主は語り、裁きの働きをするために出現された
I.主は終わりの日に現れ、神の家から始まる裁きの働きをするために、言葉を発された。 これは次の聖書の預言を完全に成就します。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録 2:7)「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)賢いおとめだけが主の声を聞き、主を迎えることができる。
賢いおとめたちは神の声を聞き、主を迎えた
Ⅱ.賢いおとめたちは主の声を聞いて、主の出現と働きを見て、主が再臨されたことを確信した。こうして、おとめたちは終わりの日の神の働きを受け入れ、子羊の足跡をたどり、主と共に祝宴の席についている。
愚かなおとめたちは露わにされ、取り除かれて、災いに陥るだろう
Ⅲ.愚かなおとめたちは神の声を聞くことができない。 聖書の一つひとつの言葉に頑なにしがみ付き、牧師や長老たちの言葉を崇拝し信じる。 それ故、彼女たちはまことの道を追求することも、検証することもせず、その結果、主を迎え入れなかった― 彼女たちは露わにされ、取り除かれて、災いに陥るだろう。
「六千年間にわたる神の経営(救いの)計画が終わりを告げようとしている。そして、神の国の門は神の現れを求める人々にすでに開かれている。兄弟姉妹たちよ、何を待っているのか。あなたがたが探し求めているものは何か。神の現れを待っているのか。神の足跡を探し求めているのか。ああ、神の現れがどれほど慕わしいものか。だが、神の足跡を見出すことがいかに難しいことか。今のような時代に、このような世界で、神の現れる日をこの目で見るために何をしなくてはならないのだろうか。神の足跡をたどるには何をしなければならないのだろうか。神の現れを求める人であれば、だれでもそのような疑問を持つものである。あなたがたもそのような疑問を抱いたのは一度や二度ではないと思うが、その結果はどうだったか。神はどこに現れるのか。神の足跡はどこで見つかるのか。そうした疑問に対する答えは見つかっただろうか。そうした問いに対して、次のように答える人が多い。『神は自分に聞き従う人々に現れ、神の足跡は私たちのただ中にある。そんなに難しいことではない。』決まり切った答えであればだれにでも言える。だがあなたがたは、神の現れとは何かを、神の足跡とは何かを本当に理解しているのか。神の現れとは、神が仕事を行うためにみずから地上に来ることである。神としての身分と性質は保ったままで、また神自身の方法で、神は時代を始め、時代を終わらせるために人間世界に下ってきた。このような神の現れは儀式のようなものではない。それは何かのしるしでも、絵画でも、奇跡でも、大いなる幻でもない。ましてや宗教的な儀式でもない。それは、実際に手で触れ、見ることのできる動かしがたい事実である。このような神の現れは何かの手順を踏むためのものでも、短期間の仕事のためのものでもない。それは、神の経営(救いの)計画の中にある一つの段階を実現するためのものである。神の現れは必ず何かの意味があり、必ず神の経営(救いの)計画と関係している。ここで言う現れは、神が人を導き、先導し、啓くときの現れとは全く異なる。神は自身を現す度に、神の大いなる業の一つの段階を実行に移すのである。この働きは他のどの時代の働きとも異なる。それは人には想像もできないもので、人が経験したことがないものである。その働きは、新しい時代を到来させ、古い時代を完結させるもので、新しい、一歩進んだ、人類を救う働きである。さらには、人類を新しい時代に導き入れる働きである。神の現れが持つ意義はそこにある。」
『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より
…神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは『神は真理であり、道であり、いのちなのです』という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。もし神の現れをその目で見たいと思うなら、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念というものを超越しなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じることは許されない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を持っているわけでもない。だから人は探し求め、受け入れ、従うべきである。
『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より
「イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」
『言葉は肉において現れる』の「序文」より
「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。」
『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より
「神の国の時代、神は言葉を用いて新たな時代を招き入れ、働きの手段を変え、その時代全体の働きを行う。これが神が言葉の時代に働く原則である。神は異なる観点から語るために受肉し、肉となった言葉である神、その知恵と不思議とを人間が本当に見ることができるようにした。そうした働きは、人間を征服し、人間を完全にし、人間を淘汰するという目的をよりよく成し遂げるために行われる。これが、言葉の時代に言葉を用いて働くということの真の意味である。言葉によって、人間は神の働き、神の性質、人間の本質、人間が何において成長すべきかを知るようになり、言葉によって、言葉の時代に神が成し遂げようと望む働きがすべて成し遂げられる。言葉によって人間は露わにされ、淘汰され、試される。人間は言葉を見、言葉を聞き、言葉の存在を知った。その結果、人間は神の存在を信じる。人間は神の全能性と知恵、また、神の人間を愛する心と人間を救おうという願いとを信じる。『言葉』という語は単純でありふれたものだが、肉となった神の口から出る言葉は、全宇宙を揺るがす。神の言葉は人間の心、その観念や古い性質、全世界の古い姿を変える。はるか昔から、現在の神だけがそうした働きを行っている。そして、現在の神だけがそのようにして語り、人を救う。それより後、人間は言葉に導かれて生き、言葉により養われ、施される。人間は言葉の世界に生き、神の言葉の呪いと祝福の内に生き、それ以上に言葉の裁きと刑罰との下に生きる。これらの言葉と、この働きはみな、人間が救われ、神の心を達成し、古い創造の世界における元々の姿を変えるためのものである。」
