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言葉は肉において現れる(続編)朗読

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言葉は肉において現れる(続編)朗読

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終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

ここで「初めて」というのは、神はそれ以前に同様の業を行ったことがなかった、という意味である。そうした事柄はそれまで存在せず、神は人間を創り、あらゆる生き物を創ったにもかかわらず、こうした業を完遂することは、嘗てなかった。こうした神の業には、全て神の人間に対する経営が関与している。こうした業は、全て人間と、神による人間の救いと人間の経営に関連するものであった。アブラハムの後、神は再び初めての選択を行った。すなわち、神は、律法にもとづきサタンの誘惑に耐え、引き続き神を畏れ、悪を避け、神を証することのできる人間として、ヨブを選んだ。また、神がサタンに対し、ある人間を誘惑するのを許し、神がサタンと賭けをしたのも、この時が最初であった。神は最終的に、サタンと対峙してなお神を証し続けることのできる人間、神を証してサタンを完全に辱めることのできる人間を初めて得ることになった。神が人間を創って以来、ヨブは、神を証することのできる人間として、神が獲得した最初の人間であった。神がヨブを獲得した後、神は経営に一層熱心になり、神の業の次の段階へと進み、次の選択と業を行う場所の準備をした。

ここまで述べてきた話で、あなたがたは神の旨を真に理解したであろうか。神は、人間を経営し救うことが、何よりも重要であると考える。神はこうした業を、自身の考えのみで行うのでもなく、また言葉のみ行うのでもなく、とりわけ何気なく行うのではない。神は、こうした業のすべてを計画に基づき、目的をもって、基準を定め、神の旨にしたがって行う。こうした人間を救う業は、神と人間の両方にとって極めて重要であることは明白である。業がいかに困難であったとしても、障害がいかに大きかったとしても、人間がいかに弱かったとしても、あるいは人間の反逆心が強かったとしても、神にとっては、そのいずれも困難とはならない。神は絶え間なく努力を続け、神が行う意向である業を経営する。また、神はすべてを計画し、すべての人間と、神が完了させたいと望むすべての業を経営しているが、そうした業はそのいずれも嘗て行われたことがない。神がそうした方法によって、人間を経営し救う大規模な計画に対して甚大な犠牲を払ったのは初めてである。神がこうした業を行っているうちに、神は、神の甚大な努力、神の中にある物事、神の存在、神の英知と全能たる存在、そして神の様々な性質について、人間に対し、少しずつ、かつ率直に示す。神は、従前行われたことがなかった啓示を、そうした事柄のすべてについて、少しずつ、かつ率直に行う。したがって、全宇宙において、神が経営し、救おうとする人間を除いては、神にそれほど近づき、緊密な関係を持つ生命体は存在しない。神の心において、神が経営し、救うことを望む人間が最も重要であり、したがって神はこうした人間を最も重要視する。たとえ神がこうした人間のために甚大な犠牲を払ったとしても、またこうした人間により神がひたすら傷つけられ、背かれたとしても、神はこうした人間を見捨てることは決してなく、不平不満を言うことも後悔することもなく、神の業をひたすら続行する。これは、遅かれ早かれ人間は神の呼び声で目覚め、神の言葉により動かされ、神が創造主であることを認め、神のもとへ戻ることを、神が知っているからである。

今日ここまでの話を聞いて、あなたがたは、神の業は、すべて極めて普通であると感じるかもしれない。人間は、言葉と業により、神の旨の一部を常に感じ取っていると考えられるが、人々の感情や認識と、神の旨との間には、常に一定の差がある。そのため、わたしは、神が人間を創った理由や、神が希望を持つあらゆる人々を獲得したいという神の望みの背景にある事柄を、全ての人々に周知する必要があると考えている。全ての人々が心の中で明瞭になるよう、こうした事柄を全ての人々に話すことは、不可欠である。神のひとつひとつの考えや発想、そして神の業のあらゆる段階や期間は、神の全体的な経営の業と密接に関連しているため、神の業の各段階における神の考えや発想、そして旨を理解することは、神の経営計画の根源を理解することに等しい。神に関する知識の深化は、こうした基礎に立脚する。前述した、神が世界を創った時に神が行った全ての事柄については、現代の人々にとっては情報のひとつに過ぎず、また真理の追究に無関係であるかのように考えられる。しかし、経験を積んでゆく過程で、そうした事柄が単なる情報のように単純なものでも、ある種の謎のように単純なものでもないということに気付く時が来るであろう。今後の人生のなかで、心の中に少しでも神が存在できる場所がある時、あるいは神の旨を一層深く、完全に理解した時、本日わたしが話した内容の重要性と必要性を真に理解するであろう。あなたがたが本日の話をどの程度認めるかに関係なく、こうした事柄を理解し、知ることは、必要なことである。神が行動を起こし、何かしらの業を行う時、その業が神の考えによるものか、神みずからの手によるものかを問わず、また神がその業を行うのが最初であるか最後であるかを問わず、究極的には、神には計画があり、神の業には、すべて神の目的と考えが存在する。こうした神の目的と考えにより、神の性質が示され、また神の中にある物事や神の存在が表現される。神の性質、そして神の中にある物事や神の存在という、二つの事は、あらゆる者が理解しなければならないことである。ある者が神の性質、そして神の中にある物事や神の存在を理解した場合、その者は、神が行なった業がなぜそのような業であり、語った言葉がなぜそのような言葉だったかを徐々に理解できるようになる。そうした理解の後、神に従い、真理を求め、性質の変化を求めることに、一層強い信念を抱くことができるようになる。つまり、神に関する人間の理解と、神への信仰は不可分である、ということである。

