神の国の福音についての代表的な全能神の言葉 (選集)

目次

VIII.恵みの時代と神の国の時代の働きの関係

1.イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、命を得るだろう。

…神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。"

(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

2.人にとって、イエスの磔刑は神の受肉の御働きを終結させ、全人類を罪から救い、神が黄泉の国の鍵を握られるのを可能にした。誰もが神の御働きは完全に成し遂げられたと考えている。実際は、神にとって、御働きのほんの一部が成し遂げられたにすぎない。神は人類の罪を救われただけである。人類を征服しておられず、ましてや人の中のサタンの醜さを変えていない。そのため神は次のように言われる。「人となった私の肉体は死の苦しみを経験したが、それは受肉の目標のすべてではなかった。イエスは私の愛する子で、私のために十字架にくぎで打ちつけられたが、彼は私の働きを完全には終了しなかった。彼が行ったのはほんの一部であった。」したがって、神は受肉の働きを続行する計画の第2回目を開始された。神の最終的意図は、サタンの手から救われたすべての人を完全なものにし、味方にすることであり、そのため、神は人の姿となるという危険を再び冒す準備をされた。

(『言葉は肉において現れる』の「業と成長(6)」より)

3.終わりの日に受肉した神が地上に来るのは、主に言葉を述べるためである。イエスが来た時、天の国の福音を広め、十字架の贖いの業を成就した。イエスは律法の時代を終わらせ、すべての古いものを終わりにした。イエスの現れが律法の時代を終わらせ、恵みの時代を招き入れたのだ。終わりの日に受肉した神が来て、恵みの時代は終わった。神は、主として言葉を述べるために来た。言葉を用いて人間を完全にし、光に照らし、啓発し、人間の心にある漠然の神のいるところを除くために来た。これはイエスが来た段階の働きではない。イエスが来た時には、多くの奇跡を示した。イエスは癒やし、悪魔を追い払い、十字架で贖いの業を行なった。その結果、人間は、これが神のあるべき姿だと考えた。イエスが来た時、主は漠然の神の姿を人間の心から除くことはしなかった。イエスが来た時、十字架につけられた。癒やし、悪魔を追い払い、天国の福音を広めた。ある意味で、神の受肉は終わりの日に人間の心から漠然の神の姿を除くもので、そうしてもはや人間の心に漠然の神の姿がないようにしたのである。その言葉と働きとで、神はすべての地を歩く。人々の間でする働きはまことに真実で普通のもので、人々は神が実在することを知り、漠然の神は人間の心に居場所を失う。つまり、神は肉の体で語った言葉で人間を完全にし、すべてを成就するのだ。これが神が終わりの日に成就することだ。

神は癒やしに来たのではない。また、悪魔を追い払うためでも、奇跡を行うためでもない。神は悔い改めの福音を広めるため、人間を贖うために来たのでもない。それは、イエスがすでにこの働きを終えているので、神は同じ働きを繰り返さないためである。今日、神は恵みの時代を終わらせ、恵みの時代の実践をすべて捨て去るために来た。神が来たのは、主として自分が現実に存在することを示すためである。イエスが来たときは、そう多くを語らなかった。主に奇跡を示し、しるしや不思議を行なった。そして、癒やし、悪魔を追い払い、あるいは、人々に信じさせるために預言を語り、自分がほんとうに神であること、公平な神であることを知らせた。最後に、磔刑の業を成就した。今日の神は、しるしも不思議も行なわず、癒やすことも悪魔を追い払うこともしない。イエスが来た時、その働きは神の一部を示すものであったが、今回の神は、この段階でするべき働きをするために来たのだ。神は同じ働きを繰り返さない。神は常に新たな神であり、絶対に古いものではない。あなたが今日見るものはすべて、実際の神の言葉と働きである。"

(『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知るということ」より)

4.働きの最終段階は、独立した段階ではなく、それ以前の二つの段階と一緒に形成された全体の一部であるから、三つの段階の働きのうち一つだけを行うことで救いの働き全体を完成させることは不可能である。たとえ働きの最終段階が人を完全に救うことができたとしても、必要なのはこの単独の段階を実践することだけという意味にはならないし、人をサタンの影響力から救うために、その前の二つの段階の働きは必要ないということにはならない。救いの働き全体が三つの段階の働きであって、その中の一つの段階ではないため、三つの段階の働きのうちどの段階も単独に取り上げて全人類の唯一の認識すべきビジョンとすることはできない。救いの働きが完成されていない限り、神の経営(救い)も完全に終わることはできない。神の存在、性質、そして英知が救いの働き全体の中に表現されており、初めは人に対して明らかにされていなかったが、救いの働きの中で徐々に表されるようになった。救いの働きの各段階それぞれが神の性質と神の存在を部分的に表しているが、働きの各段階が直接かつ完全に神の存在全体を表すことはできない。つまり、救いの働きは三つの段階の働きが完成した後全部終わるのだから、神のすべてに関する人の認識は三つの段階の働きから切り離すことはできない。人が一つの段階から得るものは、単に神の働きの一部で表される神の性質にすぎず、それは前後の段階で表される性質と存在を代表することはできない。なぜなら、人類を救う働きは一時期または一箇所ですぐ終わるものではなく、異なった時期、異なった場所で人類の発展の状況によって次第に深くなっていくものだからである。それはいくつかの段階で行われる働きであって、一つの段階で終わるものではない。だから神の英知の全ては、一つの個別の段階よりはむしろ、三つの段階において具体化されるのである。神の存在の全て、神の全ての英知が、これらの三つの段階の中に配置されていて、どの段階の働きの中にも神の存在があり、神の働きの英知が記されている。

(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)

5.神による経営全体は、3段階に分割され、各段階において、人間に対して適切な要求が行われている。さらに、様々な時代が経過し、進行してゆくにつれ、全人類に対する神の要求は高度化し続ける。…従前において、人間は律法と戒律に従うことを要求され、辛抱強く謙虚であることを要求された。現在、人間は神の計画全てに従い、神に対する至高の愛を備えることを要求され、また究極的には、苦難の時に神を愛し続けることを要求されている。これら3つの段階が、神が自身の経営全体を通して、神が人間に対して段階的に行う要求である。神の業の各段階は、その前の段階よりも一層深化し、人間に対する要求は、各段階においてその前の段階よりも一層遠大なものであり、神の経営全体はそのようにして次第に形成される。人間の性質が神により要求される基準に近付いてゆく理由は、正確に言うと、人間に対する要求が高度化してゆくからであり、その後になって初めて、最終的に神の業が完了した時、人類全体がサタンの影響から救われるまで、人類全体が次第にサタンの影響から次第に離れてゆく。

(『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より)

6.イエスの働きが終わった後、神は次の時代のためにさらに神の働きを続行した。神による経営(救いの)計画全体はいつも前進しているからである。古い時代が過ぎると、新しい時代に置き換えられ、古い働きが完了すると、新しい働きが神の計画を続行する。今回の受肉はイエスの働きの完了に続く神の二回目の受肉である。もちろん、この受肉は単独で起こるのではなく、律法の時代と恵みの時代の後の第三段階の働きである。…イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。

(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)