痛みに苦しむだろう。あなたがこの痛みに苦しまなければ、あなたは神によって全き者とされないし、本当の愛を神に捧げることもできないだろう。神があなたを全き者とすれば、神は必ずその全性質をあなたに示すだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)

「今、あなたは裁きのために苦痛と鍛錬を体験しているが、この苦痛は価値があり意味あることなのだ。人間にとって刑罰と裁きとは、罪を罰し、肉を罰するための鍛錬であり、容赦のない暴露であるけれども、この業のどれ一つとして、肉を罪に定めて滅ぼすことを目的としてはいない。言葉による厳しい暴露は、すべてあなたを正しい道に導くことを目的としているのだ。あなたたちは、この業の実に多くを個人的に体験した。そして、明らかに、それはあなたたちを悪の道へとは導かなかった。そのすべては、あなたたちが普通の人間性を実際に生きることができるようにするためだ。これはみな、あなたたちの普通の人間性が達成できるものだ。その業の一つひとつの段階は、あなたの必要、あなたの弱点、そして、あなたの実際の背丈に基づいて為され、あなたたちが荷えないような重荷は一つとしてあなたたちの肩に置かれていない。あなたは今、このことを明らかに見ることができず、わたしがあなたに厳し過ぎるように感じているかもしれない。わたしが毎日あなたを罰し、裁き、責めるのは、わたしがあなたを憎んでいるからだと思うかもしれない。また、あなたの受けているのは刑罰と裁きだが、実際は、すべてあなたへの愛であり、あなたを守るためのものなのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内なる真実(4)」より)

「わたしの義、威厳、そして裁きは、サタンを決して容赦しない。しかし、あなたがたにとって、それらはあなたがたを救うものである。しかし、あなたがたはわたしの性情を全く理解できず、わたしの行為の裏にある原則も知らない。」(「キリストが最初に発した言葉と証し」より)

「最後には、神は全宇宙の人々の中の不潔なもの、不義なものをすべて焼き払い、彼らに神が慈愛、憐れみ、英知、不思議、高潔の神というだけでなく、さらには人を裁く神でもあることを示す。全人類の中にある悪い者に対して、神は激しい炎、裁き、懲罰そのものである。完全にされるべき人々に対して、神は試練、精練、苦難であり、同時に慰め、滋養、言葉の供給、取り扱い、刈り込みである。取り除かれる人々にとって、神は懲罰であり、報いである。」(『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が受肉の意義を完成させる」より)

「神がその聖く義なる性質の全てを現すことができるのは、最も遅れていて、最も不浄な地において神が受肉することによるほかない。神の義なる性質は、何をとおして現されるであろうか。それは、人間の罪に対する裁きと、サタンに対する裁き、罪に対する憎しみ、神に反抗し反逆する神の敵に対する憎しみによってである。」(『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの第二段階はどのように実を結ぶか」より)

「わたしは義であり、わたしは忠実であり、人の心の奥底を調べる神である。」(「キリストが最初に発した言葉と証し」より)

「誰一人、何ものもこの刑罰と裁きの苦しみから逃れることはできない。また、誰も、何ものも、この種類による分類を避けることはできない。あらゆるものが種類ごとに分けられる。それは、万物の終わりが近く、天と地のすべてが終結に至るからだ。どうして人間が己の存在の終結を逃れられよう。」(『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内なる真実(1)」より)

「私たちは、いかなる国家も勢力も神が果たそうと願うものの前に立ちはだかることはできないと信じている。神の働きを妨害し、神の言葉に抵抗し、神の計画をかき乱し、阻害する者たちは最終的には神に罰される。神の働きに逆らう者は地獄に送られる。神の働きに反抗する国家は滅ぼされる。神の働きに反対するために立ち上がる民族は地上から一掃され、消滅する。」(『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より)

