真理を探求されている方々からのご連絡をお待ちしています

終わりの日のキリストの代表的な言葉

ソリッドカラー

テーマ

字体设置

字体调整

ラインスペース

ページ幅

0 件見つかりました

一致する内容が見つかりませんでした!

`

X 神の選んだ人々が入らねばならない真理の現実についての言葉

決心しだいで誰でも神に仕えることはできるが、神の心に一心に注意を払い、神の心を理解する人々にしか神に仕える資格や権利は与えられない。あなたたちの経験から見ても解かるように、多くの人は、神に仕えるということは、神のために熱心に福音を広め、各地を巡回し、神のために費やし、犠牲を払い、その他さまざまなことを為すことだと信じている。より一層信心深い人々は、神に仕えることは、手に聖書を持って走り回り、神の国の福音を広め、罪を悔い改め告白させることによって人々を救うことを意味すると信じている。また、神に仕えることは、神学校で学んだ後礼拝堂で説教し、聖書の各章を読んで人々に教えることだと考えている宗教指導者が大勢いる。また、神に仕えるということは、生涯結婚せず、家族を養うこともなく、全存在を神に捧げることを意味すると信じている兄弟姉妹も沢山いる。貧しい地域には、神に仕えるということは癒しを行い、悪霊を追い払い、あるいは兄弟姉妹のために祈り、彼らに仕えることだと信じている人々もいる。あなたたちの中には、神に仕えることは神の言葉を飲食し、毎日神に祈り、どこにいても教会を訪れることだと信じている人々がたくさんいる。そこで、教会生活を送ることが神に仕えることだと言う人々もいる。しかし、神に仕えることが実際何を意味するのかを知っている人はほとんどいない。神に仕える人は星の数ほどたくさんいるが、神に直接仕えることができる人の数、神の心に仕えることができる人の数は微々たるもので、取るに足らないほど少ない。なぜわたしはこのように言うのだろう。わたしがこんなことを言うのは、あなたたちが「神への奉仕」という言葉の本質を理解していないからであり、神の心にどう仕えたらよいのかほとんどわかっていないからである。

『言葉は肉において現れる』の「神の心にかなう奉仕とは」より

真に神に仕える人は、神の心にかない、神に用いられるのにふさわしく、宗教的な観念を手放すことのできる人である。もしあなたが神の言葉を飲食することで豊かな実りを得たいと望むなら、あなたの宗教的観念を手放さなければならない。神に仕えたいと望むなら、まず宗教的な観念を手放すことが尚更必要で、そしてあなたのすること全てにおいて神の言葉に従うことが必要である。これは神に仕える人に必要とされることである。

『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知る人々のみ神に仕えることができる」より

教会を導くことができ、人々にいのちを与えることができ、人々の使徒になることができる人々は実際の経験を持ち、霊的なものを正しく理解し、真理の正しい認識と経験を持っていなければならない。そのような人々だけが教会を導く働き手、あるいは使徒となる資格を有する。さもなければ、最も小さき者として後に従うだけで、導き手となることはできず、ましてや人々にいのちを与える使徒になることはできない。使徒の機能は走ったり、戦ったりすることではなく、いのちを与え、人の性質が変わるよう導くことだからである。それは重い責任を背負う権限を与えられている人々が行う機能であり、誰もができることではない。この種の働きは生命の本質を持つ人々、すなわち、真理の経験を持つ人々のみが請け負うことができる。諦められる人、走りまわれる人、喜んで費やす人が皆できるということではない。真理の経験のない人々、刈り込みを経験していなかったり、裁きを受けたりしたことのない人々はこの種の働きを行うことはできない。経験のない人々、すなわち、現実性のない人々は現実をはっきり見ることができない。彼ら自身がこの側面の本質をもっていないからである。そこで、この種の人物は人を導く働きができないだけでなく、長期間にわたり真理を持たなければ排除の対象になるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

神に仕える人を選ぶ時、神はいつも自分の原則を持っている。神に仕えることは人々が想像するように、ただ熱心であるかどうかの問題ではない。あなたがたも知っているように、神の導きと聖霊の働きにより、人は今日神の前に神に仕えることができる。それはその人が真理を追い求めているからである。これらは神に仕える人の最低条件である。

