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終わりの日のキリストの証人

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1.真理とは何か。聖書の知識と教義とは何か。

1.真理とは何か。聖書の知識と教義とは何か。

聖書の言葉

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハ1:1、14)

「わたしは道であり、真理であり、命である。……」(ヨハ14:6)

「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。 」(ヨハ17:17)

「イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、 『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。……こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。」(マコ7:6-9、13)

関連する神の言葉

「神は真理であり、道であり、いのちなのです」

『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より

「……そしてわたしの言葉は確かに真理であり、道であり、いのちであること……」

『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは自分の行いを考慮すべきである」より

「実際、真理とは、人生の格言の中でも最も現実に則しており、人類の全ての格言に勝るものなのだ。それは神が人間に要求すること、神が自ら為した業である。だから、「人生の格言」と呼ばれる。これは何かから要約された格言ではなく、また、偉人の有名な引用でもない。そのようなものではなく、これは天と地と万物の主から人間に告げたものであり、人間によって要約された言葉ではなく、神本来のいのちなのである。だからそれは、「至高のいのちの格言」と呼ばれるのだ。」

『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より

「この真理は本来の人間性のいのちの性質である。つまり、神がはじめに人間を創造した時に人間に要求したこと、すなわち、(人間の理知、見識、知恵そして、人間であることの基本的な知識を含む)本来の人間性すべてである。」

『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より

「終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。」

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

一部の者は、勤めと説教をして、表面上は神の御言葉に関する交わりを行っているように思われるが、その者の話は全て御言葉の文字通りの意味でしか無く、御言葉の真髄について一切触れられていない。そうした者の説教は語学の教科書の教えのようなものであり、項目や事項別にまとめられており、説教が終わると皆「この説教は極めて実践的だ。この人たちは説教は実に上手くて詳しい。」と言って賞讃する。説教が終わると、説教された事柄をまとめて他人に話し、皆に伝える。こうすることにより、こうした者は他人を欺いており、こうした者が説いている事は全て詭弁である。表面上は、その話は神の御言葉のみを説教しているように思われ、その者の言葉は真理に従っているように思われる。しかしあなたがたが一層注意深く判断すると、そうした者の話は、すべて教義の話であり、あやまった理知であることが分かる。そうした者の話には、想像や観念、神を描写する言葉も含まれて居る。こうした説教は神の御業を妨害するのではなかろうか。この勤めのやり方は神を欺くものである。

『キリストの言葉の記録』の「真理を追求することによってのみ、自分の性情の変化を達成できる」より

あなたがたが神の御言葉の実際の意味を真に理解することは、単純な問題ではない。単に「私は神の御言葉の文字上の意味を解釈できる。それに皆私の解釈が好ましいといって褒めるのだから、私は神の御言葉を理解しているのだ」と考えてはならない。それは神の御言葉を理解することに相当しない。神の御言葉から光を得て、神の御言葉の真の意味を解明し、また神の御言葉の重要性と、それが最終的にもたらす効果は何かを述べることが可能であり、そうした事柄を明瞭に理解した時のみ、神の御言葉に関して、ある程度理解している。このように、神の御言葉を理解することは、それほど平易なことではない。単に神の御言葉の文言を上手に説明することが出来るからといって、それは、神の御言葉を理解したことを意味するものではない。神の御言葉を文字上でどのように解釈するかを問わず、それは単なる想像に過ぎず、また人間の考え方に過ぎず、役に立たない。 … あなたがたが語句を文字通りに解釈したり、自分の考え方の想像により解釈したならば、たとえ自分が精一杯言葉巧みに解釈したとしても、あなたがたの理解は正しくない。あなたがたは、自分が適切に解釈しなかった場合、前後関係を無視してその意味を理解して神の御言葉を誤解するであろう。それは一層問題となるのではなかろうか。このように、真理は、専らあなたがたが神の御言葉を知った時に聖霊の啓きを授かることにより得られる。真理は、単に神の御言葉の文字を理解したり解釈したりすることからは得られない。神の御言葉が文字通りに解釈されるならば、聖霊の啓きにはどのような意味があるというのか。その場合、ある程度の教育が有効となり、教育を受けていない者は大きな苦境に立たされるであろう。神の御業は人間の頭脳では理解できない。神の御言葉の真の理解は、聖霊からの啓きに依存しており、それが真理を得る過程である。

『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より

「あなたがたは、これまで神の御言葉を大量に読んで来たが、文章の意味を理解するだけで、神の御言葉に関して自分の経験から得た直接的な知識が無かったとしたら、神の御言葉を知ることは無いであろう。あなたがたに関しては、神の御言葉はいのちではなく、単なる死んだ手紙に過ぎない。また、あなたがたは、死んだ手紙に固執するのみであれば、神の御言葉の真髄を得ることも、神の御旨を理解することも出来ないであろう。あなたがたが神の御言葉を実際に経験して初めて、あなたがたに対して神の御言葉の霊的な意味が開かれ、あなたがたが数多くの真理の霊的な意味を把握出来るのは、経験においてのみであり、神の御言葉の奥義の鍵を開けることが出来るのは、経験のみである。あなたがたが御言葉を実践しなかったならば、神の御言葉がいかに明瞭であったとしても、あなたがたが把握したのは、無意味な手紙と教義だけであり、それはあなたがたの宗教的な規制となっている。それはパリサイ人が行った事ではなかろうか。あなたがたが神の御言葉を実践し、経験するならば、御言葉は自分にとって実践的なものになり、第三の天の逸話以上のものとなる。…………殆どの者が神の御言葉の文章を理解するだけで満足し、その深遠を実践で経験せずに、自分が教義を得ることに重点を置くが、それはパリサイ人の道ではなかろうか。それならば、こうした者にとって、どうして「神の御言葉はいのちである」という言葉が正しいことがあり得ようか。 人間が神の御言葉を実践してはじめて、人間の生活が真に花開くのであり、単に神の御言葉を読むだけでは、人間は成長できない。あなたがたが、いのちを得て、成熟するために必要とされるのは、神の御言葉を理解することだけであると考えているのであれば、それは曲解である。神の御言葉の真の理解は、あなたがたが真理を実践した時に実現するので、あなたがたは「真理は、それを実践することのみにより理解される」ということを理解する必要がある。」

『言葉は肉において現れる』の「真理を理解した後は、それを実践せよ」より

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