「わたしはすべての人にわたしが行ってきたことは正しく、わたしの行ったことは全てわたしの性質の表現であることを知って欲しいと思っている。人類を生み出したのは人の行いではなく、とりわけ大自然の行いではない。それどころか、創造されたすべてのものの中で、あらゆる生けるものを育むのはわたしである。わたしの存在なしには、人類は滅びる他なく、酷い災難を経験するだけであろう。だれも麗しい太陽や月、緑にあふれる世界を再び見ることはできないだろう。人類は極寒の夜や、避けられない死の影の谷に遭遇するだけだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「終着点のために、善行を十分積まなければならない」より)

「神の姿は受肉の姿を通して知らされるのではなく、むしろ、姿や形をもつ肉となった神によって行なわれる働きを通して知られ、彼(彼女)の働きを通して、神の姿が示され、神の性質が知らされる。これこそ神が肉体で達成しようとする働きの意義である。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(2)」より)

「神が大勢の人たちに顕すのは、神の義なる性質と神のすべての業だけで、神が二度人となったときの肉体の姿ではない。というのは神の姿は神の性質を通してのみ示すことができ、神の肉となった姿に取り替えられることはできないからである。……大勢の人たちに見せられるのは、神が二度人となったときの姿というよりは、神の義と神の性質の全体である。人に見せられるのは唯一の姿でも、二つの姿を合わせたものでもない。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(2)」より)

終わりの日に人々を完全に救い完全にするための裁きと刑罰における神の働き方から一目瞭然なのは、神の救いと人々を完全にすることとは、おもに神の義なる性質を明らかに現すことによってのみ達成されるということです。一度神の義の性質、威厳、裁き、御怒りが完全に現されると、堕落した人類はそれぞれの種類に応じて自然に分類されるでしょう。真理を愛し真理を受け入れることができる者たちは皆、神の裁きと刑罰の働きを受け入れ従うことができるでしょう。そして、救いを得て完全にされるでしょう。真理を嫌悪し真理を憎む者たちは、当然キリストに逆らい、キリストを否定し非難するでしょう。また彼らは終わりの日における神の裁きと刑罰を拒むのです。特に宗教界の様々な宗派・教派の指導者たちの大半は、キリストに抵抗し逆らう反キリストの勢力となるでしょう。それ故彼らは暴露され取り除かれ、最終的には罰を受けることになります。彼らは神の御怒りが極まる時、神の裁きの対象となるでしょう。終わりの日における神の働きは、堕落の存在するところには裁きがあらねばならず、罪のあるところには刑罰が生じなければならないことを完全に反映します。これこそが神によって制定される天の原則であり、誰一人それを逃れることはできません。堕落した人類は神に抵抗し神を裏切ります。そして、彼らが神の裁きと刑罰を受けないのであれば、神はそれを容赦しないでしょう。これこそが、堕落した人類が終わりの日に神の裁きと刑罰を受けることが天の不変の原則であり侵害すべからざる神の御心である理由なのです。人類は奥底まで堕落させられています。彼らは皆神を裏切ったサタンの末裔なのです。もし神の威厳と御怒りによる裁きと刑罰が彼らの上に下されなければ、どうして彼らが完全に服従して神の前にひれ伏すことができるでしょうか?どうやって彼らは真の清めと救いを得ることができるのでしょうか?終わりの日に現される神の義の性質、裁き、刑罰、御怒りが、堕落した人類にとっての最大の救いとなったのはこのためであり、正しくそれは人類への神の祝福なのです。神が御自身の義なる性質を人類に明示することは、神の真の愛、そして人間への完全なる愛なのです。