『言葉は肉において現れる』の「宗教奉仕を取り締まるべきである」より

働きと言うと、それは神のために奔走し、随所で説教を行い、神のために心血を注ぐことだと人間は考える。その考えは正しいものの、偏りすぎている。神が人間に求めているのは、神のために奔走することだけではない。むしろ霊の中において務め、与えることである。…働きとは、神のために奔走することを指すものではなく、人間のいのちと人間が生きながら示すことが神を楽しませることであるかどうかを指す。働きとは、人間がもつ神への信心、人間がもつ神に関する認識を用いて神の証しに立ち、人間を牧することを指す。これが人間の責任であり、全ての人間が気付くべきことである。換言すると、あなたがたがいのちに入ることが、あなたがたの働きである。あなたがたは神のための働きの過程においていのちに入ることを求めているのである。神を経験することとは、神の言葉を食べ飲み出来ることだけでなく、それよりも重要なこととして、神の証しに立ち、神に仕え、人間を牧し、人間に供給することが出来なければならない。これが働きであり、いのちに入ることでもある。これは、あらゆる者が実現すべきことである。神のために奔走して回り、方々で説教をすることだけに重点を置く一方で、自分の経験を軽視し、自分の霊的生活に入ることを無視する者が多数いる。神に仕える者が神に反抗するようになるのは、これが原因である。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(2)」より

良き働き手、有望な働き手は、聖霊の働きに注意を払う。聖霊に従う人は常に神を畏れ真理を求める。神に満足してもらい、神の証人となるためには、人は自分の働きの中に存在している不純なものや自分の意思を確かめる必要がある。すなわち、自分自身の願いがどのくらいあり、聖霊による啓示からのものがどのくらいあるか、そして神の言葉にどのくらい従っているかを知る必要がある。あなた方は常に、全ての状況においてその言葉と行いを検証しなければいけない。頻繁に検証することにより、人は正しく神に奉仕するようになる。神の心である奉仕を実現するための真理を自分自身に対する命令の中に取り入れる必要がある。人々は神の言葉を理解した場合にのみ、ものごとを見分ける能力を持つことができる。何が自分の意思から出たものか、そして何が動機となったかを認識することができるようになる。人々は人間の不純なもの、そして真理に基づいて行動することが何かを認識することができるようになる。そうしてはじめて、あなた方はもっと純粋に従うことを知るのである。真理なくしては人間がものごとを見分けることはできない。混乱している人は、堕落していることを明らかにするとはどのような意味かも分からずに生涯神を信じ続け、神に背くとはどのような意味かも知らない。その人は真理を持っておらず、真理に対する思いすらその心にはないからだ。それは電気製品を修理することと似ている。もしどの回路に欠陥があるのか分からなければ、どうやって修理できるだろうか。人の中にもまた、たくさんの回路がある。そして、時として、不具合はあなた方の意志のなかにあったり、あなた方の意志が関わるところにあったりする。また、あなた方の理解や知識の歪みが不具合である場合もある。自分の意思に従うこと、あるいは誰かを信じて惑わされていることが不具合の原因となっているのかもしれない。またあるときは、名声や地位を守るために肉の欲に従うこともある。このような不具合はしばしば発生し、人間の働きを脱線させ、神の家の働きや兄弟姉妹のいのちに損失を与えてしまう。そのような働きに何の価値があるのだろうか。それは妨げ、混乱、破壊でしかない。

『キリストの言葉の記録』の「働きを行うにあたっての主たる原則」より

資格のある働き手の働きは人々を正しい道に連れてくることができ、真理にさらに深く入ることを許す。彼の行う働きは人々を神の前に連れてくることができる。そのうえ、彼の行う働きは個々の人によって変わることができ、規則にとらわれず、人々に解放と自由を認める。さらに、人々は徐々にそのいのちにおいて成長し、真理に向けて深く着実に進むことができる。資格のない働き手の働きははるかに不十分で、ばかげている。彼は人々を規則にはめ込むだけで、人々に要求することは個々の人によって変化しない。彼の働きは人々の実際のニーズに従っていない。この種の働きには規則や教義があまりにも多く、人々をいのちにおける現実や正常な成長の実践に至らせることができない。人々はわずかな価値のない規則を守ることができるようになるだけであり、この種の指導は人々を迷わせるだけである。彼はあなたを自分に似たものになるよう導く。あなたを彼が持っているものや彼そのものの中に引き込むことができる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

働きを行うにあたり、働き手は二つの点に注意を払わなければならない。

一つは業務計画によって規定された原則に忠実に従って仕事を遂行することである。働き手はそれらの原則を破ったり、自分の勝手な想像に従って働いたり、自分の意思に従って働いたりしてはならない。働き手は神の家の働きに心を配り、全てにおいて神の家の利益を第一とすべきである。

