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全能神の最新の言葉 朗読

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全能神の最新の言葉 朗読

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終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

死:第6の節目

慌ただしい日々と、挫折と失望、歓喜と悲哀、幸運と不運、忘れられない年月など、無数の出来事を経験し、巡る季節のなかで何の前兆もなく様々な人生の重要な節目を瞬く間に過ごした末、人間は衰退期に入る。過ごした年月は身体全体に刻み込まれている。もはや真っ直ぐ立つことは出来ず、濃色の頭髪は白くなり、明るく澄んだ眼は暗く曇り、滑らかで柔らかい肌はシミとシワのある肌へと変化する。耳が遠くなり、歯が抜け落ち、反応が鈍くなり、動きが遅くなる。この時点で、人間は情熱溢れる若年期から完全に離別し、人生の終盤となる晩年期へと入る。その次に、人間は人生最後の節目である死を迎える。

1.創造主のみが人間の生死に対する力を持つ

ある者の出生がその者の前世により運命づけられているとすれば、その者の死は、その運命の終焉となる。ある者の出生がその者のその人生における使命の始まりであるとすれば、その者の死は、その使命の終了となる。創造主は、ある者の出生の諸条件を定めているので、その者の死についても諸条件を定めていることは言うまでも無い。言い換えると、偶然生まれる者はおらず、予期されない死は無く、出生と死は必然的にその者の前世とその時の人生と関連している。ある者の出生の状況と死の状況は、両方とも創造主により予め定められたものであり、それらはその者の終着点、運命である。各人の死は、出生について言えるのと同様に、様々な特定の状況下で発生するので、人間の寿命、死亡の経緯や時刻は様々である。強健であるが早死にする者もいれば、虚弱であるが長生きして安らかに永眠する者もいる。不自然な原因で死ぬ者もいれば、自然な原因で死ぬ者もいる。自宅から遠く離れて死ぬ者もいれば、側にいる家族に看取られて死ぬ者もいる。空中で死ぬ者もいれば、地下で死ぬ者もいる。水中に沈む者もいれば、災害の犠牲者となる者もいる。朝死ぬ者もいれば、夜死ぬ者もいる。人間は、皆華々しい出生、輝かしい人生、栄誉ある死を望むが、自分の運命から脱したり、創造主による統治から逃れられたりする者はいない。これが、人間の運命である。人間は将来に向けて様々な計画を立てることができるが、出生と他界の時期や状況は誰にも計画できない。人々は死を回避し、拒否しようと最大限努力するが、死は人知れず静かに近付いて来る。自分の死期やどのように死ぬかを知る者はおらず、ましてや何処で死ぬかを知る者はいない。生死の力を持つのは人類では無く、自然界の生き物では無く、唯一の権威を持つ創造主であることは明らかである。人間の生死は自然界の法則の結果ではなく、創造主の権威による統治の結果である。

2.創造主による統治を知らない者は、死の恐怖に苛まれる

ある者が老年になると、その者が直面する課題は、家族を養うことでも、人生の大望を抱くことでもなく、人生をどのように終えるか、どのように臨終を迎えるか、自分という存在に、どのように終止符を打つかである。表面的には、人間は死に対して少しも気にかけていないように思われるが、その問題を追究せずに済む者はいない。なぜなら、死後に別の世界、人間が感じたり把握したり出来ない世界、誰も知らない世界が存在するかどうかを知る者はいないからである。そのことが原因となり、人間は死に直面すること、然るべき時に死と対峙することを恐れ、その問題を避けるよう最大限努力する。したがって、皆死を恐れ、死という不可避な人生の事実が神秘とされ、人間それぞれの心に消えない影が出来る。