『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代」より
「わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを顕示する義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。」
『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より
「今日、神の現在の言葉に従う人々はみな聖霊の流れの中にある。……『聖霊の働きに従う』とは、今日の神の心を理解し、神の現在の要件に従って行動することができ、今日の神に従順で服従することができ、神の最新の言葉に従っていのちに入ることを意味する。このような人のみが聖霊の働きに従い、聖霊の流れの中にいる。そのような人々は神の賞賛を受け、神を見ることができるばかりでなく、神の最新の働きから神の性質を知ることができ、そして人の観念や不従順、人の本性と本質を神の最新の働きから知ることができる。さらに、奉仕の過程で自らの性質をだんだんと変えることができる。このような人々のみが神を得ることができ、真の道を純粋に見つけた人々である。…」
「聖霊の現在の言葉に従うことができる人々はみな祝福されている。そのような人々が過去どうであったか、聖霊が人々の中でどのように働いていたかは問題ではない。最新の働きを得た人々は最も祝福され、今日の最新の働きに従えない人々は排除される。神は新しい光を受け入れることができる人々を望んでおり、神の最新の働きを受け入れ、知っている人を求めている。なぜ貞節な乙女でなければならないと言われているのであろうか。貞節な乙女は聖霊の働きを求め、新しいことを理解することができる。さらに、古い観念を忘れ、今日の神の働きに従うことができる。今日の最新の働きを受け入れる人々のこの集りは、昔から神によって前もって決められており、人々のなかで最も祝福されている。あなたがたは神の声を直接聞き、神の出現を見て、そのため天と地を通じて、世代を通じて、あなたがた、つまりこの集りよりも祝福された人々はいない。」
『言葉は肉において現れる』の「神の最新の働きを知り、神の歩みに従う」より
「神は神の現われを切望する人々を探し求める。神は神の言葉を聞くことができる人々、神の任務を忘れず、心と体を神に捧げる人々を探し求める。神は神の前で赤子のように従順で、神を拒否しない人々を探し求める。あなたが何ものにも妨げられずに神に献身するならば、神はあなたを好意の眼差しで見、祝福を授けるだろう。たとえあなたが高い身分で、名声があり、知識が豊富で、有り余るほどの資産の持ち主で、多くの人々の支持を得ていたとしても、それらのものが、神の要求することを行うために、神の前に出て神の召命と任務を受ける妨げにならないならば、あなたの為す全ては、地上で最も意義深く、人類の間で最も正しいことになる。」
『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より
「宇宙の隅々までわたしはわたしの働きを行っている。東方では、雷のような轟音が終わることなく発生し、すべての国々や宗派を震わせている。すべての人々を現在に連れて来たのはわたしの声である。わたしはすべての人々がわたしの声により征服され、みなこの流れに落ち、わたしの前に帰服するようにする。わたしはずっと前に全地からわたしの栄光を取り戻し、東方で新たにそれを発したからである。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光の元へ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを見上げようとしない者がいるだろうか。『贖い主』が再び来るのを待ち望まない者がいるだろうか。偉大なる全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は全地の隅々まで広められるであろう。わたしはわたしに選ばれた者に向かって、彼らにもっと話しかけたいと願う。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を話しかける。そしてわたしの口にある言葉は人の宝になり、すべての人々はわたしの言葉を大切にする。稲妻が東から西へひらめき渡る。わたしの言葉は、人が決して手放したくないもの、そして測り難いものであるが、それ以上に彼らにさらなる喜びをもたらすものである。生まれたての赤児のように、すべての人々は喜びに満ち、わたしの到来を祝う。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れて来る。その時から、わたしは正式に人類へ入る、人々がわたしを礼拝するために。わたしから放たれる栄光とわたしの口にある言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、またわたしが東方の『オリーブ山』に降ったことも知るようになる。彼らはわたしがずっと前からすでに地上にいたことを知り、『ユダヤ人の息子』ではなく、東方の稲妻だと知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の中から去って、その後栄光と共に再び人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた「赤児」である。それだけでなく、わたしは今の時代の栄光に満ちた全能神である。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見させ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を見上げさせなさい。これがわたしの心の全てである。これがわたしの計画の結末であり、クライマックスであると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい。」
『言葉は肉において現れる』の「七つの雷が轟く──神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」より
「神の権威と身分が明示されていることを見出すのは困難ではない。たとえば、神が「わたしはあなたと契約を結ぶ...あなたを...とする...わたしはあなたに...をさせ...」と述べている場合、「あなたを...とする」や、「わたしはあなたに...をさせ」といった、神の身分と権威を確約する言葉は、伝統的な語彙であるのと同時に、ある意味で創造主の忠誠を示すものであり、またある意味では、創造主の身分である神が用いる特別な言葉である。...