もう一つの点も重要であるが、それは行うこと全てにおいて聖霊の導きに従い、全てにおいて神の言葉に忠実に従うということである。もしあなたが聖霊の導きに従わなかったり、頑固に自分の考え、自分の想像に従って行動したりするのであれば、それは神に対する最も重大な反抗となる。聖霊の啓示と導きに度々背いていると行き詰まってしまう。聖霊の働きを見失ってしまったら、働きを続ける術はない。また仮に働き続けたとしても何も成し遂げる事はできない。

働きを行う際に従うべきは、二つの原則である。一つは上からの計画に忠実に従い、上において決められた原則に沿って働くこと。もう一つは、内なる聖霊の導きに従うことである。これら二つの原則が理解できれば、働きが失敗するようなことはほとんどない。

『キリストの言葉の記録』の「働きを行うにあたっての主たる原則」より

働くのは、神の心を満たし、神の心にかなう人々を神の前に来させ、人間を神の許へ導き、聖霊の働きと神の導きを人間にもたらし、よって神の働きの成果を完全なものとするためである。そのため、働きの本質を把握することは必須である。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(2)」より

あなたたちが神の心に仕えたいと望むならば、どのような人々が神に愛されるのか、どのような人々が神に忌み嫌われるのか、どのような人々が神によって完全にされるのか、どのような人々が神に仕える資格を与えられるのかをまず理解しなければならない。これはあなたたちが身に着けておかなければならない最小限のことである。その上、あなたたちは神の働きの目的と、神が今ここで行う働きを知るべきである。これを理解した後、神の言葉の導きを通して、あなたたちはまず入り、まず神の任務を受ける。あなたたちが実際、神の言葉に基づいて経験し、本当に神の働きを知る時、あなたたちは神に仕える資格が与えられるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「神の心にかなう奉仕とは」より

神に仕える者は、神と心を一つにする者でなければならず、神に愛されており、神に最大限の忠誠を示すことができなければならない。人々の後ろで行動しようと、前で行動しようと、あなたは神の前で神を喜ばすことができ、神の前ではしっかり立つことができる。また、他の人々があなたをどのように扱おうとも、あなたはいつも自分の道を歩み、神の重荷に一心に注意を払う。こういう者だけが神と心を一つにする者なのだ。神に親しい者が直接神に仕えることできるのは、彼らが神から重大な任務や重荷を与えられているからである。彼らは神の心を自分の心とし、神の重荷を自分の重荷とすることができ、将来の展望を得るか、失うかなど一切考慮しない。将来の展望が何もなく、何も得るものがない時でさえ、彼らは常に愛に溢れる心で神を信じるだろう。そこでこのような人は神と心を一つとする者なのである。神と心を一つにする者は神の腹心でもある。神の腹心だけが、神の絶え間ない憂慮や神の願いを共有することができる。彼らの肉体は弱く、苦痛を味わうが、彼らは痛みに耐え、神を満足させるために、自分の愛するものを断念することができる。神はそのような人々にさらなる重荷を与え、神がしようとすることはこれらの人々を通して表現される。従って、これらの人々は神に愛され、神自身の心に適った神の僕である。そして、このような人々だけが神と共に統治することができる。

『言葉は肉において現れる』の「神の心にかなう奉仕とは」より

神が人々を用いる際の条件は、人々の心が神と向き合っており、神の御言葉の重圧を負い、人々の心が慕い、既に真理の追求を決意していることである。そのような人間のみが、聖霊の御業を得て、頻繁に啓き照らされることが出来る。神が用いられる人間は、外見上は不合理であり、他の人々と正常な関係が無いように思われるが、礼儀正しく話をし、無思慮に話をすることは無く、神の御前で常に心を静めておくことが出来る。こうした者は、聖霊により用いられるに十分である。こうした、神の言われるところの不合理な者は、正常な人間関係が無いように思われ、また表面的な愛や実践が無いが、霊的な物事に関する交わりを行っている時、こうした者は心を開き、神の御前での実経験から得た啓示や光を無私になって他者に与えることが出来る。それが、こうした者が神への愛を示し、神の御旨を満たす方法である。…神に用いられている人間を示す標示は、時と場所を問わず、自らの心が常に神の御前にあり、他人がいかに放埓であろうと、肉や欲に耽溺していようと、その者の心が神を離れることは決して無く、群衆に流されることが無いことである。こうした人間のみが、神に用いられるのに適し、まさに聖霊により完全にされる者である。あなたがたは、この段階に達することが出来なければ、神により得られ、聖霊により完全にされる資格が無い。