自分の身体の劣化を感じ、死が迫っていると感じる時、人間は曖昧で表現し難い恐怖を覚える。死に対する恐怖により、人間は一層淋しさと絶望感を感じ、この時点で、人間は何処から来て、何処へ向かっているのだろうか、こうして束の間の人生を終えて死ぬのだろうか、その人生の終わりの時なのだろうか、結局人生の意味は何だったのだろうか、結局人生には何の価値があるのだろうか、それは富と名声なのだろうか、それは家族を養うことなのだろうか、などと自問する。そうした具体的な疑問について検討したことがあるか、死をどれほど恐れているか如何を問わず、すべての人間の心の奥深くには、生命の謎や未知の事柄を探索したいという欲求があり、またそれに紛れて、この世に対する未練、この世を去ることの不本意さがある。人間が何を恐れているか、何を探索したいか、何に未練があるか、何を去るのが不本意なのかを明解に説明出来る者は、おそらくいないであろう。

人間は死を恐れているので、過剰に懸念する。人間は死を恐れているので、捨て去れない物事が多すぎるのである。臨終する時、子どもや自分が愛する人々、財産など様々な事について、あたかも懸念すれば死がもたらす苦悩や恐怖を解消できるかのように懸念する人もいる。またあたかも生きている者たちとの何らかの親しい関係を維持すれば死に伴う絶望と淋しさから逃れられるかのように思う人もいる。人間の心底には、未確定の恐怖、愛する者と離別する恐怖、青い空や物質世界を二度と見られないことの恐怖がある。愛する者と共にいることに慣れきった、人を恋しがる魂は、握りしめたものを手放して未知の世界に独りで立ち去るのを不本意だと感じる。