…これらの言葉は神が述べたものであり、神の言葉には力、威厳、そして権威がある。こうした力と権威、そして事実の実現の不可避性は、被造物やそれ以外の物のいずれもが、達成することも超越することもできないものである。このような口調で対話できるのは創造主のみであり、神の約束は虚言や無根の戯言ではなく、あらゆる人間や物が超越できない、独自の権威であることが事実により証明されている。
…このような言葉を神が述べた場合、その言葉は神の真の性質を明示し、表現するものであり、神の本質と権威の完璧な明示と顕現であり、創造主の身分を証明するものとして、それ以上適切なものは無い。こうした発言の仕方、語調、語彙はまさに創造主の身分の印であり、神自身の身分の表出と完璧に一致し、こうした発言には見せかけや不純さは無い。こうした発言は、創造主の本質と権威を完璧に証明するものである。」
『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身1」より
「実際には、神の御言葉は、神のご性情である。神の御言葉から神の人間への愛、神による人間救済、その救済方法などを知ることが出来る。なぜなら、神の御言葉は、神が人間に書かせたのではなく、神により明示されたものだからである。御言葉は神が自ら表されたものである。御言葉を表したのは神ご自身であられ、それは神の内なる声である。御言葉が心からの言葉と呼ばれるのは何故だろうか。なぜなら、御言葉は深遠なところから発せられたものであり、神のご性情、御旨、お考え、そして神の人間に対する愛、人間救済、期待だからである。神の御言葉の中には、強いもの、優しく柔和なもの、入念なもの、そして無慈悲な黙示のものがある。あなたがたは、黙示の御言葉だけを見た場合、神は厳しいと感じる。あなたがたが優しく柔和な面だけを見た場合、神はそれほど多くの権威を持っておられないように思われる。したがって、あなたがたは御言葉の前後関係抜きで解釈してはならない。御言葉は、あらゆる側面から検討する必要がある。神は時折優しく柔和な側面から御言葉を述べられ、人間は神の人間に対する愛を知る。また神は時折厳格な側面から御言葉を述べられ、人間は神の侵害不可能なご性情を知る。人間はひどく汚れているので、神の顔を見るに値せず、したがって神の御前に来るに値しない。現在において、人間が神の御前に来る事は、完全に神の恵みの範囲外にある。神の知恵は神が御業を行われる方法と神の御業の意義から理解できる。人間は、神と接触せずとも、神の御言葉からそうした物事を依然として知ることが出来るであろう。」
『キリストの言葉の記録』の「受肉に関する知識」より
「今回は、神は霊体ではなく、まったく普通の体で働きを行うために来る。それは神の二度目の受肉の体というだけではなく、神がその中に戻る体でもある。それはごく普通の肉体である。この体の中に、他の人々と異なるものは何も見受けられないが、あなたは、今までに聞いたこともない真理を彼から受け取ることができる。この取るに足らない肉体は、神から来る真理の言葉のすべてを具現化したものであり、終わりの日の神の働きを引き受けるもの、また人が知るようになる神の全性質の現れでもある。あなたは天の神を見ることを大いに望んでいたではないか。あなたは天の神を理解することを切に願ったではないか。あなたは人類の終着点を見ることを大いに欲していたではないか。彼は、今まで誰ひとりとして語ることのできなかった奥義の全てをあなたに語るだろう。また、あなたが理解していない真理についてさえ語るだろう。彼は、あなたが神の国に入る入り口の門であり、あなたが新しい時代に入るための導き手である。このような普通の肉が多くの計り知れない奥義を握っているのである。彼の行いはあなたには測り知れないものが、彼の行うすべての働きの目標を知れば、彼が、人が思うような単なる肉ではないことを理解するのに充分である。なぜなら彼は、終わりの日に人類に神が示す配慮、及び神の意志も代表しているからである。あなたは天地を揺るがすような彼の語る言葉を聞くことはできず、燃え上がる炎のような彼の目を見ることもできず、また、鉄の杖のような彼の懲らしめを感じることもできないが、彼の言葉から神の怒りを聞き、人類に示している神の憐れみを知ることができる。あなたは神の義なる性質と神の知恵を見ることができ、更に神が全人類に対して持っている配慮をはっきり理解することができる。」
『言葉は肉において現れる』の「神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを知っているか」より
「それでも、人々の間に紛れているこの平凡な人こそが私達を救うための新しい働きを行っているのだ。この人は私達のために何も明らかにすることはないし、来た理由を説明することもない。単に為すべき仕事を段階ごとに、自分の計画に沿って行うだけである。彼は益々頻繁に声を発し、発言するようになる。それは、慰め、励まし、忠告、警告などから、非難や懲らしめまである。穏やかで優しい口調から、荒々しく威厳ある言葉使いまであり――どれもが人に哀れみと戦慄を注ぎ込む。彼が言うことは全て、私達の中に深く隠された秘密に命中し、それは私達の心を突き刺し、霊を突き刺し、私達を恥ずかしく、みじめな気持ちにする。…