『言葉は肉において現れる』の「神との正常な関係の確立は極めて重要である」より

人間の神に対する奉仕における最大の禁忌は何であるか、あなたがたは、知っているであろうか。あなたがたのうち指導者として従事している者は、自分が指導者としていかに優れているかを神が理解されるように、常に高い創意を得て他の者の上に立ち、新しい技巧を探し出そうとする。しかし、あなたがたは真理を理解して神の御言葉の現実に対する真摯な取り組みを行うことに重点を置いていない。あなたがたは、常に自分を誇示しようとするが、それはまさに傲慢な本性の表れではなかろうか。「こうすれば神は大満足されるに違いない。神はそれを好まれるだろう。今度は神に認められ、神に嬉しい驚きを捧げることになるだろう。」と言う者さえ居る。この驚きは、一見したところ問題無いようだが、その結果、あなたがたは排除されるのだ。慌てて自分が思いつくままに行動しないこと。どうしてその結果を検討しなくても問題無いことがあり得ようか。神のご性情と律法を侵害した者が排除されるのであれば、あなたがたは何も述べられないであろう。あなたがたの意図が何かによらず、また故意に行うかどうかを問わず、神のご性情や御旨を理解しなかった場合、あなたがたは神の怒りを買いやすくなり、神の律法を侵害しやすくなる。このことは、誰もが防御する必要のあるものである。神の律法や神のご性情に対する重篤な侵害を行うと、あなたがたがそれを意図的に行ったか、意図せず行ったかを勘案されないであろう。これは、あなたがたが明瞭に理解する必要のある事である。あなたがたが、この問題を見抜けなかった場合、あなたがたに間違い無く問題が起こる。神に仕える際に、人間は大きく進歩すること、優れた物事を行うこと、優れた言葉を述べること、優れた作業を行うこと、大部な書籍を刊行すること、良い会議を行い、優れた指導者となることを望む。常に遠大な野望があなたがたにあるのであれば、神の高尚な律法を侵害するであろう。そうした者は早死にするであろう。あなたがたが神に仕える際に、自分が正直でなく、信心深くなく、賢明でなかったならば、遅かれ早かれ、あなたがたは神の律法を侵害するであろう。

『キリストの言葉の記録』の「真理が不在の場合、神の怒りを買いやすくなる」より

あなたがたは、自分が神の証しに立つ時は、神が裁かれ、罰せられる方法や、人間を精錬し、その性情を変化させるために神が用いられる試練、自分が受けた苦難の程度、自分の中にある反逆や腐敗がどの程度示されたか、自分が神に反逆した方法を主体として話すべきである。しかる後に、自分がどのようにして神に征服されたか、自分が神に対してどのように報いるべきかについて話すべきである。こうした言葉に実体を簡潔に交え、空虚な理論について話してはならない。実体について、心から話をするだけで、あなたがたの経験として十分である。外観上極めて深遠であるように飾られた、空虚な理論を構成してはならない。そうした行為は、過度に傲慢で無意味であると思われるであろう。現実の実践経験に由来する真実や、自分の心からの言葉を一層多く話すこと。人々にとって最も有益であり、他の人々に打ち明ける話として最も適切なのは、そうした物事である。あなたがたは、嘗て神の最悪の敵であり、最も神に対して反抗的な者であったが、現在、あなたがたは征服されている、ということを忘れないこと。この種の物事は、慎重に検討する必要がある。こうした物事に関して、時間をかけて考慮すること。それを怠ると、あなたがたは無恥で無意味な行動を一層多く行うであろう。

