全能神教会App

神の声を聞き主イエスの再臨を喜んで迎えなさい!

真理を探求されている方々からのご連絡をお待ちしています

真理の道を探し求めるための百問百答

ソリッドカラー

テーマ

字体设置

字体调整

ラインスペース

ページ幅

0 件見つかりました

一致する内容が見つかりませんでした!

80.全能神の言葉を読んで、その大部分は神の声で、神が話しているとわたしは感じる。しかし、いくつかの言葉は人間の言葉のようである。これはどうしてか。

神の御言葉による答え:

神は規則に従わず、そして自身の知恵や全能性を明らかにするために多くの異なる視点から話すことができる。神が霊の視点から話すか、人の視点から話すか、あるいは第三者の視点から話すかは問題ではない。神は常に神であり、神が人の視点から話すことを理由に、神が神ではないと言うことはできない。神が様々な側面から話す結果、一部の人たちの間である観念が生まれてしまった。そのような人々は神について何の認識ももっておらず、神の働きについても何の認識もない。神がいつも一つの視点から話せば、人は神に関して規則を定めたりしないだろうか。神は、人がそのように振舞うことを許すことができるだろうか。神がどの視点から話すにせよ、神はそれぞれの視点に対して自身の目的を持っている。もし、神がいつも、霊の視点から話すようなことがあったなら、あなたは神と関わりをもつことができるだろうか。したがって、神は自身の言葉をあなたに与え、そしてあなたを現実性へと導くために、第三者の立場で語る。神が行う万事が適切である。要するに、すべては神によってなされているのであり、あなたはこのことについて疑いを抱くべきではない。神が神であるのなら、どの視点から話しても、神は依然として神である。これは、不変の真理である。どのような形で神が働きをしたとしても、神は依然として神であり、神の本質は変わることがない。

『言葉は肉において現れる』の「すべてが神の言葉によって達成される」より

神は複数の方法と観点を採っている。たとえば、皮肉を用いる時もあれば、直接与え教える手法を採る時もあり、例を使う時も、厳しく非難する時もある。全体として、様々な方法が採られており、人々の様々な状態や好みに応じることが目的である。神が語る観点は、神の語る手法や内容により変化する。たとえば、神は「わたし」と言う時、すなわち神自身の観点から語る時もある。また、神が第三者の観点から、「神」が云々、と語る時や、人間の観点から語る時もある。神が語る観点が何であろうと、その観点が神の本質を変化させることはできない。なぜならば、神がどのように語ったとしても、神が表した物事は、全て神自身の本質であり、全て真理であり、人間が必要とすることであるからである。

『言葉は肉において現れる』第二部「序論」より

一部の人はわたしが話すことは、わたしが経験したものであることだけは認めるが、聖霊の直接的表現であることを認識しない。もちろん、わたしの言うことはわたしが経験したことである。6000年にわたり、経営の働きをしてきたのはわたしである。わたしは人類創造の始めから今に至るまですべてを経験してきた。わたしがそのことについて語れないわけがあろうか。人の本性のこととなると、わたしはそれをはっきり見たし、長いこと観察してきた。それについてはっきり語れないわけがあろうか。人の本質をはっきり見てきたので、わたしには人を罰したり、裁いたりする資格がある。人はすべてわたしからもたらされたのに、サタンによって堕落させられたからである。もちろん、わたしはこれまでわたしが行ってきた働きを評価する資格もある。この働きはわたしの肉によってなされることではないが、聖霊の直接的表現であり、これはわたしが持っているもの、わたしそのものである。したがって、わたしはそれを表し、わたしのなすべき働きを行う資格がある。…人間の姿をした神の肉が語る言葉は聖霊の直接的表現であり、聖霊によってなされた働きを表している。肉はそれを経験しても、見てもいないが、それでも神の存在を表しているのは、肉の本質は聖霊であり、神は聖霊の働きを示しているからである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

前へ:全能神の言葉には裁き、刑罰および開示が含まれ、その言葉は確かに威厳と怒りを帯びているが、慈悲と愛が欠けていないか。

次へ:私たちは皆、逃げる道のない罪と告白のサイクルに生きながら捕われている。全能神の言葉は真に人々を変え、清められるのか。

他のお気に入り