Ⅶ.神の三段階の働きだけが神の完全な人類救済の働きであることを知らなくてはならない

神の三段階の働きについての神の言説は、それが段階的に構築されていて、各段階が続く次の段階に密接に関連していることを明確に理解するためには十分すぎるほどです。働きの段階はそのどれもが実際的かつ合理的で、この三段階の働きこそ完全なる人類救済の働きであり、神の三段階の働きは神の経営(救いの)計画です。このため、これを理解することだけが神の働きを真に理解することであると同時に、それによってのみ神の義なる性質と本質を十分に理解できるのです。従って、神の働きの各段階の本質と意義についての明確な認識と理解を備えなければなりません。そうすることで初めて、神の三段階の働きこそ完全なる人類救済の働きだと認識できるのです。神の働きの各段階において、私たちは皆、サタンの邪悪な力に対する戦いに神がどのように勝利したのかを明確に学ぶことができます。人類はサタンによって深く堕落してきました。そして、神の働きの各段階において、サタンや悪魔の役割を果たす者が多くいて、神の働きを遮り妨げるのに極限までの努力をしてきました。彼らはまた神に選ばれた者を混乱し、そそのかし、操り、利用して、神の働きを破壊しようとしてきました。しかし、神は全能で賢明な神であり、人類の贖いと救いの働きを成し遂げるために、常にサタンの策略を有益な手段として利用されてきました。恵みの時代の神の働きにおいては、サタンを利用し、ユダの裏切りを逆手にとって主イエスを十字架に釘付けにし、神の贖いの働きを完成されました。神の国の時代においては、反キリスト、偽指導者や様々な邪悪な霊による崩壊、妨害、混乱を通して、神は選ばれた人々を訓練し、完全にし、彼らが真理を理解しサタンを見破り、悪を忌み嫌い、赤い大きな竜に背を向けて神の言葉の現実に入れるようにされます。最後に、神は選ばれた人々を完全なる者にし、神の国へといざないます。人類を救う神の三段階の働きを理解することはとても意味深いです。神の全能性と知恵がどこにあるのかを知ることができるだけでなく、神の働きの各段階で明らかされる神の性質および神であるもの、神のもつものを理解することができるようになるのです。そうすれば、私たちの神への理解が本物だという実が生み出されます。実際には、神の三段階の働きを経験する過程は神を理解する過程であり、救いと完全なる者とされるために起こる、人々の視点と性質の段階的な変化の過程でもあります。終わりの日における神の働きを体験して初めて人々は真に救われ、神によって完全に獲得され、もはや罪を犯さず、神を拒むことがなくなります。これは、堕落した人類のサタンの性質が変えられて、神についての真の理解を得たからです。もはや人間の概念と想像に基づいて神を定義し、拒むことはなく、神がどのように彼らを導き、ものごとを仕組み、整えようとも、敬虔な心をもって神の御前で従順でいることができます。真に神の御心に沿い、祝福を得ることができるのは、このような人たちだけです。真に神の救いを得る者だけが、神によって与えられる安息にあやかり、終着点にたどり着くことができます。これについて疑いはないです。

人類の救いにおいて、神は三段階の働きをされました。そして、これら三段階の働きによって人々は本当に神の義なる性質や知恵、またその全能性を理解することができ、神に立ち返り、救われることができます。だからこそ、神の三段階の働きを理解することは本当に意味があるのです。神の言葉の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」を読むと、本当に斬新で、神の御心が理解しやすくなります。神の三段階の働きこそ人類救済の完全な働きであると人々が心から理解できるように、それにより三段階を真に理解し神についての真の理解を得られるように、私たちは全能神の御言葉をここで引用しなければなりません。これが、救いを得て完全なる者とされるために、終わりの日における神の働きを経験している人々の決定的な要素です。

Ⅷ.神様の御言葉の完全版――神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である

(神様の御言葉は省略されています)

