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終わりの日のキリストの代表的な言葉

目次

X 神の選んだ人々が入らねばならない真理の現実についての言葉

人間は、自分で自分の性情を変化させることが出来ない。人間は神の御言葉による裁き、罰、そして辛い精錬を受けるか、あるいは神の御言葉による取り扱いと修練、剪定を受ける必要がある。その後初めて、人間は神に対する従順と献身を実現可能であり、神を欺いたり、表層的に神に対応したりしなくなる。人間の性情が変化するのは、神の御言葉による精錬時である。神の御言葉による暴露、裁き、鍛錬、そして取り扱いを受ける者のみが、見境無く行動しなくなり、平静沈着となる。最も重要な点は、人間は神の実際の御言葉と御業に従うことが可能であり、それが人間の観念と一致しない場合でも、人間はそうした観念を捨て、意図的に従うことが出来る、ということである。

『言葉は肉において現れる』の「性情が変化した者は、真理の現実への真摯な取り組みを行う者である」より

神の働きを経験するなかであなたが人の似姿でありたいと願うならば、あなたはこうした言葉の啓示、刑罰、裁きを経験しなければならない。そうすればいずれあなたは一新されうるだろう。こうすることが必要であり、もし人々がこの方法で行わないならば、彼らは変わることができない。彼らはそれを少しずつ行わなければならず、裁きと刑罰、そして継続的な刈り取りと取り扱いを経験しなければならない。人々の本性に現れた事柄は、明らかにされなければならない。それらが明らかにされ、それらをはっきりと理解した後に、人々は正しい道を歩むことができる。ある一定期間の経験を経ていくつかの真理を理解した後でのみ、固く立っている確信を得る。

『キリストの言葉の記録』の「人の本性における共通点と相違点を理解する」より

神への信仰には、神への服従と、神の御業を経験することが必要とされる。神は多数の御業を行われて来られており、人間にとって、それは全てが完全にする御業であり、精錬の御業であり、さらにそれは全て罰であると言えるであろう。現在まで、神の御業の段階には人間の観念に則したものが一切無く、人間が享受してきたのは、すべて神の辛辣な御言葉のみである。神が来られる時、人間は神の威厳と怒りを享受するが、神の御言葉がいかに辛辣であったとしても、神は人類を救い、完全にするために来られる。人間は、精錬の最中に創造物としてなすべき本分を尽くし、神の証しに立つ必要がある。あらゆる試練において、人間は、なすべき証しを堅持し、神の明白な証しに立つ必要がある。それが勝者である。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは自らを神に捧げ続けなければならない」より

神が何を述べるかを問わず、あなたがたは単に神の御言葉に真摯に取り組む必要がある。これは、自分のいのちよりも有益である。全ては、あなたがたの性情の変化のためである。あなたがたが神の御言葉に真摯に取り組む時、あなたがたの心は神により感激させられ、御業のこの段階において神が実現したい物事を全て理解し、あなたがたにはそれを実現する意志があるであろう。罰の時、それが御業の方法であると考え、神の御言葉を信じなかった者も居る。その結果、そうした物は精錬を受けず、得たものや理解したものが何も無いまま罰の時を終えた。何も疑わずに、そうした御言葉に真摯に取り組む者も居る。そうした者は、神の御言葉は真実であり誤りが無く、人間は罰を受けるべきであると言う。そうした者は、その罰の中で一定期間にわたり苦闘し、自分の将来や運命を捨て去るが、そうした者がその罰を終えると、そうした者の性情は顕著に変化し、神に関する一層深い知識を得ている。罰を経験し終えた者は、全員神の愛しさを感じ、その神の御業の段階は、人間に与えられた神の大いなる愛であること、神の愛による征服と救済であることを知っている。また、そうした者は、神の考えは常に善良で有り、神が人間に対して行われる物事は、全て愛であり、憎しみでは無いと言う。神の御言葉を信じないか、あるいは御言葉に重きを置かない者は、罰の時に精錬を受けておらず、その結果、聖霊はそうした者に付き添わず、そうした者は何も得ない。罰の時に真摯に取り組んだ者については、そうした者は精錬を受けていないが、聖霊がそうした者の中で、隠れて御業を行い、その結果そうした者は自分のいのちの性情が変化する。外面的に極めて積極的だと思われる人々も居る。そうした者は常に機嫌が良いが、神の御言葉による精錬の状態に真摯に取り組んだことが無く、全く変化していないが、それが神の御言葉を信じないことの結末である。あなたがたが神の御言葉を信じないのであれば、聖霊はあなたがたの中で御業を行われないであろう。神は、神の御言葉を信じる者全ての前に来られる。神の御言葉を信じて理解する者は、神の愛を得るであろう。