『キリストの言葉の記録』の「人間が備えるべき基本的意識」より

神に仕えることは簡単なことではない。堕落した性質が変えられていない者は決して神に仕えることはできない。もしあなたの性質が神の言葉によって裁かれておらず、罰せられていないなら、あなたの性質は依然としてサタンを表している。これは、あなたの神への奉仕が自分自身の善意から出ているということの証明だ。あなたの奉仕は、あなたのサタンの性質に基づいた奉仕である。あなたは本来持っている性質と自分の好みによって、神に仕えているのである。またそれ以上に、あなたが好きなものは何でも神は愛され、あなたが嫌いなものは何でも神は憎まれると思い込み、そうしてあなたの働きはひたすら自分の好みによってなされていく。これで神に仕えていると言えるだろうか。結局のところ、あなたのいのちの性質はみじんも変えられていない。実際、あなたは神に仕えてきたことで更に頑固になり、あなたの堕落した性質が深く根差すことになる。あなたは神に仕える規定を持つようになる。それは正にあなたがた自身の性質から出たもので、あなたの性質に従って神に仕えた経験を基盤としている。これが人間の経験であり学び方である。それは人の人生哲学である。このような人々はパリサイ人や宗教家である。もし彼らが目を覚まし、悔い改めなければ、究極的には彼らは終わりの日に現れる偽キリストになってしまうだろう。彼らは惑わすものたちである。偽キリストや惑わす者たちとはこのような人たちから生まれるであろう。神に仕えようとする人たちが自身の性質のまま、自分たちの意思通りに行動するなら、神に見捨てられる危険が絶えず付いて回る。長年神に仕えた経験を利用して人々の心を誘惑し、人々に説教し支配し、自らを高める人々―決して悔い改めることもなく、罪を告白することもなく、自分の立場を利用し続ける人たち―そのような人たちは神の前で倒れるだろう。彼らはパウロと同じ種類の人々で、うぬぼれていて、自分たちの地位や経歴を自慢している。神はこのような人々を完全にすることはないだろう。この種の奉仕は神の働きを妨げる。人々は古い物にしがみつきたがる。過去の考え方、過去の物にしがみつきたがる。これは奉仕の大きな障害となる。そのような物事を捨てることが出来なければ、あなたの一生は、そのような物事に抑圧されることになる。神は少しもあなたを褒めることはないだろう。あなたがどんなに身を粉にして、骨を折って一生懸命働いたとしても、神の「奉仕」で殉教死までしたとしても。それどころか、神はあなたを、悪を行う者と呼ぶだろう。

『言葉は肉において現れる』の「宗教奉仕を取り締まるべきである」より

あなたたちは神に仕えるための正しい道筋にちょうど入ったことを活かして、二心の忠誠ではなく、まず神に心を委ねるべきである。神の前であれ、他の人々の前であれ、あなたはいつも心を神の方に向けて、イエスのように神を愛する決心をすべきである。あなたが神の心にかなった神の僕となれるように、神はこのようにしてあなたを完全にする。あなたが本当に神によって完全にされることを望むなら、また、あなたの奉仕が神の心にかなうことを望むなら、神への信仰に関するこれまでの考え方を変え、これまでの仕え方を変えるべきである。そうすればあなたのもっと多くの部分が神によって完全にされるだろう。このように、神はあなたを見捨てず、ペテロのように、あなたは神を愛する人々の先頭に立つだろう。

『言葉は肉において現れる』の「神の心にかなう奉仕とは」より

イエスが神の任務――全人類を贖う業――を完了することができたのは、イエスが神の心に全ての注意を払い、彼には個人的な計画や思慮がなかったからである。だからイエスも神と心を一つにする者であった――神自身であった。それは、あなたたち皆がとてもよく理解しているとおりである。(実際、イエスは神によって証しされた神自身であった。わたしがこのことをここで述べるのは、イエスに関する事実を取り上げてこの問題を例証するためである。)イエスは神の経営(救いの)計画を全ての中心に置くことができ、いつも天の父に祈り、天の父の心を求めた。イエスは祈り、次のように語った。「父なる神よ。あなたの心にかなうことを成し遂げたまえ。わたしの思うようにではなく、あなたの計画によってことを為したまえ。人は弱いかもしれないが、なぜあなたは人のことを気遣うのですか。あなたの手の中では蟻のような人間が、どうしてあなたの配慮の対象になれるのでしょうか。わたしが心の中で願うのは、あなたの心を成就することだけです。わたしの望みは、あなたがわたしの内で行なう業を、あなたが自らの意図にしたがって為すことです。」エルサレムへ向かう途上、イエスは苦悶して、あたかもナイフが心の中で捻じ曲げられているかのように感じたが、神の言葉に背く思いは微塵もなかった。いつも強い力がイエスを磔刑の場所に向かって突き進ませた。最終的に、イエスは十字架に釘付けにされ、罪深い肉と同様になり、人類を贖う働きを完了し、死と黄泉の束縛を克服した。イエスの前に、死も、地獄もハデスも力を失い、イエスによって打ち負かされた。イエスは三十三年生きたが、生涯を通して彼はいつも全力を尽くし、その時の神の働きに従って神の心を全うした。決して自分の個人的損得は考慮せず、いつも父なる神の心のことを思った。従ってイエスが洗礼を受けた後、神は次のように語った。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」イエスの神に対する奉仕は神の心にかなうものだったので、神はイエスの肩に全人類を贖うという大きな重荷を負わせ、それを成し遂げるためにイエスをつかわし前進させた。そして、イエスにはこの重要な任務を完成する資格と権限があった。生涯を通じて、イエスは神のために計り知れないほどの苦しみに耐え、幾度となくサタンの試みにあったが、決して落胆することはなかった。神がイエスにそのような任務を課したのはイエスを信頼し、愛していたからである。従って、神は自ら次のように語った。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」当時、イエスしかこの任務を果たすことができず、これは恵みの時代に全人類を贖うという神の働きを完成させることの一部であった。