二〇一三年九月一日

神様の御働きの三段階におけるそれぞれの段階の本質について、神様は既にとても明確に語られました。律法の時代において制定された掟、特に十戒の主な成果は、地上で生きる人類を導くことでした。十戒は神様が人類に要求されたことでした。もし人間が地上で生き延び、神様の御前で生き、神様によって断罪されるのではなく賞賛されたければ、十戒に基づいて生きなければなりません。人間は十戒の一つ一つを守らなければならないのです。十戒を守らないことは誰にも許されないことです。ですから十戒の要求により、律法の時代の御働きは、人類に神様の要求と神様の御旨にかなうように地上でどのように生きるべきかを知らせることだったのです。十戒の効果は人類に地上でどのように生きるべきかを知らせ、何を守るべきかを知らせ、神様の御名を知らせ、偶像を拝んではならないこと、安息日を守らなければならないことなどを知らせたのです。これらの戒律は、人間を制限する反面、唯一真実の神様の証を立てて、人間にヤーウェのみが唯一真実の神様であることを信じさせます。これらの戒律は神様が人間の生活を導くことにおいて最も重要な内容であり、人間の生活において最も基本的なことでもあります。人間は十戒の一つでも破ればいつでも断ち切られてしまいます。「断ち切られるとはどういう意味でしょうか」と言う人がいます。それはこの人が死に、死んだ後は地獄へ行かなければならないということです。例えば、十戒の一つ目は人間が他の神々を信じてはならないことと、唯一真実の神様のみを信じなければならないことを規定しています。人間がこれを破ることの結果は何でしょうか。それは呪われることです。もし人が呪われたら、その人は死んで、死んだ後は罰せられるために地獄へ行かなければなりません。これが神様の戒律なのです。これらの十戒は神様と人間との間で合意されたものです。もし人間が地上で生き延びて神様に賞賛され祝福されたければ、十戒を守らなければならないのです。これが十戒の成果です。

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律法の時代において神様が制定された多くの規則と掟の中でも、十戒は中心的で最も基本的です。残りはおもに色々な罪の生贄に関する詳細な規定です。それらの規定は今は何の役にも立ちません。なぜなら恵みの時代において主イエス様が人類の罪のための永遠の生贄となられ、人間が色々な罪の生贄を捧げる問題を完璧に解決なさったからです。しかし十戒はいつでも役に立ちます。神の国の時代までは、人々はこの基準以下で生きてはならないのです。十戒は人類の生存といのちの正しい道の唯一正しい原理を示しています。現代の人間の言葉では、十戒は人間である原理と基準線であり、神様が人類に提示された人間が守らなければならない戒律です。ですからこれらの十戒は人類の地上での生存のための十の原理なのです。これらの十戒があるからこそ、人類は神様に喜ばれ、神様に祝福されるためにはどのように地上で生き延びるべきかを知り、神様に祝福されるための条件とその結果が何であるかを知っています。十戒を守りさえすれば、神様は貴方にとても幸せな長い生涯を地上で送らせてくださいます。ある人たちは十戒を良く守り神様を彼らの心をつくして礼拝します。彼らは神様に祝福され何百年も生きます。他の人たちは神様ではなく偶像を拝み、悪霊に取りつかれ、数十年生きて死にます。十戒に基づいて生きる人たちは災害を招かず、惨事を祝福に変え、悪運は良くなり、神様に守られています。十戒に基づいて生きない人たち、十戒を破った人たちは、いつも他人の財産を欲しがり、呪われて、色々な惨事や災害に付きまとわれ、彼らの罪は彼らが死んだ後も請求されます。特に神様を憎む者は全て、断罪されて呪われるだけでなく、神様は彼らの罪の代価を三世代まで請求なさいます。これが「孝行息子は父親の借金を払う義務がある」の意味です。彼らの子供たちと孫たちも巻き込まれるでしょう。恵みの時代と神の国の時代において人間が十戒を破ると、とても深刻な結果となります。偽の神々と偶像を拝む人たちは全て呪われています。神様が「中国人は全て呪われている」とおっしゃったのは、どういう意味でしょうか。おもなことは偶像と偽の神々を拝むことに関する戒律を破る人が最も呪われていることです。いったん呪われたら、その人の命は確実に短くなり、多くの惨事と困難にあいます。もし人が呪われ、あらゆる逆境と災害にさいなまれるのは、彼らが律法を破り、戒律を破って何らかの方法で神様を怒らせたに違いありません。「私は神様を怒らせてはいませんし、何も言っていません」と言う人々がいます。偽の神々や悪霊を拝むだけで神様を怒らせているのです。これは神に背いた罪であり、呪われます。ある人たちは神様を信じる人たちを強制して、真の道を中傷して神様の御働きを裁きます。これは呪われます。ある人たちは乱交を行い呪われます。自分の子供たちと孫たちに良い生活を送って欲しければ、どうするべきでしょうか。この生涯で十戒を破らず、乱交を行わず、悪霊を拝んだり他の人の財産を欲しがらないことです。神様がお与えになるものをそれだけ楽しみ、本当の神様を礼拝し、神様の御性質を冒さないことです。もしそうすれば、あなただけでなく、子供たちと孫たちも祝福されます。神様の御旨にかなっているからです。もし神様を愛すれば、神様はあなたを何千世代も祝福なさりたいと思われます。これは神様の約束です。十戒の効果と神様によって制定された十戒の意義に基づき、律法の時代の御働きが人間の生き方を導く御働きであることを確認できます。これが律法の時代の御働きの本質なのです。