3.富と名声を追究した人生は、人間を臨終時に途方に暮れさせる

創造主による統治と定めのために、影形の無いものとして誕生した孤独な魂は、両親と家族を得、人類の一員となる機会、そして人間の生活を体験して世界を見る機会を得る。またその魂は、創造主による統治を経験する機会、創造主による創造の素晴らしさを知る機会、そして何よりも、神の権威を知り、その対象となる機会を得る。しかし大部分の者が、こうした稀少で束の間の機会を本当に掴むことは無い。人間は一生涯のエネルギーを運命に立ち向かうことに費やし、家族を養おうと必至で働き、富と地位の間を行き来して、全ての時間を費やす。人間が大切にするものは、家族、金銭、名声であり、人間はこれらを人生において最も価値の高いものとみなす。あらゆる人々が自分の運命に不満であるが、人間は何故生きているのか、人間はどう生きるべきか、人生の価値と意味は何であるか、という最も喫緊に検討して理解する必要のある問題を心の中で常に先送りする。人々は、その生涯が何年であるかを問わず、若さを失い白髪とシワが現れるまで、富と名声で人間の老化を止めることが出来ず、金銭で心の空虚感を埋められないことを悟るまで、そして出生、老化、疾病、死の法則の例外となる者や、待ち受ける運命から逃れられる者はいないことを悟るまで、一生涯を通して、せわしなく富と名声を追い求めるのみである。人間は、人生最後の節目に直面せざるを得なくなった時に初めて、巨額の財産があったとしても、特権のある高い地位にあったとしても、死を免れられる者はおらず、全ての者が元来の何も無い孤独な魂に還るということを理解する。両親のいる者は両親が全てであると考え、財産のある者は金が自分の頼みの綱である、生涯の資産であると考える。立派な地位があれば、人間はそれにしがみついて、そのために命を賭ける。この世を去ろうとする時になって初めて、人間は自分が生涯をかけて追究してきた物事が、空を渡り行く雲のようなものであり、いずれも掴み続けることも、死後の世界に持っていくことも出来ないものであり、自分を死から免れさせる力が無いものであり、この世を去る時に持参することも、慰めを与えることも出来ないものであり、また特にそうした物事のなかに、死を超越する救済を与えることの出来るものは無いということに気付く。物質世界で得る富と名声は、その者に一時的な満足感、束の間の悦楽、安楽の錯覚を与え、その者に道を踏み誤らせる。そうしたわけで、広大な人間の世界で翻弄されて平和と慰め、心の静寂を求めるうちに、人間は何度も波に呑まれる。人間は何処から来て、何故生きていて、どこへ行くのか、など、理解すべき最も重要な問題を理解せずにいる時、人間は富や名声により魅惑され、迷わされ、支配され、完全に道を見失う。時の流れは速く、年月は瞬くうちに過ぎ去ってゆく。人間は、気付かぬうちに、人生の壮年期に別れを告げる。人間がこの世を去ろうとする時、人間は、この世の物事は全て流れ去って行き、自分の所有物を保持できなくなるという漸進的な認識に達する。その後、人間は、泣いている幼児と同様に、自分が何も所有していないと実感する。この時点において、人間は人生で何を成し遂げたか、生きていることの価値とその意味、その者がこの世に現れた理由を考えさせられる。そしてこの時点において、人間は来世や天国、報いが実在するかを知りたい気持ちが次第に強くなる。人間が死に近ければ近いほど、人間は人生とは何かを知りたい気持ちが強くなる。死に近ければ近いほど、人間の心は益々空虚になり、絶望感が強くなるので、死に対する恐れが日々強くなってゆく。人間が死に近付く時このような思いになる理由は2つある。1つ目の理由は、自分の人生を依存してきた富と名声を失いつつあり、この世の目に見える物事すべてから去ろうとしていることである。2つ目の理由は、愛する人々や支援の手段が存在しない、足を踏み入れるのが不安になるような、馴染みのない世界、神秘的な未確認の領域に独りで立ち向かおうとしていることである。この2つの理由のため、人間は死に直面すると、皆不安になり、それまで知らなかった混乱と絶望感を覚える。人間は、この時点になって初めて、この世に現れた時、最初に理解すべきことは、人間がどこから来るのか、何故生きているのか、人間の運命を支配するのは誰か、人間の存在に施され、それを統治するのは誰であるかを知る。こうした物事が人生における真の財産であり、人間の生存に不可欠な基盤であって、自分の家族を養う方法や、富や名声を得る方法を知る事でも、人々よりも卓越した存在となる方法、一層豊かに生活する方法を知る事でもなく、ましてや他人を超越し、競争に勝つ術を覚えることなどでは無い。人間が生涯をかけて覚える生存のための様々な技能により、物質的な快楽を豊富に得ることが出来るものの、そうした技能は人間の精神に真の平和と慰みをもたらすことは決して無く、むしろ継続的に人間に道を踏み誤らせ、人生の意味を知る機会を全て失わせ、適切に死を迎える方法に関し、隠された問題を造り出す。こうして、人々の人生は無駄になる。創造主は、全ての人間を平等に扱い、生涯にわたり創造主による統治を経験し、知る機会を全ての者に与えるが、人間には、死に近づき、自分に死の恐怖が差し迫る時まで光が見えるようにならず、その時は、既に手遅れである。

人間は、金銭と名声を求めて人生を過ごし、そうしたわらしべを握りしめて、あたかもそれがあれば生き長らえて死から免れられるかのように、それが唯一の助けであると考える。しかし、死が迫る時になって初めて、こうした物事がどれほど自分に無縁であるか、死に直面した自分がどれほど弱いか、どれほど脆いか、どれほど孤独であり、誰にも頼ることができず絶望的であるかを知る。人間は、いのちを金銭や名声で買うことが出来ないこと、いかに裕福な者であっても、いかに高尚な者であっても、死に対して人間は皆同様に貧しく些細な存在であることを知る。人間は、金銭でいのちを買えないこと、名声で死を消し去れないこと、金銭も名声も、一分一秒たりとも人間の寿命を延ばせないことを知る。それを強く感じれば感じるほど、人間は生きていたいと切に願う気持ちが強くなり、死が近づくのを一層恐れる。人間は、自分のいのちが自分自身のものではなく、自分で制御出来るものではないこと、自分が生きるか死ぬかについて、自分自身は全く干渉できないこと、そうしたことが自分の制御出来る範囲外にあることを、この時点になるまで真に理解しない。

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