『言葉は肉において現れる』の「性情が変化した者は、真理の現実への真摯な取り組みを行う者である」より

神の言葉の一つ一つが私達の急所を突き、私達は悲嘆にくれ、恐れる。神は私達の観念を明らかにし、想像を明らかにし、堕落した性質を明らかにする。私達の言動の全て、思いや考えの一つ一つを通して、私達の本性や本質は神の言葉によって明らかにされ、私達は辱められ、恐怖で震える。神は、私達の行動、目的と意図、それに自分でも知らなかった堕落した性質までを私達に示し、私達を徹底的にさらけ出された気持ちにさせ、さらには完全に納得した気持ちにさせる。神は、私達が神に反抗したことを裁き、神に対する冒涜と糾弾を理由に私達を罰し、私達は神の目には何の価値もなく、生きたサタンそのものであると思わせる。私達の希望は粉々にされ、もはや神に対する理不尽な要求や企てはしなくなり、私達の夢さえも一夜にして消える。これは、私達の誰も想像できず、受け入れることのできない事実である。一瞬、私達は心のバランスを失い、この先どうやって続けていけば良いのか、どうやって私達が信じることがらを保ちつつ続けていけば良いのか分らなくなる。まるで自分達の信仰が振り出しに戻り、主イエスに出会ったことも、親しんだこともなかったような気持ちになる。目の前のこと全てが私達を混乱させ、どこか漂流しているような気持ちにさせられる。私達は狼狽し、落胆し、そして心の奥深くには押さえきれない憤りと屈辱がある。私達はうっぷんを晴らそうと試み、出口を探そうと試み、その上、救い主イエスを待ち続けて、胸の中を打ち明けようと試みる。表面上は放漫にも謙虚にも見えないときもあるが、私達は心の中でこれまでにない喪失感に苦しんでいる。ときには表面上はいつになく冷静に見えるかもしれないが、内面では波打つ海原のような苦悶に耐えている。神の裁きと刑罰は、私達の希望と夢の全てを奪い去り、私達の途方もない望みはもはや無く、あの人が救い主で、私達を救うことができるということを信じようとはしない。神の裁きと刑罰は私達と神との間に深い溝を広げ、誰もそれを渡ろうとさえしない。神の裁きと刑罰によって、これほどの挫折と屈辱を初めて感じたのである。私達は、神の裁きと刑罰によって、神の名誉と人による侮辱に対する神の不寛容を本当に認識した。それと比べて私達はなんと卑しく汚れていることか。神の裁きと刑罰によって私達は初めて、いかに自分達が傲慢で尊大であるか、そして人間は決して神と同等ではなく、神と肩を並べることはないことを悟らされた。神の裁きと刑罰によって、私達はこのような堕落した性質の中でもはや生きていかないことを切望するようになり、そのような本性と本質からできるだけ早く抜け出し、もう神から憎まれたり、神に嫌悪感を起こさせることのないようにと願うようになった。神の裁きと刑罰によって、私達は神の言葉に喜んで従うようになり、もはや神の指揮と計画に反抗する気持はなくなった。彼の裁きと刑罰によって、私達は再びいのちを追い求めるようになり、喜んで彼を救い主として受け入れるようになった。私達は、征服する働きから立ち去り、地獄から抜け出し、死の影の谷から抜け出た…全能神は、私達この集団に属する人間を得たのだ。神はサタンに打ち勝ち、全ての敵を倒したのだ。