私たちは全て、恵みの時代の御働きが贖いの御働きであることを知っています。「贖いの御働き」はおもに主イエス様が人類のための贖いとして十字架につけられ、人類を贖う御働きを完成なさったことを指します。なぜこの段階は贖いの御働きと呼ばれるのでしょうか。なぜ贖いの御働きのために主は十字架につけられなければならなかったのでしょうか。聖書を読んだ人は全て、もし誰かが罪を犯したら罪の報酬は死であること、そして罪を犯したのなら死ななければならないことを知っています。これは神様と神様の義なる御性質によって決められています。律法の時代において律法を破ったら、それは罪を犯すことであり、その人は死ななければならず、これは神様によって予め定められていました。人類の罪が段々と深刻になるにつれて、神様は人類を救うためにさらに有効で義しい方法をお選びになりました。それは人類のための贖いとしての神様の受肉です。主イエス様は罪のない肉で、聖霊によって宿り、人類の罪を十字架につけられたことで贖われました。「救う」とは何であり、「贖う」とは何でしょうか。救うことは救済を意味し、贖うことは人の死と引き換えにサタンの手から人類を取り戻すことです。神様の御子は罪が全くなかったのです。罪のない人の死と引き換えに堕落した人類が取り戻され、その後人間の罪は全て赦されたのです。これは「罪のための生贄」と呼ばれます。罪のための生贄としての行いを主イエス様が完成なさったことが救いの御働きなのです。