私達が知らないうちに、この小さな取るに足らない人は私達を神の一つ一つの働きの段階へと導き入れてきた。私達は数え切れないほどの試練に耐え、数々の懲らしめを受け、死をもって試される。私達は神の義なる威厳に満ちた性質を知り、神の愛と哀れみも享受し、神の偉大な力と知恵を感じ、神の愛らしさを実際に目にし、そして人類を救いたいという神の強い願いを見る。この平凡な人の言葉を通して、私達は神の性質と本質を知り、神の心を理解し、人の本性と本質をも知り、そして救いと完全にされるための方法を知るようになる。その言葉は、私達を死なせ、また復活させる。その言葉は安らぎを与えるが、罪悪感と恩義の感情で私達を苦しませもする。その言葉は、私達に喜びと平安をもたらすが、大きな痛みも与える。私達は、時にはその手によって屠られる子羊のようであり、時にはその最愛のものであり、その愛と好意を享受する。時には私達はその人の敵のようでもあり、その怒りのまなざしによって焼かれ灰にされる。私達は彼に救われる人類であるが、その目には蛆のようでもあり、彼が日夜見つけることを考えている迷える子羊である。彼は私達に対し慈悲深くもあれば軽蔑もし、私達を立ち上がらせ、慰め励まし、私達を導き啓示し、刑罰を与え懲らしめ、私達を呪いさえする。彼は、昼も夜も私達のことを心配し、昼も夜も守り、気にかけ、決して私達の傍を離れず、その心血の全てを私達に注ぎ、私達のためならいかなる代償も払う。この小さくて平凡な肉体から出る言葉の数々の中に、私達は神の全てを享受し、神が私達に与えた終着点を見た。…」
「神による発話は続いていて、様々な方法や観点を用いて私達にすべきことを諭し、その心の声を表す。その言葉は生命力を備え、私達が歩むべき道を示し、真理とは何かを理解できるようにする。私達はその言葉に引き付けられるようになり、その声音や話し方に注目し始め、そして意識下において、この小さな取るに足らない人の心の声に関心を持ち始める。彼は私達のために労力を惜しまず、私達のために睡眠も食欲も無くし、私達のために涙も流し溜息をつき、病気に苦しみ、私達の終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私達が鈍感で反抗的なために、その心は涙と血を流すのである。この人のそのような存在ともてるものは、普通の人を超えているし、堕落した者には誰も到達することが出来ないものである。彼には、普通の人にはない寛容と忍耐力が備わり、その愛はどんな被造物にも持ちえないものなのだ。私達の考えていること全てを知っていて、私達の本性や本質をこのように把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神を代理して私達に語りかけ、このように人の間に働くことができる人はこの人以外に居ない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を持つ者はいない。神の性質と神が持っているもの、神であるものが、この人からあますところなく発せられているのだ。この人以外に、私達に道を示し、光をもたらす者はいない。彼以外に神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に私達をサタンの束縛や私達の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を代表し、神の心の声と訓戒、そして人類すべてに対する神の裁きの言葉を表現する。彼は新しい時代を、そして新しい紀元を開き、新しい天と地そして新しい働きを持ってきた。そして彼は私達に希望をもたらし、漠然と生きてきた私達の生活を終わらせ、救済の道を私達に余すところ無く見せてくれたのである。彼は私達の存在そのものを征服し、私達の心を得た。その瞬間から私達の心は覚醒し、私達の霊は生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、長い間私達の間に交じり生活しながらも私達に拒否され続けてきたこの人こそ、私達が絶えず考え、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私達の神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。彼は私達にもう一度命を授け、私達が光を見えるようにし、そして私達の心がさまようのを止めてくれたのだ。私達は神の家に帰り、神の玉座の前に戻り、神と顔を合わせ、神の顔をこの目で見て、この先にある道を見た。その時、私達の心は完全に彼に征服された。私達はもはや彼が誰であるか疑わず、その働きや言葉にもはや反抗することもなく、彼の前に完全にひれ伏す。私達の望みは、ただ残りの人生をずっと神の足跡に従って生きること、神に完全にされること、神の恵みと私達への愛に報い、神の指揮と計画に従い、神の働きに協力し、神が私達に委ねたことを完成するためにできる限りのことを行うことだけである。」