『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より

ペテロはサタンの影響を超越し、肉の悦楽から自らを脱し、神の刑罰と裁きの両方を一層深く経験することを望んだ。ペテロは言った。「私があなたの刑罰と裁きの中で生きたとしても、それに伴う苦難を問わず、依然として私はサタンの領域下で生き、サタンにまやかされることを望みません。私はあなたの呪いの中で生きることを喜び、サタンの祝福の中で生きることに痛みを感じます。私は、あなたの裁きの中で生きている時、あなたを愛し、それが自分に大いなる喜びをもたらします。あなたの刑罰と裁きは義であり、聖いものです。それらは私を浄化し、またそれ以上に私を救うためのものです。私は生涯をあなたの裁きの中で過ごし、あなたに見守られた方が良いと思います。私は一瞬たりともサタンの領域で生きることを望みません。私はあなたに浄化され、苦難を受けることを望み、サタンに利用され、欺かれることを望みません。被造物である私は、あなたにより使われ、所有され、裁かれ、刑罰を与えられるべきです。私は、あなたにより呪われるべきでさえあります。あなたが私を祝福することを望むとき、私の心は喜びます。なぜなら、私はあなたの愛を知ったからです。あなたは創造主であられ、私は被造物です。私はあなたを裏切ってサタンの領域で暮らすべきでも、サタンに利用されるべきでもありません。私は、サタンのために生きる代わりに、あなたの馬となり、雄牛となるべきです。私は物質的な喜び無く、あなたの刑罰の中で生きる方が良く、たとえあなたからの恵みを失ったとしても、そうして生きることが私に喜びをもたらすでしょう。あなたの恵みが無かったとしても、私はあなたの刑罰と裁きを受けることを喜びます。刑罰と裁きは、あなたの最高の祝福であり、恵みです。あなたは私に対して、常に威厳があり、怒りに満ちておられますが、それでもなお私はあなたから去れず、あなたを十分に愛することが出来ません。私はあなたの家に住み、呪われ、刑罰を受け、打たれることを望み、サタンの領域下で暮らすことも、ただ肉のために忙しく奔走することも望まず、ましてや肉のために生きることなど望みません。」ペテロの愛は清い愛であった。これが完全にされる経験であり、完全にされることの最高の領域であり、これ以上に有意義な人生は無い。ペテロは神の刑罰と裁きを受け容れ、神の義なる性質を大切にし、ペテロに関することで、それ以上貴いことは無かった。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

ペテロは「サタンが私に物質的な喜びを与えるが、私はそれを貴ばない。神の刑罰と裁きが私に降り、私はそこから恵みを受け、喜びを見出し、祝福される。神の裁きが無かったとしたら、私は神を愛さず、依然としてサタンの領域下で暮らし、サタンに支配され、指揮されていることだろう。そうした場合、私は決して真の人間とはなれないだろう。なぜなら、私は神に満足してもらうことが出来ず、私の全てを神に捧げることは無かったであろうからだ。神は、私を祝福されず、あたかも自分の中が燃えているように、心の安息が無いままにされ、平和も喜びも無いままにされ、また神の刑罰と鍛錬は決して私から無くなることが無いにもかかわらず、神の刑罰と裁きの中から、私は神の義なるご性質を見出すことが出来る。私はそれに喜びを感じる。人生において、それ以上に貴いことも有意義なことも無い。神の守りと慈しみが容赦の無い刑罰と裁き、呪いと打ちのめしとなったが、私はそれでもそうした事を嬉しく思う。なぜなら、そうした物事は私を一層浄化し、変化させ、神に近づかせ、一層神を愛し、神に対する私の愛を一層清くすることが出来るからである。そうしたことにより、私は創造物としての自分の本分を尽くすことが出来るようになり、自分が神の御前へと導かれ、サタンの影響から遠ざけられるので、もはや私はサタンに仕えていない。私がサタンの領域下で生活しておらず、何も躊躇せずに自分の持てる全てと、出来ることの全てを神に捧げることが出来る時、それは私が完全に満足する時であろう。私を救ったのは神の刑罰と裁きであり、私の一生は神の刑罰と裁きとは不可分である。地における私の生活はサタンの領域下にあり、神の刑罰と裁きによる慈しみと守りが無かったとしたら、私は常にサタンの領域下で生活していたであろうし、それ以上に、有意義な人生を行動で示す機会や術が無いであろう。神の刑罰と裁きが決して私から消えない場合にのみ、私は神により清くされることが可能となるであろう。神の辛辣な御言葉と義なるご性質、そして神の威厳ある裁きによってのみ、私は最高の守りを得て光の中で生き、神の祝福を得た。清くされること、また自らをサタンから解放し、神の支配下で生きることが可能であることが、現在における私の人生の最大の祝福である。」と述べた。これはペテロが経験した最高の領域である。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