「なぜ罪のための生贄は贖いとも呼ばれるのでしょうか」と言う人がいます。それは主イエス様が罪のための生贄となられて、私たちのために死なれ、主イエス様がこれらの罪を人々から担われたからです。主イエス様を信じた人はすぐに、神様はその人を罪がないとみなされるのです。聖書の中では、人間の理解によると、これは「信仰により義とされること」と呼ばれます。イエス様を信じるから、神様はあなたは罪を犯してはいないとおっしゃるのです。あなたの罪は主イエス様が担われたので赦されたのであって、赦された後はあなたは神様に祈ることができ、神様はあなたの祈りに答えてくださいます。結果として、サタンは何も言えないので、この働きの段階の本質は贖いの御働きの段階です。主イエス様を信じる者は全て、ただ主イエス様に祈って、罪を全て主イエス様に告白すれば、直ちに魂の内に平安と喜びを得て、特に籠から開放された鳥のような開放感を味わえることを私たちは知っています。人間は何か嬉しいことを体験すると機嫌が良くなります。罪が赦された人の霊は違って見えます。そういう人は聖霊の御働きを得たのです。これは聖霊の御働きなしに罪と闇の中で暮らしていた、解放されることも自由を感じることもなく、平安も喜びもない以前の状態とは違います。これは恵みの時代において、主イエス様を信じた人たちが享受した神様がお与えになった御恵みなのです。人間がどのような罪を犯したとしても、ただ神様に祈れば全てが赦されるのです。そして赦された後、人々は神様の御前で再び自由に喜びを持って生き始めるのです。これは神様を信じる者が全て分かち合う証です。イエス様を信じた結果に基づき、人々は自らの罪が本当に赦されたことが分かります。彼らは実際に平安と喜びを楽しみ、神様に祈れば、神様は聞いてくださいます。多くの事柄において、神様は不思議なことにたくさんの御恵みを人間にお授けになり、人間は神様からたくさんの喜びを授かります。彼らは神様が人類のためにこれほど多くのことをなさるのを見て、それらを体験した人々は全てこのような証を立てることができます。このように、恵みの時代の御働きに関して私たちはどのような理解を持っているでしょうか。恵みの時代の御働きは贖いの御働きの段階なのです。これが恵みの時代の御働きの本質です。

恵みの時代において神様がなさった御働きは贖いの御働きでした。ある人たちは主イエス様が十字架上で最後に「すべてが終った」とおっしゃったことを指摘します。そして彼らはこう言います。「主イエス様が罪のための生贄としてお仕えになったとき、主は神様の救いの御働きを成し遂げられたのです。私たちは主イエス様を信じるので、私たちの罪を赦されたのです。また私たちは信仰のみを通して義と認められ、それゆえ私たちは天の御国に入ることができます。私たちはただ主の携挙を待たなければならないのです。」またこうも言います。「全ての用意はできました。私たちに必要なのはただ携挙です。」これは検証できるでしょうか。いいえ、できません。私たちは罪が赦されたことだけを検証できます。どのように検証するのでしょうか。それはどのような罪を犯したとしても、ただ祈って罪を告白すれば、喜びと平安を感じ、霊は罪の縄目から開放されることです。人は罪がなくなると開放感を味わえるのです。ですから私たちは罪のための生贄がまさに本当で、それは主イエス様の信者たち全てが体験を通して確認できることであると言えます。しかし次のことは決して確かに言えることではありません。「主イエス様を信じれば神様から救いと罪からの完全な離脱がもたらされます。もし主イエス様を信じるのなら、神様に褒めていただき、天の御国に入れるでしょう。」主イエス様はこうはおっしゃいませんでした。そのような証拠は全くありません。なぜ証拠がないのでしょうか。人間の罪は赦されましたが、そのサタンのような性質、罪深い本性は赦されることができるでしょうか。いいえ。主イエス様は「いったん罪が赦されたら、あなたは天の国に入れます」とおっしゃいましたか。主イエス様は「ただ私を信じれば、天の国にあなたのための場所が備えられます」とおしゃいましたか。神様は一度もそうおっしゃいませんでした。聖書で主イエス様は何とおっしゃったでしょうか。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイ7章21節)「天にいますわが父の御旨を行う」とは何を指しているのでしょうか。それは、神様の御旨を行なわなければならないこと、神様の道に従うこと、真理の道、つまり神様の御言葉を実行することを意味しています。人は神様が要求することは何でも行い、神様の指示に絶対的に従い続けなければなりません。そうして初めて天の御国に入れるのです。しかし恵みの時代において、何人の人々が神様の要求を満たすことができたでしょうか。一人もできませんでした。ですから恵みの時代の御働きは贖いの御働きの一段階だと言えるのです。主がお戻りになられたら、神様の御前に来る者を全て清めるために、神様は裁きと刑罰の御働きの段階をなさると聖書に預言されています。言い換えるならば、神様は清めの御働きの段階に取り組まれてから、終わりの日に時代を終わらせられるのです。そして主イエス様が預言なさった麦を毒麦から分け、羊をヤギから分け、賢い乙女を愚かな乙女から分け、神様に仕える者を仕えない者から分け、良い僕を悪い僕から分けることの全てが成就します。主イエス様の預言によると、聖書に明確に預言されているように、終わりの日に神様は人間を裁き清める働きの段階、全ての者を種類によって分ける御働きに取り組まれます。聖書にあるとおりです。「さばきが神の家から始められる時がきた」(ペテロの第一の手紙4章17節)、そしてまた、「終りの時に啓示さるべき救」(ペテロの第一の手紙1章5節)とあるように、どのように主が来られて勝つ者を受け入れられるか(ヨハネによる福音書14章3節参照)、そしてどのように主が宝を盗む盗人のように来られるか(ヨハネの黙示録16章15節参照)も書いてあります。これらの預言は全て主がお戻りになられた時に行なわれる御働きを指しています。これは律法の時代から主が戻られ時代を終えられるときまで、御働きには三段階あることを証明します。これは本当で、聖書の預言、黙示録に見ることができます。