『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より
「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」。あなたがたは今聖霊の言葉を聞いたか。神の言葉はあなたがたの耳に届いているのだが、それが聞こえるか。神は終わりの日に言葉による働きを行うが、そのような言葉は聖霊の言葉である。神は聖霊であり、また肉になることもできるからである。したがって、過去に語られた聖霊の言葉は、今日では肉となった神の言葉である。聖霊の言葉は天から降りてきて人の耳に届くはずだと信じているばかげた人は少なくない。このように考える人は誰も神の働きを知らない。……神の受肉を否定する人々は、霊、あるいは神が行う働きの原則を知らない人なのだ。今は聖霊の時代だと信じているのに、聖霊の新しい働きを受け入れない人々は、曖昧な信仰の中に生きている人なのだ。こうした態度の人々は聖霊の働きを決して受けとらない。聖霊が直接語りかけ、働きを実行することだけを望み、肉となった神の言葉や働きを受け入れない人々は新しい時代に足を踏み入れることも、神からの全き救いを受けることも決してできない。」
『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を規定している人がどうして神の啓示を受けることができるだろうか」より
「聖霊の現在の働きに従わない人々は神の言葉の働きに入っておらず、どれほど働こうとも、苦しみがどれほど大きくとも、どれほど右往左往しようとも、そのどれも神には意味がなく、神はそんな人々を賞賛しないであろう。今日、神の現在の言葉に従う人々はみな聖霊の流れの中にある。神の現在の言葉を知らない人々は聖霊の流れの外にあり、そのような人々を神は賞賛しない。聖霊の現在の言葉から離れた奉仕は肉の奉仕であり、観念の奉仕であり、神の心に従うことができない。人々が宗教的観念の中に生きるなら、神の心に見合うことをすることはできず、たとえ神に奉仕しても、それは想像や観念のただ中での奉仕であり、神の心に従って奉仕することはまったくできない。聖霊の働きに従うことができない人々は神の心を理解せず、神の心を理解しない人々は神に奉仕できない。神は神自身の心に従う奉仕を望む。神は観念と肉の奉仕を望まない。人々が聖霊の働きの歩みに従うことができないのであれば、観念の中に生きているのであり、そのような人々の奉仕は中断し混乱する。その奉仕は神に反し、そのため神の歩みに従えない人々は神に奉仕できない。神の歩みに従えない人々は、間違いなく神に反対しており、神と調和できない。……聖霊の働きにより排除される人々は、神の最新の働きに従うことができず、神の最新の働きに反逆する人々である。そのような人々が公然と神に反対するのは、神が新しい働きを為し、神の姿が彼らの観念にある神の姿と同じではないからである。その結果、公然と神に反対し、神を非難し、そのため神により嫌悪、拒絶される。神の最新の働きの認識を持つのは簡単ではないが、しかし意図的に神の働きに追従し、神の働きを求めることができれば、神を見、聖霊の最新の導きを得る可能性が得られるだろう。神の働きにわざと反対する人々は聖霊の啓蒙や神の導きを受けられない。そのため、神の最新の働きを受けることができるか否かは神の恩寵次第であり、人々の求め次第であり、人々の意図次第である。」
『言葉は肉において現れる』の「神の最新の働きを知り、神の歩みに従う」より
神が形式や国の制約を受けずに現れる目的は、神が自分の計画どおりに働きを完成できるようにするためにである。たとえば、神がユダヤの地で肉となったとき、その目的は十字架の働きを完成させ、人類をあがなうためだった。しかし、ユダヤ人は神にそのようなことができるわけがないと考えた。神が肉となって、主イエスの姿をとって現れることなどありえないと考えたのである。この『ありえない』という思いが、ユダヤ人が神を罪に定め、神に敵対してしまう原因となった。そして、最終的にはイスラエルの破滅へとつながった。今日も、多くの人が同じような間違いを犯している。神は今すぐにでも現れるかもしれないと当てもなく言いながらも、神の現れを罪に定める。その『ありえない』という思いが再び、神の現れを自分たちの想像できる範囲に押し込めてしまっているのである。わたしは、神の言葉に出会って、それを一笑に付した人々を数多く見てきた。このような態度は、神を罪に定め、冒涜したユダヤ人と何ら変わりがないではないか。真理と真剣に向き合うことがなく、ましてや真理を慕い求めることもしない。ただやみくもに研究し、気楽に待っているだけである。そのように研究し、待っていることで得られるものは何なのか。あなたは神から個人的な導きを受け取ることができるか。神が語った言葉を聞き分けることができないなら、神の現れをどうやってその目で見ることができるのか。神が現れるところでは、真理の現れと神の声がある。真理を受け取ることができる人だけが神の声を聞くことができる。そしてそういう人だけが神の現れを見ることができる。」