あなたが追求するのは、刑罰と裁きの後に征服されることであろうか、それとも、刑罰と裁きの後に清められ、守られることであろうか。あなたが追求しているのは、どちらであろうか。あなたの人生は有意義なものであろうか、それとも無意味で無価値なものであろうか。あなたが求めるのは、肉であろうか、真理であろうか。あなたが望むのは、裁きであろうか、快楽であろうか。神の業を極めて多く経験し、神の聖さと義を目の当たりにして来たあなたは、どのように追求すべきであろうか。あなたは、どのようにしてこの道を歩むべきであろうか。神に対する愛を、どのように実践すべきであろうか。神の刑罰と裁きは、あなたに何らかの効果をもたらしたであろうか。あなたに神の刑罰や裁きに関する認識があるかどうかは、あなたが何を行動で示し、どの程度神を愛しているかにより決まる。あなたの唇は、自分が神を愛しているというが、行動で示していることがらは、依然と代わらない腐敗した性質である。あなたには神への畏れが無く、いわんや良心など無い。そのような者は、神を愛しているであろうか。そのような者は、神に対して忠誠であろうか。そのような者は、神の刑罰や裁きを受け容れた者であろうか。あなたは神を愛し、信じていると言うが、自分の観念を捨てていない。あなたの働き、成長、あなたが述べる言葉や生活において、神に対するあなたの愛が全く表されておらず、神への畏れが全く無い。それは、刑罰と裁きを得た者であろうか。このような者は、ペテロのようになれるであろうか。ペテロのような者は、認識があるだけで、それを行動で示さないであろうか。現在、人間が真の人生を送ることが要求される条件は、何であろうか。ペテロの祈りは、単にペテロの口から出ただけのものであっただろうか。それは、ペテロの心の底から出た言葉ではなかっただろうか。ペテロは、祈るだけで、真理を実践しなかったであろうか。あなたの追求は、誰のためであろうか。神の刑罰と裁きの間に、あなたはどのようにして守りを得て、清められるべきであろうか。神の刑罰と裁きは、人間にとって全く無益であろうか。裁きは、全て懲罰であろうか。人間のいのちに有益なのは、平和と喜び、物質的な恵み、一時的な快楽だけであろうか。人間が満足かつ快適な環境で、裁きの生活無く生きるのであれば、その者は清められるであろうか。人間が変化することと清められることを望む場合、その者は、完全にされることを、どのように受け容れるべきであろうか。現在、あなたは、どちらの道を選ぶべきであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

あなたは、自分が完全にされることを追求する者であるならば、あなたは証しに立ってこう言うであろう。「この神による段階的御業において、私は神の刑罰と裁きの御業を受け容れ、私は大いなる苦難を受けてきたものの、神がどのようにして人間を完全にされるかを知り、神が行われた御業を得て、神の義に関する認識を得て、神の刑罰により救われた。神の義なるご性質が私に臨み、祝福と恵みを与えられ、神の裁きと刑罰が私を守り、清くした。もし私が神による刑罰と裁きを受けておらず、神の辛辣な御言葉が私に臨んでいなかったとしたら、私は神を知らず、救われることが出来なかったであろう。現在、私は被造物として、人間は創造主が造った万物を享受するだけでなく、それ以上に重要なこととして、神のご性質は人間が授かる価値のある物であるので、あらゆる被造物は神の義なる性質を授かり、神の義なる裁きを受ける必要がある、ということを理解している。サタンに腐敗させられた被造物として、人間は神の義なるご性質を授かるべきである。神の義なるご性質には、刑罰と裁きがあるほか、それ以上に大いなる愛がある。現在、私は神の愛を完全に得ることは出来ないが、それを理解する幸運に恵まれており、その点において、私は祝福されている。」これが、完全にされた者の歩んだ道であり、そうした者が語る認識である。そうした者はペテロと同様であり、ペテロと同様の経験がある。そうした者は、いのちを得た者でもあり、真理を備えた者でもある。ある者が、最後まで経験した場合、その者は、神の裁きの時に、必然的に、サタンの影響から自らを完全に退けて、神のものとされるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