恵みの時代の御働きは救いの御働きで、それは確かに人類の罪深い本性を排除するための清めの御働きではありませんでした。主イエス様の信者で罪深い本性が完全に排除された人は一人もおらず、赦された後にまた罪を犯さなかった人は一人もおらず、性質の完全な変貌を達成した人は一人もおらず、神様を本当に知った人は一人もいません。これがこの件の事実です。恵みの時代には人類は二千年間神様を信じましたが、五つの基本的な問題が解消されずに残っています。一番目に、人間の罪を犯すサタンのような本性が解消されませんでした。二番目に、人間のサタンのような性質を明らかにする問題も解決されないままでした。三番目に、一人ひとりの人のいのちの性質の変貌の問題が解決されませんでした。四番目に、人間がどのように神様を知り、神様に従うべきかという問題が徹底的に解決されませんでした。五番目に、人間がいかに清めを得られるかという質問へも完全には答えが見つけられませんでした。これらの五つの基本的な問題が解決されなかったので、恵みの時代の神様の御働きが贖いの御働きの一段階であり、人類の救いの最終段階の御働きではなかったことを証明しています。恵みの時代の御働きは、終わりの日の救いの御働きのために道を整え、基礎を作ったのです。

終わりの日の神様の裁きの御働きについてまた話しましょう。恵みの時代において主イエス様を信じた人たちは、罪を犯した後主に祈ったら直ちに罪を赦され、神様がお授けになった平安と喜びを享受しました。ですから恵みの時代に神様を信じた人たちは全て罪が何であるかは知っていましたが、人間の罪深いサタンのような本性が何であるか、人間があらわにする堕落した性質が何であるか、罪の根源が何であるかは理解できなかったのです。霊的有名人、聖書学者、祭司たちでさえも知らなかったのです。終わりの日には、神様は人間を裁いて罰して清めるために肉に戻られて全ての真理を表現され、神様の御言葉の裁きと刑罰を通して人々は人類の罪の根源について本当の認識を得始め、人類の深く堕落したサタンのような本性と人間があらわにするサタンのような性質について本当の認識を得始めます。人々は全て、彼らがサタンにより深く堕落させられ、彼らが生き抜いたのは悪魔サタンだったと認めます。人々は皆、神様の御言葉により征服され、自分がサタンの子孫であることを完全に確信して認め、こう思います。「私たちは悪魔サタンです。悪魔サタンがどのような祝福を求めるというのでしょうか。それなのに私たちはなんと法外な欲望を語るのでしょうか。私たちにはそんな価値はありません。私たちは神様のなされるがままになるべきであり、もし神様が私たちが仕えることを要求されるのなら、私たちはしっかり仕え、しっかり本分を尽くすべきです。もし神様が私たちに真理を追求するよう要求されたり他の要求をなさるのなら、それは全ての神様により例外的に引き上げられることです。神様は私たちを人間として扱ってくださるので、一生懸命追求して押し進みましょう。私たちが神様の愛に報いなければならないことは言うまでもありません。」このように人々は神様に従います。これが神様の裁きと刑罰の成果です。