もしあなたたちが、イエスのように神の重荷に一心に注意を払い、自分の肉に背を向けることができるなら、神は、重要な任務をあなたたちに委ね、あなたたちは神に仕える条件を満たすだろう。そのような状況の下でのみ、あなたたちは自分が神の心を実行し、神の任務を果たしていると思い切って言うことができ、その時初めてあなたたちは本当に神に仕えていると言い切れるだろう。イエスの例と比較して、あなたは自分が神と心を一つにする者だと思い切って言えるだろうか。あなたは、神の心を実行していると言い切れるだろうか。あなたは、神に本当に仕えているとあえて言えるだろうか。今日、あなたがこのような神への奉仕を理解していないなら、あなたは自分が神と心を一つにする者だと言い切れるだろうか。それでも、もし神に仕えていると言うなら、あなたは神を冒涜しているのではないだろうか。よく考えてみなさい。あなたは神に仕えているのだろうか、それとも自分自身に仕えているのだろうか。あなたはサタンに仕えているのに、頑固に神に仕えていると言い張る――それこそ神を冒涜することではないか。

『言葉は肉において現れる』の「神の心にかなう奉仕とは」より

もし人々が神を畏れる心で神を信じ、神の言葉を経験するなら、そうした人々には神の救いや神の愛がもたらされる。そうした人々は神を証しすることができ、真理に生き、真理、神であるすべて、神の性質について証しし、神の愛に包まれ、神の愛を知っている。もし神を愛したいと願うのなら、神の愛すべきことを経験し、神の愛すべきことを理解しなければならない。そうしてはじめて、神を愛する心、忠実に神に仕えようという思いが生じる。神は文字、あるいは想像力に訴えて人々が神を愛せよとはさせない。神は自身を愛することを人々に強いない。むしろ、人々が自ら進んで神を愛するようにするのだ。自分の働きと言葉の内にその愛すべきことを見るようにし、その後で、神への愛が生まれるようにするのだ。そのようにしてはじめて、人々は真に神を証しできる。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる」より

真に神を証しする人々は、神についての真の認識と心から慕う気持ちとが土台にあるからこそ、素晴らしい証しをできるのである。これは、感情に突き動かされているのではなく、神とその性質についての認識によっている。その人々は神を知るようになり、まことに神を証しし、神を求めるすべての人々に神のことを知らせ、神の愛すべきことと神の実際を知るようにしたいと感じているからである。人々の神への愛同様、その人たちの証しは自発的で真実であり、本物の意義と価値がある。これは受動的なものでも、虚しく無意味なものではない。真に神を愛する者だけが最も価値ある意義深い人生を送ることができ、そうした人々だけが真に神を信じているというのは、その人たちが神の光の中で生きており、神の働きと計画のために生きることができるからだ。彼らは闇の中で生きているのではなく、光の中で生きている。無意味な生を生きているのではなく、神の祝福を受けた生を生きているからだ。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる」より

そして何よりも、証しに立つためには、神の御業や、神が人間を征服する方法、救う方法、変化させる方法、そして人間が征服され、完全にされ、救われることが可能となるよう、人間を導いて真摯な取り組みを行わせる方法について話をする必要がある。証に立つとは、神の御業と、あなたがた自身の全ての経験について話をする事である。神の御業のみが神を表し、神の全体を公的に明示できるのは神の御業のみである。神の御業は、神の証しに立っている。…神があなたがたに対して証に立つよう求められるのは、あなたがたが神の御業の各段階を経験してきたからに他ならず、あなたがたがそれを経験していなかったとしたら、神はあなたがたに対してそうした要求をしないであろう。ゆえに、あなたがたが神の証しに立つ時、それは神の正常な人間性の外観ではなく、神が行う御業と、神が導く道を証するのであり、あなたがたがどのようにして神に征服されたか、どの面で完全にされたかを証するものである。これが、あなたがたが立つべき証である。