剪定と取り扱いを受けた後に受動的になる者も居るが、そうした者は、自分が弱すぎて本分を尽くすことが出来ないと感じ、忠誠と熱意を失う。それは何故であろうか。その一因として、自分の行動の本質に関する人間の認識不足のため、剪定や取り扱いを受け容れないことがある。また、人間が取り扱いや剪定を受けることの重要性を理解せず、それが自分の結末に対する決意のしるしであると信じていることも、その一因である。その結果、人間は、神に対する忠誠と熱意が自分に多少あれば、取り扱いや剪定を受けることはあり得ない、また取り扱いを受ける場合、それは神の義ではあり得ないと誤信する。こうした誤解により、多くの者が神に対する忠誠や熱意の無い状態となる。事実、それは人間が極めて虚偽的であり、苦難を受けたがらず、手軽な方法で祝福を受けることを望むからである。こうした者は、神の義を認識していない。神が義なる御業を何も行われたことが無く、今後も義なる御業を一切行われないのではなく、人間が神の御業が義であることを考えないのである。人間の目から見ると、神の御業が人間の意志と一致しなかったり、それが人間の期待に満たない場合、それは神が義ではないことを意味する。人間は、自分の行動が不適であったり真理と一致しない時、それを認識することは一切無い。そうした者は自分が神に反抗していることに気付かない。神が人間に対して、人間の罪に対する取り扱いや剪定を行われず、人間の罪を咎められず、しかし常に穏やかであられ、人間を刺激されることがなく、人間の感情を害されず、人間の傷を露わにされずに、神と共に晩餐をして楽しませられるとしたら、神は不義であられると人間が不平を口にすることは無いであろう。人間は、神は極めて義であられると偽善的に述べる。ゆえに、神が求められている物事は、人間が変化した後の実績であることを、人間は未だに信じようとしない。人間がそのような状態であり続けるのであれば、どうして神は安堵できようか。神が人間に対して多少非難的であられる場合、人間は、変化した後における人間の実績を神が理解されていることを信じなくなるであろう。人間は神が義であられることを信じなくなり、変化しようという意志は持たないであろう。こうした人間の状況が続いた場合、人間は自らの観念により欺かれるであろう。

『キリストの言葉の記録』の「人間の結末が自らの実績により決まるということの意味」より

ある人々は裁きや刑罰、刈り取りや取り扱いを受けたり、自分たちの真の姿が明らかにされたりするともはや終わりで、結末は形作られてしまう。ほとんどの人々はこの事柄をはっきりと見極めることはできず、目の前の道をどのように歩めばよいのか分からないまま、皆そこで立ち止まる。通常、取り扱いや刈り込みを受けたり挫折を経験したりしないとき、人々は神を信じつつ真理を追い求めたいと感じ、神のみ心を満足させるべきだと感じるものである。しかしちょっとした挫折やいくつかの困難が生じるやいなや反逆の本性があらわになり、特に忌まわしい様子を見せ、やがて自分自身でさえその本性が特におぞましく感じられるようになる。とうとう自分自身でその行く末を、「もうだめだ、私は見捨てられた、こんなことをしている私はもう終わったも同然ではないのか。神はもはや私を救ってくださらないに違いない」などと決めつけてしまう。このような状態に陥っている人々は多く、むしろすべての人がそうだとさえ言えるかもしれない。なぜ人々はそのように自分自身を描くことができるのだろうか。これは、神が人々を救われるという意図を人々が理解していない証拠である。あなたはたった一度扱われただけで、長い間真理を追い求めないまま過ごすようになる。小さな一つの過ちを犯すと自らの務めを全うしなくなる。取るに足りない状況が原因で停滞してしまう。人々はあたかも、追い求めるエネルギーを持つために完璧でなければならないと感じているかのようだ。自分たちが堕落しすぎていることに気づくなら、追い求める姿勢はなくなってしまう。多くの人々が「ああ、もう私は終わりだ。間違いなくもう手の施しようがない。もはや私が救われる道はない。たとえ神に赦されたとしても、私は自分自身を赦すことなどできないだろう。私は決して変わることはない。」などといった気落ちする否定的ななことを言っている。神の御心を人々が誤解していることは、神の働きを人々が理解していないことを示す。実のところ、人はふつう霊的に成長するなかで、時にその堕落した性質を明らかにする。彼らは物事を行うにあたり清くはなく、責任を取らず、献身的ではなく、おざなりに仕事をする。これは極めて自然なことであり、避けられない。もしこうした事柄が明らかにならなければ、どうして人類が堕落していると言えるだろうか。もし人類が堕落していなければ、神の救いの働きに意義がなくなる。現状は、人々が真理を持たず、真に自分自身を理解しておらず、自らの状態をはっきり見ていない。したがって彼らの状態は明らかにされ、明白なものとされる必要がある。これらの事柄を明らかにすることによってのみ、あなたがたは光を見ることができる。人々はみな無感覚かつ鈍感である。もし神がこのように働かれなければ、あなたがたは変わらないだろう。

『キリストの言葉の記録』の「人の本性における共通点と相違点を理解する」より

理解した後は、それを実践できるか、というと、すぐにはそれを実践できない。あなたがたが理解するために必要とする期間において、他の者が自分を剪定し、取り扱い、また環境により、あれこれと特定の方法で実行することを余儀なくされる。あなたがたはこうしたことを経験したがらず「それはこの方法でやりたいが、なぜそうしてはいけないのか。その用法でしなければならないだろうか。」と言うことがある。他人は「この方法でしなければならない。あなたが神を信じるならば、この方法ですべきである。この方法は真理に従っている。」と言う。最終的に、試練を経験した後に神の御旨や真理の一部を理解するまでに達し、ある程度満足してその方法に従うことを望む。当初、あなたがたは、そうすることに気が進まなかった。