『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より
「すべての人は神を得たいと願っているのに、神の働きのいかなる変化も許容することができない。神の新しい働きを受け入れない人々は、神の働きは不変であり、永久に停滞したままであると信じている。彼らの信条によれば、神から永遠の救いを得るためには律法を守ってさえいれば十分であり、悔い改め、罪を告白しさえすれば神の心は永遠に満たされる。彼らは、律法の下の神、人のために十字架につけられた神だけが神のはずであると考えている。また、神は聖書を超えるべきではないし、超えることはできないとも考えている。まさにこうした考えが彼らを古い律法に堅く結びつけ、死んだ規定の中に束縛し続けてきた。さらに多くの人々が、神の新しい働きは、たとえどのようなものでも預言による裏付けがなければならず、その働きの各段階で、本心で神に従うすべての者には啓示が示されなければならない、そうでなければそれは神の働きではありえないと信じている。人が神を知るようになるのはただでさえ決して容易なことではない。さらに、人のばかげた心、ならびにうぬぼれという反抗的な本性を考慮すると、人が神の新しい働きを受け入れるのはなおさらむずかしい。人は神の新しい働きを入念に調べず、謙遜して受け入れることもない。むしろ、軽蔑的な態度をとり、神の啓示と導きを待つ。これは神に反抗し、敵対する人の行動ではないだろうか。そのような人たちがどうして神の承認を得ることができようか。」
『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を規定している人がどうして神の啓示を受けることができるだろうか」より
「今日、創造主は、もう一度あらゆる人々を自ら導き、そしてあらゆる人々に神の英知、全能性、救い、そしてすばらしさを見せている。それでもあなたはまだ気付かず、あるいは理解できずにいるから、それであなたは救いを得られない者になっているのではないか。サタンに属する者たちは神の言葉を理解できず、神に属する者たちには神の声を聴くことができる。わたしの話す言葉に気付いて理解する全ての人々は、救われる者たちであり、また神を証しする者たちなのだ。わたしが言った言葉を理解しない全ての人々は神を証しすることができず、排除される者たちなのだ。」
『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より
「あなたがたはパリサイ人がイエスに逆らったことの根拠を知りたいか。あなたがたはパリサイ人の本質を知りたいか。彼らはメシアに関する空想に満ちていた。さらに、彼らはメシアが来ると信じていただけで、いのちの真理を求めなかった。だから未だに彼らはメシアが来るのを待ち続けている。いのちの道に関して何の認識もなく、真理の道がどのようなものかも知らないからだ。これほど愚かで頑固で無知な彼らが、神の祝福を得られるだろうか、とあなたがたが言ってみよ。彼らがメシアに会うことなどできるだろうか。彼らは聖霊の働きのめざすものを知らなかったためにイエスに敵対した。イエスの語った真理の道を知らなかったために、イエスに敵対し、さらにはメシアを理解できなかったためにイエスに敵対した。彼らはメシアに会ったことがなく、メシアとともに過ごしたこともないために、彼らはみなメシアの名前をむなしく守りながら、どのようなことをしてでもメシアの本質に逆らうという過ちを犯した。これらパリサイ人は本質的に頑固で、傲慢で、真理に従うことはなかった。彼らが神を信じる原則は、『どれほどあなたの説教が奥深く、どれほどあなたに権威があろうとも、あなたがメシアと呼ばれない限り、あなたはキリストではない』というものである。これらの見方は不合理でばかばかしいものではないのか。あなたがたにもう一度問う。あなたがたが全くイエスを理解してこなかったならば、最初のパリサイ人たちと同じ過ちを簡単に犯してしまうのではないか。あなたは真理の道を識別することはできるのか。あなたがキリストに逆らわないとあなたは本当に請け合えるか。あなたは聖霊の働きに従うことはできるのか。自分がキリストに逆らうかどうかがわからないのなら、あなたは既に死のふちに生きているとわたしは言おう。メシアを理解しない人々は皆、イエスに逆らい、イエスを拒絶し、イエスを中傷することができる。イエスを理解しない人々は皆、イエスを否定し、イエスをののしることができる。さらに、彼らはイエスの再臨をサタンの偽りとして見ることができ、より多くの人が受肉による再来したイエスを非難するはずだ。