『言葉は肉において現れる』の「実践(7)」より

今後、福音が広められたとき、あなたがたは自分の知識を述べ、自分の心で得た物事の証に立ち、全力を尽くすことが出来る必要がある。これが、創造物として人間が達成すべき物事である。この段階の神の御業の重要性は、何であろうか。その効果は、何であろうか。そして、そのうちどの程度が人間の中で行われたであろうか。人間は何をすべきだろうか。あなたがたが、受肉した神が地に来た後の御業について、全て明瞭に述べられるのであれば、あなたがたの証は完全なものとなるであろう。神の御業の重要性、内容、本質、それにより表される神の性情、そして神の御業の原則という5つの物事について、あなたがたが明瞭に述べられるのであれば、それは、あなたがたが証に立つ事が出来ること、そして真に知識を備えていることを示す。私があなたがたに求めている物事は、それほど多くは無く、真に追求する者が全員達成可能な物事である。あなたがたが神の証人のひとりとなることを決意したのであれば、神が忌み嫌う物事と神が愛する物事を理解する必要がある。あなたがたは、神の御業を数多く経験して来たが、その御業により神の性情と神が忌み嫌う物事、神が愛する物事を知り、神の御旨と、神の人間に対する要求を理解し、それを用いて神の証しに立ち、自分の本分を尽くす必要がある。

『言葉は肉において現れる』の「実践(7)」より

あなたがたは、罰、裁き、精錬、試練、挫折、苦難の各段階を経験してきた。そして、あなたがたは征服を得て、肉の将来の見通し、自分の個人的動機、肉の個人的利益を捨てた。つまり、あらゆる者の心が神の御言葉により征服された。あなたがたのいのちは神が要求する程度まで成長していないが、あなたがたはそうした物事を知り、神の御業により完全に確信している。それならば、これは証であり、その証は本物である。神が来て行った御業、すなわち裁きと罰は、人間を征服するためのものであるが、神はまた御業を完了し、この時代を終わらせ、神の御業の最終章を行う。神は、その時代全体を終わらせ、神が造った人類全体を罪から救い、完全に得る。これが、あなたがたが証に立つべき事の全てである。

『言葉は肉において現れる』の「実践(7)」より

いつの日か、あなたがたが海外で福音を伝えている時に、誰かに「あなたの神への信仰は、どのようなものか」と尋ねられたら、あなたがたは「神の御業は実に素晴らしい」と言えるようになるであろう。あなたがそう言うのをその者が聞くと、その者は、あなたの中には重要な何かがあること、神の御業は実に想像を絶するものであることを感じるであろう。これが、真に証しをするということである。あなたがたは、神の御業は知恵に溢れている、あなたがたに対する神の御業は、真にあなたがたを確信させ、あなたがたの心を征服した、と述べるであろう。神は人間が愛する以上の価値があるので、あなたがたは常に神を愛するであろう。あなたがたがこうした事柄を述べることが出来るのであれば、あなたがたは人々の心を動かすことができる。こうしたことは、全て証しに立つということである。あなたがたが影響力の高い証しとなり、人々を感涙させることが出来るならば、それはあなたがたが真に神を愛していることを示すものである。それは、あなたがたが神に対する愛の証しとなり、あなたがたを通して神の御業を表現することが出来るからである。そして、あなたがたの表現により、他の人々は神の御業を探し求め、神を経験し、そうした人々が遭遇するあらゆる環境において揺るぎなく立っていることが出来る。この方法で証しをすることのみが、真に証しをすることであり、まさに現在のあなたがたに必要とされるものである。あなたがたは、神の御業は極めて貴重であり、人々にとって大切にする価値がある、神は極めて貴重であり豊かである、神は話すことが出来るだけでなく、人々の心を精錬し、人々に喜びをもたらし、さらに人々を得て、征服し、完全にすることも可能であられる、と述べる必要がある。あなたがたは、自らの経験から、神が極めて愛すべき存在であられることを知るであろう。しかるに、あなたがたは現在、どの程度神を愛しているだろうか。あなたがたは、心からそうした事を述べられるであろうか。あなたがたがこうした言葉を心の底から表現できる時、あなたがたは証しをすることが出来るであろう。あなたがたの経験がこの段階に達した後、神の証しに立つことが可能となり、証しに立つ資格を得ることが出来るであろう。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされるべき者は、精錬される必要がある」より