『キリストの言葉の記録』の「自分の性情を変化させることについて、あなたがたが知るべきこと」より

神が人を裁く際も、呪う際も、それは人間を完全にする。どちらも人の内にある穢れたものを完全にするためのものである。この手段により人は精錬され、人の内に欠けているものは神の言葉と働きを通して完全にされる。神の働きのどの段階も、厳しい言葉であれ、裁きであれ、刑罰であれ、人を完全にする、あくまで適切なものである。あらゆる時代を通じ神はこのような働きを為したことはない。今日、神はあなたがたの内にあって働いているので、あなたがたは神の知恵を理解できた。あなたがたは内にある何らかの苦痛を味わってはいるものの、心は堅固で、平安である。神のこの段階の働きを享受できるのはあなたがたにとって祝福である。将来得られるものが何であるかにかかわらず、今日あなたがたの内に神の働きとして理解できるものは愛である。人が神の裁きと精錬を経験しないならば、その行いと熱い思いは常に外にあり、その性質は常に変わらないであろう。そんな状態は、神に得られたと言えるであろうか。今日、人の内にはまだ傲慢やうぬぼれが多くあるものの、その性質は以前よりずっと安定している。神があなたを取り扱うのはあなたを救うためであり、取り扱われる際には苦痛を感じることはあっても、あなたの性質に変化が起こる日はやってくるのである。その時、あなたは振り返って神の働きがいかに賢明であるかを知る。その時にあなたは真に神の旨を理解できるのである。

『言葉は肉において現れる』の「辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる」より

もし、人々が生きている存在になり、神への証しとなり、神に認められることを望むならば、神の救いを受け入れ、神の裁きと刑罰に喜んで服従し、神による手入れや取り扱いを喜んで受け入れなければならない。そうして初めて神が要求した真理のすべてを実行することができ、そうして初めて神の救いを得て、本当に生きた存在になることができる。生きている人々は神によって救われ、神から裁きと刑罰を受けており、進んで神に身を捧げ、喜んで命を投げ出し、全人生を神に捧げるだろう。生きている人々が神について証しをする時にだけサタンを辱めることができ、生きている人々だけが神の福音の働きを広めることができ、生きている人々だけが神の心にかなう人であり、生きている人々だけが本当の人である。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは生かされたか」より

人々が神により全き者とされることを望むなら、また、神の意志を実行し、彼らの本当の愛を十分に神に捧げることを望むなら、彼らは多くの苦しみとたくさんの苦痛を周囲の状況から経験しなければならず、死よりもひどい痛みに苦しむためには、結局彼らは本当の心を神に還元することを強いられる。本当に神を愛しているかどうかは困難と純化の期間に明らかにされる。神は人々の愛を清めるが、これも困難と純化の真っただ中でしか達成されない。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より

あなたがたは、精錬の最中に肯定的な見地から真摯に取り組み、学ぶべき教訓を身に付ける必要があり、神に祈りを捧げ神の御言葉を読むとき、自分自身の状態と比較して自分の欠点を探し出し、学ぶべき事が極めて多いことを知らねばならない。精錬の最中に、真摯に求めれば求めるほど、自分が不適切であることが一層よく分かるであろう。あなたがたは、精錬を経験している時に数多くの問題に直面し、そうした問題が明瞭に理解できず、不平を言い、自分の肉を表すが、そうしてはじめて、自分の性情がいかに腐敗しているかを理解する。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは自らを神に捧げ続けなければならない」より

神による試練にあって、人は自らの欠点を知るに至り、自分は取るに足らない、軽蔑すべき、卑しい存在であり、自分には何もなく、自分は何物でもないことを知る一方、神による試練にあって、神は、人が神の素晴らしさをより良く経験できるような新しい環境を作り出す。苦痛は非常に大きく、時として乗り越えられない──さらには、身も心も打ち砕くような悲しみにまで達することもある──しかし、それを経験することで、人はその内にある神の働きがいかに素晴らしいかを知り、その礎の上にのみ、人の内に神への真の愛が生まれるのである。

