言葉は肉において現れる(続編)朗読

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言葉は肉において現れる(続編)朗読

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終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

神は人から隠されてはいるが、全てのものにおける神の業により人は神を知ることができる

ヨブは神の顔を見たこともなければ神の声を聞いたこともなく、ましてや神の業を直接経験したこともなかった。それでもヨブの神に対して抱く畏れと、試練の中でも証しとなったことは人々が認めており、神に愛され、喜ばれ、称えられた。人々はヨブをうらやみ、高く評価し、さらに讃美を捧げた。ヨブの人生自体が偉大であったわけでも非凡であったわけでもない。他の人達と変わらない、普通の生活であった。日が昇れば仕事に出かけ、日が落ちると帰宅して休息した。他の人たちと違っていたのは、その数十年間に、ヨブが神の道を見分けることができるようになり、神の偉大な力と主権を知るようになり、それが他の人が誰も成し得ないほどであったということである。他の人たちよりヨブが賢かった訳でもなく、ヨブの生き方が執着心の強いものであったわけでもない。ましてや彼に何か隠れた能力があったなどということはない。だがヨブには正直で、心優しく、正しく、公正と義を愛し、善きものを愛するという性格があった。これらはいずれも普通の人間にはないものである。ヨブは愛と憎しみを区別し、義を見分けることができた。自分の信じるものを譲ることも変わることもなかった。自らの考えに喜びを感じていたため、地上での普通の生活を送る中で神の驚くべき業を見ることができ、神の偉大さ、聖さ、義を見ることができ、人間に対する神の労り、恵み深さ、守りを知り、至高の神が褒めたたえられるべきであり、主権を握っていることを知ることができた。他の誰も獲得できなかったこれらのことをヨブが獲得することができた第一の理由は、ヨブが純粋な心の持ち主であり、ヨブの心は神に属しており、創造主により導かれていたからである。第二の理由はヨブが追求したものである。ヨブは全き者となること、天の心と一致することを求め、神に愛されて悪を避けることを追い求めた。神を見ることも神の言葉を聞くこともできなかったヨブがこれらのものを獲得し、追い求めたのである。神を見たことはなかったが、神がどのように全てを支配するかをヨブは理解し、また、神が全てを支配するその知恵を理解するようになったのである。ヨブは神の語る言葉を聞いたことはなかったが、人に報いることも取り上げることも神によるものであると知っていた。ヨブの人生は普通の人のそれと何ら変わらなかったが、それだからと言って全てのものにおける神の主権に関する認識を妥協せず、神を畏れ悪を避ける道への服従を妥協することはなかった。ヨブの目には、全てのものにおける法則は神の業で満ちており、神の主権は人生のいたるところで確認できるものであった。ヨブは神を見たことがなかったが、神の業をいたるところで認識することができ、彼の地上の生活のあらゆるところで、神の驚くべき不思議な業を見ることができ、神の不思議な計画を知ることができた。神が隠していたことと無言であったことはヨブが神の業を認識する上で障害とはならず、全てのものにおける神の主権を知る障害にもならなかった。ヨブの人生は、あらゆるものの中にあって隠されている神の主権と采配を認識する日々であった。それだけでなく、ヨブは日々の生活の中で、あらゆるものの中で無言である神が、全てのものに対する法則を支配する中で現した心の声と言葉を聞き、理解した。人々がヨブと同じ人間性と追求する姿勢を持っていたならば、彼らもヨブと同じ認識と知識を得ることができ、全てのものにおける神の主権に対する理解と知識をヨブ同様に獲得することができるであろうことがこれで理解できる。神はヨブに現れても語ってもいないが、ヨブは全き者となることができ、正しいものとなることができ、神を畏れ悪を避けることができた。つまり、神が現れることも直接語ることもなくても、全てのものにおける神の業と全てのものに対する神の主権により、人間は神の存在、力、そして権威を認識することができ、神の力と権威は人間に神を畏れさせ悪を避けさせるのに十分だということである。ヨブのような普通の人間が、神を畏れ悪を避けることができるのであれば、神に従う普通の人であればだれでも同じことが可能なはずである。これは論理的推論に聞こえるかもしれないが、物事の法則と矛盾しない。それでも事実は予想と一致していない。神を畏れ悪を避けることは、ヨブだけが到達できる領域のように感じられる。「神を畏れ悪を避ける」と聞けば、人々はヨブだけに可能なことであり、あたかも神を畏れ悪を避けることはヨブの名でブランド化されており、他の人には無関係であるかのようである。その理由ははっきりしている。正直で心優しく、正しく、公平と義、善なるものを愛する人格を持っていたのはヨブひとりだけであり、それ故ヨブだけが神を畏れ悪を避ける道を進むことができたのである。この意味をあなた方は全員理解できたはずだ。つまり、誰も正直で心優しく、正しく、公平、義なるもの、善なるものを愛する人間性を持っておらず、誰も神を畏れ悪を避けることはできず、ゆえに誰も神の喜びとなることはできず、試練の中にあって堅く立っていることができないのである。これはまた、ヨブ以外の全ての人間がサタンに束縛されサタンの罠に陥ったままであり、サタンに非難され、攻撃され、中傷されているということである。サタンはヨブ以外の全ての人間を呑み込もうと試みており自由がなく、サタンの虜となってしまっているということである。