このこと全てがあなたがたを恐れさせないだろうか。あなたがたが直面することは聖霊に対する冒涜であり、教会に向けた聖霊の言葉を台無しにし、イエスが語った言葉の全てをはねつけることとなる。あなたがたがそれほど混乱しているなら、あなたがたはイエスから何を得るのか。あなたがたが頑なに自分の間違いに気がつくのを拒絶した場合、イエスが白い雲に乗って肉に戻る時にあなたがたはイエスの働きをどのようにして理解できるのか。わたしは言う。真理を受け入れず白い雲に乗ったイエスの再臨を盲目的に待つ人々は、確実に聖霊を冒涜することになり、彼らは滅びる民族である。あなたがたはイエスの恵みを単に望んでおり、この上なく幸せな天国を楽しみたいだけであるが、イエスの語る言葉に従ったことはなく、イエスが肉に戻る時イエスが表明した真理を受け入れてこなかった。あなたがたはイエスが白い雲に乗って戻るという事実と引き替えに何を差し出すのか。あなたがたが繰り返し罪を犯し、繰り返しその罪を告白するという誠意か。白い雲に乗って戻ってくるイエスに対しあなたがたは捧げ物として何を差し出すことができるのか。自らを称賛する、長年の仕事で築いてきた労働という資本だろうか。あなたがたは戻ってきたイエスに信用してもらうために何を差し出すだろうか。それはあなたがたの、いかなる真理にも従わない傲慢な本性だろうか。」
『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より
「彼らはわたしの存在を聖書の範囲内においてのみ信じている。そういう人々にとって、わたしは聖書と同じである。聖書がなければ、わたしはいない。わたしがいなければ、聖書はない。彼らはわたしの存在や行為を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端かつ特別の注意を注ぐ。そして、その多くは、聖書で予言されていない限り、わたしは自分がしたいことは何もしてはいけないとさえ信じている。彼らはあまりにも聖書を重視し過ぎている。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一語一語を評価したり、わたしを批判するほどである、と言える。彼らの求めているのは、わたしとの融和の道ではなく、また、真理との融和の道でもなく、聖書にある言葉と融和する道なのである。また、彼らは、聖書に合致しないものは、例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の従順な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法に基づいてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスとの融和を求めず、律法に文字通りに忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないという罪で、ついに無実のイエスを十字架につけたのである。彼らの本質は何であったのか。彼らは真理と融和する道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの心とわたしの働きの手順や方法には無関心でいた。彼らは真理を求めた人々ではなく、聖書の言葉に厳密に従った人々であった。彼らは神を信じたのではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬であった。聖書の影響力を擁護するため、聖書の権威を維持するため、聖書の評判を守るため、彼らは慈悲深いイエスを十字架につけることまでした。彼らは、ただ単に聖書を守るため、人々の心の中にある聖書の一字一句の地位を維持するために、そうしたのである。だから、彼らは未来と罪のための捧げ物を見捨て、聖書の教義に従わなかったイエスを罪に定めて殺したのである。彼らは聖書の一字一句に隷属していたのではないか。」
『言葉は肉において現れる』の「キリストと融和する道を探せ」より
「では、今日の人々はどうだろう。キリストは真理を解き放つために来た。しかし、人々は天に入って恵みを受けるために、キリストを人間の間から追い出したいくらいなのである。彼らは聖書の権益を守るために真理の訪れを完全に否定し、聖書の永続を確実にするため、再び肉となったキリストをもう一度十字架に釘付けにしたいくらいなのである。あれほど悪意に満ちた心をもち、わたしに対してあれほど敵意のある本性をもつ人間が、どうしてわたしの救済を受けられるのか。」
『言葉は肉において現れる』の「キリストと融和する道を探せ」より