『言葉は肉において現れる』の「辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる」より

今日、たとえあなたが働く者ではなくても、あなたは被造物の本分を尽くせなければならず、神の指揮すること全てに従うことを追い求めるべきである。あなたは神の言うことは何であろうと全てに従うべきであり、どんな試練や精錬でも経験し、たとえ自分が弱くても心の中で神を愛せるはずである。自分のいのちに責任を持つ人は、喜んで被造物の本分を尽くす人といえるし、そういう人の追求への見解が正しいのである。神はこのような人を必要とされるのである。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より

神は肯定的側面と否定的側面の両面で人間を完全にすることが出来る。それは、あなたがたが経験出来るか、また神により完全化されることを追求するか如何により異なる。あなたがたが神により完全にされることを真に求めるならば、あなたがたが否定的側面により損失を被ることは無く、否定的側面はあなたがたに一層現実的な物事をもたらし、あなたがたの中で欠如している物事を知ること、自分の真の状態を把握すること、人間は何も持っておらず、取るに足りないことを知る事が出来るようにする。あなたがたが試練を経験しないならば、あなたがたは知らないままであり、常に自分が他人よりも高い身分にあり、優れていると感じるであろう。こうした物事により、あなたがたは、従前に遭遇した物事は全て神が行ったことであり、神により保護されている事を知るであろう。試練への真摯な取り組みにより、あなたがたは愛も真理も無く、祈りが欠如し、聖歌を歌うことが出来ない状態に陥る。そしてあなたがたは、気付かぬうちに、自分自身を知る。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされることが出来るのは、実践に重点を置く者だけである」より

神が人間を精錬する業を行われる時、人間は苦しみ、人間の神に対する愛が深まり、人間に対して、神の御力の多くが明らかにされる。人間に対する精錬が少なければ少ないほど、人間の神に対する愛も少なくなり、人間に対して明らかにされる神の御力も少なくなる。人間に対する精錬と苦しみ、苦悶が多ければ多いほど、人間の神に対する真の愛が深まり、神への信仰も純粋なものとなり、神に関する人間の知識も深まる。あなたがたの経験から、精錬や苦痛、取り計らい、修練が多い者は、神を深く愛し、神に関して、深く豊富な知識があることが分かるであろう。何も取り計らいを経験していない者には、表面的な知識しか無く、単に「神は極めて親切で、人々に恵みをお与えになるので、人間は神を享受できる。」と述べることしか出来ない。取り計らいと修練を経験した場合、人間は神に関する真の知識を述べることができるようになるであろう。したがって、神の人間に対する御業が奇しければ奇しいほど、その御業は一層貴重であり、重要なものであり、その御業が自分にとって乗り越えるのが困難であり、自分の考えと相容れないものであればあるほど、神の御業が自分を征服する力、得る力、完全にする力が高くなる。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされるべき者は、精錬される必要がある」より

人間が試練を受けている時に弱くなったり、自分に否定的になったり、神の御旨や自分の実践の道に明瞭性が欠如するのは、普通のことである。しかしいずれにせよ、あなたがたは、ヨブのように、神の御業を信じ、神を否定しないようにする必要がある。ヨブは弱く、自分が生まれた日を呪ったにもかかわらず、人生においては万事がヤーウェにより与えられること、そしてその全てを奪うのもまたヤーウェであることを否定しなかった。いかにして試されようとも、ヨブはこの信念を堅持した。あなたがたが自らの経験の中で、神の御言葉からどのような精錬を受けるかを問わず、神はあなたがたの信仰を要求されている。このように、完全にされるのは、あなたがたの信仰と願望である。それに触れたり、それを見たり出来ない時が、あなたがたの信仰が必要とされる状況である。ある物事が目に見えない時、そして自らの観念を捨てられない時、あなたがたの信仰が必要とされる。あなたがたが神の御業について不明瞭な時、あなたがたの信仰と、あなたがたが揺るぎなく立ち、証しをすることが必要とされる。ヨブがこうした状態に達した時、神がヨブの前に現れ、ヨブに対して語りかけられた。つまり、あなたがたの信仰の中からのみ、神を見ることが可能となり、あなたがたに信仰が有る時、神があなたがたを完全にされる。信仰が無ければ、神はそれを行うことが出来ない。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされるべき者は、精錬される必要がある」より

神の御業の各段階において、従うべき人間の協力のしかたがある。神は、人間が精錬において確信を持てるように、人間を精錬される。神は、人間が神により完全なものとされることを確信し、神の精錬を受けることを人間が望み、神により取り扱われ、刈り込まれるように、人間を完全なものとされる。神の魂は、人間を啓き照らして、人間を神に協力させ、実践させるために、人間の中で作用する。神は、精錬の最中に御言葉を述べられない。神は黙しておられるが、それでも人間がなすべき業は存在する。あなたがたは、それまで支持してきた物事を支持し、神のために祈ることが可能であり、神のそばから離れず、神の御前で証しに立つことが出来なければならない。そうすれば、あなたがたは自らの本分を尽くすことが出来るであろう。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは自らを神に捧げ続けなければならない」より