もし人の心が神に敵対するのなら、どうして神を畏れ悪を避けることができようか

今日の人々がヨブと同じ人間性を持っていないのであれば、人々の人格の実体と神に対する姿勢はどのようなものだろうか。人々は神を畏れているだろうか。悪を避けているだろうか。神を畏れず悪を避けることもない人々は、次の文字語で表すことができる。それは、「神の敵」である。あなたは頻繁にこの表現を使うが、本当の意味を理解していない。「神の敵」という言葉には根拠がある。それは、神が人間を敵とみなすということではなく、人間が神を敵としているという意味である。第一に、人々が神を信じ始めるとき、目的も動機付けも大志もない人がいるだろうか。彼らの一部は神の存在を信じており、神が存在するのを見たかもしれないが、彼らの信仰には何らかの動機付けがあり、神を信じる究極の目的は祝福と自分の望むものを得るというものである。人々は人生を経験するにつれ、「自分は神のために家族も仕事も諦めた。神は私に何を与えてくれただろうか。神に与えられたものを全て計算して確かめてみなければ。最近何か祝福を与えられただろうか。私はずっと多くを捧げ、ずっと走り回り、多くの犠牲を払ってきた。神はその報いとして何か約束を下さっただろうか。神は私の良い行いを覚えているだろうか。私の最後はどうなるだろう。神から祝福を受けるだろうか。」誰もが常に、頻繁にそのようなことを心の中で計算し、彼らの動機付けであり、大志であり、取り引きがかかっている神に要求する。つまり、人間は心の中で常に神を試し、常に神の計画を考え出し、常に神に対して自分を弁護し、神からの言葉を絞り出し、自分の欲しいものを神が与えるかどうかを見ている。神を求める一方で、人は神を神として扱っていない。人間は常に神と取り引きし、絶えず神に要求し、1与えられればその次は10与えられるように神に強要する。神と取り引きすると同時に神に異議を唱え、試練が来ると自分達の身の危険を感じ、気弱になり、すべきことに対して受け身になって怠けるようになり、神に対して不満だらけになる。神を信じ始めた時から、人間は神を豊穣の角やスイス・アーミーナイフのように豊かで万能であり、自分は神にとって最も価値ある者と見なすのである。あたかも神に祝福させて言葉を与えされることが当然の権利であり義務であり、神には自分を守り、労り、施す責任があるかのように。信仰を持つ大半の人々にとって「神を信じる」とは基本的にそのような理解でしかなく、それが神を信じることに対する最も深い考えなのである。人間の本質からその主観的な追求に至るまで、神に対する畏れなど全くない。人が神を信じる目的は神を礼拝することとは何ら関係ないのである。つまり、人は、神への信仰には神に対する畏れと神を礼拝することが必要だとは考えもしないし理解もしないのである。このような状況を考えれば、人間の実体がどのようなものかは明らかである。その本質とは何か。人間の心は邪悪で、不実でずる賢く、公正と義を愛するものでも善を愛するものでもなく、卑劣で貪欲なものである。人間は神に対して完全に心を閉ざしている。神に心を捧げてなどいない。神が人の心を本当に見たことなどなく、人間に礼拝されたことなどない。どれ程大きな犠牲を払っても、どれ程人間に対して働いても、どれ程人間に与えても、人間の目が開かれることはなく、全く無関心である。人間が神に心を明け渡したことなどなく、自分の心を考え、自分で決断するばかりである。これは、人間が神を畏れ悪を避ける道に従うことを望まず、神の主権と采配に従うことを望まず、神を神として礼拝することも望まないということの現れである。それが今日の人間の状態である。ここで再度ヨブを検討する。まず第一に、ヨブは神と何か取引をしただろうか。神を畏れ悪を避けるヨブの姿勢には下心があっただろうか。当時神は誰かに終わりの時について話しをしていただろうか。神が当時誰かに終わりの時を約束することがなかったという背景がある中で、ヨブは神を畏れ悪を避けたのである。このようなヨブの姿勢に対抗できるものが今日いるだろうか。あまりに違いすぎて、ヨブと同じ土俵に登れるものはいないだろう。神に対する知識が豊富であった訳でもないヨブが自分の心を神に明け渡し、その心は神のものとなっていた。ヨブは神と取り引きすることもなく、神に対して途方もない要望や要求をすることもなかった。むしろ彼は、「主が与え、主が取られたのだ」と信じていた。ヨブがその長い人生で神を畏れ悪を避ける道に留まることで理解し獲得したものはそのようなものであった。同様に、「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」という言葉が現すものをヨブは獲得した。このふたつの言葉はヨブがその人生経験において神に服従した結果ヨブが知るに至ったものを現しており、ヨブがサタンの誘惑に勝利する上で最も力強い武器でもあり、神への証しに堅く立つヨブの土台でもあった。ここまでの話を聞いて、あなた方はヨブを愛すべき人間と思うだろうか。そのような人に自分もなりたいと思うだろうか。サタンの誘惑を経験することに恐れを感じるだろうか。ヨブと同じ試練を通らせて下さいと神に祈る決意があるだろうか。間違いなく、大半の人はそのような祈りを敢えて捧げはしないだろう。であれば、あなた方の信仰がどうしようもなく僅かだということは明らかである。つまり、あなた方の信仰はヨブのそれと比べて取るに足りないものなのである。あなた方は神に敵対するもので、神を畏れず、神に対する証しに堅く立つこともできず、サタンの攻撃、非難、そして誘惑に勝利することもできない。それで神の約束を受けるなどどうしてできるだろうか。ヨブの物語を聞いて、人間を救うという神の意図を理解し、人間の救いの意味を理解してきた訳だが、あなた方の信仰はヨブと同じ試練を受け入れられるものになっただろうか。神を畏れ悪を避ける道に従う決心を少しはすべきではないだろうか。

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