「一部の人々は真理を喜ばず、裁きとなればもっと喜ばない。むしろ、人々は権力と富に喜びを見出すのであり、そのような人々は俗物と見なされる。彼らはもっぱら、影響力を持つ世界中の宗派や、神学校から来た牧師や教師を探し求める。真理の道を受け入れたにもかかわらず、彼らはどこまでも懐疑的で、自分自身を完全に献げることができない。彼らは神のために犠牲を捧げることについて話しはするものの、彼らの目は偉大な牧師や教師に注がれ、キリストは無視されている。彼らの心にあるものは名声、繁栄、栄誉ばかりである。彼らは、そのような貧弱な人がそれほど多くの者を征服することができ、そのような平凡な人が人々を完全にすることができるなどと全く信じない。彼らは、塵と糞の中にいるとるに足りない人々が神に選ばれているとは信じないのである。彼らは、もしそのような人々が神の救いの対象であれば、天と地がひっくり返り、すべての人間が大笑いするだろうと信じている。彼らは、もし神がそのような取るに足らない者たちを完全にすると決めたのであれば、先に挙げたこのような偉大な人たちは神自身になってしまうと信じている。彼らの考え方は不信仰によって汚染されている。実際のところ、不信仰どころか、彼らは、ばかげたけだものである。なぜなら、彼らは地位、名声、権力だけに価値を置く。彼らが重要視するものは大きな集団や宗派である。彼らはキリストに導かれる者のことを全く考慮しない。彼らはキリストに、真理に、そしていのちに背をむけた裏切り者でしかないのである。」
「あなたが敬慕するのはキリストのへりくだりではなく、有名な地位にある偽の指導者たちである。あなたはキリストの素晴らしさや知恵を愛さないが、邪悪な世と交わりを持つ奔放な者たちを愛している。あなたは、枕するところもないキリストの苦しみを笑うが、捧げものを奪い取り放蕩な生活を送る屍たちを賞賛するのである。あなたはキリストのそばで苦しむことを望まないが、あなたに肉、文字、支配しか与えない浅はかな反キリスト者たちの腕の中に喜んで入っていこうとするのである。今でもあなたの心は、彼らに、彼らの評判に、あらゆるサタンの心の中にある彼らの地位に、彼らの影響力に、彼らの権威の方に向いているのに、あなたはキリストの働きを受け入れずに反抗と拒否の態度を持ち続けるのである。だから、あなたがキリストを認める信仰を持っていないとわたしは言うのだ。」
『言葉は肉において現れる』の「あなたは本当に神を信じているのか」より
「あなたがたの忠誠心は言葉の中のみにあり、あなたがたの認識は知性と観念のみであり、あなたがたの労働は天国の祝福を受けるためのものであるが、それではあなたがたの信仰はどのようなものでなければならないか。今日なお、あなたがたはありとあらゆる真理の言葉に対し、耳を貸そうとしない。あなたがたは神が何かを知らない。あなたがたはキリストが何かを知らない。あなたがたはヤーウェを畏れる方法を知らない。どうすれば聖霊の働きに入ることができるのかを知らない。あなたがたは神自身の働きと人の策略の間の区別の仕方を知らない。あなたがたはただ、あなたがたの思いに沿わない、神が表明した真理の言葉を非難することだけを知っている。あなたの謙虚さはどこにあるのか。あなたの従順はどこにあるのか。あなたの忠誠心はどこにあるのか。真理を求める気持ちはどこにあるのか。あなたの神への畏敬はどこにあるのか。わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、必ず滅ぼされる部類に属する。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の跡継ぎであり、天使長の子孫であり、永遠の破滅を逃れることのできない輩である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。その時あなたは大きな興奮に包まれるだろう。だが、あなたがイエスが天から降臨することの証人となる時は、あなたが地獄へ送られ、懲罰される時でもあることを、あなたは知るべきだ。それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人がしるしを見る前、真理の現れだけがある時に終わる。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主に抱かれる。『白い雲に乗らないイエスは偽のキリストだ』という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を差し出すイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に対処するしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、あまりに傲慢だ。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大きな救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。」
『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より