精錬の御業は、人間の信念を完全にし、最終的には立ち去りたいが立ち去れず、わずかな希望をも奪われてなお信仰を維持し、自分の将来に全く希望が無くなる状態に達することを主な目的とし、この状態に到達してはじめて、神の精錬が完了する。人類は、生死の間を彷徨う段階には未だに達しておらず、死を体験していないので、精錬は未完である。奉仕者の段階にある者でさえ、完全に精錬されてはいなかったが、ヨブは何に頼ることもなく、精錬を完了した。人間は、希望を失い、頼るものが無くなる状態まで、精錬を受ける必要がある。その後になってはじめて、精錬は真の意味で精錬となる。奉仕者の時期には、あなたがたの心は神の御前で常に静まっていた。神が行われる御業が何であるか、神の自分に対する御旨が何であるかを問わず、あなたがたは常に神の采配に従い、最終的に全てを理解した。ヨブの試練を受けることは、ペトロの試練を受けることでもある。ヨブが試された時、ヨブは証しに立ち、最終的にヤーウェがヨブの前に来られた。ヨブが証しに立った後になってはじめて、ヨブは神の御顔を仰ぎ見るに相応しい者となった。…あなたがたがヨブのように、試練の最中に自らの肉を呪い、神に対して不平を言うことなく、自らの肉を忌み、不平を口にしたり、言葉で罪を犯す事が無ければ、それが証しに立つということである。あなたがたがある程度の精錬を受けてなお、ヨブと同様に、神の御前で完全に服従し、精錬のほか神に対する要求や、自らの観念が無いのであれば、神はあなたがたの前に現れられるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされるべき者は、精錬される必要がある」より

人間の確信と愛に対する神の試練においては、人間が神に対する祈りを増加させ、神の御前で神の御言葉を一層頻繁に味わうことが必要である、ということを、あなたがた全員が神の御業から理解する必要がある。神があなたがたを啓き、あなたがたに神の御旨を理解させられているにもかかわらず、あなたがたがそれを全く実践しなかったとしたら、あなたがたは何も得ないであろう。あなたがたは、神の御言葉を実践する時でも神に対して祈ることが出来る必要があり、また神の御言葉を味わう時は、落胆したり冷めたりせずに常に神の御前で求め、神に対する確信に満ちていなければならない。神の御言葉を実践しない者は、集会の時は活力に溢れているが、帰宅すると闇に陥ってしまう。中には、集会に参加することを望まない者さえ居る。そうしたわけで、あなたがたは人間が尽くすべき本分を明瞭に理解する必要がある。あなたがたは、神の御旨が本当は何であるかを知らないかも知れないが、それでも自分の本分を尽くし、必要な時に祈り、真理を実践し、人間がなすべきことを行うことが出来る。あなたがたは元来の見方を支持することができる。そうすることで、神の御業の次の段階を享受する能力が高まるであろう。神が隠れた状態で御業を行われる時に、あなたがたが求めなかった場合、それは問題である。神が集会で話され、説教をされている時、あなたがたは熱心に聴き入るが、神が黙されている時、あなたがたは活力が無くなって退散する。これはどのような種類の者であろうか。こうした者は、成り行きに身をまかせるだけの者である。こうした者には、姿勢も証しも意見も無いのだ。殆どの人間が、このような者である。あなたがたがこうした状態を続けた場合、ある日、大きな試練に遭遇した時、懲罰に陥るであろう。姿勢を持つことは、神が人間を完全とされる上で極めて重要である。あなたがたが神の御業のいずれの段階も疑わず、人間の本分を尽くし、神が自分に実践させられている物事を真摯に支持するのであれば、すなわち、神の勧告に留意し、神がどのような御業を行われても神の勧告を忘れなければ、また神の御業に疑念を抱かず、自分の姿勢を維持し、証しに立ち続け、その道のあらゆる段階で勝利するならば、最終的にあなたがたは神により完全にされて、勝者となるであろう。あなたがたが、神の試練のあらゆる段階に揺るぎなく耐えることが可能であり、最後まで揺るぎなく耐えたならば、あなたがたは勝者であり、神により完全にされた者である。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは自らを神に捧げ続けなければならない」より