あなたが神の証に立つ時、自分がいかにして神の恵みを享受し、神の鍛錬と懲らしめを受け、神の祝福を享受しているかだけで神の証をするのであれば、それは甚だ不適切であり、神に満足してもらうには程遠いものである。神の心に沿う方法で神の証をすること、真の神自身の証に立つことを望むのであれば、神の業から神が持っているものや神が何であるかを理解する必要がある。あなたは、神による万物支配から神の権威を理解し、神が全人類に対して施すという事実を理解する必要がある。自分の食料や飲料、生活必需品が神に由来することを認めるのみで、神が万物により全人類に対して施すという事実、神が万物を支配することにより全人類を導いているという事実を理解しないのであれば、神の証に立つことは決して出来ない。

『言葉は肉において現れる』(続編)「唯一の神自身9」より

神を証すものは神の知識を持たなければならない。そのような証しだけが正確であり、本物であり、そのような証しだけがサタンを恥じ入りさせることができる。神は、裁きと刑罰を経験し、取り扱われ、刈り込まれることを経験し、それによって神を知ることになる者を、自身の証人として用いる。神はサタンにより堕落させられた者を自身の証人として用い、また、その性質が変わり、それにより神の祝福を得る者を、自身の証人として用いる。神は人の口先だけの賞賛を必要とせず、サタンのやからで救いを得ていない者たちによる賞賛も証しも必要としない。神を知る者だけが、神への証しとなる資格がある。性質を変えられた者だけが、神への証しとなることができる。神は人が意図的に自身の名を辱めることを許すことはない。

『言葉は肉において現れる』の「神を知る者だけが、神の証人となることができる」より

あなたは年代ごとの神の性質を時代の特徴を踏まえて表現できるだろうか。神の働きに関するあなたの経験を通して、神の性質を詳しく述べることができるだろうか。あなたはそれをどのようにして適切且つ的確に述べることができるだろうか。もし述べることが出来るなら、他の人たちがあなたの体験から学ぶことができる。あなたの見たもの、経験したものを、義に飢え渇き、守り導いてくれる羊飼いを待っている哀れでかわいそうな宗教熱心な信者たちにどのようにして伝えるだろうか。どんな「人物」があなたに羊飼いとなってもらおうと待っているのだろうか。想像できるだろうか。あなたは自分の肩にある荷の重さ、使命、責任などを理解しているだろうか。あなたは歴史上での自分の使命感を持っているだろうか。次の時代の良き主人としてどのように奉仕するだろうか。あなたは主人としての意識を強く持っているだろうか。全ての物の主人についてどのように説明するだろうか。それは本当に世界の全ての生き物と全ての物体の主人であるのだろうか。次にすべき事を、どのような計画で進めるだろうか。何人の人たちがあなたに羊飼いとなってもらいたいと待っているのだろうか。あなたに任された任務は重くないか。彼らはみじめで、哀れで、盲目で、途方に暮れ、そして暗闇の中で泣き叫んでいる。「どっちに行ったらいいのか」と。光が流星のように突然降りて来て、長年人々を圧迫してきた暗闇の力をまき散らしてくれることをどれほど彼らが待ち望んでいることか。どんなに切に望み、日夜どんなに思いこがれているか、誰が知ることができるだろうか。深く耐え忍んでいる人たちは暗闇の地下牢に閉じ込められたまま、光がひらめく日でさえも解放される望みはない。彼らが泣かない日がいつ来るだろうか。全く安息を与えられたことのないこれらのもろい霊はまことにそのような不幸をこうむっている。彼らは長い間無情なロープと凍ったままの歴史で封印をされてきた。誰が彼らの叫び声を聞いたことがあるだろうか。誰がそのみじめな顔つきを見たことがあるだろうか。神の心はどれほど深く悲しみ、心配しているかを考えたことがあるだろうか。神は自身の手で創った罪のない人類がそのような苦しみにあっているのを見ていられるだろうか。何といっても、人類は毒された不幸な人たちである。彼らは今日まで生きながらえたけれども、悪い者に長い間毒を盛られていたと誰が思っただろうか。あなたは自分も犠牲者であることを忘れてしまったのか。あなたの神への愛で、生き残った人たちを救うために喜んで努力しようと思わないだろうか。自分の肉と血のように人類を愛する神に恩返しするために全力で取り組みたいと思わないだろうか。神に用いられて並外れた人生を生きることをどのように理解しているだろうか。あなたは「敬虔で神に仕える人」の意義深い人生を送るための決意と自信を本当に持っているだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「将来の使命にどのように取り組むべきか」より

前へ:(XIII)どのように裁きと刑罰を受け、取り扱われ、刈り取られ、試練と精練を受けるかについての代表的な言葉

次へ:(XV)サタンの影響を捨て去り、真の救いを達成するため神によって得られることについての代表的な言葉

他のお気に入り