人々が聞いて理解することが神の性質、そして神の中にある物事や神の存在に関してであったとしても、それによって得られるのは、神から与えられたいのちである。ひとたびこのいのちが形成されると、神に対する畏れが次第に強くなり、また、こうした結果は、極めて自然に発生する。神の性質や真髄を理解することも、知ることも望まない場合、あるいはこうした問題を考えることも重要視することも望まない場合、現在行っている神への信仰の追求方法では、神の旨を満足させることも、神の称賛を得ることも決してない、と確信を持って言うことができる。さらに、神の救いを得ることも決してない。これが最終的な結果である。神を理解せず、神の性質を知ることなく、神に対して本当の意味で心が開かれることはあり得ない。人々は、神を理解して初めて、神の心にある物事に関心を抱き、信仰心をもって理解し、感じるようになる。神の心にある物事を理解し、感じた時、神に対して心が少しずつ開かれてゆく。神に対して心が開いた時、神とのやりとりや神に対する要求、自分自身の過度な欲望がどれほど恥辱的で卑劣であるかを感じるようになる。神に対して真に心を開いた時、神の心が無限の世界であることや、自分が未体験の領域へと入ってゆくのが分かる。この領域には、欺きや策略、闇や邪悪が全く存在しない。そこにあるのは誠実さと忠実さ、光と正しさ、義と優しさだけである。この領域は愛と思いやり、慈悲と寛容さにあふれ、この領域により生きていることの幸福と喜びを感じることができる。神に心を開いた時、神が啓示するのは、こうした事柄である。この無限世界は神の知恵と全能性、また神の愛と権威に満ちている。この無限世界では、神の中にある物事、神の存在、神に喜びをもたらす事柄、神が憂いを抱く理由、神が悲しむ理由、神が怒りを抱く理由のあらゆる側面を理解できる。神に対して心を開き、神を受け容れた者はみな、こうした事柄を理解する。神があなたの心に入ることができるのは、あなたが神に対して心を開いている場合のみである。神の中にある物事、神の存在、あなたに対する神の旨をあなたが理解できるのは、神があなたの心に入った場合のみである。この時、神に関する全ての物事が尊いものであること、神の中にある物事、神の存在が貴重なものであることを理解する。それに比べると、あなたの周囲の人々、生活の中にある物事、あなたの愛する家族、あなたの交際相手、あなたが愛する物事は、述べる価値もない。こうした人や物事は小さく卑しいもので、物理的な何かが自分を引き付けることは二度となく、あなたがそうした何かのために代償を払うことは一切ないと感じる。神の謙虚さの中から、神の偉大さと優越を見出し、さらに神の業で、小さな事と考えられた事柄の中から神の無限の英知と寛容さを見出し、神の忍耐強さ、神のあなたに対する理解を見出す。こうした事柄により、あなたの中に神への愛が生まれる。ここにおいて、人間がとてつもなく汚れた世の中で生活していること、身近な人々や生活の中の出来事、そして自分が愛する人々や、そうした人々のあなたに対する愛、そして保護と呼ばれるものや懸念までもが、述べる価値すらないものと感じられ、あなたが愛するのは神のみであり、あなたにとって最も貴重な存在は神のみであると感じる。この日が来た時、あなたに「神の愛は甚大であり、神の本質は極めて聖なるものである。神には欺き、邪悪、ねたみ、争いが皆無であり、正義と信頼性があるのみであり、神の中にある物事や神の存在は人間が望むべきものである。人間はそれを求めて努力し、熱望すべきである。」などと言う者が居るであろう。それでは、そうした物事や存在を得る人間の能力は、何を基盤としているのだろうか。そうした能力は、神の性質や本質に関する人間の理解を基盤としている。したがって、神の性質や神の中にある物事、神の存在を理解することは、自分の気質を変え、神を知ろうと努力するあらゆる者にとって生涯をかけて学び、生涯をかけて追求することである。

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