ではどのように終わりの日の神様の御働きがこの成果を達成するのでしょうか。それは裁きと刑罰を通してです。裁きと刑罰を通して神様がどのような御性情を明らかになさったことを発見するのでしょうか。それには義と、威厳と、怒りと、呪いがあります。神様は愛と憐れみに満ちておられるだけではありません。神様の御性質のもう一面はおもに義と、威厳と、怒りなのです。神様が人間を贖われるとき、神様の愛と憐れみに満ちた面が見えます。神様が人々を裁き清められるとき、おもに義なる御性質が見えます。神様が時代をお始めになられたとき、神様の御性質は愛と憐れみに満ちておられました。神様が時代を終わらせられるとき、神様はその義なる御性質を明らかにされます。神様の御言葉の裁きと刑罰を通して、私たちは神様の御性質の発現を見て、神様の御性質の到来は私たちに神様を畏れる心を育てさせ、私たちは二度と神様の御性質を冒すことをはばかり、神様の戒律を守ることと神様の人間に対する要求に関して、恵みの時代と律法の時代とは全く違う心的傾向を持ちます。恵みの時代には、人々はただ神様が愛と憐れみに満ちておられることを知っていました。どれほど人間が罪を犯しても、神様はいつでも人間を七度を七十倍するまで、つまり無限に赦して免罪なさいました。神の国の時代が来ると、神様の御言葉の裁きと刑罰を通して、人々は神様の御性質は冒すことができず、罪は罰せられなければならないことに気が付きました。人間は徐々に神様を畏れる心を育て、いったん神様を畏れる心を持ったら、悪を避け、彼らのいのちの性質は変わり始め、このようにして人間はますます清められました。これが裁きと刑罰の成果です。神の国の時代における、神様が人間を救い完全にし、やがて人間が清められる御働きの段階の本質は、神様の裁きと刑罰の御働きなのです。神様の裁きと刑罰のみが、人類の罪の根源、罪の本性、人類の堕落の本質を人々に知らしめることができるのです。裁きと刑罰のみが、神様の義なる御性質、神様の全能性と英知、神様の本当の身分が創造の主であること、神様の権威は無類で他の何よりも高いことを人々に知らしめることができるのです。これらは全て神様の裁きと刑罰の成果なのです。ですから神様の裁きと刑罰を受け入れる者は全て、神様に承認される人たちであり、最も神様に祝福され、神様の最大の祝福を持っているのです。終わりの日の受肉の神様がいらっしゃるとき、受け入れて従う者は皆大いなる祝福を授かり、抵抗して断る者は全て大きな災難を受け、このようにして人々は種類によって分けられます。まとめますと、終わりの日の神様の御働きは裁きと刑罰の御働きであり、その成結果はおもに四つあります。第一に、人間に罪が何であるかを人々に知らしめ、最も重要なことに、人類の罪深い本性、本質、根源を見抜かせ、全ての人間が生き抜いているのはサタンの性情でありサタンの姿であるという真理を教えます。第二に、神様の御性質がおもに義であることを人々に知らしめ、神様の権威、神様の全能性と英知、神様の本当の身分が創造の主であることを教え、それによって神様を畏れる心を育てさせます。第三に、いのちの性質の変革を人々に達成させ、本当に神様に従い唯一真実の神様を崇拝できるようにします。第四に、人間が本当に清められ、やがては神様を見て人間の本当の安らぎに入ることを可能にします。これらは全て、神の国の時代における神様の裁きと刑罰の御働きの成果です。

『福音を広める課題についての交わりと答え第2番』より

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